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    human_soil2_oto

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    ハートビートエンド 恋は「緩やかな自殺」なのだと、君は言った。

     だから、僕は今「緩やかな自殺」の真っ最中なのだろう。

     ◆◆◆◆◆◆◆

     僕が彼女に出逢ったのは、気が滅入るほど蒸し暑い夏の夜の雨の中だった。
     彼女は一本の樹の下に立っていた。なんの変哲もない、数えきれないほど並んでいる街路樹のうちの一つ。そこに、何時間も立っていた。風景と同化するように、無生物のように、「いる」より「ある」という表現のほうがしっくりくるように、ただ存在していた。

     何時間も、とは言ったが、僕は実際にずっと彼女がそこに立っていたのかを確認したわけではない。大学の授業が終わり、最近始めたバイト先に向かう途中で視界の片隅に映った彼女が、バイトからの帰り道でも同じ場所に同じ姿勢で佇んでいたから、そう思っただけだ。いくら夏で、夜でもそんなに気温が下がらないからといって、ずっと濡れていたら風邪を引くに決まっている。このまま通行人の一人として見て見ぬふりをすることもできたが、彼女を無視して家に帰ったら、すっきりしない気分のまま憂鬱な明日を迎えるような気がして、僕は彼女に声を掛け、彼女を雨から守るように傘を差し出した。

     彼女は僕の声に気がつくと、首だけをゆっくりとこちらに向けた。人形じみた動きに、僕は少しだけ身体を固くする。

     「なに?」

     高く冷たい小さな声が僕の鼓膜を突き刺したが、彼女の声を聴けたことで、僕は彼女がちゃんと血の通った人間なのだとわかり、ほっとする。

     「あ、あの、驚かせてごめんなさい。ぼ、僕は別に不審者とかじゃないです……。じ、自分で言ってたら逆に怪しいですよね、すみません。ただ、ずっと雨に打たれてるから、心配になって……」

     僕が釈明を始めると、彼女の瞳に嫌悪感と不信感が色濃く滲んでくるのが見えた。続く「見てたの? ずっと?」という言葉に、先程の発言があらぬ誤解を与えていると気づいた僕は慌てて弁解する。

     「あああああ! あの、そういうストーカー的なあれではなくてですね! 僕がバイトに行く前にも終わった後にも同じところにいるから、あれ? もしかしてずっと同じところにいたのかなって思っただけで……! 余計なお世話だったらすみません」

     ぺこぺこと頭を下げると、頭上から先程よりはほんの少しだけ柔らかい彼女の声が響いた。

     「余計なお世話なのはその通りだけど、ずっとここにいたっていうのもその通りだよ」
     「あ、やっぱりそうなんですか? だったらなおさら、こんなところにいたら風邪引いちゃいますよ! 傘ないなら貸しますし、あ、タクシーとか拾います? お金は……そんなに持ってないですけど。い、家までついていこうとかは思っていませんので安心してくださいね。いや安心なんて知らない男に声を掛けられている時点でできないか……そしたら僕が怪しくないって証明を――」
     「……っふ、ふふ」

     急に降ってきた笑い声に僕は驚いて言葉を止める。人形じみた彼女が堪えきれないといった様子でお腹を抱えて笑っているから、僕はさらに仰天してよろめいた。

     「な、なんで笑うんですか」
     「ふふ、いや、だって無理だよ、怪しくない証明なんて。『ない』ことを証明するのってすごく難しくて、『悪魔の証明』なんて呼ばれていることを君は知らないの?」

     そんな話、一度も聴いたことがなかった。僕は数学がとにかく苦手で、証明問題には高校時代に苦戦した覚えがある。文系の学部に進んだ今は、数学と袂を分かって久しいが。

     「君、変な人ね」
     「え、えぇ〜……」

     彼女は一頻り笑うと、わざとらしくコホンと咳払いをして「そしたら、家まで送ってもらおうかな」と薄く微笑んだ。さすがに断ろうとすると「雨の夜道を女の子に一人で帰らせるつもり? それとも君は私に悪いことをしようとしている怪しい人なの?」と言われ、僕は二の句が告げなくなる。

     「うち、ここから歩いて十分くらいだから。ついてきて」

     僕は言われるがまま彼女の一歩後ろをついて歩いた。彼女が濡れないように傘を差し掛けていたから、僕の背中は着ていたTシャツがぐっしょりと貼りついている。彼女の言ったとおり、十分ほど歩いて僕と彼女は目的地まで辿り着いた。

