瘡蓋の功罪 傷痕が疼くのです。
海塩が絶え間なく患部に塗り込まれていくかのよう。少女は長く息を吐いて、鈍く響く痛みを堪えました。それは決して深い傷でないのに、いつまで経っても癒える気配がありませんでした。
「馬鹿らしい。虫風情に余計な気を回すからだ」
「判断は間違ってなかったと思うんだけどな」
「正しくないから、そんな目に遭っているんだ。学習能力の一つもないわけ?」
見窄らしい虫の翅を背負った青年は隣に佇む少女に辛辣な言葉を浴びせます。
それもそのはず。数刻前まで少女の左手首からは魔力の源──血液が溢れ落ちていたのです。それは少女自らが従者に活力を与える為、自らの手首をナイフで切り裂いた痕でした。
既に応急手当はされていていますが、依然として白い包帯は赤黒い染みに濡れたまま。けれどそれしか手段は無かったのだ、と彼女は語ります。
「切り札になるのは君の宝具で、私が即座に与えられる魔術リソースが血だった。反論はある?」
「いいや。俺はサーヴァントらしく従順にマスターの命令に従うのみだからね。忠言なんて差し出がましい真似ができるものか!」
「その割には随分と不機嫌なようで」
青年は憎々しげに眉を顰めます。実の所、青年も満身創痍でした。頭の天辺から脚の先まで細かい切り傷だらけ。柔らかいお腹には痛々しい魔獣の爪痕が残り、黒い外骨格を纏った左腕にもヒビが入っています。歩くのもやっとの状態でした。
「……やっぱり、魔力が足りてないんじゃないかな」
青年には傷を修復する力も残っていませんでした。ギリギリの淵で踏みとどまっていたのです。それはひとえに意地でした。
青年が退去してしまえば、少女はたった一人で特異点に取り残されてしまう。従者として契約を結んでいるからには、無責任に投げ出すのは決して許されないと歯を食いしばっていました。
「敵の接近くらいは探知できる。聖杯さえ回収してしまえば問題はない」
カルデアの管制室によると特異点の核になっている聖杯は誰の手にも渡っておらず、ただそこに鎮座しているだけだそう。けれど莫大なリソースを無差別に振り撒いているために、多くの魔獣を引き寄せてしまっていたのでした。
集められた魔獣に知性はありません。本能の疼くままに共喰いをしているだけなのです。本来であれば青年の偽装スキルを使って隠密に立ち回るつもりだったのですが、運悪くレイシフト直後に大群に挟まれてしまったのでした。
ようやく振り切った頃には虎の子の令呪はすっからかんになっていました。
「スキルが発動できる余力さえ残っていればそれでいい。当初の作戦からは外れていない。けど……」
青年は深い蒼色の瞳だけを動かして少女を見据えます。
「足手纏いになるのは予想外だった」
屈辱だと青年は漏らしました。少女の肩に担がれて、脚を引き摺りながらゆっくりと歩を進めているからです。守るべき主人に守られる従僕のなんと情けない姿か。羞恥と屈辱で青年の耳は真っ赤に染まっていました。
「お代わり、あげようか?」
「誰が好き好んであんなクソ不味いモンを飲むものか。却下に決まってるだろ」
「でも」
「黙れ。要らない、と俺は言っているんだ」
青年は八重歯を剥き出しにして唸ります。端正な顔は歪み、まさしく手負いの獣そのものの形相でした。
黙りこくったまま二人は腰ほどの雑草を掻き分けて歩きます。先刻以来、魔獣とは遭遇していません。青年の偽装能力が効いている証でした。
「魔力濃度が高くなってきた。近いな」
鼻を鳴らした青年があっちと指差せば、少女は方向転換をして示された方向を目指します。けれど万事上手くいくとは限りません。少女の身体に異変が起きてしまいました。息は荒く、のぼせたように全身が熱くなっていたのです。
