答えはkissのあとで1.
ジャッカルは悩んでいた。それは彼の後輩、切原赤也についてである。
テスト期間というジャッカルにとって胃の痛くなる時期が到来した。ジャッカル自身成績を残せるよう勉強に身を入れているが、自分のテスト勉強以上に気がかりなことがあった。
赤也の英語である。
全教科赤点寸前部活動停止レベルギリギリで生きている赤也に立海テニス部3年はテスト前になるとそれぞれ担当教科を持ち、教えている。その中でジャッカルは英語を担当していた。
苦手科目に挙げているだけあって赤也の英語能力は壊滅状態、やる気を出させるためにジャッカルは毎回70点以上採れたらご飯をおごるという約束の下赤也の英語を見ている。結果、70点以上を採れたことはないが赤点以上ではあるので一定の効果が出ていることにジャッカルは安堵している。そしてなぜか約束の70点以上を果たせていなくとも赤也にご飯をおごっていた。本当にどうしてだろう。
しかし今回そうはいかないのであった。ジャッカルは今月金欠であった。とても後輩にご飯をおごる余裕などない。よって赤也をご飯で釣りやる気を出させる作戦は不可能だった。
一体何をご褒美にしたらテスト勉強に力を入れてもらえるのか。思案しながら登校していると、「よっ」と肩を叩かれた。ジャッカルのダブルスパートナーである丸井ブン太だった。
「辛気臭い歩き方してどうしたんだよ。またなんか悩んでんのか?」
兄貴肌で面倒見のいい相棒は、何かと真面目に考えがちなジャッカルに声をかけてくれる。明るい丸井の気遣いに少し救われた気持ちになったジャッカルは「実は……」と事情を話した。
「なるほど、そういうことか」
丸井はジャッカルの話を聞くと考え込む素振りを見せた。そしてすぐ、名案でも思い付いたかのように華やかな表情になる。
「おっし。ジャッカル、ここは俺に任せろ」
「えっ? 何かいいアイディアが浮かんだのか?」
丸井の作戦をぜひとも聞きたかったが、丸井は放課後にジャッカルと赤也が勉強する教室に顔を出すから、と告げただけで一体何をするのかは教えてくれなかった。
「ちぃーす。あれ、今日は丸井先輩もいるんすね」
「おう」
待ち合わせの教室にやってきた赤也は丸井がいることに反応を示すと、慣れたようにジャッカルと丸井が座っている近くの席に着いた。
「丸井先輩もジャッカル先輩に英語教わりに来たんすか?」
「ちげーよ。俺は今日、お前の『やる気スイッチ』を押しに来てやったんだ」
「はあ?」
首をかしげる赤也に丸井は決め顔で話を切り出した。
「喜べ。今度の英語のテストで赤也が満点とったら……柳が脱ぐぞ」
「えっ!?」
!?
目を丸くしている赤也の向かいでジャッカルは突然相棒が何を言っているのかと言葉を失った。
不思議なことに、赤也は柳と付き合っている。ジャッカルから見れば本当に不思議なことだったが、噂によるとうまくいっているらしい。
どうやら丸井の企てた作戦は柳を使うようだった。柳に許可をとっているのかは謎だが。
「考えてみろよ。柳が『赤也、俺のこと好きにしてくれ』って誘って、ジャージのファスナーを自ら下げる姿を……」
「や、柳さん……」
丸井の言葉に乗せられ赤也は想像したのか、ゴクリと喉を鳴らした。ジャッカルは、おそらく柳本人の許可はとっていないであろうに、こんな勝手に話を持ち出していいのだろうか、と不安が広がってきていた。
「俺……マジで頑張ります。100点とります」
「いいぞその調子だ。柳も応援してっからな」
いやこんな不純な動機が絡んでいると知ったら柳は応援しないだろ、とジャッカルは胸の内で丸井の言葉にツッコんだ。
「やべえ俺、すっげーやる気出てきました。今日からマジで英語勉強します。……って教科書机ん中に置いてきちまった! ダッシュで取ってきまーす!!」
