ネヴァー・ネヴァー・ランド◇
そこにはただ光があった。光が渦を巻き、銀河を彷彿とさせる景色は、後ろへ猛スピードで流れて行く。前も後ろも天も地も分からなかったが、おそらくそこにあるであろう脚をリーズニングは動かしてみる。なにせ感覚が曖昧なのだ。確かにここに在るはずなのに、そうと断言ができないでいる。まるで意識だけが取り出されて、汽車か何かで歩くよりも走るよりも速く持ち去られているような感覚だった。
『リーズニング、こっちだ』
音量調整がめちゃくちゃなイライの声と、おそらく腕に何かが触れる感触がする。腕が引かれるままリーズニングは脚を動かした。それは10秒にも、1時間にも感じたが、やがて入ってきた渦と同じものが目の前に見えて来る。瞼は閉じているはずなのに、酷く眩しく思えた。
『さあ、到着だ。しっかり、もう少し』
渦を越えた瞬間、曖昧だった体の感覚が一気に戻って来た。リーズニングの体は重力に従って崩れ落ちたが、暗闇から飛び出した腕がリーズニングを支える。黄金色の古い型の拳銃が朦朧としたリーズニングの視界に映った。
「大したもんだ、初めてで意識があるとは。アンタ頑丈なんだな。近道の副作用以外に問題はあるか?ちゃんと指は付いてる?……大丈夫そうだな、まずは場所を変えるぞ。抱えるが問題ないな」
聞いたことのある声だった。教会の墓地で聞いた、あのギョロついた目をしたヒョロ長の大男。黄金の刺繍の入った褐色の布で鼻から下を覆い、開拓時代の欧米西部を思わせる服を纏った、見た目に反してか細い声の男がそこに居た。
◇
「クレス……だったか?」
「そ、アンドリュー・クレス。コードは〈日没(sunset)〉だ。ビールと、炭酸……あと、あ〜……珈琲なら出せる」
いくつか階段を降った先、古い小部屋にあるソファにリーズニングはぐったりと体を預けていた。“sunset”クレスは名前だけの自己紹介をしつつ、カウンターの奥のささやかなキッチンでゴソゴソと飲料を物色する。部屋は実に雑多で、革張りのくたびれたソファがあると思えば、綺麗に磨き上げられたマリア像に花が飾ってあったりする。
リーズニングは幾分かマシになった眩暈を軽く頭を振って散らし、クレスに向かって腕を伸ばした。
「リーズニングだ、よろしく日没。できれば珈琲で頼む」
「リーズニングね、よろしく。クラークさんも珈琲?」
クレスはカウンターから頭と腕だけ出してリーズニングの握手に応えると、あ、と今思い出したという顔で立ち上がり、イライを見た。
「多分ルカがジンジャーエール持ってると思うけど、どうする?アンタあれ好きだろ?」
「あれ、バルサーさんいるの?遺跡がどうって言ってなかった?」
「さあ……?でもなんかさっきガチャガチャ鳴ってたよ」
「彼の部屋何かしら動いてるからなあ……」
「あ〜それもそうだな……あ、いけねフィルターないや……ちょっとパクってきます」
いってらっしゃ〜い、とイライはクレスを見送り、そしてふっと真面目な顔でリーズニングを見た。
「さて、軽く説明をしようか」
「ああ、安心した。説明はしてもらえるんだな。あまりに自然に寛ぐからこのまま行くのかと思った」
リーズニングがジトリと疲れた顔で睨むと、イライは少し照れた顔で頬を掻きながら笑う。
「古巣だからね、気も抜けるってものさ。多めに見てよ」
リーズニングは深く息を吐くと、片眉を上げて話を促した。イライはそれを見ると緩やかに笑い、言葉を続ける。
「まずはここの話かな、君の推理はどのような仮説を導き出したんだい?」
「逃し屋」
「なんてこった、正解だよ」
君って本当に天才的だね、とイライは舞台役者のようなオーバーな動きで驚きを表現する。
「そう、ここは墓地なんだ。“C”のエージェントのね、彼らが墓守。ここで殺し、ここで生まれる。そうやって逃すんだよ。場合によっては顔も変える。良い医者がいるんだ」
「レクイエムの行方とこことどう関係がある?」
「女王様から貰った写真を覚えてる?黑の最終目撃地点の方だ。あの辺りはね、日没の管轄なんだよ。彼几帳面だから何かしら残しているんじゃあないかなと思ってね」
指を組み、ゆったりと微笑みながらイライは語る。なるほど、目撃証言が出るかもしれない、と。彼が黑を目撃しているとすれば、時間くらいは絞れるかもしれない。
