特別なお菓子とお節介な妖精すんすんと鼻を鳴らす音が哀しげで、ネアは思わず胸の前でぎゅっと手を握る。
慌てて首飾りの金庫から取り出したのは、いつかのときにと取っておいた、やけくそで作ったのかなという大きさのスブリソローナだ。
「ゼノ、クッキーを食べますか?」
「……いいの?」
もはや顔を合わせる度に当然の如くクッキーをもらえると思っているゼノーシュでも極大スブリソローナの特別さに躊躇したのか、涙で濡れた檸檬色の瞳に困惑と期待が見える。ネアはひとつ凛々しく頷いてやり、クッキーモンスターの小さな手にそっとスブリソローナを手渡した。
「大事なお友達が元気になってくれるのならお安い先行投資なのです。ジッタさんの親戚がお作りになったものなので、味も格別ですよ!」
「ずるい、ネアが格別を分け与えようとする…」
「あら、ディノとはこちらの通常サイズのスブリソローナを半分こしようと思っていたのですが、いりませんか?」
「ご主人様!」
荒ぶりかけた魔物を容易く転がしながら、狡猾な人間はほんのり嬉しそうにスブリソローナを抱え食べる少年から存分に可愛いを摂取する。
けれど、今までの悲しみがよほど深かったのか、その瞳は未だ少し曇ったままだ。
「ゼノが私達のお部屋に家出してくるのも久々ですね。なんだか懐かしくなってしまいました」
「……グラストが悪いんだよ」
なかなかに摂食難易度が高いお菓子を欠片も溢さず食べていたゼノーシュは、叱られるとでも思ったのか、ぷいと頑固に顔を背けた。
ネアはそれを見て微笑みながら、手元にしゅぽんと投げ込まれた三つ編みをきゅむきゅむと握ってやる。
縄張り意識が強い魔物だが、今回ばかりはのっぴきならない事情があるのでと、部屋にゼノーシュが避難してきても荒ぶるのを抑えてくれた優しい伴侶なのだ。
「私はゼノのお友達なので、何があろうとも全面的にゼノの味方ですよ? ……ただ、ゼノと、ゼノの大事なグラストさんが早く仲直りできればもっといいなと思ってもいるので、どうしてグラストさんと喧嘩してしまったのか聞かせてもらえますか?」
できる限りの優しい声を意識してネアが問いかければ、ゼノーシュは残り三分の一ほどになったスブリソローナを囓りながら、またじわりと大粒の涙を浮かべた。
「……あの妖精は、グラストのことを傷つけようとしたんだ」
「……それは即極刑判決となる確定有罪に他ならないと思うのですが、もしかすると壊してはまずい妖精さんだったのでしょうか?」
ネアがそう尋ねると、ゼノーシュは気まずげに眼を泳がせて、最後のひとかけらをお口に押し込み、ややあってからおずおずと頷く。
「……僕はどうでもいいけど、ザルツのちょっと重要なところの妖精をその場で壊しちゃったから、グラストは怒ったんだと思う……」
「むむ、いつもは誰がやったかわからないよう、こっそりと上手に捨てて来られるのに、今回は我慢できなかったのですね?」
「うん……、稲光の妖精でね、ザルツの子爵の代理妖精だったんだ。娘がグラストに求婚するのを手助けしてたから、いつかは森に捨ててこようと思ってたんだけど」
失敗しちゃった、としょんぼりするゼノーシュ曰く。
この間の夏至祭で、グラストに恋する子爵令嬢の想いを遂げさせるべく策を練ったものの、ゼノーシュによる鉄壁の守りを越えられず敢えなく敗走したというのに、先日懲りずにその妖精がまた現れたらしい。
そして、グラストをどうにかリーエンベルクから引き離すべく、捨て身で説得に使った言葉が、グラストを傷つけそうになったと言うのだ。
ネアは自分が伏せっていたときに大変なことが起こっていたのだなと、改めて己の軽挙妄動を反省した。
