Heartaid contact──どうしてこんな事に…
目の前で両手を広げてこちらをじっと見つめ微動だにしない相手を前に、レイン・エイムズは内心頭を抱えていた。
時は週末、場所は恋人──オーター・マドルの家。世間一般に倣い魔法局も土日は基本的には休日となっている。ただし繁忙期はこの限りではないが。とは言え今はその例外には当てはまらないので、例によって2人はいつものように休日を穏やかに過ごしている…筈だった。
先程からオーターは斜めにソファに腰掛けこちらに身体を向けて小首を傾げ、まるで"何でもして下さい"とばかりに軽く両手を広げてレインの様子をうかがっている。きっかけはオーターの一言だった。
「お前に甘えられた事がない。」
レインとしてはそうでもないと思っていた。基本的に自由に好きな事をさせてもらっているし、せっかくの二人で過ごす休日でも疲れている時は何もせずにゆっくりさせてもらっている。激務による睡眠不足の時にはベッドを使わせてもらう事もある。オーターから何かを強いられたという事もなければ、何かを断られたという記憶もほぼない。これはかなり甘えている方だと思うし、甘やかされてもいると思う。だが、そういう事ではないらしい。
オーターの言う"甘える"とは"触れ合う"という意味であり、つまりそれはレインからオーターに対してスキンシップをとって欲しいという願望であった。
レインはとても困った。なにせ自らそのような行為を他人にした経験がほとんどないからだ。あっても弟のフィンに対して、手を繋いだり頭を撫でたりハグしたりした程度の記憶だが、それらはすべて子供の頃の話である。今となっては頭を撫でるくらいだろうか。
オーターはといえば、ずっと黙ってこちらを伺いながら同じポーズで構えているが、特徴的な渦を巻く一対のイエローアンバーが如実にレインからのアクションを催促している。
「……………。」
「…っ、…………。」
何かしなければならないのはわかっているが、何をして良いのかわからず身体が動かない。恋人間のスキンシップといえばハグやキスが代表的なものとして挙げられるだろう。しかしそれを自らするには、まだレインの羞恥心が勝る。もっと軽いもの、ハードルがそこまで高くないものはないだろうか。悩みに悩んだ末、レインはオーターの服の裾を指の先でそっと摘んだ。
レインの精一杯の"甘え"を見留めたオーターは、まずキョトンとした顔をその赤い頬に向け、そして次に裾を摘む手に注ぐ。満月を思わせる瞳は微かに水分を湛えて煌めき、彼の指先の震えが伝わったかのように表面が淡く波打って見える。自分の取った行動に対して反応が無い事に動揺しているといったところか。
オーターはフッと甘やかに空気を震わせて、あまりにも些細な意思表示をする初心で可愛らしい恋人をそのまま両の腕の中に閉じ込めた。
「今はそれで充分だ。」
その背を宥めるようにポンポンと軽く叩いて身体を離すと、戸惑ったように俯きながらも健気に裾を離さない彼の姿が目に映り、更に愛おしさが込み上げる。
レインの肩に置いた手の片方を頬に添えて顔を上げさせ、オーターはその赤みに沿って親指でするりと撫ぜた。
「悲しい時、寂しい時、苦しい時。お前は全て1人で耐えてしまう。私はそれがどうにも不服でならない。辛い時に誰かを頼るという選択肢をお前に覚えて欲しいと常々思っていた。甘えるという術を知って欲しい。相手は誰でもいいんだ。お前が信頼できる人間を選べば良い。…ただ、出来ることなら頼る先が私であれば良いと思っている。」
揺れる瞳の奥に僅かに滲む期待はお前のいじらしさを引き立たせるが、時折無性に歯痒く思うのだと。
オーターから初めて吐露された想いに、レインは一度目を瞠った。その真摯な言葉たちが、彼の切実な願いが、レインの中にこびり付いていた葛藤や羞恥心を引き潮のように遠ざけていく。自分のちっぽけな意地を通すよりも、ただ彼の想いに応えたいと思った。
ありがとうございますと言いたかった。あなたしかいませんと伝えようとした。けれど言葉にするとどうしても薄っぺらい気がして声が出ない。そうやって惑う内に想いが口から目へと昇って溢れていく。もはやどうする事も出来なくなってしまったレインは、黙ってオーターの肩口に額を押し当て、ただ静かに糊の効いたシャツを自身の体温で濡らした。暖かな腕が裾を掴んだままのレインの身体を守る様に再び包みこむと、肩に乗った重みを慈しむようにくしゃくしゃと撫ぜる。彼は笑うでもなく悲しむでもなく、そのままレインが落ち着くのをひたすら待ち続けた。
それから数ヶ月後。レインはあの日から少しずつ、2人で過ごす時間はオーターに甘える練習をしていた。寂しい、苦しい、悲しいなどと少しでも感じた時は彼の服の裾をそっと握る。たったそれだけ。それでも続けていれば成果は出るもので。今やレインは自分の弱さを恋人に晒す事にほとんど躊躇いがなくなっていた。
そんな中で迎えた繁忙期のとある日の出来事だった。