「まぁ、上手いこと見ていてくれたかは分からないけどね。そうでなくてもここの資料は何かのヒントになるかもしれな……」
「クレスくんッッッ!!!!見たまえこの美しき設計図をッッッ!!!!」
イライが最後まで言い終わらない内に、突然バタン!とけたたましい音を立てて部屋の戸が勢いよく開かれた。白い髪を高く結い、ジャングルの奥地の部族を思わせる服を着た薄汚れた男が、手に丸めた羊皮紙を持ってズカズカと部屋に入って来てリーズニングの隣にどっかと座る。
「いやあ、あの遺跡で体験したものは全く無駄ではなかった!あの地域で発生していたエネルギーというのは実のところやはり電気であって、それを神と誰かが言い出したことであの閉鎖的な信仰が生まれたわけさ!そこはどうでもいい、問題はなぜあの場所で自然に電流が生まれていたかって話さ、何も知らずにあの地形や神殿が出来たとは思えないんだ。そりゃあこの星自体が磁気を帯びているからして電流がない場所などあり得ないのだけど、わたしが思うにやはり“電流”という概念を知っている何者かによって意図的にあの遺跡は作られていたんじゃないかと思ってね、そこでこの設計図だ!あの遺跡で発生していたものを擬似的に再現しようと思ったんだ!!あの美しき回路をわたしの手でここに蘇らせ……誰だ君は!」
男の口からよくわからない話がそれこそ弾丸のように飛び出して来て呆気に取られていると、ふと「あれ、これ知らない顔だな」というような顔をして男はクワッとリーズニングを見る。リーズニングは思った。他人の話を聞かず、一方的に喋り倒すこの様に凄まじい既視感を感じる、と。なんかこう、全体的に白っぽい……喧しいのが……
『幽霊!幽霊だって!?馬鹿馬鹿しい!そういうものは大体“そう見えただけ”なんだ。それをろくに調べもしないで怯えて噂するから“そう見える”ようになる。要は思い込みなんだ!この世の全ては法則に従ってそこに在るんだ。分かるかい、リーズニング!スピリチュアルで恐ろしいゴーストやデーモンは実際には見たと喚く人間の極限の精神状態が生む妄想や幻覚でしかない!もちろんそこから来る感情を否定はしない、そういう構造をしているからな、人間の脳って奴は。だがこちらにそれを持ってこられても迷惑だ!そんな目に見えないものに怯えるよりもあの日夢見た美しき永久機関に思いを馳せる方が比べられないほど有意義だ!!君もそう思うだろう!?』
嗚呼、声量すら似ているのか……リーズニングの脳内で段々と記憶の中の喧しい幼馴染と目の前の彼が重なって行く。
「久しぶり、バルサーさん。帰って来ていたんだね」
「おお、久しいな!クラリネットくんだったかな!」
「うーん、惜しい!クラークですよお」
一人だけサッカーグラウンドの中央にいるみたいに馬鹿でかい声で男はイライに応えた。そうか!違うか!とからからと笑うと首をぐりんと回してリーズニングを見る。
「君は誰だったかな!いや、忘れっぽくてすまないね!」
「いいや、君の記憶は正しい。我々は初対面だ。私はリーズニング、よろしくMr.バルサー」
「そうなのか!そりゃ良かった!こんな穴の底までわざわざようこそMr.リーズニング!」
リーズニングが差し出した手を男は力いっぱいに握りしめてめちゃくちゃに振る。リーズニングは少しばかり顔を強張らせた笑みを浮かべながら男を観察した。男の肌には細かな傷や汚れが付着し、湿った土の匂いがしていた。左の目をほとんど覆うように腫れた瞼は、本人もイライも平然としていることから昨日今日で付いた傷ではないという印象を受けた。キョロキョロとあっちこっちに視線を投げては身振り手振りで何某かの理論の説明をしている。
「ルカうるさい……そんな声を張り上げなくても聞こえる」
「おお!クレスくん!それはどうでも良いんだ!!これを見たまえよ!!!!」
「よくない、うるさい。ああもう、なんでビクターは居ないんだ」
リーズニングの隣に座っていたはずのバルサーは珈琲フィルターとジンジャエールを手に戻って来たクレスを見るや否や一瞬で距離を詰めて寄る。クレスはとびきり「イヤッやめてッ」という顔をしてビクターなる人物に助けを求めた。
「はは、相変わらずだね。リーズニング、彼はルカ。ルカ・バルサー。コードは〈viper〉発明家だよ」
