桜を見に行くエースとグリムの話昔の夢を見た。
エースはジリリリとうるさく喚き立てる目覚まし時計を乱暴に止めた。針が指している時刻は朝の6時。今日が休日であることをふまえると、とんでもない早起きをしてしまったことになる。実際まだ頭の奥底には眠気があって、体もだるかった。
一拍おいてからのそりと起き上がる。ガシガシと寝癖まみれになった格好の悪い頭を掻いて、お腹のあたりに転がっている黒くて丸い生き物を見た。先程の目覚まし時計では覚醒できなかったらしいそれは大きな鼻提灯を膨らませながら心底幸せそうに眠っている。
起きる気配がまるで見られないので、エースはため息をついてベットから降りる。無理に起こしたところで、コイツが家事を手伝うとも思えない。あともうなんでもいいからシャワーを浴びて、早く眠気を取ってしまわないといけない。
シャワーを浴びて歯を磨いて、それでも取れない眠気を噛み殺しながらエースはキッチンの前に立つ。
フライパンを取り出して火を起こすと、そこに卵を四つぽとんと落とした。ソーセージも焼こうか迷ったが、そう言えば昨日家中の食材は食べ尽くしたのだと思い出し、断念する。
ジュワジュワと白身の焼ける音を聞きながら、トーストを2枚焼く。そうしてキッチン横のカゴを覗くとよく熟れたオレンジが一つ余っているのを発見して、取り上げる。果物ナイフで雑に切り分け、そのうちの一つを齧ると、酸味よりも甘味の勝った柑橘の味がした。
チンと音がしたのでトーストを皿に載せて、その上にカリカリに焼けた目玉焼きも乗せる。粗挽き胡椒を削ると、スパイシーな香りが食欲をそそった。
最後に仕上げ、戸棚から少し錆びた缶切りを取り出して、ツナ缶を一つ開けた。パキリと音がして、辺り一体に魚の匂いが広がる。それを片方のトーストに山盛りにしてやった。普段はこれの半分なんだけれど、今日はこうするしかないから仕方ない。
「お腹空いたんだゾ〜……」
やっと寝室から出てきた黒い毛玉に、エースは口を尖らせた。
「起きるの遅い。今日なんの日か分かってんの?」
「目覚ましの音しなかったんだゾ〜…」
「したわ」
毛玉はそれ以上言い返すつもりがないのか、ちょこんとテーブルの上に座る。
コイツの背があまりに小さくテーブルに合う椅子は見つけられなかったので、いつも行儀悪くテーブルの上で飲み食いをさせている。それを咎める奴はいない。
ツナと目玉焼きが乗ったトーストを器用に齧る毛玉を横目に、エースは今日の予定を確認する。
乗る予定の列車には十分間に合う時間だが、この寝癖を治すのならもう少し早く起きても良かったかもしれない。
さっさと食べてしまおう。皿洗いはこの毛玉にやらせれば良いのだし。
そんなことを考えながらエースもトーストを齧った。
悪戦苦闘しながらなんとか髪型を整え、櫛と歯ブラシをポーチに入れてバスルームを後にする。キッチンを覗くとまた泡まみれになりながら皿を洗っている奴が見えた。
(あいつこれから出かけるって分かってんのかな……)
若干の呆れを覚えながら寝室に戻り、ベットを軽く整える。あいつがベットメイキングなんてしてくれるはずはないだろうな。分かってたよくそ。
少し悪態をついて、そうして昨日のうちに詰めておいたキャリーケースにポーチをしまった。
さあこれで忘れ物はないはず。あいつの荷物も全部これに詰めているし、昨日の夜に確認したし。
箪笥を開いて少し考えてから、なんの変哲もない白いシャツと黒のスキニーを着て、鏡の前で襟を整えた。
「うわ」
なんでもない。
本当に、ダサくもないしオシャレでもない。
せっかく出かけるってのに。
だけれどもオシャレをする気はどうしても起きない。
またため息を吐きそうになりながら、キャリーケースを連れて寝室から出る。
「グリム」
今日初めて読んだ毛玉の名前。
グリムはその青い目をエースに向ける。
「そろそろ出るぞ、あれ持った?」
「ん」
グリムは一度身震いをしてから、エースの肩に飛び乗った。
少し湿ってるんだよな。乾かすの面倒くさがるなよ。
はあ、まあ良いかと、エースは玄関を開けた。
エースとグリムには親友がいた。
ここでいう親友というのは、青春ドラマも真っ青な紺色熱血馬鹿の事ではなくて、あの何考えてるんだかよくわからない女の子の方だ。
数年前、突如エースたちの世界に現れた彼女は、少しだけ彼らと一緒にいたかと思ったら、これまた急に目の前から消えていった。(それを「帰った」と表現する人もいれば、「逃げた」という人もいる)表情が乏しく喜んでいたのか悲しんでいたのかすらよく分からない女の子だったので、二人とも彼女があの時本当はどんなことを思っていたのか知らないままだ。
彼らはそうやって2度と会えない最後の別れを、あっさりと見送った。
それが、彼らの母校であるナイトレイブンカレッジを卒業する直前のこと。そして、数年間彼女の半分をやっていたグリムと、彼女の1番の親友をやっていたエースが、何故か一緒に暮らしだしてからまた数年が経つ。
どちらが先に言い出したのか、はたまたどちらも言っちゃあいないのか。二人はどうして一緒に暮らしているのかの理由をもう覚えていない。それでも意外なことに相性がそれなりに良いらしく、大きなトラブルもなく、同居生活は至って順調に進んでいる。
そうしてのらりくらりと日々を過ごしていたら、ある日グリムが言った。
「さくらを見に行きたい」
さくら?さくらって何?