「グラストには強い陽光の祝福があるんだけど、耐性がない周りの人間はだんだん欠けてっちゃうんだ」
「……聞いたことがあります。守られるのは本人ばかりで、周囲に障ってしまうような祝福もあるのだと」
そこでディノが気遣わしげに覗き込もうとした気配があり、ネアは一度伴侶に微笑みかけてやる。
あるいは、前の世界でネアが持っていたものこそ、周囲を削りながらもたらされる祝福だったのではないかということは、暮らしていくうちに既に聞いていた情報であった。
ぽつりぽつりと呟くゼノーシュへと再び眼を向ければ、とうとう綺麗な檸檬色からぽろりと涙が溢れてしまう。
「……僕は、グラストの隣を独り占めしてたから、グラストの娘なんて好きじゃなかったんだ。……けど、自分の祝福のせいで娘が死んだって聞かされたら、グラストはきっと悲しむから、だから……」
「まぁ……」
はらはらと泣き出してしまったゼノーシュを見てネアは絶句し、稲光の妖精がもういないことを残念に思わなければならなかった。
そんな大罪を犯した妖精など、ありとあらゆる残虐な手段を用いて処刑して然るべきではないか。
「……そうやって、お前がいると周りの人間に害が及ぶぞと脅すことで、グラストさんをリーエンベルクから遠ざけようとしたのですね」
「うん……」
「おのれ、なんたる卑怯者なのでしょう! もはやこの世にいないのが悔やまれます。私がその場にいたのなら、新型きりん箱に閉じ込めて逃げ沼に放り込んでやったのに!」
「ご主人様……」
もはやゼノーシュよりも怒り狂っている伴侶に慄いたディノは、慌ててネアを膝の上に乗せ、胡桃とラズベリーのしっとりクッキーで鎮めにかかる。
美味しいクッキーで落ち着いたネアは、本人が望んだ恋を叶えるためとはいえ、大事なご令嬢に強い祝福をもったグラストを添わせようとした妖精の考えがわからず、首を傾げた。
「自分の守護は陽光の祝福を遮ることができるって、稲光の妖精は思ってたみたい。……だからグラストは運命で繋がれた子爵令嬢の恋人のはずだって」
「本当かどうかもわかりませんし、それだけで運命と言うのも余りに浅慮です。もうその場で滅ぼしてしまったのは大正解だったのでは……?」
「でも、うっかり壊しちゃったときに、グラストは僕を怒ったんだ……」
僕よりその子爵令嬢が大事だったのかな、と自分の言った言葉で怖くなってしまい、また泣き出してしまったゼノーシュの頭をネアはよしよしと撫でる。
最近は時々喧嘩をしつつも上手に付き合っていると思っていたが、それでも時折こんな風に拗れてしまうのだ。
「政治的な配慮に関しては私から無責任なことは言えませんが、私はゼノの対応を全面的に支持しますからね。……そして、グラストさんがどうしてゼノを叱ったのか、ご本人に聞く前に逃げ出してしまいましたね?」
ちょっぴり意地悪な声で為される問い掛けにぴゃっと身を竦め、ゼノーシュは涙眼で怖々とネアを見上げた。
その愛くるしさにぎゅっと胸を掴まれるのをなんとか押し留め、ネアはそっと少年姿の魔物を諭す。
「それでは、グラストさんに聞いてみなければなりません。お話しする機会を失って、ずっと拗れたままなのは嫌でしょう?」
「でも……グラストは……」
「……来たようだよ」
ディノの言葉にはっとゼノーシュが振り返ると同時に、こんこんと躊躇いがちなノックの音が響く。
ゼノーシュがさっと長椅子の後ろに隠れるのを見届けてから入室の許可を出せば、若干憔悴した様子のグラストが、苦笑しながら部屋へと入ってきた
見聞の魔物がここまでの接近に気付かなかったのだなとネアは不思議に思ったが、ドアの陰からちらりとこちらを覗き込むノアベルトが見える。
