夏を編む『オレ実は、吸血鬼なんだよね』
久々に見る、癖のある筆跡で書かれた手紙は、そんな尖りまくった言葉から始まっていた。
場地さんは今も生きていて、実は吸血鬼らしい。
ある日突然届いた俺宛の手紙には、そんなにわかには信じがたい内容が、白い便箋三枚に渡って書き綴られていた。
場地さんは血ハロで死んでなかったこと、その理由が吸血鬼だからということ、訳があってすぐには連絡が取れなかったこと、そして場地さんは現在、場地さんの母方の祖母の田舎で暮らしていること。
淡々と、落ち着いた文字が並ぶ手紙に冗談めいた雰囲気はない。
近況を綴る文章の最後には、今度の週末になったら会いに来て欲しいと一言だけ。
会いたい。
便箋三枚の中にうまく紛れ込ませた場地さんの本心を見つけた気がした。
でも書かれていたのは、たったそれだけ。
会って、どうしたいとか、肝心なことは何もない。手紙の締めくくりには、おそらく場地さんが今現在過ごしているであろう、馴染みのない都道府県の住所だけが記載されていた。
手紙を読み終えると同時に強烈な眩暈がした。
嘘だ。これは、タチの悪い悪戯だ。頭ではすぐにその手紙の中の場地圭介という存在を否定したはずだったのに、口からはかさかさに乾燥した笑いが漏れた。それも違う。「は」という情けない戸惑いの声が血迷って飛び出しただけだった。
てか何だよ、場地さんが生きてて、実は吸血鬼でしたって。
騙そうとするにしろ、嘘つくにしろ、もっとマシな方法は山ほどあるだろう。
場地さんは死んだ。それはどう足掻いても間違えようのない事実。
場地さんは確かにあの日、俺の腕の中で息を引き取ったんだ。
フラッシュバックする光景。怒号、憎しみ、苛立ち、舞い上がった土埃、血と、オイル臭さと、生暖かい人の体温。その中に一人力なく横たわるのは、俺が尊敬してやまない男の姿。
こんなのは嘘だと分かっているはずなのに、見慣れ過ぎてしまった懐かしい筆跡のせいで、震えが止まらなかった。
週末。
休日が始まると同時に、俺は半信半疑になりながらもひとまず手紙に書かれていた場所まで行ってみることにした。ひとまず、とは簡単に言っているが長旅になるのは容易に予想がついた。そもそも東京でも、関東でもない土地に行くのだ。必要なものだけを詰め込んだデイバックを相棒に、頼れる先のない一人旅には、惜しみない勇気が必要だった。
早朝の電車に乗り、高層ビルからマンションの立ち並ぶ住宅街を抜けてしばらく走ると、マンションのような建物は階層が低くなり、その代わり一軒家が増えてくる。景色の奥で背景として溶け込んでいた山がどんどん近づいてくる。一回目、二回目と電車を乗り継ぐたびに、窓から見える景色は人工的な建設物よりも、緑が増えて閑散としていった。
休日の郊外遠征を楽しむ観光客や登山客で混雑していた電車も、停車するたびに乗車する人よりも降車する人の方が多くなる。路線の分岐点で一度アナウンスが入った。
どうやら次の停車駅で登山目的の人は乗り換えなければいけないようだ。目的の駅に到着すると、それまで楽しそうに会話に花を咲かせていた登山客がほぼほぼ降りてしまい、車内は急に閑散としてしまう。
俺が乗り換える駅まではまだ少し時間があったが、電車はここでトンネルを通過しながら山を二つ越え、隣の県へと入るようだ。
移動時間は思っていた以上に何もすることがなかった。
ケータイを使い過ぎれば目的地に到着する前に充電が無くなる。本を読む趣味はない。だから俺は、長い時間を掛けて場地さんから送られてきた手紙を何度も読み返すことにした。癖のある文字を追い、凹凸のついた筆跡をなぞり、去年の十月を最後に会えなくなった場地さんへの懐かしい思いを馳せる。
電車の座席が乗り慣れないボックス席に変わり、駅に着くたびに自分でボタンを押して扉を開閉しなきゃいけない仕組みに変わり、そのうち古い民家もぽつぽつとしか見えなくなった頃になると、俺の中で場地さんは生きてる説が信憑性を持ち始めていた。
田んぼが一面に広がる田舎らしい原風景に見覚えなどもちろんない。窓の外に現れた真っ白な飛行機雲をぼんやり眺めながら、