連日続く地獄のように忙しい日々もようやく後半に差し掛かった頃。そろそろ隠し切れなくなってきた疲労を端々に滲ませたレインが、それでも背筋を伸ばして足早に廊下を歩いている。目的地は魔法魔力管理局、オーターのいる部屋。仕事での用事とはいえ、一目でも顔が見られるのは嬉しいものだ。きっと自分と同じく疲れた顔をしているのだろうなと心配しながらも、会える喜びから自然と足取りが軽くなる。道中仕事の用事で何度か呼び止められつつ、そろそろ目的地に差し掛かる廊下の曲がり角で、レインはライオと話をしている彼の姿を見つけた。
やはり疲れた顔をしていたが、それでも端正な面立ちは他人の目を惹きつけてやまない。何度目にしようとも、毎回綺麗な人だと感心してしまう。そうやってしばらくぼんやりとその横顔に見惚れていたら、相手がこちらに気付いて振り向いた。
「おや、レインじゃないか。どうした?オレたちに何か用か?」
オーターが振り向いた事ですぐにこちらに気付いたライオがいつもと何ら変わらず快活に声をかけてくる。思えばこの上司が疲労を表に出している所をいっさい見た事がない。最年長の筈なのに誰よりも元気なのは、さすが人類最高傑作を自称するだけの事はあるということか。そんな風に尊敬する上司の逞しさと疲労困憊の己の未熟さを比べて心の内で少し反省しながら、レインはそれをおくびにも出さずにいつも通りの無表情で軽く一礼した。
「お話中にすみません。オーターさんに頼まれた書類をお持ちしました。」
「ああ、ありがとう。」
「いえ、では。」
たった数秒のやり取り。名残惜しくはあったが、相手は話し中だったため長居しては双方に迷惑がかかる。そう思いレインは早々に会話を切り上げ踵を返したのだが、あろうことかオーターの方がそれを呼び止めた。
「忙しいところわざわざすまない。礼を言う。用を頼んだ私が言うのもなんだが、あまり無理はするな。」
自身の疲労を棚に上げ、レインの事ばかり心配し労うオーターの優しさに絆されたのだろう。彼の言葉は疲れ切ったレインにとって甘い毒となり、無意識に抑えていた感情に揺さぶりをかける。それはレインの強固な思慮分別や忍耐力を呆気なく瓦解させてしまう程の熱量で押し寄せてきて、レインを支配した。
身を翻し去ろうとする背を左手が追う。その手を止める事に思い至る思考力は、衝動に喰いつくされて残っていなかった。気付いた時には既に、レインの利き手が男のローブの端を摘んでいた。
不意に裾を引かれて振り向いたオーターが小さく息を呑む。その一瞬がレインの目にスローモーションのように映った瞬間、急激に自我を取り戻した彼は弾かれたように手を引っ込めた。
「…っすみません。埃が付いていたので。」
──オレは今、何をした
途端に恥ずかしくなり、レインは自身の左手を抑えるように抱きかかえて顔を俯ける。声が少し震えたかもしれないが、そんな事を気にしている余裕など無かった。いくら最近慣れてきていたとはいえ、さすがに仕事中に"コレ"は無い。オーターとて連日の激務で疲れているのだ。甘えるにしたって限度がある。
「…そうか、ありがとう。さっき資料室に立ち寄ったからその時に付いたのかもしれん。」
咄嗟に口から出た嘘に合わせてくれたのか、それとも本当に訪れたのかはわからないが、オーターはレインの行動を追及することなく素直に礼を言うに留まった。レインは内心ホッとしながら、もうこれ以上ボロを出さないよう足早に立ち去ろうとした。その時──
「ああそうだ、レイン。」
再びオーターがレインを呼び止める。今度は何かと思い顔を向けて、レインはすぐさまその行動を後悔する羽目になった。
「先程お前が持ってきてくれた持ち出し許可証の魔法道具について任務前にいくつか確認したい事があるんだが、この後時間はあるか?手が空いたら私の部屋まで来て欲しい。」
そう言ったオーターの声は酷く穏やかで、その顔には蜜のような微笑が浮かんでいる。そんなに嬉しそうな顔をしないで欲しい。レインにとって仕事中の公私混同は失態以外の何ものでも無い。だというのに、オーターは迷惑がるどころかとても喜んでいた。きっとこの後部屋を訪れたら、蜜漬けと評して差し支えないほどに甘やかされてしまうだろう。
レインはその時の事を想像してしまい、自身の頬の赤みがいよいよ繕いきれない事を悟った。そうして悪あがきのように限界まで俯きながら、わかりました失礼しますと最後まで律儀に返事をして逃げるようにその場を後にした。
「まさに脱兎の如く、か…。」
「お前な。レインは純粋な子なんだから変な事を教えるなよ?」
"脱兎"の後ろ姿を愛おしげに見つめながらクスリと一つ笑って呟いたオーターに、横にいたライオが呆れた様子で釘を刺す。おそらく自分がこの場にいた事を完全に丸無視していたであろうことに関しては、寛容な心で見逃してやった。何故ならレインが可哀想だから。先程の場に第三者がいた事を意識してしまえば、彼はきっと丸3日くらいは落ち込んでしまいそうだ。
そんな上司の気遣いなど気にも留めない腐れ縁は不服そうに鼻を鳴らして相手を睨め付けた。レインを見ていた男と同じ人間とは到底思えない落差だ。全く酷い奴である。
「変な事など教えていない。私はただあいつに意思表示の仕方を教えただけだ。あいつが不利益を被るような事は一切あり得ない。」
そう豪語する男に対し、ライオは程々になとため息を吐いたのだった。