「……ちょっとだけ、辛いかも」
「汚染された魔力に当てられたか。良くないな」
今度は少女が青年に支えられます。欲に穢れた魔力は青年の傷を癒しますが、少女にとっては毒そのものです。未熟な魔術師だからではありません。生身の人間であるからこそで、小手先の技術で解決する問題ではないと青年は理解していました。
「君の身体の中で過剰な魔力が暴走してる。部分的ではあるが俺が引き受けよう」
青年は大樹の幹に少女を寄りかからせますが、力の抜けた少女はくったりとしていて、力無く地面に座り込んでしまいました。
「ごめん。マスターなのに迷惑をかけてる」
「ホントに手間のかかる子供だよね。自覚があって何よりだ」
青年は少女の首筋に顔を近付けて口を開きます。少女は訪れるであろう痛みに目を伏せますが、肝心のそれはいつまで経っても訪れません。
挙げ句の果てには「やーめた」と呟いて青年は離れてしまいました。少女には彼の意図が分かりませんでした。てっきり深く噛まれて吸血されるものだと予想していたからです。青年の側が乗り気になりさえすれば、最も手っ取り早く、最も多くの魔力を受け渡しできる方法なのですから。
青年としても、牙を突き立てんとする今際の際まではそうするつもりでした。けれども少女にピッタリの意趣返しを思いついてしまったのです。
青年は唇を横に引き裂いて凄惨な笑みを浮かべます。少女は彼の怒りを察して顔を引き攣らせますが、逃げようにも逃げられません。後方には大樹があり、前方にこそ怒り狂う竜が立ち塞がっているのですから。
「降参。オベロンの好きにしていいよ」
呆気なく白旗を上げた少女に物足りなさを感じつつも、青年は溜飲を下げました。しおらしい彼女の姿も悪くないと思いました。
「きっと君好みなやり口だ。気に入ってくれると嬉しいな」
青年はできたばかりの瘡蓋に自らの鋭い爪を突き立てました。そして包帯ごと横一文字に切り裂いたのです。
「いいっ……たぁッ!」
鮮血が滲みます。青年はそれを満足そうに見つめた後、嬉々として舌を這わせました。肉厚の器官で少女の肌を思いのままに蹂躙し、夢中になって血を啜る様を少女は大人しく眺めていました。不要と言っていたのが信じられないほど、青年は主人の魔力の虜になっていました。
彼が口を離したのは鉄の臭いに飽きる頃でした。
「ぷは、ご馳走様」
「やっぱりご馳走だったんじゃん。美味しかった?」
「言葉の綾だよ。揚げ足を取らないでくれる?」
唇に付いた残滓をを袖で拭う姿に男性的な色気を感じたのは、貧血がもたらした目の錯覚だったのでしょうか。色恋に疎い少女には分かりませんでした。
「なんだ、虫に血を吸われて発情してるのか? マゾなの?」
「別に。オベロンが調子に乗ってたくさん吸うから目眩がしただけ」
「強がりもここまで来ると滑稽だ。大根役者としては一流と認めてやるよ」
「馬鹿にしすぎ」
少女はため息をつきます。実際、慣れない魔力が身体を駆け巡っていて相当に辛かったのです。重度の貧血と比べてどちらがマシな状態であるかは団栗の背比べも良いところ。けれど魔力を受け取った側の従者の傷がみるみる癒えるならば、容認した甲斐があったものです。
「あーあー、随分と無防備なこと。寝首をかかれても知らないよ?」
「今さっき手首を引っ掛かれたんだけど」
少女の手首に滴る赤い川。乾いて黒ずんだ臙脂色の上に重なった瑞々しい唐紅。
開かれた血管が脈を打ちます。喜び勇んで外界に飛び出して行こうとする血潮を素手で押さえ付けます。
「そういう所なんだよなぁ」
宝具を展開して巨大な虚となった彼を見上げて少女は呟きました。
自傷の癖は丁寧に気遣われるほど意識してしまうもの。だから傷口が疼き続けるのです。