「そうか、だから場地さんにはあんなに鋭い犬歯があったんだ」とか
「暗いところで喧嘩すると、たまーに目が光って見えたのは気のせいじゃなかったんだ」とか、
自分の知っている吸血鬼の特徴と場地さんの特徴を重ね合わせて、都合の良いように手紙の内容をほとんど信じるような形で受け入れていた。
時間に余裕を持って朝早く出発したはずなのに、電車を五回乗り継ぎ、手紙に書かれていた住所に一番近い小さな街の無人駅に降り立つ頃には、すでに陽が傾き始めていた。乗り換えが一度だけうまく行かず、そこからなし崩しに時間が押してしまったのだ。
駅前で夕食をとりながら、この住所の付近には何があるのか、どこら辺にあるのかを誰かに聞いて見るという計画は二つの理由からすぐに打ち砕かれる。一つは時間がないということ、そして二つ目は、都会では当たり前に存在する駅前のコンビニはおろか、歩く人影すら見当たらないということ。
これが田舎なのかと愕然としたが、気を落としている暇などない。
ここから場地さんの手紙に書かれている住所の近くへ行くには、さらにバスに乗らなければいけなかった。
ロータリーというか、車寄せ程度のスペースを設けた駅前の広場。そこに一つしかない錆びついたバス停の時刻表には、一時間に一本、もしくは二時間に一本のペースでしかバスが来ないことが書かれていた。すかすかの時刻表がなんだか寂しい。でもここまではもちろん事前に調査済みである。時刻表と同じくらい錆びたベンチの横に立ち、長い旅路を労うように一息ついて空を見上げた。
大きい。
両手を目一杯伸ばしても抱えきれないほど、雄大な空の景色が広がっている。建物に遮られることなく視界すべてを埋め尽くものを東京で見る事は中々出来ない。頭上では一番星が白く輝き始め、目の前に見える折り重なった山々の隙間からは暗闇が顔を持ち上げている。昼と夜が入れ替わる瞬間をここまでじっくり観察したことはない。
なんだか、すごいところに来てしまった。
そんなことを考えていると、予定時刻と同時に目的のバスがゆっくりとロータリーに入ってきた。
「今日はこれが最後だよ」
バス、というかワゴン車ほどの大きさのマイクロバスだった。年代物の車を大事に乗り回しているような感じで、白い外装に村役場の名前が印字してあったが、読み方は分からない。バス停から少し飛び出すような形で止まり、前扉が開いた。そこから乗り込めば、訝しげな顔をした初老の運転手が俺に向かって短く告げる。
「お金、そこに入れて」
そこ、と指示されたのは運転席と助手席の間に固定されている小さな木の箱だった。賽銭箱のような四角い形をしていて、よく見れば黒くかすれた字で【運賃はこちら】と側面に書いてある。当たり前だがカードの類は使えず、俺は先に用意していたお金をその箱に落とし込んだ。
「最後だけど、大丈夫ですかね」
念を押すようにもう一度聞かれた。その間も運転手は俺のことを、上から下まで視線で何度も往復もしながらきっちりと確認していて、いかにも怪しんでいた様子だったが「何しに来たの」とは聞かれなかった。聞かれても、どう答えたらいいのか分からない。
「何が最後なんですか?」そう聞き返した俺に、初老の男性は少しだけ驚いた顔をして見せた。そして思い出したように語尾を柔らかくして「今日のバスの運行はこれで終わりなんですよ」と言った。
ああなるほど。この人は見慣れない観光客らしき俺に、このバスに乗れば帰りのバスは無いということを伝えたいらしい。
このバスがどこまで行くのかは知らないが、でも途中で場地さんがいるはずの住所の近くまで行くことは知っている。
いまさら帰りのバスの心配をして「じゃあやめます」なんて言うはずがない。
俺は場地さんに会うという信念だけでここまでやって来た。
場地さんが生きていることを、この目で確かめなければ一生後悔する。
「大丈夫です、乗ります」
頷き、バスに乗り込む。平然と答えたが、心の中ではこの先の期待と不安が混じって染み出すような恐怖さえ感じていた。