     「送ってくれてありがとう。挙動不審な紳士さん」

     マンション入口の扉を押し開けながら彼女が言う。僕は、紳士? いやでも挙動不審か……とややショックを受けつつも、気を取り直してきっともう二度と会うことはないであろう彼女にもう一度、身体をあたためてゆっくり休んでほしいと伝えた。同じことを何回も、それも見ず知らずの人間に言われたところでしつこいと思われるだけかもしれないが、彼女からはどこか、自分なんてどうでもいいと思っているような、そんな気配がするのだ。だからせめて繰り返し伝えることでほんの少しでも自分を大事にできると良いと思った。何故そんなふうに思ったのかは、自分でもわからないけれど。

     それから彼女は僅かに目を瞠って、「私、雨が降っている日はいつもあそこにいるの」と溢した。
     僕はそれがどういう意図で発せられたのかわかりかねて、貴族の令嬢のように優雅に手を振りながら扉の内側へと消える彼女を呆然と見送ることしかできなかった。

     ◆◆◆◆◆◆◆

     それから一週間後、また雨が降った。その日はバイトもなく、大学から直帰することもできたが、なんとなく先週彼女に言われた言葉が気になってつい、彼女を初めて目撃した場所まで来てしまった。別に約束したわけでもないのに。そして――。

     彼女はまた、同じ場所に同じ姿勢で立っていた。

     声を掛けようか迷っていると、彼女のほうが僕に気がつく。

     「本当に来たんだ」
     「え! あ! かかか勘違いして来ちゃってすみません!」
     「別に勘違いじゃないよ。来たらいいなって思って言ったの」

     この間の作り物めいた仕草はなんだったのかと拍子抜けするほど、彼女は僕を見て朗らかに笑った。……彼女は一体どういう人間なんだろう。何を見て何を感じて何をしてこれまで生きてきたのだろう。それを知りたいと思った。
     
     「あれ、今日は傘。持ってるんですね」
     「これ? 君が来るならまた言われるかな、と思って持ってきたの。偉いでしょ?」

     同じ場所に同じ姿勢で立っていた彼女だが、この前と一つだけ違うところがあった。それはちゃんと傘を差していること。コンビニで売っているような安っぽいビニール傘ではあったけれど、雨に身体を濡らしてはいなかった。

     「風邪引かないようにって、誰かさんに散々言われちゃったからね」

     おどけてみせる彼女の姿に僕は心臓が一つどくんを脈打つのを感じた。それから彼女はゆっくりと街路樹のほうに向き直って、初めて出会った日のようにただ空を見上げる。彼女の肢体は再び生命としての躍動を失った。

     僕はそんな彼女をじっと見ていた。変な場所に立ち止まって動かない僕らに、ちらちらと訝しげな視線を送っては通り過ぎていく人たちの存在を感じつつ、僕は彼女を観察した。彼女の不可思議な行動は僕の瞳には神聖な儀式か何かのように映る。彼女にとって雨の日にここでこうして過ごすことは、何よりも大切なことなのだろうと想像した。

     それにしても空を見上げる―というより雨を見つめている、と言ったほうが正確かもしれない―彼女の表情を見て、僕の口から一つの疑問が転び出る。 

     「あの、雨が嫌いなんですか?」

     僕の声を聞いて、彼女が一瞬身体を強張らせた。それから一呼吸置いて「普通、こんな雨の日にわざわざ濡れに行ってるんだから、雨が好きなんじゃないかって疑うものじゃないの?」と言った。それを聴いて僕は、ああ、彼女は雨が嫌いなんだなと思った。
     過去に嫌な思い出でもあったのだろうか。では何故避けようと思えば避けられる嫌いなものに自ら触れに行くのか。興味はあるけれど、僕と彼女の間には大きな溝が横たわっていて、とてもじゃないがそれを飛び越えることは憚られた。僕は「そういうものなんですかね」とだけ返して、口を閉じる。

     それからしばらく、雨の音だけが僕らの鼓膜を打った。そんなある種の静寂を破ったのは彼女のほうだった。

     「……雨はね、決して交わることのない、空と地上を繋いでくれる糸なんだって。だからね、お願いしてるの。だけどずっと届かないの。聴こえないの。ずっと、ここで待ってるのに」

