「あのさっ、羽宮さん、これあげるね」
「あ、チョコ? ありがと、嬉しいな」
さりげなさを装いつつも顔を真っ赤にして小さな可愛らしい紙袋を差し出す女子高生と、相手に愛想のいい笑顔を振りまくペットショップの従業員。
――という図を、千冬は今日は朝から何度も目にしている。これで五度目、いや、六度目か?
(すげぇ、上っ面の笑顔)
朝一番は出勤前のOLだった。次は何の仕事をしているのかわからない三十代くらいの女性。昼休みにはいつもコンビニで見かける大学生くらいの年齢の子と、そのあとはママと一緒に来た幼稚園児、さっきは二人連れの女子高生で、今はこの女子高生。
「おっ、お返しとか、いらないからね」
相手は一生懸命何でもないふうに振る舞っているけれど、まあ、ガチで惚れてんだろうなあというのは、松野店長のみならず、ケージの中の仔猫にもわかるだろう。
「いや、せっかくお客さんにもらったんだから、ミミちゃんのお姉ちゃんにもちゃんと返すよ。来月、忘れてなかったらまた来て」
返す一虎の方は、お客さん、ペットの名前+お姉ちゃんのコンボで、「義理だよね、ありがとう」という空気を押し出している。
それでも無理矢理作って貼りつけたような一虎の笑顔は、バレンタインデー当日の女の子には、やたら煌煌しく見えるのだろう。女子高生はさらに真っ赤になっている。
「ねえねえ、店長さん」
店の隅で繰り広げられるバレンタイン劇場をレジカウンターの向こうから眺めていた千冬は、エプロンを引っ張られて、いつの間にかランドセルを背負った女の子が自分の隣に立っていることに気づいた。
「あれ、サキちゃん、いらっしゃい」
定期的に金魚の餌や水草を買いに来る小学生だ。手招きされて、千冬は女の子の前にしゃがんだ。
「これね、あげる」
ハートをたくさん散らした包装紙とリボンで飾られた、小さな箱を、女の子から手渡される。女の子が、千冬の耳許に口を寄せた。
「内緒だよ、私のチョコ欲しがってる子たくさんいるから、店長さんがもらったってわかったら、いじめられちゃう」
真剣に囁く女の子に、千冬は笑って頷いた。
「わかった、内緒だね。ありがとうサキちゃん、来月お返しするね」
「十倍返しとかはいいからね、三倍くらいで。店長さんのお小遣いなくなっちゃうからね」
そう告げてから、次の男子にチョコを渡しに行くのか慌ただしく駆け去って行く女の子のランドセルを、千冬は微笑ましい気分で見送る。
――と、未だに女子高生と向かい合っている一虎が、視線だけ自分の方を見ていることに気づいた。
一虎は、「うわぁ……」と音には出さない声で呟くような顔をしていた。
(何だ、そのツラ)
千冬は噴き出すのを必死に堪え、カウンターの拭き掃除をする振りで顔を伏せた。
◇◇◇
「はいこれ、やるよ」
店を閉め、夜になって家に戻ってくると、一虎がダイニングテーブルにバラバラとチョコレートの入った箱やら袋やらを広げた。
結局閉店までに店に訪れた女性の数は、多分、十人以上になった。チョコレートの数がそれ以上あるのは、店のポストに入っていたのやら、帰り道で呼び止められて渡された分もあるからだ。
「オレ甘いものそんな好きじゃねーし」
一虎は何か、仏頂面をしている。
千冬は笑いを噛み殺しつつ、頷いた。
「オレも特に好きなわけじゃありませんけど。まあ、ありがとうございます」
店ではひたすら愛想笑いを浮かべていた一虎は、シャッターを下ろした瞬間からずっと不興顔だ。
「苦手なのに受け取ってくれたんですね。こんな、山のように」
上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら千冬が言うと、一虎もジャケットを脱いでソファに投げ、自分も身を投げ出すようにそこに腰を下ろしている。
「一虎君バレンタインのこと滅茶苦茶バカにしてたじゃないですか、企業の戦略なのに踊らされてるヤツはアホだとか、どこ行ってもピンクとハートばっかりでうんざりするとか。てっきり、もらったところで適当に断ると思ってましたよ」
一緒に外を歩いている時、バレンタインの看板やら飾り付けやらを見るたび、一虎は悪し様にそんなことばかり言っていた。余程バレンタインに嫌な思い出でもあるのか、あるいはまったく思い出がなさすぎるのかは知らないが。
そう千冬が言うと、一虎が小さく溜息をつく。