調べてみるとそれは東の島国しか咲かず、しかも二週間もたたずに散ってしまう、それはそれは美しく儚く咲き誇る花なのだとか。
「なんでお前こんなの知ってんだよ」
逆の場合はいくらでもあったが、エースが知らず、グリムが知っているという状況は珍しかった。
エースが問うとグリムがなんて事のないように言う。
「ユウが言ってた」
私の故郷には、それが咲いてるって。
二人がその島国へ行こうと決めたのに、それ以上の理由は無かった。
そうして彼らはさくらを見に行くために、二泊三日の旅に繰り出すことになったのである、
「あー移動疲れた!」
「ぐぅ……」
「起きろこの馬鹿」
肩に乗ったグリムの鼻提灯をエースは器用に割った。グリムはうっすらと目を開けたまま静止している。うわあブサイク。
さて、無事に件の島国に着いた一行はとりあえずホテルに向かうことにした。荷物を持ったまま観光しなければならないだなんて、エースは考えたくなかったからだ。
ここはこの国の中でも特に都会な場所らしく、少し歩くだけでも車の音や人の声がうるさかった。人の多さにうんざりしながら呟く。
「今日は祭りかなんかやってんの…?あれか?オハナミってやつ?」
「でけえ建物がめちゃくちゃあるんだゾ」
「太陽が見えねー」
グダグダと文句を言いながら予約していたホテルへ向かう。
道中、エースはグリムに多くの視線が集まっていることに気がついた。
いくら魔法が発達した現代であっても、モンスターを使役することはまだまだ難しいことが多い。グリムは特例で肩に乗せちゃったりなんかしているが、やはり世間的には奇妙なものに映るらしい。
グリムが視線に気づいて「オレ様有名人!?」とか言ってるのをエースは顔を引き攣らせながらんなわけあるかと否定した。
予約していたホテルに着いてエースはたまらずにベッドに飛び込んだ。最近あまりにも疲れが溜まりすぎている。そもそもこの旅行のために、わざわざ仕事をめちゃくちゃに終わらせてきたのだ。なんだって4月なんて仕事が多い月に咲くんだ、納期過ぎてるやつとか貯めてたから、休み取れなくて一気に片付けてきたんだぞ。そんなことを思う。この島国の企業戦士が聞いたら憤怒で血を吹き出して死にそうなセリフだが、生憎エースはブラックな思想は持ち合わせていないので単純に不満があるだけで後ろめたさなんてものは存在しない。ただただ、せっかくの旅行なんだからサッと行かせろよな、と思っている。
「腹減った」
「さっき昼飯食ったばっかだろ」
「じゃあお前も減れ」
「なんだそれ、嫌だよ」
「あっそ」
エースが不貞腐れたように枕に顔を押し付ける。
エースの肩から降りたグリムは、しばらく室内をウロウロしていたが、やがて飽きたのか同じようにベッドに寝そべり寝息を立て始めた。
その様子をなんとなしに眺めていると、つられてこちらまで眠くなってきた。まあ、別にいいか。旅は始まったばかりなのだ。少しくらい怠惰な時間を過ごしたってバチは当たらないだろう。
エースもグリムに倣って、静かに瞼を閉じた。
「おい起きろ!!」
「ふぁあああ……あ、なんだよもう夜か」
「夜かじゃない!いつの間にか夕方になってたんだゾ!」
ダンダンと足を踏み鳴らしながら怒るグリムの姿は少し意外だった。
「そんな楽しみにしてたの、お前」
「当たり前だろ。ユウの故郷なんだぞ」
「そりゃそうだけど」
「早く行くんだゾ!」
「いや、だから2泊3日もあんだからまだゆっくりしてていいだろ…」
どうせ明日もあるんだし、そこまで急がなくても良いんじゃないかと思うのだが、グリムはどうしても今すぐ行きたいようであった。
結局グリムに押し切られる形で、エースは観光へと繰り出した。さもないとわーわー喚いてとても休めたものじゃないからだ。
さて、ホテルの外へ出たはいいが、ここで一つ問題が発生した。
エースとグリムはさくらを見たことがなかった。さくらがどういう花なのかはよく知っていたが、それがどんな風に咲いているのか知らなかったのだ。
それでもグリムに言われるがままにさくらを探してみたりしたが、どこを探してもそれらしきものは見当たらない。
「この国ならどこでも咲いてるんじゃなかったのかよ?国の象徴だろ?」
「でもどこにも無いんだゾ」
「おっかしーなー」
「すみません、そこのお二人さん。何かお探しですか?」
不意に話しかけられ振り向くと、そこには優しげな雰囲気をした青年がいた。
「あ、えっと、はい。さくらを探していて……」
エースは戸惑いながらも答えた。いきなり知らない人に話し掛けられるとは思わなかったからだ。
しかし、彼はそれを聞くとすぐに納得したような表情になり、「あー、そういうことね」と言った。
「花見の観光客とかですかね?ちょっと外れにある場所なので、よく迷う方がいらっしゃるんです。よかったら案内しますよ」
「本当か!?」
グリムが目を輝かせたのを見て、青年はもう一度優しそうに微笑み、先を歩き始めた。
初対面なのに嫌に優しい人だな。
エースは生徒たちの不親切さによく文句を垂れていた彼女のことを思い出した。そういえば彼女はよく「私の故郷の人はみんな優しいよ。みんなと違ってね」なんて嫌味っぽく言ってきていたっけ。
「こっちですよー」という声に従い、二人はその後をついていった。
青年の言う通り、確かに道は入り組んでいた。しかも人が多いせいで余計に分かりづらい。グリムなんか既にぐったりしている。
「大丈夫か?」
「無理……オレ様もう帰りたい」
「お前が見にいきたいって言ったんだろ。ほら頑張れあと少しだって」
「ほんと?」
「ん」
「……わかったんだゾ」
グリムは諦めたように言った。
それからしばらくして、やっとのことでその花見の場所とやらにたどり着く。そこは開けた広場のような場所で、周りにはたくさんの木が生えており、そして、一面に桜の花が咲き誇っていた。
「すげえ……なんだこれ」
「綺麗なんだゾー!!」
グリムはぴょんと肩から飛び降りると、そのまま桜の木の下に走っていった。さっきあんなにぐったりしていたくせに、単純なやつだな。
エースもそれに続こうとしたが、青年に呼び止められ振り返った。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ、困っている方を助けるのは当然のことですから。今回は桜を見にきたんですか?」
