ソファでのんびり、だらだらと映画を観ながら酒でも飲もう――というつもりだったのだが。
まったく千冬の想像どおりにはいかなかった。まず「ソファでだらだら」が不可能だったのだ。先に千冬が三人掛けのソファの中央からちょっと左寄りに座り、一虎もまあ右寄りに座るだろうと予測していたのに、右寄りどころか右端に身を縮めるようにして腰を下ろしたのだ。
「一虎君、もうちょっとこっち来て大丈夫ですよ」
「いや……」
一虎はそれだけ言うと黙り込み、いかにも「千冬の邪魔になってはいけない」というふうに小さくなっているので、千冬は困惑した。
もともと休日にペケJと一緒にゴロゴロするつもりで、一人暮らしの頃に購入したソファだ。いっそ二人掛けなら妙な空間など作られず、つかず離れずの距離で座れたかもしれないと、今さらどうしようもないことを千冬は後悔する。
(まさか一虎君と同居するなんて思ってなかったからなあ)
場を和ませてくれそうなペケJは未だに一虎に慣れず、彼が居間に居る時は滅多に姿を見せない。今も千冬の部屋で寝ているだろう。
借りてきたDVDを千冬が再生しても、一虎はソファの隅で緊張感を滲ませたまま座り続けていた。
(どうしたもんか……)
千冬まで気になって、一虎の座っている側の肩に妙なプレッシャーを感じてしまい、ちっとも映画に集中できない。
「えっと、酒、何飲みます?」
映画を観ているのだから黙っていたって何の問題もないはずなのに、沈黙を持て余して、千冬は一虎に呼びかけた。缶のビールや酎ハイ、つまみなどを買ってきたのに、ソファ前のテーブルに並べたまま手つかずだった。
「オレは、何でも」
「じゃ、とりあえずビールからにしましょうか」
「……うん」
頷く一虎に、妙な間があった。まあこの人がボソボソ喋るのなんて今さらだしと一虎はあまり気にせず、缶ビールをひとつ一虎に手渡す。自分も一本取って蓋を開け、ビールを喉に流し込んだ。そういえば酒を飲むのは久々だ。元々一人で宅飲みはあまりやらない方だし、一虎を部屋に迎えてからは一度も飲みに出かけたことがない。
(自分ちで誰かと飲むとか、学生時代ぶりじゃね?)
まさか一虎と酒を酌み交わすようになるなんて、その学生時代は想像もしていなかった。
それを言うなら、同居自体、想定の範囲外のことなのだが。
(中学時代のオレに言ったって、絶対信じないだろうな)
などということを考えてしまって、やはり映画の内容がなかなか頭に入ってこない。
テレビの画面には、妻を亡くした偏屈な老人が一人寂しく田舎の古びた民家で暮らす様子が淡々と映し出されている。もう少しわかりやすく笑えるやつにすればよかった、とまたひとつ後悔を重ねながら、千冬はちらりと自分の右側を見遣った。
「……、……」
「えっ、一虎君、大丈夫です?」
一虎の顔があまりに赤くなっていることに気づいて、千冬はぎょっとなった。
「……大丈夫……」
顔だけじゃなく、耳も首も、手まで真っ赤だ。
「あれっ、ビールだけですよね? そんな飲んだ?」
慌てて一虎の手にするビールを取り上げるが、中はまだ半分近く残っている感じがする。
「アンタそんな酒弱かったんですか?」
「わかんね……飲んだの、はじめて」
「え!?」
さらに驚いて千冬は声をあげた。
「はじめてって、はじめて?」
「……出てきたばっかじゃん、オレ……」
「いやオレんち来るまで、何ヵ月かあったでしょ? ドラケン君たちと会ったりもしてたじゃないんですか?」
ドラケンからそう聞いている。一虎の出所祝いに、三ツ谷やパーちんやぺーやんたちで一席設けたと。
「あれは、特に打ち解けて飲み会ってふうでもなかったし……それに自分が飲めるかどうか知らなくて……万が一アイツらにまた迷惑かけたら悪いし……」
そう説明しながら、一虎は頭をぐらぐらさせている。たかがビール一本足らずですっかり酔いが回っているようだった。
(オレもだけど、場地さんとかマイキー君たちも酒はやらなかったし、マジで初めてだったのか)
まさかビールごときで急性アル中なんてことはないだろうが、それにしても一虎は笑えるくらい全身赤い。
「もうやめときましょう、こっちのお茶飲んで」
「んー……」
ビール缶の代わりに烏龍茶のペットボトルを差し出すと、一虎は素直に受け取って、それに口をつけている。
千冬の方は、二本目のビールに手を出した。
元々集中していなかったし、一虎と話していたせいで映画の内容はさっぱりわからず、つまみのナッツやらサラミやらを適当に食べつつ「いっそもう一本のDVDと変えようかな」などと千冬が考えていた時。
肩にコトンと何かが乗って、目を向けるとそれが一虎の頭だったから、千冬は再びぎょっとした。
「――一虎君?」
なぜかやけに緊張して、千冬は視線だけ一虎の方に向けながら訊ねる。
「……」
一虎は応えない。
どうやら酔い潰れて眠り出してしまったようだ。
(え、これ、どうすりゃいいの?)
