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    samemomiya

    @samemomiya

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    samemomiya

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    ・ディノネアちゃんです
    ・名前のある恋敵が出てくるよ
    ・その他色々捏造してます ご留意を

    略奪の精霊と悪女のドレス 薄紫の砂のような光が天井から零れ落ちる。

     花の系譜の妖精たちがきゃらきゃらと囀り、色鮮やかなドレスが翻った。艶やかな見た目を裏切らず彼女たちは奔放で逞しく、その気にさせようとかけてくる声は後を絶たない。ウィリアムはもう何度目になるのかわからない断り文句を盾に、誘いを退けていた。

     芽吹きと始まりを司る春告げの後にこそと、魔術を調整するために催されるこの舞踏会は、開催の時期も相まってすこぶる華やかだ。
     季節の花を結晶化した照明は会場を仄かに照らし、明度は低いものの暗く感じないのは星の系譜が灯りを入れたからだろうか。

     必要な分は踊ったのでと壁際で一息つき、給仕から春憩いの葡萄酒を受け取る。 

     ちらと視線を流せば、眼差しも怜悧なまま薄く微笑んでいるシルハーンの姿が見えた。さすがに容易には近寄り難いのか、それでも幾らかはかかる声をいなしつつ、その指先は三つ編みのリボンをそっと撫でており、ネアがいないことで少々疲弊しているようでもあった。
     ふと目が合い、困ったように眉を下げるところが見えて、答えるように苦笑する。かつてのシルハーンの孤独を思えば、そうして微かにでも頼りにされるのは少々くすぐったい。

     本来、万象と終焉がこの舞踏会に同時に出席するのは稀なことだ。ネア曰く苺の匂いがする妖精の粉を、ウィリアムがリーエンベルクに持ち込んでしまったことは記憶に新しい。
     にもかかわらず今回二人ともが顔を出したのは、高階位の精霊王が幾らか代替わりをしたために、揺らいだ魔術を調整する必要があったからだ。

     略奪や篭絡、泥濘に混濁。

     いずれも名のある王であったが、最初の死を起点にして、連鎖的に代替わりが行われるのはそう珍しいことではない。
     そうして揺らぐ魔術はその一族や精霊だけに留まらず、広範囲に影響を及ぼすので、この場で行われるような魔術の調整だけではなく地上での仕事も増えることから、ウィリアムとしては普段の憂鬱に拍車をかけるものでしかないが。



    (今年か……、来年あたりにはまた蝕が起こるだろうな……)



     眼を閉じれば蘇る。
     緑の塔、風に靡く青灰の髪と、涙に滲む鳩羽色の瞳。
     遮蔽布越しに聞こえる、胸が潰れそうな泣き声までも。

     ふ、とひと呼吸で意識を切り替える。
     もう、あのときとは違うのだ。

     ネアとシルハーンとの婚姻も済んでいるし、それによって与えることができたウィリアムの守護も以前とは比べ物にならない。
     ネアの魂に食い込んだ術符はネア本人と、そしてウィームの円環の中心に納められたものとして正しく安定し、蝕によって揺らぐことももはやないだろう。

     次の蝕はグレアムの手を借りずとも良いだろうかと考えかけ、少しの間でも休まなければそれはそれで心配をかけそうだなと思い直す。

     打てる手は打つにせよ、間違えるわけにはいかない。
     もう二度と、あんなふうに泣かせるのはごめんだった。



    「ウィリアム」
    「ネビア?」



     呼ばれて、向き直る。
     そこに立っていたのは灰白のまだらの髪に水色の盛装を合わせた白薔薇の魔物で、人が途切れた隙にと声をかけてきたらしい。



    「ノアベルトを見なかったか? ボルムズヴィとルーカーの防衛魔術について幾つか尋ねたくてな。ほこりに聞けば、ノアベルトはどうかと勧められたものだから」
    「ほこりに……聞いたんだな……」



     白薔薇の魔物は万象に忠実な一柱であり、以前シルハーンに心臓を抉られるような真似をした塩の魔物のことはあまりよく思っていなかったと認識していたが、ほこりの顔を立てる程度には印象が回復したらしい……、と考えたところでくらりとした頭を振る。