「客商売なんだから、断ったら感じ悪いだろ。それで常連さんがいなくなったら怖いし……ホワイトデーに一律で当たり障りないもの返しておけば、こっちは義理だってわかるだろうし」
「うちの店のこと考えてくれてるんですね、ありがとうございます」
「……まあ、従業員だからな」
一虎はひたすらブスッとしている。
千冬は電子ケトルで湯を沸かし、コーヒーを淹れる準備を始めた。食事は帰り道ですませてきた。そこでも一虎はチョコレートをもらっていた。千冬もだが。
(オレも何でか、去年より増えたなあ)
若い店長、それもペットショップというのは、多分取っつきがいいのだろう。店を始めた当初から、こういう日には真面目な色恋というよりも、陣中見舞いというノリで、差し入れをもらうことは多かった。
しかし一虎が従業員として働き始めた今年は、その数が飛躍的に増した。一虎にあげるついでに店長にも、ということだろう。実際、「とらぴだけじゃ可哀想だから、店長にもあげるね」と、ありがたい言葉と共に中学生女子から義理チョコをいただいたりもした。
バレンタインデーだけではなく、クリスマスやら、正月やら、盆の帰省のお土産やらを貰う機会が多いので、千冬はあまりこだわりなく誰からでも全部受け取ることにしている。代わりに、ペットフードの試供品や、猫の写真を使ったカレンダーを渡せば、それで喜んでもらえるとわかっているからだ。全体的に義理の応酬だと承知している。
「……千冬は、食べんの? もらったやつ」
しかし一虎の方は、何か言い辛そうな顔で、もぞもぞと、そんなことを訊ねてくる。
「食べないと思ったのに、自分の分をオレにくれたんですか?」
千冬が地の悪い返しをしてしまったのは、たとえ客相手だから仕方なくとわかっていようと、女の子から笑顔でチョコを受け取っている姿を見るのはちょっとだけ面白くないから――では、ない。断じてない。ちょっとからかおうと思っただけだ。絶対そうだ。
「……そうじゃないけど。ただ、聞いただけ」
だって一虎みたいに嫉妬丸出しでいたら、恥ずかしい。
「中に余計なものが入ってなさそうなのは割と好きだから避けておいて、食べきれない分は母ちゃんとことに持って行ったりしてますよ」
「……ふーん」
一虎はソファに背中を預け、疲れたように天井を仰いでいる。
千冬はコーヒーを淹れると、一虎の分だけ手にしてソファに向かった。
「気疲れしてますねえ。せっかく女の子にモテてるんだから、食べないにせよもっと喜べばいいじゃないですか」
千冬がカップを差し出しながら言うと、一虎はカップを受け取りつつ、ムッとした様子で眉根を寄せた。軽く千冬を睨み上げてくる。
「喜んで見せてただろ」
「本音でですよ。まああれだけもらってたら、対応も面倒臭くなるでしょうけど」
「……まあ、贅沢な話なんだろうけどさ……」
一虎だって、嬉しいことは嬉しいんだろうな、と千冬は思う。女の子からの贈り物がというより、「ペットショップの羽宮さん」として地域に受け入れられている自分が。
ただ、異性からあまりに過剰に向けられる好意に対し、よくも悪くも誤解されないよう一日中振る舞い続ければ、精神的に疲弊するのも無理はない。
「そんな一虎君にさらに気疲れさせるのは申し訳ないかなーと思うんですけどね」
「え?」
千冬は一旦キッチンに戻り、棚の中にしまっておいた紙袋を取り出すと、再び一虎の方に戻った。
一虎の正面に立って、手にした袋を相手に差し出す。
「はい、どうぞ」
「……」
一虎は目を丸くして紙袋を見て、千冬を見上げてから、再び紙袋に目を落とした。
その目が、あまりに輝いている。きらきらと、宝物を貰った子供のような顔で、微かに頬を紅潮させて。
(現金だなあ)
店で女の子たちからチョコレートをもらった時の笑顔とは、あまりに違う。
こんなのを彼女たちに見られたら大変だろうなと、千冬は内心こっそり考えた。
「……オレに? 千冬が? マジで?」
一虎はそれでも嬉しさを必死に押し殺すような、どこか疑るような調子で訊ねてくる。
千冬はにっこりと、とっておきの営業スマイルを一虎に向けた。
「店長から、日々頑張ってる店員への労いですよ」
「あー……義理か」
がくっと、これまた露骨に、一虎が肩を落とす。落胆した様子で、それでもしっかりと、千冬の差し出す紙袋を受け取った。
「義理の方が受け取りやすいでしょ?」
千冬は無邪気なふりで、小首を傾げて見せた。
「お返しは来月、一律のやつでいいですよ」
そう言いながら、一虎に向けて片手を差し出す。