顔は相変わらず赤いものの、変に呼吸が乱れたりはしていないから、眠たいのなら寝かせておいた方がいいのだろうが――こっちに寄りかかってしまったなんて、気づいた時に本人が気まずいのではないだろうか。
起こして部屋に戻るように促すべきか、それともこのままソファで寝かせてやるべきかと迷っている間に、一虎の体がさらにグラッと傾いて、千冬の方に倒れ込んでくる。
一虎は千冬の肩に頭を乗せるどころか、一虎の膝を枕にする恰好で、横向きに倒れてしまった。
おそるおそる見下ろすと、その衝撃で目を覚ます様子もなく、一虎は目を閉じて、すうすう小さな寝息を立てている。
「…………」
相手が眠っているのをいいことに、千冬は一虎の顔をまじまじと眺めてみた。
この三ヵ月、同じ家で寝起きして同じ店で働いているというのに、千冬が一虎の顔をしっかり間近で見るのは、これが初めてだ。
一虎はいつもどことなく俯いて、ずっと千冬と目を合わせないようにしているから。
(目ェ閉じててもツラがいいのはわかるもんだなあ)
目許のホクロを指でつついてみても、一虎は起きない。
(髪はもう染めないのか?)
床屋や美容院に行った様子もないから、一虎の髪は黒いまま伸びっぱなしだ。生体を扱う時に危ないからピアスだけ避けてくれれば髪型も服装も自由ですよと言ってあるが、一虎は言われる前からピアスは外し、首のタトゥーはタートルネックで隠し、髪はきちんとゴムで括って、服装も地味で動きやすいものを身につけている。
(……そこまで遠慮しなくていいのに、別に)
一虎は中学時代とはまるで別人のようだ。十年も経っているのだし、居た環境が環境だから当然なのだろうけれど。
(小さくなって過ごしてほしくて、ここに居てもらってるわけじゃないんだけどな)
そんな話も、一虎とはまだできていない。一虎は多分なぜ千冬が自分を雇ったり同居を提案したりしたのかがわからず、ずっと戸惑いっぱなしなのだろう。一緒に働きましょうと言った時には、まるで死刑宣告でもされた時みたいな顔をしていた。怯えつつも罪を受け入れて覚悟を決めた、みたいな。復讐のつもり、もしくは監視のつもりで声をかけたと思われているのがわかって千冬は落胆した。
(そんな悪趣味じゃねえ、っての)
ムカつくくらい整った顔を眺め、鼻だの頬だのをつついてみる。くすぐったいのかうざったいのか一虎の眉間に微かに皺が寄るものの、まだまだ起きる気配はない。
(笑えよ)
さっきレンタルビデオ屋で見た笑顔は、幻だったのだろうか。
(懐いてくれたらいくらでも尽くすよ、オレは)
ペケが膝に乗っている時そうするように、千冬は一虎の頭に手を置いて、そっと髪を撫でた。
映画の内容はますますわからず、それよりも一虎の顔を見ている方が楽しいので、千冬は気の向くままそうする。
飽きもせず一虎の寝顔を眺めつつ頭を撫でている間に、いつの間にかペケが居間に入ってきたと思ったら、身軽にソファの上に上り、さらに一虎の脚の上にまで辿り着いた。
酔って寝ている一虎があまりに無防備だからだろう、ペケはいつものような警戒心をまったく見せず、一虎の腰のあたりにのびのびと体を伸ばして目を閉じてしまった。
「……ッ」
どうしてスマホを手許に置いておかなかったのかと、千冬はこれまた今日三度目の後悔をした。こんな可愛いものを画像や映像に残せないなんて一生の不覚だ。しかしちょっとでも動けば、一虎はともかくペケはすぐにどこかにいなくなってしまうだろう。
せめて自分の目にだけでも焼き付けよう――と思っていたら、不意に、一虎の瞼が開いた。
一虎はのろのろと千冬を見上げてたかと思ったら、自分の置かれた状況、つまり千冬の膝を枕にして寝ているということに気づいたらしく大きく目を瞠る。千冬は反射的に自分の唇に人さし指を当てて「シッ、動かないで」と小声で言った。飛び起きようとしていたらしい一虎が、わけもわからず目を瞠り、言われるまま体を硬直させている。
「一虎君、そこ」
千冬が指さす方を、一虎が視線だけで見る。
ペケJが自分の体に乗っているのを見た一虎が、大きく目を剥いた。
「……ッ!!」