     小さな声でそう呟きながら、彼女は微笑った。指先が掠めただけで砕け散りそうな罅割れの硝子みたいに悲痛な笑みだった。
     それを見た瞬間、僕はこれまで感じたことのない強い胸の痛みを感じた。ぎゅうっと心臓を鷲掴まれて、そのまま引き絞られるような、そんな胸の痛みを。
     僕はたまらず、彼女の儀式を真似て雨に祈った。内容は知らないけれど、どうか……どうか彼女の願いが早く叶いますように。こんなふうに泣きそうな顔で微笑わなくて済む日が来ますように、と。

     祈り始めてからどれだけ経っただろうか。時間の感覚があまりない。僕は彼女の「もういいよ。雨はもう上がったから」という声に、閉じていた瞳を開け、そこでようやく空が青を取り戻していることに気がついた。彼女は「ありがとう、またね」と呟いて、僕を置いて去っていく。僕は彼女の背を呆然と見送りながら、「次」を許されたことへの歓喜に身を浸していた。

     ◆◆◆◆◆◆◆

     それから、雨の日に彼女と例の場所で過ごすことが僕の日常になっていった。彼女は会う度に少しずつ、自分自身のことを教えてくれた。僕はそれがとても嬉しかった。彼女との距離が近づいている気がして。

     ……そう、彼女と出逢った日から、僕は彼女に恋をしている。

     けれど、僕はその想いを彼女に伝えるつもりはない。何故なら、彼女にはきっと一生忘れられない大切な人がいたからだ。

     その人は彼女の大学の同期で、同じサークルの仲間だったらしい。……彼女が他の人と混ざって大学でサークル活動をしている様子は全く想像できないが、彼女がそう言うならそうなのだろう。その人は、一言で表現するなら「変な人」だったそうだ。

     彼女の話ぶりから、彼女の大切なその人が故人であることはなんとなく察しがついた。その人の話をするときの彼女は、普段より少し幼く……正確に言えば愛らしく見えて、彼女が今でもずっとその人に恋をしていることを、その日僕は知った。

     ◆◆◆◆◆◆◆

     初めて逢った日から一つ季節が巡った頃、いつものように二人、雨の中で祈ったその帰り道。彼女がふいに話し始めた。

     「ねえ、知ってる? 恋って緩やかな自殺なんだって」

     急に飛び出した脈絡のない話に、これもまた彼女の好きなその人が言ったことなのだろうな、と何度目かになる想像を働かせながら、僕は彼女の話を聴いた。
     その人曰く、哺乳類が一生のうちに拍動できる回数は決まっていて、種や個体によって差はあれど、基本的にねずみなどの拍動が速い生き物の寿命は短く、象などの遅い生き物の寿命は長いのだそうだ。つまり、心臓が体中に血液を巡らせられる回数には限度があるということで、それはすなわち心臓が早鐘を打つほどに生き物は命を摩り減らしてしまうことを意味していた。

     「恋をするとその人の姿を見て、その人の声を聴いて、その人のことを考えて、心臓がばくばくするでしょう。そうやって心臓が高鳴れば高鳴るほど私たちは緩やかに死に近づくの。それって世界で一番、幸せな自殺かもしれないね」

     彼女は恍惚とした様子で笑った。……ああ、そうか。彼女はきっと彼を喪失した日からずっと自殺をしているのだ。彼女曰く、世界一幸福な自殺を。それは彼女が恋する人のいる場所へいくための、彼女にとっておそらく最良の手段。

     彼女の話を聴きながら、僕はある小説家が『I love you』を……正確に言えば『Yours』という登場人物の台詞を『私死んでもいいわ』と訳した逸話を思い出していた。『Yours』すなわち『あなたのものよ』とは、主語の不足を補えば『私の命はあなたのものよ』になるとは考えられないだろうか。もしそうなら『私の命はあなたのものよ』とは彼女の話を結びつけると『あなたに恋をした所為で命を摩り減らしてもいいわ』という意味になり、だからこそその小説家は『Yours』を『私死んでもいいわ』と訳したのではないか。……などと考えるのはさすがにこじつけがすぎるだろうか。

     彼女にこの妄想を話してみると「君は本当に変な人ね」と僕に笑いかけてくれた。それが飛び上がるほど嬉しくて、心音がより一層速まる。
     一体、いつまで僕は彼女と一緒にいられるだろうか。いつまで、この特別な時間を日常と呼び続けられるだろうか。