「“天才”をつけたまえ、クラウドくん!わたしはこれでもかつて偉大なる父の後継として社交界に……?社交界……?父の後継……?違うな……誰の……?そう、二世の名をいただいたんです、誰、の……?僕、……は……?ンン……?」
「この通りちょっと難ありだ。腕は良いんだよ」
バルサーはクレスに縋りついたままピタリ、と虚空を見つめて動かなくなってしまった。クレスは心底面倒臭そうにため息をつくと、脇に手を入れてヒョイと持ち上げ、カウンターの椅子に座らせて適当に転がっているぬいぐるみを抱かせ放置した。クールダウンが必要なのだろう。彼は膝に置かれたテディベアを控えめに抱えてぽかんと虚空を見つめている。
「さてクラークさん、話を聞こうか。」
所々ほつれが見える革張りのソファにクレスは深く腰掛けた。雑多に見えるこの部屋も彼がいることでなにやら秘密基地のような印象を受ける。
「あんな真っ昼間に堂々と来るからびっくりしたんだぞ、知らない顔を連れているし。彼女を先に寄越すとか色々あっただろう」
「いや、すまないね。ちょっと込み合っていて……」
ギョロ、と睨むクレスにイライは少し困ったような顔しながら、リーズニングをチラリと見る。イライの視線に気付くとリーズニングは内ポケットにしまった二枚の写真を取り出した。
「銀鎌を知っているかMr.クレス」
「ああ、知っている。あの街にいて知らん方がどうかしていると思うがね。ボスが殺されたんだっけ」
「今とある事情によりあそこの構成員を探している。圧倒的に情報が足りないんだ。何か知らないか、具体的にはこの二人について」
リーズニングから写真を受け取ると、クレスは苦い顔をして深く息を吐き出した。
「……なあ、リーズニング。俺たちはさ、ここに埋まる情報の門番であるわけなんだ。エージェントを生かす最後の砦、ここから情報が絶対に漏れないから砦が成立するんだよ。部外者であるアンタにはどのような情報であっても渡せない」
リーズニングは眉間の皺を少しだけ深くする。
やはりそう来るか。当然のことだろう、こちらは部外者だ。秘密裏に活動する組織の情報を司る場所、本来ならここに居るのも許されるわけがない。さて、どうするか。
「おい、最後まで聞け。エージェントの情報は渡せない。が、世間話ならできる。例えば、ミサの日の天気とか、ここ数日は晴れていたんだよな。なのに傘を持ってお祈りにくる人は嫌でも覚えてる。何が言いたいか分かるよな?」
「……!ああ、そうだな失礼した。それもそうだ。君もミサに参加するのか?」
クレスは片方の口角をぎこちなく上げ下手くそな笑顔で続ける。リーズニングは驚いてクレスの目を見たが、一瞬目線が合ったあとすい、と逸らされてしまった。
「ああ、時間が空いた時にお祈りだけな。傘の人を見たときキリエが聴こえていたのを覚えているよ、一人でぽつんと壁際に立ってた」
「墓守の仕事は大変そうだものな。体力勝負だろう」
ああ、と短く答えてクレスは珈琲を一口含んだ。一般的に「あわれみの讃歌(キリエ)」は礼拝の最初、「開祭の儀」に唱えられるものだ。あの教会のミサは十時から。つまり、“晴れているにも関わらず傘を持った人物”は十時を少し過ぎた頃あの場に居た。
ならば、彼は何をしにあの場に居たのか。まさかお祈りに行ったわけでもあるまい。そして。
「……時に、ミサには白と黒、どっちを着て行ったら良いのだろうか?」
「……黒だな」
あの教会に一人で訪れたのは黑で確定した。つまり、写真の直後である。しかし肝心のことが不明瞭だ。リーズニングは手を口元にやり、脚を組み直して考え込む。するとイライが不意に声を出した。
「彼君に会いに来たんじゃないのかい」
クレスは三白眼をギョロリとイライに向けると、実に嫌そうな顔を作ってみせる。イライはそれにゆったりと笑い応えた。
「それは世間話か?言っただろ、部外者に情報は渡せない」
「それなら問題はないね、彼はもうこちら側さ」
クレスはく、と片眉を上げてリーズニングを睨みつけ、そうなのか?と尋ねる。
ハッタリだ。焦れたイライが強行に出た。イライ・クラークは、“C”は、仲間でさえも必要であるならば欺くのか。ならば、結構。乗ってやるまで。
リーズニングは肩をすくめ、やれやれと笑う。
「あまりに熱烈な招待だったからな。私にとっても都合が良い」
