「梅雨」 五日も続いている雨は今日もまだ降り止まず、湿度の高さにうんざりしながら、千冬は部屋干ししていた洗濯物を畳んでまとめた。
ちらりと背後を振り返ると、一虎はリビングのラグの上で、ペケJと並んでぐったりと俯せに転がっている。
一虎の分も含まれたら洗濯物を抱えて寝室に向かう途中、千冬はわざと一虎の背中を踏んだ。
「邪魔」
「……」
しかし反応がない。いつもなら、痛いとか何でわざわざ踏むんだよとか、大袈裟なくらいわぁわぁ騒ぎ立てるのに。
(あ、今日は駄目な日だ)
呻き声すら漏らさない一虎の反応を見て、千冬は即座に相手の状態を把握した。
ペケがぐったりしているのはきっと湿度と低気圧のせいだが、一虎がやられてるのはメンタルの方だ。
たまにこんな日があるのを、一緒に暮らし始めて三年、千冬はよく知っている。
過去の色々なことを思い出しては、心も体も押し潰されそうになって、うまく息が出来ないくらいになっているのだ。
(じゃ、甘やかそ)
洗濯物を一旦ソファの上に置き、千冬は一虎のそばに両膝をついて身を屈めた。
「一虎君、今日は何食べたいですか」
耳許で訊ねる。返事はない。
それ以上は呼びかけず、根気よく待っていると、やがて掠れて消えいりそうな声が聞こえてくる。
「……何でも」
「じゃあ一虎君の好きなエビグラタンか、一虎君の好きなジェノベーゼパスタか、一虎君の好きな親子丼か……」
「……露骨に機嫌取るなよ」
千冬のあからさまな阿諛に、一虎は不機嫌な声を漏らした。低くて殺気立った、なのにどこか力ない、変な声音だった。
「取りますよ」
勿論千冬はそんな一虎の声など怖くもなくて、もう少し身を屈めて、一虎の耳にちゅっと音を立ててキスをする。
「一虎君元気ないと、嫌だし」
『面倒臭くて』嫌だし――という前置きをわざと省いて言って、さらに髪をソッと撫でてやる。
「……あ、そ……」
鬱陶しそうな返事は、でももう、ずいぶん機嫌のいい響きになっている。
(たーんじゅん)
再会して二年くらいは羽宮一虎という男に関して「何て扱い辛い奴だろう、拾うんじゃなかった」とか「今からでも捨てよう」と数ヵ月にいっぺんくらい思っていたが、この一年は「むしろ扱い易すぎる部類なのでは……?」という気付きを得ることの多い千冬だ。
「一虎くーん」
甘えた声を出して、頭や額や首筋などにちゅっちゅと唇をつけていると、一虎がもぞもぞ身動いだ。
両腕で床を押して起き上がり、こちらに顔を寄せて来ようとする一虎を、千冬はわざとらしく寸前で避けた。
「ペケも」
そして一虎の隣で寝ている黒猫の頭にキスをする。
「…………………………」
一虎は再び床に突っ伏し、ペケJはあからさまに迷惑そうな顔をして、どこかに行ってしまった。
「……もういい……千冬なんて嫌いだ……」
不貞腐れて言うと、一虎は床の上で今度は丸くなった。
それでも力なく俯せになっていた時よりも、まぁまぁ元気そうだ。
「はいはい、可愛い可愛い」
よしよし、と頭を撫でる千冬の腕を、一虎が邪険に払う。
千冬はちっとも気にせず、その手を捕まえて、もう一回一虎の目許辺りにキスをした。
「俺は一虎君大好きですよ」
「……」
ニヤッと、一虎の唇の端が、堪えきれずに持ち上がったのを千冬は見逃さない。
「一虎君は俺のことを嫌いかもしれませんけどォー、俺は一虎君のことが大好きですのでェー」
わざとらしく大声で言ったら、一虎が観念したように起き上がった。
「……俺も千冬が大好きです。申し訳ありませんでした」
殊勝に頭を下げる一虎に、「ま、もう大丈夫か」と内心で安堵しながら、偉そうに頷いて見せる。
この三年間の教育の成果は目覚ましい。少しくらい誇ってもいいだろうと、千冬は自画自賛する。
「洗濯物しまったら夕飯の支度をしますから、できるまで一虎君はまた寝てていいですよ」
「……明日はちゃんと家事する。今日の分は、ごめん」
本来は、今日の食事当番は一虎だ。
「一虎君雨の日苦手ですもんね」
そういうことにしておいてやる。
最初の頃は、具合が悪いのかとか、何か思い詰めているのかと声をかけて、余計に一虎を追い詰めてしまうことばかりだった。こっちは心配してやってんのにその態度は何だテメェと喧嘩になることも多かった。
今はもうちょっと距離感がわかる。三年の月日というのはそういうものだ。
「……ありがと」
小さな声で呟く一虎の背中をポンポンと叩いてから、千冬は再び洗濯物を手に取って、立ち上がった。
さて夕飯は結局どれにしようかなと考えるのは、千冬にとっても割合幸せなことだった。