     僕はまだ、彼女が雨にどんな想いを託しているのか知らない。

     ◆◆◆◆◆◆◆

     僕がそれを知ったのは、彼女の口から緩やかな自殺の話を聴いてからさらに二つ、季節が巡った頃だった。
     春になって、雨が増えた。雨のせいで散った桜の花びらが路上に薄桃色の絨毯を作り、踏みつけられてはくすんでいく。僕はそれに物悲しさを感じながら、彼女の隣で今日も祈った。

     今日の彼女は逢った瞬間からどこかおかしかった。色鮮やかな春の世界に似合わない黒基調のワンピースがそれを象徴している。その日の雨は全然止まなくて、僕らは辺りが暗くなって彼女の服が夜に溶け込むまでそこにいた。

     「何か、あったんですか? 無理に聞きたいわけじゃないので、言いたくなければ言わなくていいんですけど」

     僕は意を決して、かつできるだけ保険を掛けながら彼女に尋ねる。彼女は僕の方に向き直って「あまり楽しい話じゃないのだけど、それでも構わない?」と言った。僕が一つ首肯すると彼女はゆっくりと口を開く。 
     
     「ある雨の日にね、猫が道路を横切っていたの。そこに車が通りかかったの。猫は突然のことに驚いて固まってしまって、きっとそのまま短い生涯を終える運命だったの」
     「でもそれを捻じ曲げた人がいた。……それが、あの人」

     一つ一つ言葉を丁寧に置くように彼女は語った。その人の最期を。悲哀と諦観と慈愛を湛えて。

     「野良猫なんて、轢かれたところで可哀想にとか、気持ち悪いとか、片づけは誰がするんだよとか、そんなふうに周りに思われて風景になるだけだったのに。あの人はそれを助けようとした。死んでも誰も困らない野良猫なんかを庇って死んだの。それが、三年前の今日、この場所で起きたこと。……ばかみたいでしょ」
     「あなたが死んだら困る人がすぐそばにいたのにね」

     なんて、素直じゃない人だろう。きっとここでもし僕が「本当にその人はばかですね」なんて言おうものなら静かな炎を燃やして怒るくせに。本当に彼のことをばかだなんて思っていないくせに。そんな彼の底なしの優しさを愛していたくせに。

     「好きだったんだあ。独りでよかった、ううん、独りがよかった私に、独りじゃ知ることのできない世界を教えてくれた人。二人でいるとあたたかくて優しい気持ちになれて、細胞全部が幸せだって感じられた。私があの人を好きなように、あの人も私のことを好きでいてくれてる……そういう空気を感じてた。だから、いつでもいいやって思って、言えなかったの、私の気持ち。言って新しい関係が始まったら、いつか終わるかもしれない。そう考えたら怖くて。ならこのままでいるのが一番幸せかもしれないって」

     ああ、僕は今、一生癒えることのないじゅくじゅくに膿んだ彼女の疵口に触れている。触れさせてもらえている。

     「ばかなのは私だった。こんなことになるなら迷っていないでさっさと言えばよかった。早く素直になればよかった」

     ならば、僕が今、彼女のためにできることはなんだろう。自罰的に放置されたその疵口を少しでも慰めるためにできることは。
     僕は必死に頭を巡らせた。名案なんて足りない頭じゃ出てこなくて、ついに彼女は「こんな話を聴かせてごめんなさい。さよなら」と言って、僕にくるりと背を向けてしまう。
     それが寂しくて、行かないでほしくて、僕は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。自分自身の大胆な行動に驚く。細い腕……そういえば、彼女に直接触れたのはこれが初めてだった。突然のことに彼女はまだきょとんとしている。この掌が振り解かれる前に、僕はこの状況をなんとかしなければならない。烏滸がましいのは百も承知で、僕は彼女を救いたかった。

     「こ、ここじゃないのかもしれませんっ!」

     出てきたのは突拍子もない言葉だった。完全なる見切り発車。目を左右に泳がせて、しどろもどろになりながら、僕は拙く言葉を繋げる。

     「こ、の場所は、その人が………亡くなった、さ、最期の場所、だ、けど。君を一番、悲しませ続けている、ば、場所でもあって。……あの、僕なら、嫌です。自分の、大切な人なら、辛いところより、楽しく……笑って、過ごせるような、そんなところに、いてほしい。そういうところで一緒にいられたら、僕は嬉しい……。そう、思うから、だから……!」