赤也はやる気をみなぎらせたように勢いよく教室を飛び出して教科書を取りに行った。これから英語の勉強をするはずなのに教科書すら持って来ていなかったのか、とジャッカルは改めて赤也の英語に対する意識の低さを痛感した。
赤也がいなくなり、丸井が「ふう」と一仕事終えたかのような息を吐く。
「よし、こんなもんでいいだろい」
「よくねえよ!」
心の叫びが口をついて出た。
「いいのかよ? 柳のことを話に使って。柳にはちゃんと話したのか?」
「いんや。まったく」
「やっぱりな!!」
ジャッカルの予想通り丸井は柳の許可なく赤也に「柳が脱ぐぞ」などと不埒な話を勝手に広げていた。結果として赤也のやる気を引き出せたわけだが、押したのはやる気スイッチではなく、ヤる気スイッチではないのか。ジャッカルは別の懸念事項が増え、胃痛がひどくなったような気がした。
「どうすんだよ。まさかこのまま柳に何の説明もしないでいる気か?」
焦っているジャッカルとは反対に丸井はのんびりとかまえている。
「話はしておくって。ジャッカルが」
「俺かよ!」
定番のオチがついたところで、赤也が「戻りましたー!」と英語の教科書を掲げて教室に帰ってきた。
翌日昼休みにジャッカルは教室までやってきた丸井に連行され部室に入った。そこには柳がおり、嫌な予感がした。
「話があると呼び出しておきながら、遅かったな」
「わりいわりい。どうしても話しておきたいことがあってさー、ジャ……」
「『ジャッカルが』とお前は言う」
お得意の先読みで丸井の言葉を言い当てた柳にジャッカルはもうすべてを見透かされているような気がし、背筋が凍えた。
「……つーわけで、柳も話を合わせてくれよな。シクヨロ」
爽やかに経緯を語った丸井に対し、柳は冷たいオーラを発していた。やはりジャッカルが予期した通りの反応だった。
「勝手なことを話されても困る」
柳の言い分がもっともだ。心中落ち着かないジャッカルの隣で、しかし丸井は柳のオーラを気に留めていないようだった。いつもの自信満々な明るい口調で話し出す。
「大丈夫だって。頑張ってもアイツの頭じゃすぐに100点なんてとれやしねえよ」
丸井の言う通り赤也がどう努力したとしても苦手な英語でいきなり100点をとるとは現実的に考えにくい。なおも丸井の軽口は続く。
「だからそんなに本気で考えなくてもいいって」
「……」
「ま、とったらとったでご褒美におっぱいのひとつくらいは見せてやれよ」
丸井のすねに柳の長い脚が当たった。ジャッカルの隣で丸井が悲鳴を上げている。柳は結構な力で丸井のすねを蹴ったようだった。
「今のはブン太が悪い」
よほど痛かったのか、足を抱えて床をのたうち回る相棒にジャッカルはかけるフォローもなかった。むしろここでフォローしてしまっては数秒後自分も同じように悲鳴を上げながら床をのたうち回る羽目になると恐れ、今回ばかりは丸井を見捨てた。
柳は何も言わないが、黙っていても丸井に向かって『サイテー』と吐き捨てているかのようだった。まるで教室で男子グループが発した下ネタに嫌な顔を浮かべ軽蔑する女子のような雰囲気が今の柳にはあった。
「弦一郎に、」
凍りついたように静かな空間で柳が口を開く。突如出てきた名前にぞっとし、ジャッカルは耳を澄ました。
「丸井がお菓子断ちをしたいから練習に付き合ってほしいと話していた、と報告してやろう」
「なっ!?」
丸井が絶望的な顔をしている。丸井にとってお菓子が食べられなくなることは死活問題だろう。しかも真田の監視付きとなると厳しくなるに違いない。
「勝手なことを話されたわけだから、こちらにもその権利はある。異論はあるか?」
普段は閉じているような柳の目がすっと開き、ジャッカルたちを睨んだ。物静かだが、柳は怒っていた。
2.