「そう……だったのか、コードは?」
ポカン、と数秒口を中途半端に開けて驚いたクレスは首を傾げてリーズニングを見る。リーズニングはすい、と視線だけで右上を見て、また視線をクレスに戻すとポツリと溢す。
「……“mercenary”」
「“傭兵”ね……てっきり“Holmes”とでも言うのかと思った。言ってくれればこんな馬鹿な問答をする必要もなかったろうに」
クレスはソファの背にぐっと凭れ掛かり、フン、と鼻を鳴らした。“mercenary”我ながら言い得て妙な語彙が出たものだ。最初に浮かんだものは“ducks”だった。忌まわしき戦地で呼ばれた名。アヒルを狩る、忠実な犬。それが“俺”だった。それをまた名乗るのは、いささか気が進まなかったのだ。利害のために、協力する。“傭兵”は今の私にはぴったりだと思った。
イライを横目で窺うと、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。目元が見えていたなら、片目をぱちんと瞑ったのではないだろうか。
「正確には、奴は“日没”に会いに来たんじゃない。奴は俺のことを知っていたし、ここのことも知っていた。奴はこう言った『知人からアンタを紹介された』って。奴から出た名前、なんだったと思う?」
リーズニングは片眉を上げてクレスを促す。ソファにふんぞり返って嫌そうな顔をしていたクレスは膝上に肘を置き、指を組むとさらに嫌そうな顔をして言った。
「翻弄者」
「……?誰だ……?」
リーズニングはその名に該当する人物の顔がわからなかったので、クレスを見たまま僅かに重心をイライに傾けて囁く。返答のないイライに訝しみ、リーズニングが視線を向けると、イライの顔から笑みが消えていた。イライは深い深いため息を吐くと両手で口元を挟み込むように覆う。
「…………あのひとか」
「びっくりだよな」
「誰なんだだから」
リーズニングが顔を顰めてイライをきろりと睨みつけると、イライは困ったように笑って続けた。
「……エージェントだよ。ここ専属のね。仕事は素晴らしいよ、彼も誇りを持ってやっている。けど、彼の仕事によって葬られたエージェントは新たに生まれ変わることはない。“どうにもならないものを葬り去る専門”なんだ。例えば、裏切り」
「はっきり言ってやれよ、『ネクロフィリア』って」
「性的嗜好は個人の自由だ、茶化すもんじゃないよ」
「アイツの場合は他人に迷惑かけてる。アンタがここに居ない間ビクターが何度殺されかけたと思う?」
「それは……そうなんだけどさ……」
「あー……とりあえず危険人物って認識でいいか?」
次から次へと飛び出してくる“翻弄者”なる人物の情報にリーズニングは頭の中でとりあえず“danger”のラベルを貼り付ける。
“情報を黑にリークした翻弄者”
“日没に会いに来た黑”
“行方不明のレクイエム”
「アイツ白い方殺したんじゃないか」
「……まさか、何のために」
イライは口に手をやったままふるふると頭を横に振る。するとクレスは片眉を上げ、肩をすくめた。
「アイツが理由を持って殺したことあったか?俺に尻拭い押し付けたとしか思えないな」
「あっ……たかもしれないだろ、今ちょっと思い出せないだけで。もしくは彼の中でちゃんと理由があったんだよ」
「随分と信用がないんだな、その翻弄者とやらは」
「馬が合わないんだ、俺アイツと」
はあ、とため息を吐くクレスを見ながらリーズニングは思考する。なぜ黑は情報をもたらした翻弄者ではなく日没を訪ねてきた?そも銀鎌と“C”と何の関係がある?どういう繋がりで翻弄者は黑と接触した?リーズニングは翻弄者の真意が読めなかった。本当に殺したのか?では黑は報復をしに?ならどうして乞われてもいない仲間の居場所を教える?本当に後始末を押し付けただけ?
「翻弄者に話は聞けないのか、エージェントなんだろう?」
「う〜ん……できないこともない……のかな……どうだろう、好き嫌いが激しいひとだからな……」
イライはローテーブルに乱雑に置かれたガラクタの中から灰皿を取り出し、引き寄せていつの間に取り出したのか咥えていた煙草に火を点けて、役目を終えたマッチ棒を灰皿に放った。深く煙を吸い込み、吐き出しながら右手で煙草を持ったままこめかみを掻く。
「君は《異界》を信じるかい、リーズニング」