「まあそんなところですね」
「この時期はやはりそういう観光客が多いですね。ちなみに彼とはご友人なんですか?」
「ゴユウジン……」
「まあ、ここら辺は夜も誰かしらが花見をしてるので、いつ来ても賑やかで楽しいですよ!ぜひ観光を楽しんでいってくださいね」
青年は一つお辞儀をしてから、去っていってしまった。最後まで爽やかな青年だ。
そしてここはずっと賑やかなのか。そうか。
エースは少し考えてから、グリムを探しに歩き始めた。これだけ人も花も多い場所で迷子にでもなられたら大変だぞと少々駆け足で探していたが、少しすると、案外簡単に見つかった。
グリムは何をするでもなく、ただただ静かに花を眺めていた。
「気に入ったか」
「おう」
「そっか」
「これがさくらなんだな」
グリムはそれだけ言うと静かになる。珍しく。何を考えているのかは分からなかったけど、なんとなく同じことを考えていると思う。
彼女が綺麗だと言った花が、彼女が好きだった花が今ここにあるのだ。
ふと、ユウも今は別の世界で、誰かとさくらを眺めているのだろうか。そんな考えが頭をよぎって、思わず苦笑した。
流石に女々しすぎるよな。
「グリム」
「ん?」
「ここにするか?」
グリムは少し考えてから、「いや」と切り出した。
「もっと静かな場所がいい。特別な場所だから」
「うん、俺も」
賑やかな人たちの宴会の声が遠く聞こえる。ここは、確かに華やかで煌びやかで素晴らしい場所だったが、俺たちのための場所ではない。
俺たちはただ桜を見にきただけではないのだ。
エースが手を差し出すと、グリムはそれに飛び乗ってきた。それをしっかりと掴んで、持ち上げる。
「よし、腹減ったし、なんか屋台で買っていこーぜ」
「ふな!?じゃあ焼きそばってやつとカステラと…あのリンゴ飴ってやつも美味そうだな!あとは肉と…」
「どんだけ食う気だ馬鹿」
「オレ様が全部食べるんだゾ!」
「太るぞ」
「うるせえ!ってエースだって大量に買ってるじゃねーか!」
「俺は良いんだよ」
「はあ?ずるいんだゾ!!」
「はいはい」
結局二人して買い食いしまくってしまい、ホテルに帰った頃にはお互いすっかり眠たくなって、すぐに眠ってしまった。
次の日目が覚めると、既にグリムはいなかった。あいつが早起きするなんて珍しい。何かあったのかと思いつつ、エースも身支度を整えて部屋を出た。
行った場所には心当たりがあった。同居を始めてからというもの、グリムはよくこうして家を抜け出すことがあったから、エースはこういう時行きそうな場所がなんとなく分かるのだ。
そして、昨日行った広場に行くと、そこにはやはりグリムの姿があった。
彼は一本の木の下でぼーっと空を見ている。
グリムはこちらに気づくと、少し恥ずかしそうに顔を逸らした。
「おはよう」
「……おう」
素っ気ない挨拶に返ってくる返事。変わらない俺たちの関係。
エースがゆっくりと深呼吸すると、朝の冷たい空気と一緒に穏やかな花の香りがした。
「行くか」
「おう」
俺たちが探すべき桜は、もっと静かで淋しいところにあって、一見誰もが通り過ぎてしまうようなそんな場所にある桜だ。だってそこに行きたい理由もそこに行ってすることも、あんまりにもちっぽけでくだらなくて寂しいものだから。
エースはグリムを肩に乗せてから、行き場も無く彷徨い始めた。
だんだんと賑やかな場所から離れて、人通りの少ない道を選びながらどんどん歩く。お互い何も話すことはせず、いくらでも静かな場所へ、静かな方へ。
学園にいた頃はいくらでも騒がしい場所に向かって走っていた。それが楽しかったから。だと言うのに今、全く真逆のことをしているのがなんだかおかしい話だ。
でもそれで良かったのだ。それがよかったのだ。
俺たちが探しているのはそういうものなんだから。
彼女はここに居ないんだから。
---
「それ」を彼女から受け取ったのは、彼女が帰るまさに前日のことだった。
なんて事のないように振る舞いながら、いつものようにオンボロ寮を訪ねて、いつものように他愛のない話をして、いつものように眠りについた。
そしてまだ薄暗い朝、目が覚めると枕元に彼女が立っていて、驚く俺を全く意に介さずそれは渡されたのだ。
「これ」
「は?おまえ部屋勝手に入んじゃ……」
「開けてみて」
有無を言わさない態度に面くらい、恐る恐る綺麗に包まれた箱を開けると、中には古くて錆びた缶切りがひとつ入っていた。
「なにこれ」
「私がこの世界に来て初めて買ったものだよ。ツナ缶を切るのに使ってたの」
「なんでこんなもんくれたの?」
「いやあ、別に大した意味は無いんだけどさ」
「ふうん」
「いらない?」
「いる」
「そっか」
彼女はそれだけ言うと、少し照れ臭そうにはにかんだ。それから「ありがとう」と言って、またすぐに部屋を出ていった。
エースはしばらくそれを眺めていたけれど、やがて自分も立ち上がり、寝室から出る。
そのまま玄関に向かうと、ちょうど彼女が扉に手をかけるところだった。
これから彼女は学園長のところへ行ってそのまま元の世界に帰るのだ。残念ながら、俺やデュースなど普通の生徒は立ち会うことが出来ない。
エースが声をかけると、彼女は手を扉にかけたまま振り返らずに答えた。
「グリムは?」
「先に行ってるって。なんだか怒っちゃったみたいで」
「拗ねてるだけだろ」
「……エース、元気で」
「お前も」
「うん」
「……あのさ」
「んー?」
「……いや、なんでも」
「なに?」
「やっぱいい」
「変なエース」
「うるせえな……」
さて、いよいよ彼女の手を引いて引き止めたくなってきた頃、彼女は少しだけ振り返り笑った。
「グリムをよろしくね」
彼女が出ていった後、暫くの間エースは動けなかった。彼女の言った言葉の意味が分からなかった。しばらく呆然としていると、いつの間にか一緒に泊まっていたデュースが後ろにいた。
「行ってしまったのか」
「ああうん……」
「そうか」
デュースはエースよりも幾分か冷静に見えた。
結局エースはその日一日オンボロ寮の談話室でずっと座っていた。だが結局グリムが帰ってきたのは、日がすっかり沈んだ後で、特に何を話すでもなくすぐに眠ってしまった。