     ジョーイと親しいネビアがほこりと会話を持っていても不思議ではないし、ウィリアムとしても、ほこりは知らぬ仲ではない。知らぬ仲ではないが、抱えて移動したこともあるあの雛玉に、ネビアが真面目に質問をしている様を想像してしまうと、どうにも違和感を拭えなくなる。人型になれることは知っていたが、幸か不幸か今まで一度も見たことがなかった。

     首を傾げるネビアになんでもないと頭を振って、ノアベルトは不在のようだと告げた。

     ノアベルトは現在、ネアと一緒にリーエンベルクで待機しているはずだった。シルハーンが不在にしている間のネアの守り手として、また、前回はエーダリアが是非にと担っていた、リーエンベルクへの香炉の道を見張るためでもある。今回の参加者が参加者ということで、万一にもリーエンベルクへの道を辿られないように、向こうで残ることにしたのだ。



    「その魔術であれば、アルテアが何度か試したことがあると話していた気がするが」
    「アルテアか……。さっきノアベルトの所在を聞いたら、体調が優れなかったようで、ろくに会話にならなかったんだが……」
    「……ああ、そうか」



     先日、姫林檎のパイをひっくり返していたことで、銀狐がアルテアを弱らせていたのを思い出す。
     いい加減慣れてもいいのではとも思うのだが、もしかすると、ただの狐として可愛がっていた年数分くらいは悩み続けるのかも知れないと、小さく苦笑した。



    「ラザリアの国境域のことで悩んでいるのかい?」



     ウィリアムが密かに遠い目をしていると、こつりと床石を鳴らして白い影が近づいてくる。ネビアが小さく息を呑み、そっと頭を下げた。



    「……いえ、シルハーンを煩わせるようなことでは……」
    「あのあたりが崩れると私としても都合が悪いからね。君はほこりの周辺も見てくれているようだから」
    「……いえ、その……、有難うございます……」



     ネビアは視線を微かに泳がせて、口許を片手で隠した。シルハーンに声をかけられて嬉しかったのだろう、吐息の震えを抑え込み、きゅっと口角を引き締めている。
     ややあって、ぽつぽつと会話を始めるうちに冷静さを取り戻したのか、いくつかの応答を重ねる頃には水色の瞳を輝かせるばかりで震えもなくなっていた。



    (シルハーンがこうして、何かを分け与える喜びを得たのはいつだっただろう……)



     ネビアの相談に乗っているシルハーンの表情はひどく穏やかで、乞われるがままに与えていても心を動かせなかったかつての日々では決して見られなかったもの。

     それは間違いなくネアが教え齎した情愛であり、長きにわたる孤独によって一度かたく閉じたものが再び花ひらいたようで。
     ネアのためにと取捨選択する様は以前の気まぐれとなんら変わりないと見る者もいるだろうが、橋をかけリースを作るのだとネアが言うように、他者との繋がり方が変わったのは明らかだった。



    (唯一を得るということが心を豊かにするのだと……余裕ができるという言い方もしていただろうか)



     少しずつ、少しずつ。
     かつて失われたものを、あるいは手を伸ばしても届かなかったものを、取り戻し、手に入れて、紡いでいくのだと。

     焦がれるように謳う少女の微笑みを思い出して、ウィリアムはそっと表情を和らげる。

     会話に混ざり、防衛魔術の話から近々起きるであろう戦乱の話に移り、他愛もない歓談が始まろうとしたところだった。



    「ディノ」



     ざらりと重苦しく、布を引きずる音がした。

     黒く濁った蜜のような声が響き、周囲にさざめきが走る。それは万象の名を気安く呼ぶ無作法を咎める呟きであり、あれが、と声の主に恐れを抱く囁きであった。
     今でこそシルハーンをディノと呼ぶ者は増えたが、ネアに関わらないところで万象をそう呼ぶ者など、今亡きレーヌの他には数えるほどしかいない。

