ヒーローとは何者なんだろう。
誰かを助ける人のことなのか。誰かに力を与える人のことなのか。あるいは、人からそう認められればヒーローになれるのだろうか。
ぽきりとシャーペンの芯が折れた。頭の中で言葉がぐるぐると渦巻き、だめだぁと声が漏れたと同時に丹心は握っていたシャーペンを放り出しリビングのテーブルに突っ伏した。
「なんだ、悩み事か?」
からかうような声とともに、頭の向こう側で八起が椅子を引いた。
「兄ちゃん、うるさい」
「もう二時間過ぎたぞ」
「宿題がむずすぎるんだよ」
さっきまで向き合っていたレポート用紙を力なく滑らせる。覗き込む八起の影が視界を覆った。
「ヒーロー社会とメディア……へぇ、随分難しいことをさせるんだな」
「社会科の先生の趣味」
「でも、大切なことだぞ」
そんなの知ってるよ、と言いながら丹心は視線をテレビへと向けた。
覚えている一番古い記憶は、まだ3歳頃に両親と見ていたテレビの映像だった。燃え上がるビルが画面いっぱいに映し出され、噴き上がる黒煙の音の中に混じる人々の悲鳴が怖くて両親の腕に顔を埋めた。だが人々の叫びは、突然どよめきに、次の瞬間には歓声と拍手に変わった。「見て丹心、お兄ちゃんだよ」と父に声をかけられ恐る恐るテレビへと頭を振れば、猛炎を切り裂くように青年が一人立っていた。胸元には自分と同じくらいの小さな男の子を抱え、傷だらけの顔で微笑みながらその子の家族に引き渡した。
人を助け、微笑んだ八起の姿はいまでもよく覚えている。まだ「ヒーロー」なんて居なかった頃のことだ。以来それでも、丹心は八起の一番のファンになった。八起の活躍はテレビで全部追ったし、家に帰ってきたら真っ先に飛びついておかえりと言った。
かっこいい自慢の兄だ。
その背中をいま追えているのは、メディアが丹心に魅せてくれていたからだとは分かっている。
だが——。
「間違いを犯したら、ヒーローじゃいられなくなるのかな」
零れた言葉が宙に浮いたようにリビングに響き渡った。
ヒーローはオーヴァードとは違う。
夜空に浮かぶ星々を繋げて生まれた星座のように、ヒーローも人々が作り出したものだと知ったのは丹心がオーヴァードになってからだった。
力を振るい傷つけ傷つけられることの痛み、力に飲まれることへの恐怖、誰かを守れなかったことへの悔悟は、オーヴァードなら誰しも持つことになる暗い影だ。
メディアは、ヒーローらしくないオーヴァードの姿を決して見せてはくれない。華々しい光があるからこそ、そこに人は集うのだから。
「兄ちゃんはヒーローやってて怖くないの?」
頭を上げて兄をみた。テレビで見る、いつもどおりの兄の笑顔があった。
「そうだな……怖くはないな。でも、かっこ悪い! って丹心に言われるのは嫌だな!」
「真面目にきいてよ」
「兄ちゃんは真剣だぞ」
豪快に笑いだした兄に思わずむくれてしまう。
「じゃあ、丹心。ひとつ大事なことを伝えておこう。兄ちゃんの力の秘密」
人差し指を立てた兄が悪戯っぽく笑った。
「兄ちゃんがヒーローをやってるのは、丹心やみんなからカッコいい! って思われたいからってのがある」
「下心丸出しじゃんか」
「そうだな! でもそれだけじゃないんだ。大事なのは俺なんだ」
兄の瞳はまっすぐで、揺るぐことなく、貫くように丹心へと向けられた。
「他の誰でもない。俺自身がヒーローでありたいと願うから、だから俺は頑張れるんだよ」
兄の言葉はきっと間違っていない。レネゲイドウォーの最前線で戦い、何度倒れてもその度に立ち上がってきた兄の顔には、いつも笑みがあった。画面の中でも、丹心の前でも、兄はいつだって変わらない。
兄の秘奥がそんか単純なことだとしても、兄の笑顔は言葉以上に説得的だ。
だが、その道の険しさは丹心も知っていた。
星明かりのない夜空を歩いていくように、その足取りは自分の感触以外に頼るものはない。一歩間違えれば容易く道を踏み外せてしまうのだ。
踏み外してしまえば、待っているのは地獄のような暗闇だ。
かっと、頭が熱くなった。
「……そんなの、言えないよ」
レコーダーで聞いた声が、ずっと、丹心の頭をかき乱していた。
誰かを助けようと振るった力が甲斐なく終わった。残ったものは、人を殺めたという事実と、社会の関心に壊されてしまった日常だけだ。
自分を信じることは難しい。
正しい行いだと思っても、そのせいで傷ついた人々が目の前にいたならば、れは正しかったといえるのか。
どんな顔をして自分はヒーローなのだといえるのか。
「どうせ他人のことで悩んでるんだろ。背伸びなんかせず、いつも通りのお前で向き合ったらいいんだ」
不意に八起が犬でもあやすように丹心の頭を掻き撫でてくる。くすぐったくて思わず目を閉じて首を横に振るが、力が強くてなかなか離れない。
「レポートなんて放っておいて、行ってこい」
八起の手が止まった。にやりと笑う顔は、いつも通りの自信に満ち溢れている。誰かを勇気づけられる笑顔。
思わず頬が緩んだ。
「……大事なことって言ったくせに」
「はやく行かないと俺のヒーロー哲学を書くぞ」
「それ、触らないでよ!」
スマホを手に取って立ち上がる。
ヒーローとして何が正しいのかなんて分からない。実際に自分ができることはないないのかもしれない。それでも、動かなければ始まらない。憧れのヒーローはいつもそうやって、何かを成し遂げてきた。
丹心、と背後から声がかかった。
「さっさと帰ってこい」
「……行ってくる!」
扉を開けば透き通るように澄み切った青空が広がっていた。