そうして次の日からも、グリムの様子は特に変わりなく、普段通りの日々を過ごしているようだった。ただエースもグリムも彼女のことを口に出すことはしなかったし、そもそも彼女と最後に会ったことすら誰にも言わず、ただ淡々と過ごしていただけだった。
卒業に向けて、ただ出席を繰り返す日々。そんな中、エースは時折彼女の最後の言葉を思い出してはたまらない気持ちになった。
「グリムをよろしく」とは一体どういう意味なのか。そんなことをあれこれ考えながら過ごしてきたある日のこと。
いつものように授業を受け、放課後は部活に顔を出して、その帰り道のことだった。
「おい」
突然後ろから呼び止められて振り向くと、そこにはデュースがいた。
「お前、最近何か悩んでないか」
「……なんだよいきなり」
「いや、なんか、いつもよりぼんやりしてることが多い気がしてな」
「そう?普通だけど」
「なら良いんだが」
会話がすぐに終わってしまう。あの日から、なんとなくデュースのことも避けていたエースは気まずさで死んでしまいそうだった。
あの日あの寮にはデュースも居たのに何故彼のことは起こさなかったのかだとか、彼女に言われた言葉をデュースに言えないままだったなだとか、考えているとさらに頭がこんがらがってしまうからだ。
無言のままで二人でしばらく歩いていると、デュースは少し上ずった声でエースに話しかけた。
「お前とグリム、何かあったのか」
下手くそか!とエースは思わず声に出しそうになった。なーにが「なら良いんだが」だよ。気になって仕方ないんじゃねーか。こういう嘘がつけないところはデュースの魅力でもあるが、それにしたってとエースはため息をつく。
「別に何もないよ」
「本当に?」
「ほんとだって」
「でも」
「しつこい」
「すまん」
素直すぎる返事を聞いて、エースはますますどうしたらいいかわからなくなった。ああ分かってるよこのままじゃダメだ。
でも何て言えば?彼女の最後の言葉をなんて説明すればいい?そもそも俺は何を悩んでいるんだ? 頭の中でぐるぐると思考を巡らせているうちに、ふとある考えに思い至った。
「なあ」
「なんだ」
「お前はさ、自分の大切なもの人に預けられる?」
「なんだ急に」
「いいから答えて」
「……まず預ける必要が分からん。人に預けずとも自分の手で守れば良いだろう」
「じゃあ例えば、自分が永遠にその大切なもののそばに居てやれないって分かったらどうする?」
「はあ?」
「いいから」
「……それは悔しいが、自分の信頼のおける人間に託すしかなくなるな。当然だろう」
「そっか」
「それがどうかしたのか?」
「やっぱなんでもない」
「なんだそれ……」
エースはそのまま歩き出した。デュースの問いかけに答えることは出来なかった。
デュースはまだ納得していないようだったが、そのうち諦めてまた黙ったまま並んで歩いた。
エースはその日の夜、なかなか寝付けず薄暗い部屋でただぼんやりとしていた。
彼女にとってグリムがどれだけ大切な存在だったかは、近くで見ていたのだからよく知っている。そうして、その存在を託されたのだとしたら、エースは彼女にとって最も信頼のおける人間だったのだろう。
それを嬉しいと思うと同時に、怒りもあった。親友へかける最後の言葉のくせに、あまりに身勝手すぎると思わないか。エースへの直接の激励ではなく、自分の大切なものを託すだけだなんて。
「……違うか」
そうじゃない。きっと彼女にとってそれが最大の情だったのだろう。
とどのつまり彼女にとってのエースはそういう「信頼」がある友人だったと言うだけで、「大切なもの」にはかすってもいなかったと、そういうことなんだろう。そう考えると、胸の中にぽっかり穴が空いたような感覚を覚えた。それと同時に、今まで感じたことのない感情が芽生えてくるのを感じた。
「会いたい……」
つぶやいた言葉が嫌に部屋に反響する。会って確かめたいことが山ほどある。怒鳴ってやりたいよ、本当に。
結局のところ、エースは拗ねていたのだ。自分が思っていたよりも、彼女にとっての自分は大きい存在じゃなかったことに。
腹が立って仕方がないのに、それでもグリム以外で一番だったのが嬉しくて、あの言葉を裏切ることはできそうになかった。
どうやらあの缶切りには魔女の呪いがかけられていたらしい。
「くそ……」
エースはその日、彼女が居なくなってから初めて泣いた。
***
「おいエース」
「んあ?」
「腹減ったんだぞ」
「またかよ」
気がつけばエースたちは、人通りの少ない商店街に足を踏み入れていた。先ほどまでいた観光地とは全く違う寂れた雰囲気の場所だ。
当たり前だが、こんな場所にさくらは無い。
「そこらへんにお弁当屋さんとかあんじゃねーの。俺疲れたから、お前買ってこいよ。てか、お前は人の肩に乗ってないで少しは歩け」
「ふなー、ユウはなにも言わずに乗せてくれたのにな」
「よそはよそ。うちはうち」
グリムはしぶしぶ肩から降りてキョロキョロと辺りを見渡すと、気に入った店を見つけたのかタターッと駆けて行ってしまった。エースはそれを見送りながら適当にそこらのベンチに座り目を瞑った。
なんだか懐かしいことを思い出していた気がする。
そういえば、グリムと二人で暮らし始めてしばらくは嫉妬でどうにかなりそうになっていた。グリムもえらい突っかかってくるしで、毎日喧嘩ばかりだった。
だけど何年も一緒にいれば、喧嘩をする体力を用意するのも面倒くさくいし、だんだんお互いの思考が分かってくるようになるしで、滅多に喧嘩なんてしなくなった。(軽い口喧嘩は今でもたくさんあったが)
そうだ、もうエースたちと彼女があの学園で一緒に過ごした時間よりも、エースたちが共に暮らしてからの時間のほうが長くなりそうなのだ。
関係の変化が訪れるのは当たり前のことだろう。
「エース!」
「ん?」
「ほれ」
「ああ、ありがと」
「ん」
いつの間にかグリムは戻ってきていたようだ。グリムから受け取った包みを開けると、中には白くて丸いものが入っていた。
「なにこれ」
「大福だってよ」
「ダイフク?」
聞いたことのない名前だ。エースが訝しげに包みを除いていると、グリムはやれやれと偉そうな口ぶりで説明を始めた。
「甘くて美味しい食べ物だゾ」
「ふーん」
「食ってみろ」
グリムに言われるまま口に放り込むと、中に入っていた白いものが舌の上で溶けて消えていった。そして、ほんの少しの甘さが口に残る。うーんなんてお上品な味。