そういえば謹慎中にこっそりボールで遊んでもらったお礼をするのだと言っていたような記憶があり、けれどもグラストとゼノーシュの感動的な仲直りシーンを堪能するため、ネアはどうでもいい記憶をぺっと放り投げた。
グラストは一度ネアの方を見たが、まずは大事なものを優先してほしいと思ったネアが厳かに頷くと、申し訳なさそうに軽く会釈した後、そっとゼノーシュの方へと歩み寄る。
長椅子の背から頭を半分だけ出したゼノーシュは恨めしげな、それでもたっぷりと不安を湛えた瞳をグラストに向けており、何を言われるものかとぎゅっと身構えていた。
「……グラスト、僕……」
「すまなかった、ゼノーシュ」
先んじて深々と謝られてしまい、ゼノーシュはぱちりと目を見開く。
ネアはゼノーシュが聞く気になったのでもう大丈夫だと、ほっと胸を撫で下ろした。
「……グラストは、僕のことが邪魔になったんじゃないの?」
「ならないよ、なるものか。……話を聞いてくれるか? ゼノーシュ」
真摯な眼差しでじっと見詰められて、ゼノーシュはおずおずと立ち上がり、手を伸ばす。
すかさず、まさしく自分の愛する子どものようにグラストの腕に抱え上げられて、ゼノーシュは緩んでしまいそうな口元を引き締めるのに必死のようだ。
まだ、許してもいいものかと悩んでいる目をしているが、ほとんど陥落してしまっていると言ってもいいだろう。
予防接種の後、美味しいお食事に惑わされそうになっている銀狐とそっくりな目をしている。
改めてとばかりに、腕の中のゼノーシュを支えながら、グラストがネア達に頭を下げた。
「ネア殿、ディノ殿。ゼノーシュがお邪魔してしまい申し訳ありませんでした」
「ちっともお邪魔ではありませんでしたが、お邪魔している、というのは良い響きですね。本格的にゼノの帰るところがグラストさんのところになったのだなという感じがします」
ネアがほっこりしてそう言えば、ゼノーシュがぱっと顔を輝かせたので、グラストはそっと目元を押さえてしまう。
もう一度丁寧に礼を言ってから、グラストはゼノーシュの頭をそっと押さえつつ外に出た。
竜も通れる魔術の扉は間違っても頭を打つことなどないのだが、そうしてほとんど無意識にグラストがゼノーシュを慈しんでいるのがネアは大好きだ。
二人をしっかり見送ってから、さてと、とネアは自分の魔物を振り返り、丁寧に頭を撫でてやる。
縄張り意識の強い魔物が他の魔物を部屋に入れたまま我慢してくれたので、たっぷりとご褒美を与えようと思ったのだ。
「ディノ、ゼノが泣き止むまでここにいるのを許してくれて有難うございます。好きなご褒美を差し上げようと思いますが、何が良いですか?」
「……ひとつだけかい?」
物欲しげに尋ねる魔物に、少しだけ間を持たせてから、にっこりと微笑んで首を振った。
「仕方ない魔物ですねぇ。就寝の時間まで、あるいは体力が持つ限り好きなだけ差し上げましょう!」
「ご主人様!」
そっと爪先を差し出した魔物をぎゅっと踏んでやりつつ、真珠色の頭をしっかりと抱きしめた。
ふと、見上げてくる視線を感じて、ネアは水紺色の瞳をじっと見つめ返す。
「ディノ?」
「……今後は、誰かに君を預けたあと、君がお邪魔していたと言うべきなのかな」
「む、妙なことを覚えてしまいましたね」
「そうすると、私が君の帰るところであるという証明になるのだろう?」
「ふふ、わざわざそんなことを言わなくても、私の帰るところはずっとディノのところですからね?」
「ずるい……」
きゃっとなってじたばたするディノの髪をまたたっぷりと撫でてやり、ネアは窓の外を見た。
ウィームの夏の森は淡いみどり色に満ちて、月明かりがきらきらとこぼれている。
美しい景色と愛しい伴侶を眺めながら、ネアは盛りだくさんの七月に想いを馳せるのであった。