「シートベルトだけしてくださいね」
バックミラー越しに運転手と目が合う。ため息のような空気を吐き出しながら静かに扉が閉まった。
俺だけを乗せたバスはゆっくりと動き出し、夕暮れに染まる田舎道を走りだした。
◇
長かった梅雨が明け、ジメジメした鬱陶しい暑さから本格的に茹だるような夏の暑さへと季節が変わり、一息ついたと思ったらあっという間に夏休みが始まっていた。
八月の頭。
中学三年生、義務教育最後の夏休み。
場地さんのいない、俺にとって初めての夏休み。
場地さんが血のハロウィンで死んでからもうすぐ一年が経とうとしていたが、俺の生活には場地圭介の影が色濃く残ったままだった。
右隣が常に寂しい。何をするにも納得できる終わりが見つからず、どこかがいつも満たされないもどかしさがあった。ピースが一つ足りないと分かっているパズルを、永遠に組み替え続けているような虚しい気持ちを言語化しても、おそらく周囲からは同情される事はあっても理解されない。
場地さんは中二の十月三十一日でその短い生涯を終え、そして十五歳の誕生日を迎えた日に小さな小さな骨壷に入れられて帰ってきた。それは俺も、マイキー君も、ドラケン君も、タケミっちも、あの時あの場所にいた奴ならみんな知ってる。
俺は涼子さんをはじめとする場地さんの家族のご厚意で、納骨するところまでしっかり同行させてもらっていたから、あの日確かに、場地さんがあの墓の下に納められたのをこの目で見ていた。
場地さんが生きてるはずがない。
それを俺自身が一番よく理解していた。
心配する周囲をよそに、俺は全てが終わった翌日からあっさりと日常生活に戻った。気を揉んだ母ちゃんが、しばらく休んでもいいと言ってくれた学校にだって行ったし、少しいざこざはあったが変わらず集会にも参加していた。俺よりもあの日のことを引きずっていた奴は意外と多く、必要があればそいつらのケアに回る事だってあった。「千冬は強い」と誰かが言った。聞いていた周りも口を揃えて同調する。俺はそれを肯定することも否定することも出来なかった。
心の隙間はその頃からちょっとずつ、俺を蝕んでいたのかもしれない。
一週間経っても、一ヶ月経っても、四十九日が過ぎても、場地さんは死んだのではなく、この世界のどこかにいて会えないだけのような気がして仕方なかった。
俺はちっとも強くなんかない。
不器用で頑固な俺は、世界中の誰よりも、人の、場地さんの死を簡単に受け入れることが出来ないでいただけだ。
そんなタイミングであの手紙が届いた。
場地さんは生きている。
そうじゃない。
お願いだから、生きていて欲しい。
◇
「──さん。お客さん、着いたよ」
運転手の声に、俺はいつの間にか眠っていたことに気が付いた。
途中までゆっくりと浮上した意識を叩き起こし、慌てて寄りかかっていた窓から体を引き剥がす。橙色だった窓の外の景色は、ほぼ黒一色にまで変化している。うっすらと輪郭を見せていた一番星も二番星もすでに立派に輝いていて、はっきりと見えていた山々の形は黒に溶けて境界線が薄くなり、空がさらに近くまで降りて来ていた。
バスが止まったのは、民家の明かりがポツポツと見えるだけの小さな集落の入り口だった。
荷物を持ち、バスを降りる。
「明日は七時にバスが来るから」
運転手は最初に出会った時と同じように、少しだけ怪しむような視線を俺に向けると返事を待たずにバスの扉を閉めた。
バスのヘッドライトが何もない畦道を真っ直ぐに照らす。
ぶるるる、と咳き込むようなエンジン音を響かせながら、土煙を巻き上げてバスは走り去った。
電柱という電柱もろくにない、田んぼのほぼ真ん中に取り残された俺は、持っていたケータイの明かりを頼りに、場地さんからの手紙をもう一度開いてみる。
年季のこもったバス停に書かれた住所と手紙の住所を見比べれば、最後の数字以外は一致していた。
周りに建つ民家は多くない。
この手紙が本当だとすれば、ここのどこかに場地さんはいる。そうでなければ誰がなんの目的で俺に手紙を出したのか見当もつかない。