     「行きましょう……! 君とその人の幸せがたくさん満ちていた場所に! そこでなら繋いでくれるかもしれない。雨が、君と、その人の想いをっ!」

     そうだ。僕は君に笑ってほしいんだ、初めからずっと。ちゃんと、心から。思いつきで紡いだ言葉だったけれど、これは正真正銘、嘘偽りのない本当の僕の言葉だ。届くだろうか、君に。届くと、いいな。

     「……やっぱり君は、変な人だね。本当に、あの人に、そっくり」

     ――届いた。

     ◆◆◆◆◆◆◆
     
     それから僕たちは、雨が降る度に色々なところを巡った。初めて二人で一緒に出掛けた映画館、二人でよく行った大学近くのカフェのテラス席、二人で試験勉強をした図書館、その人の車の助手席に初めて座って行った海浜公園、彼女の誕生日に一緒に過ごした遊園地、エトセトラエトセトラ。訪れた先で彼女は僕にたくさん話を聴かせてくれた、二人の幸せな想い出を。僕の心臓はその度に細く鋭い針に幾度も貫かれた。痛いという感覚はもはや麻痺していた。だって彼女が笑っていたから。
     
     二人の想い出の場所を巡るうちに、僕はふとおかしなことに気がつく。僕らはまだ行っていないのだ。「二人の想い出」と言えばいの一番に思い浮かぶ場所、……「二人が初めて出逢った場所」に。
     彼女が意図的にそれを避けているのは明らかだった。けれど、僕からそれを聴くことで、彼女を困らせたり、傷つけたりするのは嫌だった。だから僕は彼女が言ってくれるまで待とうと、そう思っていたのだが、疑問は想定より早く解決する。雲一つない晴れの日に、彼女から初めて連絡があったのだ。ちょうど大学もバイトも休みでパジャマのままベッドでごろごろしていた僕は、通知を見て飛び起きて、彼女に呼び出された場所に向かった。

     彼女と合流して、適当に近くのカフェに入りアイスティーを二つ注文した。少しして店員が来て、グラスを二つ僕らの前に並べる。いっぱいに入った氷がカランという澄んだ音を立てて回り、その音を機として、彼女が「あのね」と話し出した。

     「次で、最後にしようと思うの」

     彼女の発言に驚きながらも平生を装おうとした所為だろうか、ところどころ声が裏返りながらも「ど、どこに行くんですか?」と聞くと、彼女からは「私とあの人が初めて出逢った場所」と静かに返答があった。

     「今まで怖くて、行けなかったの。ここが駄目なら他のどこも駄目なんじゃないかって、勇気が出なかったの」

     その気持ちはなんとなくわかる気がした。その場所が彼女にとって一番大きな希望で最後の砦で、だからこそ取っておきたかったのだろう。

     「だから、ここで最後にする。本当はね。心のどこかでずっと、こんな非生産的なこと、続けても何の意味もないんじゃないかって思ってた。雨が空と地上を繋いでくれる糸だなんて、御伽噺みたいなものだってわかってた。でも、縋るしかなかったの、あの人が遺していった幽かな想い出に。心拍数の話もそう。そうでもしないと心が折れてしまいそうで。あの人が喜ばないってわかるのに、すぐにでも後を追いたくなるの。あの人に言えなかった気持ちを伝えられるならって」

     彼女は話している間、一粒も涙を溢さなかった。これまでもずっとそうだ。僕は彼女が泣いているところを見たことがなかった。痛そうに微笑んでいるところは幾度となく見たけれど。それは彼女の意地、あるいは素直になれなかった自分自身への罰なのだろうか。それとも、泣いてもいいと思える場所がもうどこにも見つからないのだろうか。

     「わかりました。行きましょう。次の、雨の日に」

     僕は笑って言った。何よりも優先すべきはそんな彼女の願いが叶えられること。だから、彼女に恋する僕は、これから訪れるであろう憂鬱に、強く強く蓋をした。

     ◆◆◆◆◆◆◆

     そして僕らは、ついに二人が初めて出逢った場所へ向かう。二人の全てが始まった場所へ。
     大学の敷地内に入ること自体は容易だった。しかし、そこから彼女の歩みはぴたりと止まってしまう。肩が、手が小さく震えているのがわかった。僕は一つ深呼吸をして、彼女の左手を取る。傘は邪魔になるから閉じてしまった。隣から「え……」と小さな声が漏れるが、そんなことは気にしていられない。彼女から前もって目的の場所を聞いていた僕は、そのまま彼女の手を引いて歩き出した。手は振りほどかれなかった。
     それから程なくして、僕らの旅の終着点、大学の広場中央に聳え立つ大きな桜の樹の根元に辿り着く。