丸井がダイエットを決意したから意思が折れないよう見張ってくれる人を探しているらしい、と柳が話すと、予想通り真田は「そういうことなら協力してやろう」と自ら買って出てくれた。柳の心に嘘をついた罪悪感は塵ほどもなかった。
柳が赤也と恋仲の関係にあることは近しい周囲には自然と露見しており、2人が付き合っているという事実に不思議そうな表情をする者もいるが、しれっと受け入れられていた。特にからかわれることもなく赤也との交際は順調に進んでいる。しかし今回の丸井のように、赤也のためといっても、恋人関係というのをネタにして利用されていたのは柳にとって不快であり、嫌だった。
が、それももう丸井が真田からの制裁を受けることで精算することにした。波立っていた柳の怒りの気持ちは今、穏やかに凪いでいた。
次の授業の教室に向かった真田の背を見送り、柳が窓の外へ目を向けると、向かいの建物の窓からよく見知った姿を見つけた。赤也は眠そうな顔で腕を天井に伸ばしている。あくびでもしそうな出立ちに柳は笑みをこぼした。じっと眺めていたら想いが通じたのか、赤也が柳に気づきパアッと晴れ渡るような笑顔で手を振る。赤也の笑顔につられるようにして、柳も手を振り返した。
テスト期間中は部活も制限される上、赤也はテニス部の3年各人からテスト対策に追われていることもあり、思ったように2人で話す時間もとれない。
今日は放課後赤也にテスト対策の勉強を教える予定ではあるが、ちょっとした時間の隙間でもコミュニケーションをとれることは貴重で、数メートル離れた別空間で赤也と手を振って顔を合わせるだけでも柳の心は癒された。
放課後に空き教室で柳は自身に任せられた担当科目を赤也に教え終わると一緒に帰る誘いをしたが、赤也から「すんません、この後ジャッカル先輩に英語教えてもらうんで」と断られた。
「珍しいな。今日はまだ頑張るのか」
「俺、今回英語で100点目指してるんすよ」
意気揚々と語る赤也に柳は複雑な気持ちになる。意欲的に勉強へ取り組んでもらえるのはいいことだがその要因が『柳の裸を見られる』ことだと思うと柳はためらいの気持ちが湧いた。
2人はまだ服を脱いで肌を触れ合わせるような大人の行為をしたことがない。キスだって片手で収まるような回数しかしたことがないのだ。けれど赤也は100点をとったご褒美として何の変哲もない柳の裸を見たがっている。赤也にもそういう欲があるということを今回の一件で柳は知った。恋人に求められるのは嬉しいが、性的な要求に応えることへの恥ずかしさの方が今は大きい。
しかし、頑張っている赤也のやる気を削ぐようなことをしてはいけない。本来の目的は赤也の赤点回避にあるのだ。柳は「そうか。それは結果が楽しみだな」と期待を寄せる言葉をかけた。
教室を出ようとお互い席を立つと、赤也に「柳さん、」と呼び止められ、腕を掴まれた。正面に赤也の体が抱きつく。
「はあー、じゅうでん」
自然な動作で赤也は柳をぎゅっと抱きしめた。不意打ちに柳の鼓動が高鳴る。
赤也はいつも柳が予想しないタイミングで触れてくる。そのたびに柳の鼓動は跳ね、胸が締めつけられた。
人気がないのをいいことに柳も赤也の背に手を回し、癖のある黒髪へ頬を寄せた。付き合うようになってから知った赤也の香りが鼻孔をくすぐり、心が満たされる。
赤也の手が後頭部に回り、一瞬のうちに顔が近づき唇が重なった。付き合い始めて3回目のキスだった。赤也はすぐに柳から体を離しカバンを肩にかけると、
「離れたくなくなっちまうからこの辺で。先行きます。じゃ、お疲れっした」
ニッと笑い、駆けるように次の場所へ向かってしまった。充電が完了したのか、すぐに走って行く。残された柳だけが顔を赤くしたまま、電池が切れたかのように動けないでいた。
幸村に誘われ柳は学食で昼休みを過ごすことになった。通常であればここに真田も来るはずだが、今日は不在だった。
「弦一郎は?」
柳が幸村に尋ねると、
「丸井達と一緒に食べるんだって。なんか『俺が見張っていなければならん』って気合いが入ってたよ」
幸村はどういう事情かわかっていないようすだったが、柳はすべてを察した。おそらく丸井のダイエットは順調に進んでいることだろう。
食後のお茶を飲んでいると、幸村が思い出したように口を開いた。
「そういえば、赤也が英語で満点をとったら、脱ぐんだって?」
柳はお茶を吹き出しそうになるのを必死でこらえた。しかし気管に入ったのか噎せてしまい、幸村に「大丈夫?」と心配された。