「もっと甘いのが良い」
「文句言うな!」
スパン!とグリムに頭を叩かれた。全く痛くなかったが。
そんなやり取りをしていると、目の前を親子連れが通った。母親に手を引かれた女の子は、エースの膝の上に乗っていたグリムを見て声を上げた。
その子が指差した先には、グリムの小さな手に握られた大福があった。恐らくこれが欲しいのだろう。エースはその子の母親がこちらに向かって頭を下げているのを横目に、グリムに声をかけようとした。
しかしグリムはそんなエースを無視して、自らベンチから飛び降りると、食べかけの大福を急いで口に突っ込み、新しいのをひとつ取り出してから
「やる」
とその子の前に突き出した。
母親は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで ありがとう と言った。その子も満面の笑みを浮かべて、嬉しそうにそれを受け取った。
エースはそれを見ながら、この毛玉は本当に見た目よりずっと大人になったのだと実感する。学園にいた頃だったら、絶対そんなことしなかったのに。エースは思わず小さく吹き出してしまった。
それを見たグリムは若干恥ずかしいのか機嫌悪そうにエースを見上げ、それから自分の手にある大福とエースの手元にある包み紙を交互に見た。
エースはそれに気づかぬふりをして、最後の一口を頬張る。これは俺の分だし。
「ばいばいねこちゃん!」
親子が去っていくさまをずっとグリムは眺めていた。
「オレ様は猫じゃないんだゾ……」
「そこかよ」
やっぱりこいつもまだまだガキである。
***
二人が一緒に暮らし始めた頃、どちらも大怪我を負うほどの喧嘩をしたことがあった。
エースが仕事で遅くなって帰ってきた夜のことだ。
エースがただいまと言っても返事はなく、不思議に思ってリビングの扉を開くと、そこにはテーブルに置かれた皿に乗った、まだ温かいハンバーグがあった。
そこで初めてエースはグリムが夕食を作ったのではないかと思った。いや、実際作ってくれていたのだと思う。その証拠に、キッチンの洗い物が済まされていたからだ。
だというのになぜか無性に腹が立った。
勝手なことをするなと、怒鳴り散らしたくなった。
お前はあいつの宝物なんだから、それらしく偉そうに踏ん反り返ってればいいんだよと。
勢いのまま寝室へと向かい、寝ていたグリムを起こした。
「おい、何勝手なことしてんだ」
「ふな……?エースが今日おそいっていうから、ゆうはんつくっておいてやったんだぞ……」
「だから、なんでそんなことしたんだよ」
エースが怒りを押し殺していることに気づいたのか、グリムは眠たげな目を擦って起き上がった。そして、ふつふつと怒りを湧き上がらせているようだった。
それが余計にエースの怒りを助長させた。グリムが悪いんじゃない。わかっているのに。どうにも止められそうになかった。
「オレ様が作ってやったのに、お礼もしないのか。エースお前サイテーなんだゾ」
プチンとエースの中で何かが切れた。もう我慢できなかった。
「おい、外でろ。決闘だ」
グリムは最初何を言われたのか分からずぽかんとしていたが、徐々に理解してきたようで、不機嫌そうな顔で ふん と鼻を鳴らして立ち上がり、二人はそのまま外へ出て、マンションの庭先まで移動すると向き合った。
もう夜も遅いため人通りは少ないが、それでも時折散歩中の人や帰宅途中の人が通っていく。
そんなことも気にせず、エースはマジカルペンを構えた。グリムもそれに合わせて構える。勝負はあっという間についた。
グリムが魔法を放つ前に、エースが放った炎がグリムを襲ったのだ。グリムは避ける間もなく直撃し、地面へ倒れ込んだ。エースは荒い息を整えながら、倒れたまま動かないグリムを見下ろす。
これでいい。こいつはこのまま家で静かにしていればそれでいい。
「おま、え」
グリムがよろけながらもなんとか立ち上がる。その姿に、エースは少しだけ罪悪感を覚えた。
しかしすぐにそれは消える。
俺は悪くないと自分に言い聞かせて、再びグリムに攻撃しようとした時、 ふわりと身体を包む感覚があった。そして次の瞬間には、目の前にあったはずの地面は遠く、空が広がっていた。グリムが浮遊魔法を使ったのだと理解する間も無く、エースの体は地面へ叩き落とされる。背中に強い衝撃を受けて、一瞬呼吸ができなくなった。
「ぐっ……!」
痛みに顔を歪め、何とか体を起こす。すると視界の端に、自分に向かって腕を振り下ろすグリムの姿が見えた。反射的に体を捻ったが、間に合わず横腹に爪が当たった。
「お前はオレ様にどうしろって言うんだゾ!!」
「だから!何もせずに家でじっとしてろ!余計なことするなって言ってんだよ!」
だって、学園にいた時のお前だったら、絶対にそうしてただろうが。なんでも彼女にやらせて自分は踏ん反り返ってばっかりで、それで何も間違いじゃないみたいな顔をしてただろうが。
エースの言葉に、グリムは目を見開いた。
「オレ様はお前にとってただのペットか!?馬鹿じゃねーのか!?」
「ああそうだよ!!お前は俺の大切なペットだよ!だからもう黙れ!!」
「ふざけんな!!」
グリムは再び攻撃を仕掛けてくる。しかし、今のエースはそれを簡単に避けることができた。それどころか、グリムの攻撃を逆に利用して地面に押さえつけることさえできた。
「大人しくしろ!そんで、もう勝手なことするな!!俺は監督生からお前のこと預かってんだよ……!」
「オレ様の勝手なんだゾ!」
「うるせぇ!」
エースは思わず声を張り上げた。
この毛玉は分かっていない。俺がどれだけ苦労してここまで来たか。俺がどんな思いでこの毛玉を引き取ったのか。
「あいつは、お前のことが大事だったんだ」
「…………」
「だから俺にお前のことを託したんだ」
「…………」
だから、だから、お前はあいつの「宝物」のままであってくれよ。変わろうとするな、あの頃のままで居てくれよ。
グリムはエースを見つめて、それからゆっくりと口を開いた。
「ユウはもう帰ってこない」
その言葉に、エースは動揺した。どうしてそんなこと。
グリムは悲しげに眉を寄せ、それからまた続けた。その瞳は真っ直ぐエースに向けられていた。まるでその事実を受け入れろとでもいうように。
グリムは知っていた。