     略奪の精霊王、ゲルドルーダ。グーガンディを廃して王の座を簒奪した女だ。

     腰まで伸びた黒髪は複雑に巻かれ、萩を煮詰めたような瞳はじっとりとした光を帯びる。大きく膨らんだ袖とスカートがまるで女王蟻のようなシルエットをつくり、実際のところその所業は軍隊蟻とさして変わりがない。



    「……ああ、魅力的になられたわ。とても、とても。昔から心が千切れそうになるくらいに美しかったけれど、今の方がもっと素敵」



     ねっとりと絡みつくような視線がシルハーンに纏わりつき、ネビアがぎゅっと眉を顰める。階位を落としたとはいえ未だ上位十席に名を連ねる白薔薇の魔物も、ウィリアムのことでさえも目に映ってはいないようだった。



    「お久しぶりね、ディノ。逢いたかったわ。ずっとずっと。あなたもそうではなくて?」
    「……ゲルドルーダ。私は特に会いたいとは思っていなかったよ」
    「そんなことをおっしゃらないで、愛しい方。ようやくあなたが私の手を取れるようになったというのに。……ねえ、ディノ。わたくしの夫になってくださらない?」
    「私には既に伴侶がいる。君のものにはならない」
    「まあ、うふふ。照れてらっしゃるのかしら、おかわいいこと」



     ふうっとシルハーンが鋭いため息をつく。ここであまり強く拒絶できないのは、略奪の精霊というものが、拒めば拒むほどに盛り上がる厄介な性質を持っているからだ。

     ゲルドルーダがシルハーンに恋慕を抱いているのは有名な話であったが、それでも以前のレーヌのように、彼女が実際シルハーンに触れようとしたかといえばそうではない。
     周囲に興味が持てなかった頃のシルハーンが、それさえどうでもいいと自身の名前を呼ぶことを許可していても、彼女は一線を超えようとはしなかった。

     ゲルドルーダは待っていたのだ。
     自分が恋焦がれる万象が、誰かのものになるのをひたすらに。

     略奪の系譜としては標準的な資質だが、ゲルドルーダは他人のものにしか興味を示さない。
     婚姻を含む契約で結ばれた者も略奪の対象であり、それが魔物だとしても容赦なく手を伸ばす。魔物という種が生涯にひとりしか伴侶を得られないことも意に介さず、愛する者と引き裂かれたことでその魔物が崩壊の道を辿るとしても。

     求婚されたのがウィリアムであればまだよかった。それを許すというわけではないが、少々のことがあっても終焉で断絶してしまえばそれで済む。
     それこそひと昔前のシルハーンであれば、煩わしくなればあっさりと壊してしまい、この場の魔術が歪まないよう崩壊による魔術汚染を自身で呑み込んでしまったに違いない。

     抱えるものが増えれば制約も増える。それが、どうしても失いたくないものとの誓いであればなおさらだ。



    「無礼ではないか、ゲルドルーダ」
    「未だ誰のものでもない哀れな男が、愛する人への道を遮らないで頂戴。どうして自分が相手をしてもらえると思うのか不思議で仕方ないわ」
    「自分ならシルハーンの相手に相応しいと? 妄言はそこまでにしてもらおうか」
    「どうしてわたくしが求められていることを認めないのかしら。現実から目を逸らすのも度が過ぎると可愛くなくてよ?」



     ネビアがシルハーンの半身を隠すように立ちふさがり威嚇していても、ゲルドルーダは動じない。

     略奪の対象になりやすい植物の系譜は、求められるものの優位性を鑑みても、魔術の理において略奪の系譜には少々不利を取る。最高位の白薔薇であるが故に一方的に排除されることはないにしろ、略奪の精霊王を明確に退けるほどの力はない。

     周囲に視線を巡らせる。遠巻きに様子を窺う者の中には面倒そうに顔を顰めるアルテアがいて、その近くにはグレアムの姿もあった。さぞ機嫌が悪いのだろうと思いきや、グレアムは想像していたよりもずっと涼しい表情をしており、思わず目を瞬く。視線の温度こそ凍えるように冷たいものだが、こういう事態にはいち早く手を打つ彼が静観している以上、何かしらの制限があるか、あるいは既に手を打ってあるのだろうか。