一虎が怪訝そうな顔で千冬の掌を見た。
「……返せってこと?」
「いや、一虎君甘いの嫌いなんでしょ。それももらってあげますよ、そもそもバレンタインなんて馬鹿馬鹿しいって散々言ってたし――」
「やだ!」
光の速さで、一虎が千冬に貰った紙袋を腹に抱えるようにして隠した。
「これは、オレが食べる」
「無理しなくていいのに……」
必死に言い張る一虎に、千冬は気の毒がる顔を向ける。一虎が紙袋を抱き締めたまま、力一杯首を横に振った。
「無理じゃねえし。食べたいし」
千冬はそろそろ、笑いを噛み殺すのも難しくなってくる。
「一虎君のために、クッソ甘いやつにしておきましたよ」
「……」
一虎が、肩を震わせる千冬を見上げ、目一杯眉を顰めた。
「千冬ってさぁ……」
「はい?」
これでもかというくらいの笑顔でにこやかに返事をした千冬を、一虎が恨みがましい眼差しになって、見上げている。
「……見てろよ、ホワイトデーのお返しで目に物見せてやる」
「はいはい、楽しみにしてますよ」
適当な返事を残し、千冬はキッチンに戻った。自分の分のコーヒーもカップに注ぐ。
「……なあ、本当、何でくれたの?」
「何でだと思います?」
ソファから訊ねてくる一虎に、振り返らずに答えると、ハァッと大きな溜息の音が聞こえてきた。
「オレ、バカなんだから、都合いいように解釈するぞ」
「一虎くんはバカじゃありませんよ」
優しく言ってみるが、返事がない。
(あ、イジり過ぎたか?)
本格的に機嫌を損ねてしまっただろうか。ちょっとだけ「しまった」と思った千冬の背後に、一虎が近づく気配がする。
何だ、と思って振り返ったら、なぜか、真っ赤な顔をした一虎が千冬の間近に詰め寄っていた。
シンクのふちに両手をついた一虎に、壁ドンならぬキッチンドン(?)をされた。
「キッ、キスしていい?」
一虎は真剣な顔で、真剣な声音で、多少つっかえながら、そんなことを言った。
千冬は目を細めてそれを見返す。
「は? いきなり何言ってるんですか、ダメに決まってるでしょう」
考えた末の行動がこれか、と思ったら、演技ではなく本気で呆れた声が漏れてしまった。
千冬の反応に、一虎はがっくりと項垂れている。
あまりに全身で「悲しい」と表している一虎がさすがに気の毒になって、千冬はもう少しは助け船を出してやることにする。
「好きとか言われてませんし、いきなりそれはないでしょうが」
まあ、一虎が自分のことを好きなのなんて、千冬にとっては見え見えなのだが。
一虎の方は一生懸命隠そうとしているらしいけれど、四六時中目で追われ、ちょっとしたことで舞い上がったり落ち込んだりされたら、気づかない方がどうかしている。
今日だって、一虎の方がよほど女の子たちからチョコレートをもらっていたのに、千冬が誰かに声をかけられるたびにピリピリしていたのだ。
(小学生女児にまで妬くなっての)
あまりにあからさますぎて、こっちは恥ずかしくなってしまったほどだ。
だから今、一虎から告白するチャンスを与えてやったつもりなのに、なぜか思い切り睨まれてしまった。
「言うのは千冬の方だろ。チョコく、れたんだから」
一虎の表情はずっと大真面目だ。
千冬は再び小首を傾げて相手を見返した。
「チョコをあげた方が告白するルールですか?」
「バレンタインってそういうもんだろ」
「好きですよ」
「……!?」
さらりと伝えた千冬に、一虎は今度、目玉が飛び出すのではと思うほど大きく目を見開いた。
(いや、驚きすぎだろ)
一虎の態度も露骨だったが、千冬だって、自分があまりに一虎を好きだという態度が表に出すぎているなと、自覚していた。
周りからもしょっちゅう言われているのだ。「おまえらつき合ってんの?」とか、「あんまり一虎を弄んでないで、そろそろ応えてやれよ」とか。
千冬が一虎のことを意識し始めたのは、一虎が自分を好きだと気づいてからだから、告白するなら相手の方からであるべきだ――と半ば意地のように考え続けて黙っていたが、そろそろいい加減、千冬だって限界だ。
「返事はホワイトデーにお願いします」
言った千冬に、一虎が限界まで眉根を寄せる。
「……一ヶ月待てと?」
渾身の笑顔を向けると、一虎が絶句する。
(ずいぶん待たされたんだ、一ヵ月くらい短いもんだろ)
これはもう両想いに違いないと確信を得てから、半年。あと一ヵ月くらい、一虎で遊んだって、罰は当たらないのでは?