     「あ……」
     「着きましたよ。それじゃあ、始めましょう。今度こそきっと、大丈夫です」

     僕は彼女の不安をできるだけ拭い去れるように、精一杯力強く彼女を鼓舞する。上手くできたのかはわからないが。

     そうして僕らが普段通り儀式を開始した、その数分後。ふいに周囲が明るく彩られていくのがわかった。僕らの足元ではさっきまでほとんど見えなかった僕らの影もくっきりと姿を現している。
     晴れてしまった、これで最後だというのにもう終わりなのか、こんな一途にただ一人を想ってきた彼女はこのまま救われないなんてあっていいのか、そう悔しく思った。しかし――。

     「……雨、止んでない」

     一般的に、天気雨とか、狐の嫁入りとか呼ばれる稀な気象現象だ。それが、起こった。たった今、この場所で。

     僕ははっとして、隣にいる彼女を見る。
     彼女の手から傘がするりと滑り落ちて、地面を転がる。
     彼女の瞳が陽光を受けて鮮やかに揺らめき、ついに一筋の流星が真っ直ぐに彼女の白くまろい頬を伝った。
     そして青空には、彼女を祝福するように七色の帯が、ひらめいている。
     
     彼女はそれに手をかざして、

     「はやくいくから、待っててね」

     と、微笑みながら呟いた。

     本当に全て終わってしまった。彼女がやっと泣けて、やっと心から笑えたのだ。これ以上の成果はない。目的は今、完遂されたのだ。最良の形で。
     これで、僕と彼女の縁は途切れる。もう、僕が彼女と一緒にいられる理由は何もないのだから。ここから先は二人の世界だ。僕はここにいていい存在じゃない。ならば、早く消えよう。初めから何もなかったように。
     そう思って立ち去ろうとしたその時、

     「一人でどこに行くの?」

     彼女の声が、手が僕を引き留めた。まさか引き留められるなんて思ってもみなくて僕は「あ、な、ええ?」なんて情けなくどもってしまう。すると、

     「私ね、あの人のことを一欠片も忘れたくないの。全部全部覚えていたいの。……いつか死んであの人のところにいくまで。だからこれからも、私の話をたくさん聴いてね、挙動不審な紳士さん?」

     そう言って彼女は、晴天にも虹にも負けないくらい綺麗に……本当に綺麗に笑った。

     ――僕らの緩やかで幸せな自殺は、これからも連綿と続いていく。
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    DONEワードパレット:女教皇 直感 海 傷つく
    恋を証明せよ! 私の部屋には箱がある。

     貴方に言えずに呑み込んできたいろんな言葉を綴って折った、小さな紙がたくさん詰まった段ボール箱。
     時が経つほど嵩を増す中身は、ただのゴミでしかないはずなのに、捨てる気にはなれなくて。
     この箱が満ちるまで、貴方が私の心に気づかなければ、私は貴方とさよならするのだ。随分前に、そう決めた。

     貴方はきっと私のことなど大して好きではないのだろう。コイビトであるはずなのに、一番でも、唯一でも、特別でもないのだろう。それもそうだ。家族、友人、仲間たち……貴方の周りには私なんかよりずっと大切な人がいると、私はとっくに知っている。

     コイビトなんて肩書にはなんの意味はない。貴方が私に向ける言葉や仕草にだってなんの価値もない。貴方にとってはなんでもない言葉や仕草に、意味だの価値だのを見出して、宝物みたいに抱き締めて、小さな幸せに縋っているのは、私なのだ。何もかも私の勝手なのだ。期待しても裏切られるだけだと、飽きるほど繰り返したはずなのに、今度こそはと信じてしまうのも、悲しいくらい私なのだ。私を一番傷つけてくるのは貴方なのに、私を一番幸せにしてくれるのも貴方なのだと気づいた日の絶望を、貴方は理解できないだろう。
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