     ネビアとゲルドルーダの口論は勢いを増している。

     略奪の精霊王とはいえ、シルハーンの同意なしに婚姻が行われることはない。よって、ネア以外との婚姻を望まないシルハーンが頷かない限り、ゲルドルーダがシルハーンを手に入れることはないのだが。



    (万一ネアの方へ矛先が行くと厄介だからな……)



     知ると知られるの相互干渉ほどではないが、所有被所有もまた互いに影響するもののひとつである。
     所有するということはある程度の執着があってこその行為であり、所有しているということは所有されていることだとこじつけることも可能なのだ。
     元々は魔術を意図してのことではなかっただろうが、ネアが、自身は己のものだと繰り返し宣言することには、確かに意味がある。

     ともあれ、婚姻の契約を結んでいる以上、ネアはシルハーンのものであり、シルハーンはネアのものであるという図式は成り立つ。そして、ネアからシルハーンを引き剥がすことはまず不可能だが、シルハーンからネアを引き剥がすことは、容易ではないにしろ前者ほど難しくはない。
     ましてや人間は指の数だけ婚姻ができる生き物で、狩りの女王を自認する以上、略奪の気質も彼女にはある。単純に、癇癪を起こした精霊の呪いがネアに降り掛かることも望ましくはないが、下手に興味を持たれて求婚の対象がネアにすり替わることも避けたかった。


     やがて牽制の言葉も尽きたのか、ひりついた沈黙が周囲を満たす。
     殺し合いが始まる前に介入した方がいいだろうか、と精霊の呪いを引き受けるのを覚悟でウィリアムが一歩前に踏み出そうとした、そのとき。



     ひゅ、と息をのむ気配の後、ざわりと喧騒が揺れた。

     まばらにこちらを窺っていた人垣が逃げるように割れる。ぽっかりと空いた空間を我が物のように踏みしめ、近づいてきたのは一組の男女だった。

     どちらも舞踏会に相応しく盛装姿で、まっすぐに背筋を伸ばした女性が男性の腕にそっと手をかけているだけのきわめて一般的なエスコートだが、異様なのは女性の格好だった。

     顔は顎下までのヴェールに隠れ、髪色すら定かではない。ドレスは首元まできっちりと詰められた禁欲的なもので、青灰の色も相まって夜会の淑女というよりは修道女のようであった。スカートの重ねは少なく、厚めの布地は遠目だとひどく重そうに見える。
     だが、特徴的な刺繍と魔術の織りにウィリアムははっとして目を瞠った。その揃えのすべてが必要なものであると知っていたからだ。


     悪女のドレスと、それは呼ばれている。


     最初にドレスを作らせたのは小国の王女であった。そのときはひとりの男をひとりの女と取り合っただけだが、ドレスの話を聞きつけたとある妖精の女王がデザインと性能を気に入り、五十八人の女を蹴散らして7人の男を手に入れたことが名前の由来である。

     そのドレスを纏えば望む男を必ず手に入れられると認識している者も多く、悪女の名にあやかって、あるいは本当に男を奪う力があると信じて女達はドレスを繕わせてきたが、実際のところは違う。
     悪女のドレスは、男そのものは自らの力で勝ち取り、そうして手に入れた男を手放さないための決闘装束だ。男を取り合っている間は、他の何物にも邪魔されないという因果の術式も織られている。

     誰かの男を奪うときにも用いられるが、略奪ではなく決闘の系譜の衣装であり、自らの色を用いた布で仕立て、望む男の色を刺繍糸に使う。見事男を手に入れたときには、勝利こそが彩りであると宣言するかのように、糸の色で布地が染まると聞いた。

     ここにいる女性が着ているドレスは、灰色の布地に真珠色の糸で刺繍が施されている。そんな色の糸を使える女性など、世界広しといえどひとりしか存在しない。



    「ネア……?」



     思わず呟いた名前に、ヴェールの下で微笑む気配があっただろうか。
     そこで初めてエスコートしている男性の方に目を向ければ、それは擬態であろう菫色の髪を後ろでひとつに結んだアレクシスで、スープの魔術師だ、と恐れ慄く声があちこちから聞こえる。