「そ、その話をいったいどこで……」
「仁王から聞いた」
どうしてここで仁王が出てくるんだ。新たな人物の登場に柳は頭を抱えたくなった。
柳が聞いた限りこの話は丸井を発端にして、丸井・ジャッカル・赤也そして柳しか知らないはずだった。なぜここに仁王が加わりそして幸村にまで話が及んでいるのか。
仁王とクラスメイトである丸井がバラしたか、それとも仁王の扇動的な話術の餌食にかかり赤也が口を滑らしたか。後者の可能性が高い気がする。これ以上話が広まる前にどこかで口止めしなければ。柳のうちに恥と焦りが募っていた。
すべては丸井に仕組まれたことだと柳が事のあらましを友人に話すと、幸村は合点がいったような顔をした。
「そういうことだったんだ。それで最近真田が丸井と一緒にいるんだね」
幸村はなぜ真田が丸井の食生活に付き合うようになっているのかについての謎が解けたようで、この前丸井が真田にお菓子を没収され断末魔の叫びを上げていたというエピソードを語りだした。幸村の話に耳を傾けながら柳はいいかんじに話題をそらすことができたことに安堵していた。
幸村は柳が赤也と交際していることをしれっと受け入れてくれたうちの1人であるが、生々しい話は避けたかった。友人に知られるのは、柳個人としては、恥ずかしく気まずい思いがする。しかし、
「赤也はテスト勉強を頑張っているらしいね」
幸村は話を赤也に持ってきた。ニコニコとしたいい笑顔に、もっと丸井と真田の話題を引き延ばすべきだった、と柳は後悔した。
「そのようだな。テスト前だけでなく普段の授業からそうだと助かるんだが」
「柳をご褒美にすれば成績が上がるかもね」
「……精市」
柳が低い声音を出すと、幸村は「ごめん、つい」と笑いながら謝った。
「あんまりからかっていいことじゃなかったね。でも赤也は今回よく頑張っていると思うよ」
「そのことについては俺も同じく思っている」
柳はそう本心を口にした。動機が何であれ赤也は今苦手な英語で100点を目標に掲げ、自ら進んで取り組んでいる。ジャッカルからも、今回赤也は積極的に覚えようと勉強に打ち込んでいる、とその勇姿を聞いた。頑張っている赤也の姿を知り柳は、もし結果が実を結んだら赤也の願いを何か聞き入れてもいいかもしれない、と思い始めていた。
柳が平常心を心掛けて赤也の話題に触れると、幸村がフフっと笑った。どういう意味の笑いかと柳が顔を見ると、
「人の恋愛模様はおもしろいなあと思って」
幸村はそう話した。どこかからかわれているような気もするが、幸せそうな笑みを向けてくる幸村に柳はこれ以上こちらから何か口に出しても墓穴を掘ってしまう予感がして、黙ってお茶をすすった。
3.
昼休みの屋上へ向かう前に柳は3年B組の教室を覗いた。丸井と仁王、そして真田までもが教室内にいることを確認し、廊下を進む。が、屋上への上り階段の前に来ると、門番のように立ちふさがる姿勢をとっている仁王と遭遇した。
「参謀が屋上なんて珍しいのう」
「そうでもないだろう」
「そうか? 何か用事でもない限りこんなところに来んようなタイプだと思っていたじゃき。たとえば、テストの結果を伝えたがっている後輩に呼び出された、とかな」
言い当てられ柳は溜め息をつきたくなったが、ここで感情をさらしては仁王の思う壺だと思い、毅然とした態度を崩さなかった。そんな柳を見て仁王はフッと不敵に笑う。
「心配せんでも、こっそり覗くようなことはしないぜよ」
「怪しいな。ならばなぜここにいる」
「教室におると、真田ライザップが暑苦しくての。ちと涼みに来たんじゃ」
仁王はうんざりとした顔をした。その表情から本当に真田の存在に参っていることがうかがえる。
「テスト期間中昼休みに突然うちに真田が顔を出すようになってな。毎日やってくるもんじゃから丸井に理由を訊いて、話はあらかた聞かせてもらったぜよ」
仁王があの話を知っていたのは赤也から聞き出したとばかり柳は推測していたが、なんと真相は丸井本人からであった。
「そのうち柳生も一緒にやってくるようになっての。丸井が真田に喝を入れられながら食事制限を受けている横で、俺は柳生に偏食がバレて栄養管理指導じゃ。丸井が罰を受けるのはまだわかるが、俺は巻き込まれ事故じゃ。俺の平和な昼休みを返しんしゃい」
仁王は流れ弾を喰らっている恨みを柳にぶちまけた。たしかに自分のあずかり知らぬところで無関係の仁王を巻き込んでしまったことにチクッと針が刺さったような罪悪感があったが、柳はすぐに考え直す。