もし場地さんが生きてくれているなら、吸血鬼だって何だっていい。会いたい。
肺を締め付けるような緊張と、断続的に続く得体の知れない少しの恐怖。
点々とする民家の明かりを目印に踏み出した一歩目の足音は、胸騒ぎに近い心臓の鼓動でかき消された。
なんとなく目について最初に足を運んだのは、いかにもらしい瓦屋根の大きな一軒家だった。
テレビや映画でしか見たことがないような昔ながらの古民家という感じで、実際にはそこまで古くはないのだろうが、知識の乏しい俺が「田舎の家」と聞いて最初にイメージしたまんまの家だった。
家の周囲には土地の境界線を示すように、膝の高さくらいまでの申し訳程度に積み上げられた石垣が取り囲んでいる。家の正面、玄関の左右に広がる庭の右側には、とにかく良く目立つ巨大な桜の木が一つ幅を利かせてドンと構えていた。俺がなんとなくこの家を訪ねようと思ったきっかけも、実は最初に目に入ったこの桜の木が気になったからだ。
街頭もなく、完全に陽が落ちてしまい庭の全貌を知る事は出来ないが、家全体の外観を木々の重なる黒い影が遮っている感じからしても、東京ではそう簡単に見かけることのない相当大きな家だと結論付けた。
家の横、桜の木の奥には、同じくらい年季の入った納屋も見える。その入り口をぼんやりと裸電球の二つの光が爛々と照らし、その周りを土色の蛾が数匹飛び回っていた。蛾も含め、都会の団地で育った俺とっては何もかも規格外のデカさだ。
ここの家には金持ちかもしくは地主か、そういう類の人間が住んでいるのだろうか。そう思うと別の意味で緊張する。
人気のない無人駅から三十分以上かけて来るような場所で、こんな時間に見ず知らずの子供がいきなり尋ねて相手にされるだろうかと今更不安になってきた。下手すれば不審者扱いされて警察を呼ばれたっておかしくない。
色々な考えを巡らせていたら、この家はやめておこうかと怖気付いてしまった。別の家はどうか、と周辺を見渡すと少し離れたところにも民家があり、その家にも明かりは灯っていた。その場で目を凝らし、数回視線を行き来しながら見比べた。そして理解する。
目の前の家が特別大きいわけではなく、この集落の家はおそらくどこもそんな感じの造りになっているのだと。そういえば電車から眺めていた家々も、郊外へ向かうにつれて縦に階数を重ねる代わりに横に幅広くなっていたような気がする。
それなら行くしかない。
デイバッグを背負い直し、それとなく身なりを軽く整えると、俺は意を決して目の前の家を訪ねる決心を固めた。
家の敷地に入るための道が少し坂になっていて、コンクリートで舗装された緩やかな傾斜をのぼる。地面に敷き詰められた砂利が大袈裟に音を立てて鳴り、今さっき決意を固めたばかりの心を揺らがせた。
一歩足を進めるたびに、気持ちは一歩引いていくような感じ。
それでもどうにか坂を上がりきり、玄関に近づく。
玄関の明かりが灯っていた。
茶色い壁と明かりのわずかな隙間には埃をかぶった蜘蛛の巣があった。てっぺんが黒く煤けている裸電球が爛々と、見たことも聞いたこともない苗字が書かれている立派な木の表札を照らしている。
場地、ではない。
その時点ですでに気持ちが折れそうだった。
大丈夫、聞くだけ。
この辺りに、俺くらいの歳のケースケって男の子はいませんか。砂利を踏みつけながら坂を登り、何度も練習した文言を頭の中で確認する。
鳴るのか鳴らないのかも分からない、古びた呼び鈴に指を這わせた。
すると、モザイクのガラス戸になっていた玄関の奥で明かりがともり、大きな人影が動くのが見えた。
え、人がいる。
思っていたよりもその距離が近すぎたせいで、驚いて思わず指に力を込めてしまった。微かに家の中に響く、ピンポン、という軽快なチャイムの音。
当たり前ながら玄関の人影がこちらに近づき、「はーい」という声と一緒に玄関から顔を出した。
「こ、コンバンハ!」
「あれ、千冬じゃん」
「ば、ばばば…」
場地さん。
ひょっこり。
そんな効果音とともに俺の前に現れたのは、散々会い焦がれていた、場地圭介だった。