言葉はなくとも 「今日は自宅へ帰らせてもらう、報告書は明日提出する」
ホリデーアクアタウンでの出店企画を終え、礼光様は大黒社長にそう告げた。杏氷様への報告もあるのだろう。
車の行き先を寮から自宅へ変更し帰路に向かう。普段から無駄話をされるタイプではないが、今日は一際物静かな空気を纏っている。
しかし、機嫌が悪いわけではなさそうだ。時折される、ここより遠い景色を眺めているような瞳。視線は窓の外に向けているが、見えているものは違う場所なのだろう。
同じ景色を見ることが叶わない寂しさはあるが、礼光様にとっては必要な時間だ。せめて快適な時間を届けるため、スムーズな運転を心掛けて進んだ。
「あれ?今日こっちだったんだ」
家に到着すると、居間で寛いでいた杏氷様がこちらに気付いて声を上げた。
「どうだった?首尾は」
「メールで報告した通りだ」
礼光様の背中越しの返事には一切反応を示さないことで、この後の行動を指示している。傍若無人な御方ではあるが、一家の長を担う一翼としてはこのぐらいの威厳は必要なのであろう。身内にまでする必要があるかは疑問は残るが。
「……ッチ」
小さな抵抗で舌打ちをしながらも、礼光様はしぶしぶと杏氷様の正面に座った。
伏せてあった茶杯に湯を注ぐ。
「首尾は上々だ。予定数はすべて完売したが、昼時のピークタイムを過ぎてからで、過不足なく行き渡らせた。デザートを中心とした展開にしたことにより、既存店舗と相乗効果を高めることにも繋がったようだし、HAMAツアーズとのコラボにより、SNSでの口コミも施設自体に対して高い評価として広まっている」
淀みない報告に黙って耳を傾けた後、茶杯の湯を水盂に零し、茶海から黄金色の液体を注いだ。まだ淹れて間もないようで、芳しい香りが立つ。労いの返礼だ。
「区長業務なんて、中華街の治安だけに目を配れば十分と思ってたけど、こういう効果があるなら、あんたを送り出して正解だったわ」
言葉と共に差し出された茶杯を前に、机を指でトントンと鳴らしてから口をつけた。
どうやら、いつもの気まぐれではなく、杏氷様なりに、今日の功を労いたかったらしい。礼光様もそれを察してか、それ以上突っかかることもなく、目を閉じ甘露を味わっていた。
「じゃあ、私も先方に報告に行くから。林杏も今日は友達と旅行だからね」
「おい、本当に友達とか」
「相変わらず過保護ね~」
立ち上がって問いかける礼光様を無視して、杏氷様はさっさと部屋を出て行った。
「おい、曽潤」
「はい、護衛は手配していますが、間違いなくご友人宅にご滞在中です」
「……」
あまり納得はしていない様子だったが、腰掛け直して残りの茶に口をつけた。
寮に越してから、身近に林杏様と年の近い人達を目にするようになり、礼光様の心配性が増したように思える。俺が見る限りは、彼らは思いの外健全な生活を送っているように思うが……
飲み干した茶杯を机に置いたのを見て、抜けた主人の代わりに茶器に手を伸ばそうとしたが、
「いや、茶はもういい」と制された。
「それでは、風呂の用意をしてありますので」
陽気ですぐに乾いたとはいえ、頭から水を被った後だ。到着時間に合わせて、湯の準備をしておいた。
「──分かった」
「?」
少しばかり間があったが、立ち上がり風呂場へ向かわれた。その間に残された茶器を片付け、部屋の外で主の帰りを待つことにした。
主は、日中のプールサイドでの出来事を彷彿とさせるような出で立ちで戻って来た。ローブを軽く引っ掛けているだけな分、先程よりも質が悪い。流石に慣れたが、このギャップにはまだ驚かされる。部屋に入る前にタオルを差し出したが、今度は受け取らず、代わりに部屋の扉が開け放たれた。
長年仕える中で、積み重なって来たいくつものルールのうちのひとつ。名を呼ばれた時と、部屋の扉を閉めない時は入室が許可された合図。礼光様は言葉数が多い方ではないが、それは無口な訳ではなく、察する能力を試されていると受け取っている。
幼い頃から主人に従順な狗となるよう教育された俺は、最初は何でも指示を待っていた。忠誠の証として耳を差し出した際に、これからは自分で考える力を身に着けろ、と言われ培ってきた能力だ。
濡れた床を拭いながら着いて行き、後ろ手で扉を閉める。
礼光様は、部屋に据えられた重厚な椅子に腰掛け、肘掛けに手を預けながら深く身を沈めた。長い髪が、背もたれに施された優美な彫刻を覆う。月光のように艶めく髪と、元来の肌の白さが、磨き上げられた紫壇の赤褐色を際立たせている。
「失礼します」
一声掛けてから、水分を含んで重くなった髪を持ち上げ、肩にバスタオルを掛ける。準備しておいたドライヤーを電源に繋いで風をあてた。俺がこうして手入れを許される時は、出来る限りを尽くしているが、普段は行き届いているとは言い難い。それでもこの美しさを保っているのだから、羨む人間が出るのも不思議ではない。夕班の夏焼千弥に美容の秘訣を教えて欲しいとせがまれて、対応に苦慮しているらしいと耳にしたことを思い出す。
──この髪は、鎖のようなものなのだ、と礼光様は言った。
確かに、鹿茸一家の血脈の者は、皆このように美しい銀髪をしている。小柄な林杏様はさておき、背の高い杏氷様は、座ったままでは後ろ姿を見間違えられることさえある。敢えてそれを利用しているので当然ではあるのだが。
持ち前の美しさに反するように、礼光様はかなり……身嗜みに無頓着な方だ。編み込みと同じくやれば出来るのだろうが、興味が薄いのだろう。服も、こちらが準備しなければ今のように極力身軽なものを身に着けようとする。俺もセンスというものに自信がある訳ではないが、杏氷様に任命され、鹿家の看板に泥を塗ることがないよう、情報収集に努めている。
光栄なことだと思う。特にこのように柔滑如絹の髪の手入れを委ねられている時は、その気持ちが高まる。
ようやく乾いたのでドライヤーのスイッチを切り、櫛を通す。整髪剤の類をつけるのは好まれないのだが、櫛通りを良くするためと、朝の手入れを楽にするためと説得して、オイル程度は許された。
とは言え、俺と違い礼光様の髪は癖のつきにくいストレートなので香り付け程度だ。少量手に取り、髪に馴染ませると、青々しい草の香りが、ほのかに漂った。
続……