     何故ここに、と思いはしたものの、不躾にも思えるほどまっすぐにこちらへ近づいてくる二人を、誰も止めることはしない。
     それがドレスの効果なのか、スープの魔術師を恐れてのことなのかはわからなかったが。

     結局二人ともゲルドルーダを一瞥もしないまま、シルハーンの元へと辿りつき、レースの手袋に包まれたネアの手が、混乱するシルハーンへと恭しく引き渡される。



    「……ネア? なぜ……」
    「……浮気ですか?」



     それは、敢えて拗ねたような声色を作っているのが瞭然の声だったが、どうにもシルハーンには伝わらなかったらしい。ネアの言葉に戦慄し震えあがったシルハーンは慌ててネアを持ち上げ、ぶるぶると震えながら細い肩に顔を埋める。



    「浮気はしてない……」
    「どうでしょう。素敵な昔馴染みさんのようですが、うっかり婚姻の約束などしていたのでは?」
    「婚姻の約束もしてない……」



     絶望を顔に浮かべたシルハーンが涙目で見上げていても、ネアは膝に手を置いたままつんと澄ましている。
     先ほどまでは果敢にシルハーンを守っていたネビアも、伴侶にいじめられる王をどう助けたものかと、おろおろと狼狽えるばかりだ。

     妙に静かだなと思いゲルドルーダの方を見てみれば、彼女は彼女で目を見開いたまま、不気味なほど微動だにせず固まっている。



    「……それでは、私を差し置いて、他の方のものになってしまったりはしませんね?」
    「……しないよ。君だけだ。君だけが……」
    「……しょうがない魔物ですねえ」



     そこでようやくくすりと笑ったネアがシルハーンの頬を撫でる。そのままネアの掌に頬をすりつけるシルハーンの表情は陶然として美しく、刺激が強すぎたのか何人かがどさりと倒れる音がした。

     シルハーンが誰のものになるのかが本人の意向によって決まるのならば、もはやこの時点で勝敗は決したようなものだが、悪女のドレスが定めた勝利は、どちらかが手放すことを宣言するか、恋敵をなくしてしまう他にない。

     そして、ネアがシルハーンを手放すはずもなく、ネアをなくしてしまうことはシルハーンも、勿論ウィリアムも許容するわけにはいかないのだった。



    「ディノは私の伴侶なので、あなたには差し上げられませんよ。欲しいと思ったものを大事にできない方に、私の大事なディノは渡しません」



     そう大きな声ではなかったが、その宣言は朗々としてよく響いた。ヴェールの向こう側にあるはずの鳩羽色が、略奪の精霊王を射抜いているのがわかる。
     ふと、白い花びらが視界の端に見えたような気がしたが、意識したときにはもうその残滓すら見当たらなかった。

     果たしてどう出るかと身構えていたが、どうもゲルドルーダの様子がおかしい。だらだらと冷や汗をかき、暗い美貌をわなわなと震わせて、視線を一点に集中させている。彼女が凝視している先はネアでも、シルハーンでもなかった。



    「……どうして、スープの魔術師が、ここに……」
    「娘婿に横恋慕する精霊がいると聞いてな。スープの材料を採取するついでに、娘の戦いの立ち合いに来たんだ」
    「むすめ……、娘、婿……」



     ゲルドルーダの身体はぐらりと傾ぎ、もつれる脚をよろよろと後退させた。黒く塗られた唇がわななき、掠れた声がこぼれ出る。



    「……いらない」
    「む?」
    「いらないわ! いらない! スープの魔術師の縁者なんて冗談じゃない! 二度と手を出すものですか!!」



     悲鳴のような叫び声を上げ、ゲルドルーダは踵を返し逃げ去っていく。乱れる髪も引きずる裾も気に留めず、転移を使えることも思い出せなかったのか徒歩のまま駆けていき、あっという間に姿が見えなくなってしまった。

