朝、目が覚めた時の、今日は良い日になりそうだ、というくらいのささやかな予感で、生前整理を始めたことは正しかったらしい。
伝えたいことを書き残し、荷物を少しずつ減らし……そうして、もしもの時の後始末について頼む手紙を出したその日の夜、ネロの寿命は尽きたのだった。我ながら完璧なタイミングだと思う。力の強い魔法使いは自分の死期が分かるそうだが、わずかな予感くらいは弱い者にもあるのかもしれない。
それにしても、誤算だったのは石になっても意識が続いていることである。
よく考えれば亡霊に出会ったこともある以上、自分がそうならない保証はどこにもなかったのだ。死んだ後のことは自分には分からないだなんて、ある意味では気楽に考えていたのに、こんなことになるとは。
さて、石となっては動くこともできず眠ることもできず、窓の外を眺めるだけのネロの元へ、最初にやってきたのはファウストだった。
丁寧なノックの後、無断で部屋に入ることを謝罪をしてから、ファウストは扉を開けた。部屋の主人がどうなっているか気配で分かっているだろうに、律儀なものだとネロは微笑ましく思った。
ファウストはネロの石が横たわるベッドまで歩いてくると、ため息のように小さく名前を呼んだ。
「……ネロ、」
「久しぶり、ファウスト」
もしかしたら聞こえるかもしれない、と僅かな望みにかけて返事をしたが、声が届いた様子はない。ぐしゃり。ファウストが手紙を握りしめた音が部屋に響く。時間感覚が曖昧になっていて自信はないが、おそらく手紙を受け取って、すぐに箒を飛ばしてきたのではないだろうか。
別に遺書というわけでもなく、ずいぶんと長生きになってきたから万が一に備えて念のため、なんて雰囲気で送ったのに、悪いことをしてしまった。
「いやあ、俺もまさか、こんなにぴったりのつもりじゃなくてさ。もう一回あんたと酒飲む機会くらいはあると思ってたんだけどな……」
俯いたファウストに、言い訳がましくネロは呟いた。実際声は出せていないけれど、こちらの心持ちとしては呟いたとしか言いようがないので許してほしい。
ファウストは、ネロが伝えた通りに全てのことをつつがなく終わらせてくれた。
石となったネロを拾い集め、知り合いへ連絡を出し、店を片付けて閉店の張り紙を出し、希望した者にはマナ石を受け渡した。
ネロの死を知って悲しんでくれる知人がこんなに増えるなんて、昔の自分は想像できただろうか。それでも、一人一人が持って帰る量は大したことはなく、最終的にかなりの石が残っていた。
余った分は後始末の対価として好きにして良いと書いておいたので、ファウストはどうやら一度、まとめて嵐の谷に持ち帰るようだった。
「……きみが、安らかに眠れているといいんだけど」
ネロを柔らかな布で包んで、ファウストが言う。
眠ってるとは言い難いなあと、ネロは答えた。
帰宅したファウストはまず、ネロの石を頑丈そうな木箱へ丁寧にしまい、そこからふたかけらだけ取り出して蓋を閉めた。
「せっかくきみが遺してくれた贈り物なのに、使い道をすぐに決められなくてすまない。……だが、好きにして良いと言ったのはきみだからな、しまいこんでいても怒らないでくれ」
手のひらの上のネロの欠片に向かって、ファウストは話しかけている。便利なもので、ネロの意識は木箱の中からファウストの手の中へと移り、きちんと良い感じに話しかけられている感覚を得ることができた。
この欠片ひとつひとつのうち、己の自我がどこに依存しているのか。ムルの砕けた魂の欠片のように、貰われていったマナ石それぞれにネロが宿っているとしたら、自分は一体なんなのだろうか……これ以上考えるのは怖いので、やめておこうと心に決める。
やがてファウストは欠片をひとつ口に入れると、静かに目を閉じた。自惚れではきっとなく、これは悼まれているのだ、と感じたネロはなんだか妙に気恥ずかしい気持ちだった。
