慈愛の母、俺のマリア「あれ、なんだろ」
廊下の端できらりと何かが光る。拾い上げてみると、それは銀色の細い十字架だった。はて、誰かのキーホルダーだろうか。それにしては重みがあって大きい。と言っても手のひらに収まるくらいのものだ。銀色に光るよく手入れされたそれを慎重に学ランのポケットに入れ、僕は歩き出す。
(職員室にでも届けておこう)
心の中でそう呟きながら足早に目的地へ向かう。曲がり角をすいと曲がると、誰かにぶつかる。わぶ、なんて間抜けな声が出たのがちょっと恥ずかしかった。相手も自分も早足だったから弱っちい僕は尻餅をつく……ことはなく、相手にガバリと抱えられる形で支えられる。
「悪い、前見てなかった。大丈夫か?」
「は、はひ!」
桜遥先輩の黄昏と真夜中が真っ直ぐに僕を見ていた。いつも遠巻きに長ランを翻す姿を見ていたので、こんな鼻先が触れるような距離で見てしまって良いんだろうかとなんとなく後ろめたくなってしまう。桜先輩は僕をまっすぐ立たせるとサッと僕の学ランを直して口を開く。
「なあ、お前この辺でなんか見なかったか?このくらいの小さいやつ」
「ハヒ!ハイ!」
「おい本当に大丈夫かよ……」
自分の心臓がバクバクと音を立てている。顔が熱くってしょうがない。僕の最推しは杉下京太郎先輩なのに!桜先輩がフッと困ったように笑うので、僕はさらに挙動不審になりながら震える口を開く。
「エト、アノ、コレ、ソコデ、ソノ、ショクインシツ、アノ」
やばい。単語ですらない言葉しか出てこない。しょうがないだろ、推しとの1on1だぞ。お前に耐えられるか。学ランから震える手で先程の十字架を取り出すと、ズイと桜先輩に差し出す。桜先輩の左目は色が薄いから、瞳孔が緩く開くのがよくわかった。
「ああ、そう、これ!拾って届けようとしてくれてたのか」
「ヒピ」
「ありがとな、〇〇」
「エウッ」
推しに認知されている。無理だ、耐えられない。百面相をしていると、十字架を受け取った桜先輩は実に穏やかに、美しく笑う。
「本当、助かったよ」
そう言うと桜先輩は足早に階段を昇って行った。盗み見ていたクラスメイトがひょこりと顔を出す。
「お前まじで推しを前にした限界オタクだったぞ……」
ニヤニヤと笑うソイツにゆっくりと振り返る。大粒の涙が溢れた。
「推しを前にした限界オタクなんだよ。僕は箱推しだ。ハグ付きだぞお前に耐えられるか。僕は無理」
◇
少しだけ雲のかかる空の下。屋上の一角に設けられたパラソルの立ったソファの上、こんもりと山が出来ている。桜は先程屋上を出たときと変わらない山を認めると、やれやれといった風にため息を吐き、ボソボソとラテン語の聴こえるそれに近付いていく。
「杉下、あったよ」
山を形成する学ランをそっと捲り上げると、ほろほろと涙を溢す一対の月と目が合った。桜は優しく目蓋に仕舞いきれずに溢れる涙を唇で優しく拭う。ソファの上に散らばる柔らかな夜を軽く梳くと、銀色の十字架を握らせてやる。
「チェーンが切れたんだな、あれ細かったから。学校の中で見つかってよかった」
ぐずぐずと鼻を鳴らす杉下は握らされた十字架をジッと見て、そっと唇を寄せ目蓋を閉じた。
「……悪い」
「いいよ、許してやる」
桜は大きな体を折りたたんで小さくなる杉下の背をゆっくりと摩ってやる。
「こんな風になるとは思わなかった……」
「それだけ大事にしてたってことだろ」
桜はちゅ、ちゅ、と杉下の顔にキスを降らせる。杉下が身じろぐとゆったりと腕を伸ばし、桜の顔に手を添えた。
「……どうか、祝福を」
雨に濡れる月が桜を見つめる。迷子になって、やっとのことで親を見つけた子供のような、そんな目だった。桜はふ、と優しく微笑むと、杉下の唇をそっと塞ぐ。触れさせるだけの、母から子への慈愛のそれに似た口付け。実際には十秒かそこらだろうか、二人にとっては永遠だった。ゆっくりゆっくり口を離すと、ぽろ、と最後にひとつ涙が重力に従って落ちていく。それ以降はもう落ちなかった。
「機嫌治った?」
桜は杉下の髪を一房取り、撫でつけたり、指に巻きつけたりして弄びながら杉下に問いかける。杉下はぱちりとひとつ瞬きをして、「別に機嫌が悪いわけじゃない」とぼやいた。髪を弄る桜の指に自分の指も絡ませながら、杉下はジッと桜を見つめる。
「もう一回、俺のマリア」
いつの間にか空は晴れていた。