「はいはい騒がない、動かない」
身振り手振りで驚きを表そうとしている一虎の手を押さえて、千冬は笑いを噛み殺した。さっきの自分もこんな感じだったのだろう。
一虎は千冬を見て無言でペケを指差し、次にはペケを見て、再び千冬を見上げて口をパクパク動かした。多分「ペケが」とか「オレの上に」とか言っているのだろう。
「うんうん。よかったですね」
千冬が小声で囁くと、一虎がパッと笑顔になった。
「――」
ひどく嬉しげに笑う一虎は、もしかしたらまだ酔っ払っているか、寝惚けているかしているのかもしれない。
千冬は四度目、やっぱり手許にスマホがないことをひどく悔やんだ。
(めちゃくちゃいい顔で笑うじゃん)
よほど嬉しかったのだろう。千冬までつられて嬉しくなってしまって、ついつい、さっきまでそうしていたように、一虎の頭を撫でてしまった。
「よかったですねえ、一虎君」
「……」
パタッと、一虎の顔から笑顔が消えた。
どうやら正気に返ってしまったようだ。
(あ、勿体ねえ)
余計なことをしなければよかったとは思ったが、千冬が五度目に悔やむことはなかった。
一虎はペケが乗っているからだろう、慌てて千冬から離れるようなこともなくその場でじっとしている。
そしてその顔は、酒を飲んだ時以上に、赤くなっていた。
「ご……ごめん……」
青くなられたらショックだっただろうが、赤くなっているのならまあいいか、と思う。千冬は狼狽して動揺して赤面している一虎を見下ろして、また笑いを噛み殺す。
「いえいえ。せっかくペケがいい気持ちで寝てるみたいだから、じっとしててくださいね」
「わ、わかった……」
ペケJ様々だ。一虎は自分の遠慮や申し訳なさよりも、ペケの居心地を優先して、身動ぎできない。
「……せっかく映画観てたのに、寝ちゃって」
消えいりそうな小声で一虎が言う。千冬は妙に開き直ったような気持ちになって、一虎の頭を撫で続けた。
「いいですよ、オレもろくに観てなかったし。一虎君見てた方が面白くて」
「……?」
オレなんか見てて何が面白いんだ、と頭を悩ませている様子がありありとわかる。内心首を捻っているのだろう一虎を見下ろして、千冬は笑った。
笑った千冬を見て、一虎がまた目を見開いている。
「ん? 何です?」
「……いや……千冬が笑ったの、初めて見たから……」
「は? オレ、しょっちゅう笑ってません?」
そこまでこっちの顔を見ていなかったのかと、千冬はまた落胆しかけた。
「そりゃ、客に対してとかは普通に笑ってるけど……」
「一虎君に対しても笑いかけてるつもりですが?」
「……気、遣ってるだろ」
「え?」
「……笑わなきゃって。笑わないとオレが緊張するとか、遠慮するとか……すげぇ、考えてくれてるの、わかって」
「……」
「申し訳なくて……」
ああ、そうか、と千冬は今さら納得した。
そうか、遠慮して、笑えていなかったのはオレも一緒か。
「だから今……あ、さっき、ビデオ屋でも、笑ってくれたの、嬉しかった……」
「……そっか」
もう一度、千冬は小さく笑う。
「お互い遠慮しすぎですね、オレら」
一虎の唇が「ごめん」と言いそうなのを見て取って、千冬はその唇を指先で塞いだ。
「一虎君とペケを見下ろしながら酒を飲むの、結構気分いいんで。眠たかったらそのまま寝ちゃってください、一虎君死んだみたいに寝るから、ペケも居心地いいだろうし」
「……うん」
頷く一虎の瞼も、千冬は指先で右、左と閉じていく。
最後に何となく右目の下のホクロに触れたら、一虎の目尻が震えた。
瞼は閉じたままだったが、一虎がちっとも眠ろうとしていないのは、体の緊張ぶりでわかる。
(寝ろって)
千冬はまた一虎の頭を撫でた。
しばらく時間は掛かったが、次第に一虎の体から力が抜けていって、もう一度ちゃんと寝入る様子を、千冬はずっと眺め続けた。
そのうち千冬の方も眠たくなってきて、一虎の頭に手を置いたまま、いつの間にか眠ってしまった。
せっかく借りたDVDの内容は少しも頭に入らなかったが、千冬は一虎との同居を開始してから初めて、ずいぶんと満たされた気持ちで夜を過ごした。