彼女がもう、どこにもいないことを。
「もう二度と会えないやつに気をつかって、変わらないでいてやれるほど、オレ様は暇じゃないんだゾ」
そう言ったグリムの顔を見て、エースは言葉を詰まらせた。
あの頃のグリムとは違った。あのグリムがいつの間にこんな表情をするようになったのだろうか。
エースはグリムの上から退くと、そのままその場に座り込んで頭を抱えた。
何やってたんだ、俺は。本当に情けない。恥ずかしい。最低だ。
グリムが何か言っている気がしたが、今はもう耳に入って来ない。エースはその場で膝を抱えて項垂れた。
「エースの好きなようにしていい」
「……え?」
「オレ様ももう好きにするんだぞ」
そう言うと、グリムはそのまま部屋へ行ってしまった。一人残されたエースは、しばらくその場から動くことができず、ただ呆然と空を眺めることしかできなかった。
***
エースとグリムはは商店街を後にし、北の方へ向かっていた。
「ふなあ、まだ腹減ってる」
「もうやめとけ。これ以上お前が重くなったら俺の肩が壊れる」
「失礼なやつだゾ!」
あれから結局さまざまなものをつまみ食いしまくってしまい、やはりというべきか、グリムはいつもより多く食べてた上に今もなおお腹が空いたと騒いでいた。
エースはグリムの腹の音をすぐ耳横で感じながらながら歩いていたが、流石に肩に乗せる限界を感じて近くの公園まで移動することにした。
「ほれ、ここ座れ」
「う〜……」
ベンチに腰掛けさせれば、グリムは渋々といった様子でちょこんと収まった。それでもウダウダと腹減ったと喚き続けるグリムが少々鬱陶しくなり、エースは飲み物を買いにその場を離れることにした。
自販機を見つけてから自分の財布の中を確認する。
(足りっかな)
少し不安になりながらもお金を入れ、ジュースを二つ買った。そして急いでグリムの元へ戻ろうと踵を返したその時、背後から声を掛けられた。
「あの、すみません」
振り向くと、そこには見知らぬ少女が立っていた。
エースは少女の顔を見てギョッとする。本当に一瞬のことだったが、ユウに似ている気がしたのだ。
「これ、落ちてましたよ」
そう言って差し出されたものは、見覚えのあるものだった。先程まで、グリムが付けていたはずのリボンだ。エースは慌ててそれを受け取って、目の前の少女に視線を向ける。
彼女は黒髪に黒い瞳をしていた。顔立ちは整っている方だが、どこか物憂げな雰囲気があり、よくよく見てみれば、あまりユウに似ているとは言えなかった。
「ありがとうございます」
「いえ」
「じゃあこれで」
エースはさっさとこの場を離れたかった。なぜか分からないけれど、彼女の顔を見ていると心が落ち着かないような、ざわつく感覚があったからだ。
しかし、歩き出そうとした瞬間、突然腕を強く掴まれた。驚いて振り返ると、少女はエースの腕を掴んだまま、真剣な眼差しでこちらを見上げていた。
「あの黒いモンスターは貴方の使役しているものですか?」
「……え?なんで」
エースは思わず目を逸らす。すると、腕を掴む力が強まるのを感じた。
「進路相談に乗ってください」
よく見てみると、少女は黒い制服を着ていた。
グリムのいる場所に戻り、お互いに自己紹介を終えた後、少女はやっと本題に入った。
少女は魔法使い養育学校の最高学年であり、現在モンスター研究の道に進むか、それとも実家の仕事を継ぐかで悩んでいるらしい。研究職になるには、それなりの知識と実力が必要で、特に魔法解析学に関してはかなり勉強しなければならない。しかし、それはとても大変だと聞いている。
それに、エース自身もそこまで得意ではなかった。(そもそもエースは魔法道具開発会社の開発部だ)
だから、この話を彼女にするのはかなり躊躇われた。
「お願いします。モンスターの研究については資料が少ないので、少しでも情報が欲しいんです。グリムさんはどうやって使役するに至りましたか?」
そう言われてしまえば、もう何も言えなくなってしまう。エースは諦めて、とりあえず自分が言える範囲のことを教えてあげることにした。
「まず、グリムのことは別に使役してるわけじゃない。一緒に暮らしてるだけだ」
「え?」
「こいつはオレと一緒にナイトレイブンカレッジってところを卒業したんだよ」
「ナイト……?」
聞き慣れない単語だったのか、彼女は首を傾げた。エースは苦笑して、「とにかく遠いところからやって来たんだよ」と適当に誤魔化した。
それから今までのことを簡単に説明した。もちろん異世界云々の部分は伏せ、だいぶ省いて話したつもりだった。しかし、それでも彼女は目を見開いて固まったままだった。余程衝撃的だったのか、瞬きすらしていない気がする。
しばらくしてから、少女はようやく口を開いた。
「そんなこと……あり得るのでしょうか」
「信じる信じないはあんたの自由だけど、まぁそういうことだから」
「……だって、モンスターと友人になったなんてすごいことですよ!その監督生さんとぜひお会いしてみたいです」
「あはは…」
エースは渇いた笑い声を出した。
正直、今ここに彼女がいたらどうなっていただろうかと考える。きっとグリムを撫でながら、優しい表情を浮かべているだろう。この世の幸福を全て煮詰めたような顔をして、グリムの世話を焼こうとするだろう。
そして自分はというと、照れ臭くて素直になれずにいたはずだ。本当はすごく嬉しいはずなのに。
「……エースさんって、監督生さんが好きだったんですか?」
「は!!?」
いきなり何を言い出すんだと、エースは勢い良く立ち上がった。
顔が熱い。耳まで熱を持っているのが自分でも分かった。
彼女はその様子を見てクスリと笑う。揶揄われたのだと気づき、エースは慌てて咳払いをして座り直し、動揺を隠すように缶ジュースに口を付けた。
すると今度はグリムが自信満々に口を出した。
「そうだゾ!こいつはユウのことだーいすきなんだゾ!」
ブッと吹き出した。
慌ててグリムの口を塞ごうとしたが、時すでに遅し。少女は興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「と、ところで、あんたの実家の家業って一体なんなんだ?」
これ以上追及されたくなくて、エースは無理やり話題を変えた。
少女はきょとんとした様子でエースを見る。苦しいか?
