今夜は天気がいいから外で飲もう、という提案を受けてファウストが訪れた中庭には、ネロの他にも先客がいた。花壇の影で小さく苦しそうに震えている痩せた黒猫を、しゃがんだネロが見つめている。おそらくは時折ここで見かけるうちの一匹だろう。
ファウストが静かに近づくと、ネロは視線を上げないままに、先生、と声を掛けた。
「……こいつ、病気かな」
「だろうな。……《サティルクナート・ムルクリード》」
ファウストがわずかに躊躇ったのち魔法を使うと、猫は途端に大人しくなり、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
「何したの、先生」
「……一時的に苦痛を和らげた。気休めでしかないが」
わざとぶっきらぼうな口調で答えて、ファウストは猫を抱き上げた。目を閉じて、悪いところを探るように触れながら再び呪文を唱える。
しばらくして目を開けたファウストの表情を、ネロはじっと伺っていた。
「治してやれそう?」
「……いや、何かしたところで、悪戯に命を長引かせるだけになるだろうな……」
「そっか」
ファウストが迷いながら首を振ると、ネロはゆっくりと息を吐いた。聞かなくても薄々分かっていたのだろう。ショックを受けている様子ではないことに、ファウストは少し安堵した。
「……助けてやりたいか。フィガロに頼んで、やれるだけのことはやってみてもいい」
「……いいよ、先生でもどうにもなんねえんだろ」
「ああ。明日の朝まで持つかどうか……」
「そりゃもう病気っていうか、寿命だろ」
こいつ結構な爺さんだもんな、とネロは軽い口調で呟いて苦笑した。ネロがいつだか、この猫のために特別に柔らかく煮た肉を用意してくれたことを思い出しながら、ファウストは頷いた。
「僕たちは魔法使いであって、神ではないからな。せめて安らかに眠らせてやろう」
「……っ、……」
ぎくりとか、びしっとか、そんな音がしそうな固い表情になっているネロに気づかないふりをするかどうか迷って、結局ファウストは、どうした、と訊ねた。
「……看取るのは辛いか? 今日はもうお開きにしても、」
「あー、違う違う」
ネロが慌てたように首を振る。ファウストに抱かれて眠る猫を優しく撫でて、ネロは自嘲の笑みを浮かべた。
「こいつのこと、ファウストが……その、死なせようとしたのかと、思って……」
「……しないよ」
「わかってる。……そういうことはしねえよな、あんたは」
「……、きみはしたいのか」
「いや……ただ、昔そうして欲しがったやつがいたのを思い出したんだ」
「殺してくれって?」
「まあ、だいたいそう。……夢の森に連れてってくれ、って」
夢の森。木々から出る毒が最期に幸せな夢を見せる、恐ろしくも美しい、北の国の森。ネロは誰かを連れて行ったことがあるのだろうか。ファウストはそんなことを考えながらも、そうか、とだけ相槌を打った。今この場で、ネロの過去を詮索する気にはならなかった。
「……僕の魔法だって似たようなものだ。毒で意図的に命を奪うか、時間と天命に任せるかの違いでしかない」
むしろ本人が望んで森に行く方が、ずっとマシかもしれなかった。
こういった魔法は結局のところ、看取る側の利己的な行動でしかない。苦しんで死ぬところを見るのはつらいから、その方が仲間たち士気が下がらないから。そんな、勝手な都合でゆめまぼろしを見せる。そこに救いと名前をつけて、これが最善だと思いたいだけなのだ。
遠く、けれど全く色褪せない昔のことを考えて、ファウストは空を見上げた。星がきらきらと光っていて、そういえば今日は天気が良かったのだったのだと思い出す。
「そうかもな。手を出しちまった時点で同じなのに……まったく、魔法舎にいると甘くなって困るね」
ファウストの内心を読むように横顔を見つめて、ネロは頷いた。割り切れなさを、あまい、という言葉で包んだネロの優しさに微笑む。
「きみはあの街に住んでいた時だって、死にかけの猫がいれば助けようとしたんじゃないのか」
「……さあ、どうだったか……あの街は野良猫なんてほとんどいなかったからなあ」
「……ああ……法典か」
「そうそう、飼育してる動物の遺棄はそこそこ重罪だからさ……」
少しずつ逸れていく話題は、意図的なものだった。おそらくは、ネロも。
ぽつぽつと他愛無い話をしながら、やがてネロはバスケットを開けて晩酌の支度を始めた。手伝おうか、と聞こうとしたファウストの腕の中をネロが指差したので、おとなしく座っていることにする。
「先生、明日の用事は? 授業ないけど、出かけたりする?」
「いや、特には……」
「じゃあ、今日はちょっと夜更かししようぜ」
「……いいよ。きみこそ大丈夫なのか」
「平気だよ。朝の仕込みはしてあるし、カナリアもいるし」
「なら良かった。でも、無理はしないように」
「わかってるって、ほら」
「ありがとう」
渡されたグラスを受け取って、もう一度夜空を見る。風の気持ちよくて星の綺麗な、良い夜だった。