ファウストの口に入らなかった方の石はというと、窓際の棚の上にそっと置かれていた。
定位置を決めるまでファウストは家の中を三周ほど回って、それからようやくネロをそこに置いたのだった。窓の外も部屋の中もよく見渡せるので、ネロはそれらを眺めて日々を過ごしていた。
「おはよう、ネロ」
「おはよ、ファウスト」
ファウストの一日は、ネロの石に声をかけるところから始まるし、ネロの一日はファウストに返事をするところから始まる。
ただ、ファウストはマナ石を常にネロとして扱っているようでもなかった。朝夜のあいさつの他は声を掛けてこないし、ただの置き物のように視線は素通りすることが多い。
話しかけてくれた方がネロとしては退屈せずに済むのだが、石を故人に見立てて構いまくるファウストというのはどうにも健康的ではない気がするので、このくらいでちょうどよいのである。
ファウストの暮らしは規則正しく、丁寧で、見ていて気持ちがいい。出会ったはじめの頃の、陰気な引きこもり先生の印象は一体なんだったのだろうか。
本日の朝食はガレットらしい、と、調理するファウストの背中を眺める。手際よく進められる手順を見ているうち、不意にネロは、俺のレシピだ、と気づいた。ファウストの口に合うように微調整を重ねたレシピは、散々迷った末にまとめて書き残してあった。ファウストがそれを持ち帰っていたのは知っていたが、こうして活用してくれるなら遺した甲斐があるというものだ。
魔法使いの長い生の中で作り上げた料理の数々が、石と共に消えてしまうことを特別惜しいとは思っていたわけではないが、受け継がれて損ということもない。人間も魔法使いも、誰かの知識が積み重なった上を歩いているのだ。年を取って、この辺りの考えもずいぶん丸くなったような気がする。
やがて作り終わったファウストは机に料理を並べると、ふと、顔を上げた。
「いただきます」
ふわり、と優しく微笑んだファウストと、目があった気がする。もちろんファウストにネロの姿は見えていないし、というかネロにも身体があるわけではないので目などどこにも無いのだが、とにかく、ファウストはいつもと違って食事の前の感謝をネロに向けて発したのだ。あの頃と同じように。
色々な言葉が浮かんでは消えて、それでも結局何も言えなかったネロは、魔法舎の食堂にいた頃と同じように、
「……めしあがれ」
と返して、あとはただ、ファウストの食事を見つめていることにした。
数百年が過ぎて行く中で、木箱の中のネロは少しずつその量を減らしていった。
どうしても金が入り用の時や、大量の魔力を失った時に、ファウストは箱を開けて、いくつかの石を取り出す。あくまで蓄えのひとつでしかないということなのか、少なくともネロからは特に感慨もなく消費しているように見えた。好きにしろと言った以上、すべて売り払われても構わないと思っていたので特に文句はない。
それでもファウストは、棚の上のネロへの挨拶を毎日忘れずに繰り返した。
「おはよう、ネロ」
「おはよーファウスト。今日も律儀だな」
「おやすみ、ネロ」
「うん、おやすみ。ちゃんと寝ろよ」
ネロが居なくなった世界が変わらずに回り続けていることを、ファウストの暮らしが教えてくれる。それ自体は当たり前のことなので別に寂しくも嬉しくもないが、月が落ちて世界が滅びるようなことになっていないのは、良いことに違いない。
とはいえ、例え世界が滅びずとも、ファウストが石になる日はいつか必ずやってくる。その時までに、箱の中身はどうなっているだろうか。
予言の力などないネロには、未来のことは何もわからない。
ただ、石になったファウストにもしネロの声が届くとしたら、その時なんと伝えるか、今のうちに考えておこうと思っている。
いていな2開催おめでとうございます&ありがとうございます!