     恋敵を威嚇していたはずのネアは、敵の突然の逃亡にぽかんと口を開けていたが、やがて我に返ったようで、しゅんと肩を落とす。



    「私自らぎたぎたにしようと思っていたのに逃げられてしまいました……」
    「ご主人様……」
    「皆さんが会場の魔術に気を遣って手を出せなかったのはなんとなくわかりましたので、もう改良型きりん箱に入れて地獄を見せるしかないと思っていたのですが……、ほわ……!」



     ネアひとりで立ち向かうつもりだったのか。あの恐ろしい箱をどのように改良したものか。
     あらゆることが恐ろしいと言わんばかりのシルハーンにぎゅうぎゅうと抱きしめられているネアのドレスが、ざあっと色を変えた。

     青灰色から真珠色へ。
     それはネアが確かな勝者になったことの証であり、もはやこの場において、シルハーンに手を出そうという者がいないということの証明でもあった。

     ドレスの美しさと喜びに打ち震え、きらきらと鳩羽色の瞳を輝かせたネアは、ぐっと拳を握りしめてシルハーンへと宣言する。



    「ディノ! 勝ちました!」
    「……困ったご主人様だね。淑やかにしていると言っていたのに」
    「……わたしはちゃんとしゅくじょでしたよ?」
    「……ネア」
    「ごめんなさい、ディノ。私はどうしても、あやつめがディノに手を伸ばすのが我慢ならなかったのです」



     眉を下げてシルハーンの髪を丁寧に撫でるネアに近づけば、手を止めないままこちらを向いたネアが困ったように笑いかける。



    「ウィリアムさんにも、ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません」
    「……そうだな。ネアが危ないことをしたのと……、エスコートを他の男に取られたのは、騎士としてちょっと傷ついたかな」
    「それもごめんなさい。本来この舞踏会に喚ばれていない方で、自由に動ける上に、ご自身の身を自分で守れる方が良かったのです。それと、あまり近しい契約を結んでいる方だと、立会人としての条件を満たさないと聞いたので……」



     そのまま話を聞けばこの事態にはノアベルトが一枚噛んでいるらしく、手に入れた招待状の宛名を書き換えて種々の魔術を調整したうえでネアを送り出したらしい。

     悪女のドレスが着衣者の勝利を認識するために幾つかの条件があるのも確かだ。
     アレクシスはいつの間にやらネアのことを娘呼ばわりしているが、未だ自称のみで契約に至っていない以上、庇護者としての条件はまだ満たしていない。



    (……だが、あれだけの力がある魔術師であれば、そのうち言葉の魔術に現状が追い付くだろうな……)



     少し複雑だが、まあ不愉快ではないとして捨て置き、ふと視線を下げると、ネアのドレスの意匠が目に入り、思考が止まる。



    「……ネア、その……、ドレスは……」
    「こちらの頼もしくて素敵なドレスは悪女のドレスと名前がついているそうで、これはもう今夜必要だなと思いシシィさんに仕立てていただいたのです! ……似合っておりませんか?」
    「いや、すごく似合ってるぞ。ただ、その……近くに寄ると……印象がまったく変わるんだな……」
    「ノアも似たようなことを言っていました。胸元が透かし刺繍になっていて素敵ですよね」



     ネアはそう言ってうっとりとドレスを撫でるが、その透かし刺繍がこちらの悩みの種になっていることに勘付いた様子はない。



    (シシィのドレスにしては印象が重いと思っていたが……色が変わることを前提にした造りだったんだな……)



     そして、そこで初めてドレスに気づいたものか、間近でネアの肌を見てしまったシルハーンがびゃっと飛び跳ねて、ネアを抱えたままくしゃくしゃと蹲ってしまった。



    「ぎゃ! 急に高度を下げるとひゅんとするのでやめてください!」
    「すごく虐待する……」
    「ディノ? このドレスは好きではありませんか?」
    「……ドレス、は、すごく似合っているよ。でも……虐待……」
    「ふむ、概ねよしという評価にしておきましょう。……むが! ヴェールの上からはにゃを摘まむ悪い魔物め!」
    「ふざけるな、なんでお前はわざわざ来たんだ! 自分の事故率をわかっていての行動なんだろうな?」



