夜半。
雪の気配を伴った冷気から逃れるように布団に深く潜り込んでいたところ、ぎし、とマットレスの撓む気配に目を覚ます。
「……来たの、五条」
「ありゃ」
起こしちゃったか、と薄笑いを浮かべるのは三つ年下の男である。白い髪を後ろに流し、目元は異常に良過ぎる呪眼を保護する為に特殊な白布を巻き付けている。
仕事着の黒装束のまま、私の上に覆い被さる野郎は悪戯の見つかった子供のようにぺろりと舌を出すと、そのまま私の隣にぽすんと体を倒して横になった。
「急にごめんね?」
「いいわよ。来ると思ってたし」
「……」
手を伸ばす。顔の輪郭を撫でる。
薄布の、ほんの小さな凹凸を煩わしく思い爪を引っ掛けた。しゅる、と衣の擦れ合う音がして、緩んだ布の隙間から青い瞳が片方だけ顔を出した。
伏した睫毛が、ゆっくりと、上を向く。
ぱちりと開かれた左目が、私の姿を映す。その静謐な眼差しからは、何の感情も読み取れない。
私は奴の目の縁をそろそろとなぞりながら、尋ねた。
「お別れは、ちゃんと言えたの?」
「……。…………、言えた、と、思う」
うん、たぶん、と呟くように付け加える。軽く目を瞠り、すぐに伏せて、記憶を辿るように視線を彷徨わせる。
私は口を噤んでいた。
いつになく辿々しく、五条は続ける。
「言いたいことは、言ったし。思ってたことも。……あいつも、最期は、笑ってたし」
「そう」
それはよかった、なんてそんなふうには、これっぽっちも思えないけれど。それでも、何の会話もなく、今生の別れを告げるよりはよかったのだろうか。
わからない。何も。
ただ、
「……淋しく、なるわね」
「…………そう、だね。そうかも」
私が奴の頭を引き寄せて胸の内に抱え込むと、五条はぴくりと肩を揺らした。
そしてその後で、はあ、と深く息を吐き、脱力すると、そろそろと私の背中に腕を回す。
ぐしゃりと握りつぶされたスウェットが引っ張られて、少し、苦しい。
「そっか。あいつ、もう会えないんだ」
「……」
「つってもまあ、僕が、やったんだけどさ。……でも、そっか」
太い指が勢い余って、布を越して肉に食い込んだ。
肺の潰れるような圧迫感と背中の痛みに耐えながら、私は素知らぬ顔で「そうね」と相槌を入れる。もう、会えない。たった一人の親友を、手にかけなくてはならなかった所為で。やむを得ないことだと納得していても、唯一を喪った事実が書き換えられるわけではない。
無力だ、と思う。
私が代わってやれたのなら良かったのに、それは、出来なかった。
次第にかける言葉も見つからなくなり、無言で五条の頭を抱えていると、奴がぼそりとこう言った。
「……歌姫は、変わんないでね。そのまんまでいてね」
「……」
「あいつみたいにさ、馬鹿やって、俺に始末させるような真似しないでよ」
「…………。馬鹿」
「いてててて」
「それ、こっちの台詞だから」
あんたこそ間違えんじゃないわよ、そう告げて、頬をつねる。
「もしあんたが道を踏み外したら、その時は、私が背中から刺してやる」
「うわおっかな。てか卑怯じゃね?」
「喧しいわねっ。あんた相手に手段なんか選んでられるかッ」
まあそんなこと、万が一どころか億に一つもあり得ないだろうが。
だけど。
もしも、が現実になってしまったその時には。
私が。
「…………ふふ」
赤らんだ頬を押さえて、五条が、笑った。
ほっとしているように見えた。
奴は言う。
いつもと何も変わらない、浮ついた口調で。
「正直さあ、背後から襲われたところで、歌姫如きが僕のこと仕留められるとは到底思えないけどぉ」
「あんたねえっ」
「────でも、約束。ね?」
「…………。ええ」
必ず。刺し違えてでも。
私以外に、他の何を犠牲にしようとも。
小指を絡めるだけでは物足りないからと、指と指を全て絡めて手を繋いだ。額を合わせて、誓いを立てる。
呪言でこそないものの、私達は互いに呪術師だ。只の人が発した物ですら呪いと果てるのが言の葉だ、それを、私とこいつとで揃って口にして、呪と成り得ない筈がない。
呪い合う。
こんなくだらない宣誓など、永遠に、果たされないことを願って。
「約束する」
「うん」
その日はそのまま、抱き合って眠った。
「すぐる」
「…………ほんと、馬鹿ね」
何の夢を見ているのかは、寝言からも明らかだ。
眠る顔は幼かった。普段でも、ここまで気の抜けた表情は見かけない。張り詰めているとまでは言わないが就寝時ですら隙がない、五条とはそういう男である。
今は覆い隠すものが何もない、露わにされた目元にそっと触れる。
伏せた瞼を、指の背で、そろりと撫でた。
乾いている。
水の気配など微塵もない。
「こんな時にも、泣けないのね。あんたは」
本当に、なんて身勝手で、不自由な奴だろう。
そう思い、眉を顰めたその拍子に、ぼたりと、肌理細やかな白い頬に不必要な水分を零してしまう。
毒気の抜けたあどけない寝顔を見下ろして一人、どうしようもなく、嗚咽を零した。