そして、少し考えるような仕草をした後、少しの間沈黙が続き、やがて少女は何かを決意したかのように大きく息を吸った。
そして、ゆっくりと語り始める。
「私の実家は、おもちゃのお医者さんなんです」
「おもちゃの?」
聞きなれない単語にエースは言葉を繰り返す。
「まあ、簡単に言うとおもちゃの修理をする職人です。私の父は魔法が使えないので……あ、でも父の仕事に文句をつけたいわけじゃないんですよ!ただ、どうしても魔法を使わないから売上も安いし、うちもずっと貧乏で……」
そう言って彼女は目を伏せる。
聞いている限りでは、少女は父の仕事が好きなように聞こえた。ただ、せっかく生まれ持った自身の才能を潰してしまうのが怖いようだった。
しばらく沈黙が続いていたが、彼女はやがて笑顔で顔を上げた。
「けど、やっぱり私、将来は研究者として進んだ方が親も楽できるし、その道に進むつもりです」
少女の目が若干の影を伴って伏せられる。
こんなに顔に出てるくせにずっと悩んでいるのは、少女が頑固だからなのだろうか。それとも、本当に自分のやりたいことが分からないだけなのだろうか。
「これは一つの意見として聞いて欲しいんだけどさ」
エースが切り出すと、少女は不思議そうに首を傾げる。
「そんなに魔法にこだわってるなら、家業の方を変えるのもアリだと思うぜ。あんたが魔法を使って修理するとか、おもちゃに魔法をかけるとかさ。そしたらもっと仕事の幅が広がるだろ」
少女は目を見開く。
「で、でも、うちは魔法を使わないことで集客をしてる部分もありまして、そんなことしたら昔からの常連さんだって離れていってしまうかも…」
「だから簡単な道じゃないだろうな。あんたが相当苦労しなきゃいけないと思う」
「それに、父が築き上げてきたものを私が壊すことはできません……」
彼女の瞳には迷いがあった。
おそらく、まだ覚悟ができていなかったのだろう。
エースはなんとなくデジャヴを感じた。少し前までの自分にそっくりだった。
「それは壊すことになるのか?」
エースの言葉を聞いて、彼女は目を丸くした。
「父親の『宝物』をあんたが継いだとしても、あんたと父親じゃ全く同じ宝物にはならないんだよ。どちらも違う人生があるんだから」
その言葉に彼女はハッとした表情を浮かべた。
まるで、自分の中にあるモヤが晴れたような、心の中の霧が一瞬にしてなくなったような表情をしていた。少女は何か言いたげだったが、それを飲み込むようにぐっと唇を引き結んだ。
「だから、あんたは自分の宝物として、その家業を大事にしてやってけばいいんじゃないの?たとえ変わっていったとしても、大事にしたい気持ちが変わらず有るなら、父親だって分かったくれるさ」
少女が小さく笑った。今までで一番いい顔をしていた気がする。
時刻はもうすぐ17時に差し掛かるところだった。
少女はベンチから立ち上がると、エースに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげでスッキリしました」
「別にオレは何もしてねーよ」
「いえ!エースさんのアドバイスのおかげです!私、今度実家に帰ったら、父とちゃんと話をしてみます!」
「うん、それが一番良いと思う」
エースは素っ気ない返事をしたが、内心はホッとしていた。
エースはグリムを抱え上げると、少女に手を差し出した。少女は不思議そうな表情を浮かべていたが、すぐに笑顔になって手を握り返した。
「頑張れよ」
「はい。エースさん、グリムさん、どうかお元気で」
少女はもう一度ひとつお辞儀をしてから、公園の外へ向かう。
そうして、出口に差し掛かった時、突然振り返ったかと思うと、これ以上ないほどの笑顔で叫んだ。
「私一個思ったんです!監督生さんも、エースさんのこと好きだったと思いますよー!」
その言葉に呆気に取られているうちに、少女は駆け出してあっという間に見えなくなってしまった。
エースが呆然と立ち尽くしていると、グリムが腕の中でくすくす笑い出した。
「何笑ってんだお前」
「ギャハハ!オレ様知ってるんだゾ〜?ユウが夜に『もし元の世界に帰れなかったら、グリムとエースと一緒に暮らそうかな』っていつも言ってた」
「え」
エースの顔がみるみると赤くなっていく。グリムはさらに続けた。ユウはエースのことも大好きだったんだゾ、と。
その言葉を聞いた瞬間、エースは恥ずかしさや怒りや切なさがごちゃ混ぜになった感情に襲われて、思わず泣き出しそうになった。
「聞いてねえよ……」
「言ってたらお前ますます拗らせてただろ。オレ様の優しさなんだゾ」
拗らせてたとか言うなよ。うるさいな。
あたりはもう薄暗くなり始めていた。
それからまた暫く歩き続けて、とうとう辺りには誰もいなくなった。
こんなに歩いたらもう見つからないんじゃないか。そう思った時だった。
「見つけた」
グリムの声がした。
彼が指さす先に目を向けると、それは小さな空き地にポツンと立っていた。
「さくら……」
そこには一本の大きな桜の木が生えていた。
満開の花は月光を浴びて白く染まっている。風に吹かれて散っていく花びらは、まるで雪のように地面を覆いつくしていく。