     呼ばれなかったことで不機嫌になっているのだろうアルテアがつかつかとやってきてネアに無体を働く。

     それを退けつつ、アルテアがゲルドルーダの選択を固定して、ネアのドレスに紐づけたことを確認した。これでもはや、気が変わったとゲルドルーダが再び近寄ってきても、手を出すことは叶わなくなる。

     ドレスの魔術だけでも事足りるだろうが念のために、と呟くアルテアがネアのドレスに視線を向けたまま動かなくなってしまったところで、おずおずとネビアが歩み寄ってきた。



    「ロサさん! さきほどはディノを守っていただいて有難うございました!」
    「……いや、私は何もできなかった。略奪の精霊は気安く薔薇の蕾をむしっていくから、いつかどうにかしたいと思っていたんだが……、あの女には、あれで十分な報復になるだろう」
    「それはもう滅ぼしても良いくらいの罪ですね。……ロサさんが盾になってくれたことでディノは攫われることなく無事でいてくれましたし、時間を稼いでいただいたからこそ間に合えたところもあるので、今度ほこり経由で何かお送りしますね。……そうしてもいいですか、ディノ?」
    「うん……、有難う、ネビア」



     シルハーンに礼を言われてしまい照れたのか、目元を染めてすっかり動揺しているネビアをネアが微笑まし気ににこにこと見ており、何とはなしに面白くない心持でウィリアムは目を細めた。



    (……もう少し早く介入しておけばよかったか。ネビアとは今後の冬告げでもネアとは離しておこう……)



     アルテアから、ネアがネビアのことを正統派の美形であると気に入っている旨の発言があったと聞いているし、用心しておくに越したことはない。

     そのアルテアは、お前はまた余分を増やすなとネアの肩にストールをぐるぐる巻きつけてネアを暴れさせていた。



    「むぐるるる! 素敵なドレスを隠してしまう蛮行は許しませんよ!」
    「お前はいい加減情緒をどこかから買ってこい」
    「解せぬ」
    「はは、アルテアは意地悪だな」
    「ネアがアルテアを着てる……」



     消沈した様子のシルハーンが、それでもネアの肩が隠れてほっとしたものか、ネアを抱きしめたまま立ち上がる。

     ふと気配を感じて横を見れば、既にどこかからむしってきたのだろう妖精の羽をしまっているアレクシスが、ここで別れると言い始めた。



    「それじゃあネア、俺は少し素材の採取をして帰るから、ここまででいいか?」
    「はい! アレクシスさん、本日はエスコートを有難うございました! 泥棒猫めに手を下せなかったのは残念ですが手早く済んで何よりです。またお礼をさせてくださいね」
    「娘夫婦の危機に駆けつけられて何よりだ。礼ならまた試作のスープを飲みに来てくれ。もちろんディノも一緒にな」
    「ふふ、では近々お店に伺いますね」



     少しのやりとりの後、なるほど父親らしい顔つきでにっこりと微笑んだかと思えば、おもむろにネアとシルハーンの頭をわしわしと撫でて去っていった。

     撫でられ慣れているネアは特に動じた様子もないが、ネア以外の者に撫でられたことなどないシルハーンはひどく怯えており、抱え込んだネアごと後ずさって柱の陰に隠れてしまった。



    「撫でられた……」
    「あらあら、突然大事にされてびっくりしてしまいましたか?」
    「大事に……されたのかな……」
    「もはやアレクシスさんは、ディノのことを娘婿だと公言してはばからなくなってしまいましたからね。そうして、守ってくださる方が増えるのはいいことだと思いますよ」



     丁寧に三つ編みを撫でられて落ち着いたのか、シルハーンは目元を染めたままこくりと頷く。遠くから見守っていたのだろうグレアムが、ハンカチで目を押さえているのが見えた。

     ネアと出会ってから、シルハーンが気にかける者が増えたのと同時に、シルハーンを守りたいと願う者も増えたらしい。

     遠巻きにこちらを窺っていた者たちもいつの間にか散開し、既に舞踏会は元の賑やかさを取り戻している。

     一曲くらいは踊ってもらえるだろうかと算段しつつ、それはそうとして、と上書きするようにネアの頭を撫でておいた。









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