そう思っていたが、一虎がふいっと背を向けて去っていってしまったので、千冬は内心また焦った。
(やべ、やっぱ、遊びすぎたか?)
一虎は自分の部屋に引っ込んでしまった。
たまにメンタルが落ちすぎると、しばらく眠れず食事も取らずに部屋に閉じこもる悪癖がある相手だというのを失念していたのは、千冬もバレンタインで浮かれすぎていたのかもしれない。
(まあ言わなかったのは、オレもだし……)
意地悪してごめん、義理ってわかってても営業のためってわかってても、あんなにたくさんの子たちからチョコを貰ってる一虎君見てたらオレだって多少は妬いちゃって……と、素直に謝るべきかもしれない。
千冬が反省していると、一虎が案外あっさり部屋から戻ってきた。
だが、思い詰めたような、怒りを押し殺したような真っ赤な顔で、大股にこちらに近づいてくる。
何だやる気か、とつい身構えかけた千冬に、
「んっ!」
一虎が怒った顔のまま、小さな箱を乱暴に差し出してきた。
「は?」
ラッピングからして、多分、中身はチョコレートだろう。
「これも、オレがもらった方がいいやつです?」
まだテーブルにばらまいていない分があったのだろうかと訊ねたら、一虎が大きく首を振る。
「オレから!」
「え?」
「オレから千冬に!」
予想外の答えに、千冬はぽかんとしてしまった。
「……まさか一虎君も買ってたんですか?」
あれだけバレンタインを扱き下ろしていた一虎が、まさか、こんなピンクのリボンを重ね掛けしたような箱を用意していたなんて、さすがに千冬の予測の範疇外だ。
「そうだよ買ってたんだよ、悪いかよ」
開き直ったような、やけくそのような声で言う一虎に、千冬は演技ではなく、どうしようもなく笑顔になってしまった。
「悪くないですよ。嬉しいですよ」
一虎がキレてチョコを投げ捨てたりする前にと、千冬はその手から箱を取り上げた。
両手でぎゅっと握って、額に押しつける。
「マジで嬉しい」
千冬だって、バレンタインに踊らされてるヤツはアホだと思ったし、義理チョコの応酬なんて面倒だとずっと思っていた。
好きでもない子からもらったらもらったで、断るのは気が重いし。
もらえなければもらえないで、もらってるヤツを横目に「滅んでしまえ」と呪ったこともあるし。
――でも好きな人からもらえることがこんなに嬉しいなら、企業戦略ありがとう、という気持ちで一杯だ。
「大事に食べますね」
顔が痛くなりそうなほど笑みが止まらない千冬を、一虎がまたぎゅっと眉を寄せて見ていた。
「……好きだ」
まるでポロッと漏れてしまったかのような告白の言葉と、辛そうな一虎の声音に、千冬は目と気持ちを奪われた。
「オレなんかが浮かれて、千冬に、こんなこと言っていいのかわかんねえけど……」
「……」
千冬は自分から一虎に手を伸ばして、そっとその首に腕を回す。
「バカだな、言っていいに決まってんじゃん」
本当は、自分がお膳立てなんてしなくても、一虎から言ってくれるようになってほしかった。
でももう、これで充分だ。
「キスしていいですよ」
それでも一虎からしてほしいと思ってしまうのは、いつだって罪の心に捕らわれ続けている相手が少しでも楽になれる日がきますようにと願っているから――だけではなく、単なる、恋心かもしれない。
「……ん」
一虎がおずおずと千冬の腰に手を回し、顔を近づけてくる。
千冬は今さらながらに緊張しながら、好きな人と、初めてのキスをした。