美しい光景にエースは息をするのも忘れてしまうほどだった。
「ここにする!ここがいい!」
グリムはエースの腕からぴょんと飛び降り、桜の木のもとへ駆けて行ってしまった。エースもその後を追うと、グリムはさかさかと桜の木の根元を一生懸命掘り進めていた。
「土だらけになってるじゃねえか」
「うるせーな、お前も手伝え」
顔からしっぽまでしっかり土で汚れてしまったグリムを横目に、エースも同じように穴を掘り始めた。
土まみれになって、少しだけ泣いている、親友の元半分。
グリムは、途中までは完全な生徒ではなかったとはいえ、最終的には立派に一人で卒業した。成績は悪かったが、それでもそんじょそこらの魔法使いと変わらない、むしろ秀でている魔法使いになった。グリムがちゃんと、そういう方法で監督生に報いたのをエースは知っていた。
グリムは成長した。知らない子供に自分のお菓子をあげるようになったり、魔法もエースにけがをさせるくらいならどうってことはない。きっとこれからは、もっといろんなことができるようになる。ユウが知らない場所で勝手に大人になっていくのだ。
(でも、いまさらだろ。そんなん)
どうにも持て余してしまった幻影を、この地に埋葬するためにエースたちはここまで来たのだ。二人の長い長い傷心旅行が、やっと終わろうとしていた。
「グリム」
「ん!半分くらいまで掘れたゾ!」
「いや、もう十分だよ」
エースが笑うと、グリムは少しだけ黙った。
そうしてすこし考えているようだったが、やがて納得したように頷き、どこからか取り出したあの錆びた缶切りを掘った穴の中央に、そおっと置いた。まるで世界一大切な宝物を扱うかのような、そんな動きだった。いや、きっとこれは比喩にはならないのだろう。こんなにちっぽけで古びたものが、今確かに二人にとっての世界一なのだ。
そうして二人で上から優しく土をかけた。ゆっくりと時間をかけて、土をかけた。とんとんと上から固めて、手を滑らせたら、もうどこに埋めたかさえよく分からなくなる。二人してずっと無言のまま、土を固め続けた。手を離すのが怖かったからだ。
「なあグリム」
「……」
「これで、もう二度とあいつは戻ってこないんだよな」
この時間が永遠に続いて欲しい気もしたが、そうやって惚けていても時間は経つし、お腹も空く。
そのうち隣からかなり大きめな腹の音が聞こえたので、エースはやっと立ち上がった。
「よし、帰るか」
***
「うわー、おっも」
帰りの汽車にギリギリで乗り込むとエースは荷物を大袈裟かつ乱暴に置いた。
「お前がお土産大量に買い込むからだぞ」
「エースだって途中からノリノリだったんだぞ!」
男二人旅の簡素な荷物はいつのまにかありとあらゆるお土産で大荷物になっていた。
大福煎餅、あんこと抹茶。旅の道中を思い出しながら土産を選べば、あれもこれもとついつい買ってしまうものだ。なんせこの国の菓子は全部美味しい。
だが流石にここまで買い込んでしまうと、財布的にはキツくなる。エースは薄給ではないが、それでも二人暮らしはなにかと金がかかるのだ。
「しばらく節約だなあ」
エースの言葉を聞いたグリムが露骨に嫌そうな顔をしたが、エースは無視した。そんな顔をしたところで、もう彼らはほとんど運命共同体なのだから、後始末は一緒にするのだ。
エースはこの旅でそれを嫌というほど自覚した。そしてそれを受け入れる覚悟をやっと持つことができた。あの消えてしまった魔女が繋いだ不思議な縁を、エースは繋ぎ続けることを選んだのだ。それも彼女とは違う関係で、エースなりのやりかたで、グリムと暮らしていくのだ。
グリムの方がどう考えているのかは知らない。でも、エースはもうグリムの側にいることを止めるつもりがない。
グリムはしばらくしかめっ面のままエースの方を全く見ようとしなかった。
だがやがてしぶしぶといった様子で口を開く。
「…ツナ缶、減らしてもいい」
グリムがぽそりと呟いたので、エースはたまらず笑い出したくなった。
前はそんなこと口が裂けても言わなかったのにな、お互いに。
いいよ、いいよ。そうやって生きていこうぜ、俺たち。お互い素直じゃないし、たおやかでもないけれど。
そうして明日も朝食を一緒に囲んで、俺が帰ってきたら一緒にテレビを見て、同じベットで眠って。晴れの日は洗濯したシーツに囲まれて、雨の日は本を読みながら昼寝をして。
喧嘩をして笑い合って、ホリデーには旅に出よう。
最愛のあの子が本当にしたかったこと全部を、俺らなりに、俺たちが叶えてやろう。
エースとグリムが列車から降りて、いよいようちに近づいた時、ちょうど近所の雑貨屋がセールをしていた。
二人は何も言わずにそこに入ると、新しくてまっさらな缶切りを、一つだけ買ったのだった。
***
「じゃあねグリム、さようなら。元気でね、風邪引かないでね。また変なもの食べちゃダメだよ」
「うるせーやつだな!分かってるんだゾ!」
「ふふ…ありがとう。君が居たから、私楽しかったよ」
「当たり前だ!」
「……ねえ、グリム」
「?」
「エースのこと、よろしくね」
おわり