「精市に丸井から聞いた話をしただろう」
「そうじゃな」
「それで相殺してくれ」
仁王の苦しみ、柳の恥、互いに心の傷を負ったことでおあいこにしよう、と提案すると、仁王はあっさり了承した。最初からそこまで本気にしてはいなかったのだろう。仁王らしいお遊びのようだった。
「ここを上って行きんしゃい。愛しのあの子が待っとるぜよ」
カッコつけたように仁王は柳の肩にポンと手を置く。
「2人以外誰もおらんきに。赤也が満点をとったかどうかは知らんが場合によっちゃあ、おっぱいのひとつぐらい見してやりんしゃい」
柳の長い足が仁王のすねに当たった。仁王が崩れ落ちうずくまっている。結構強めの力で蹴ったからダメージは相当だろう。どうして3Bコンビはおっぱいを引き合いに出すのだろうか。柳は謎だと思った。
「おや柳くん。こんにちは。仁王くんもこんなところにいたんですね」
突然廊下から柳生がやってきて柳に挨拶をし仁王を見つけると、
「仁王くん、食事中に抜け出してはいけませんよ。さあ戻りましょう」
まるで執事のような言い方をして、事情を尋ねることもしないままうずくまっている仁王に肩を貸して立たせ、連行していった。仁王はすねへのダメージに加え息苦しい空間に戻るショックもあるのか、うなだれたままおとなしく柳生に運ばれていった。
よくわからないが確実に時間を無駄にしてしまった、と焦った柳は急いで屋上への階段を駆け上がった。
「柳先輩!」
「すまない赤也。野暮用で遅くなった」
「大丈夫っすよ」
とんだタイムロスを喰らい柳は遅れてきたことを詫びたが、赤也はまったく気にしておらず笑顔で出迎えてくれた。
「さっき英語の授業があってテスト返ってきたんすけど、」
赤也は制服のポケットから四つ折りに畳まれた紙を取り出した。広げて、柳の眼前に掲げる。
「100点はとれませんでしたけど、赤点は回避できました!」
笑顔でピースサインを見せた。赤也の点数が書かれた答案用紙を手に取り、柳はまじまじと見入る。100点こそとれはしなかったが、赤点は余裕に越え、赤也の英語の点数にしては奇跡といってもいいぐらいの好成績だった。
「すごいな」
「でしょ!? 俺が英語でこの点数っすよ!!」
自慢げにはしゃぐ赤也に柳も素直に認め、率直に褒めた。
「やればできるじゃないか」
「へへっ。まあ」
「この調子で普段からも励むように」
「あ、ハイ。それで、柳さん。あの……」
柳が返した答案用紙を元通り四つ折りにしてポケットにしまいながら、赤也が新たに話を切り出そうとする。そわそわとした雰囲気に柳は瞬時に勘づいた。
そう、ここからがこの逢瀬の本題なのである。
「実は丸井先輩から俺が英語のテストで満点とったら柳さんが、……ご褒美くれるって聞いて、その、俺100点はとれなかったんすけど、今回けっこう頑張ったんで、だから、」
「そうだな。何か1つ赤也の頼みを聞いてやろう」
『脱ぐ』の部分を『ご褒美』と言い換え、しどろもどろに説明する赤也をいとおしく思いながら柳は赤也の申し出に助け舟を出すと、赤也は「いいんすか!」と目を輝かせた。
「あまり過激なものは却下するぞ」
柳が釘を刺すと赤也は「わかりました」と神妙にうなずいた。はたして赤也はどんなことをねだるのか。丸井の言葉を真に受けていれば体関係の、いわゆるちょっとエッチなリクエストがくるかもしれない。
柳は仮に脱いでほしい見せてほしいと頼まれても、丸井や仁王が言っていたようなおっぱいを見せる気はここではないが、たとえば今度自室に2人で過ごす際にはそういう行為に及んでもいいかもしれない、と応える気でいた。
恥ずかしさや自分たちがまだそういうことをするのは早いんじゃないか、とためらう気持ちはある。だが、柳は赤也のことが好きなのだ。赤也と触れたいと思う気持ちは、柳にだってある。ここのところ会えない時間が増えていた分、赤也のことを知りたいと思う気持ちは増していた。
『過激なものは却下する』とは言ったがここは恥を忍んでなるべく赤也の要求を飲もう、と今日赤也に呼び出された時から決めていた。柳は胸を高鳴らせ赤也の返事を待っていた。
「じゃあ、」
赤也が口を開く。柳は聞き洩らさないよう耳を澄ました。
「柳さんから、キス、してほしい、です……」
だんだんと語尾に向かって声を小さくし恥ずかしそうに首の後ろを掻いている赤也に、柳は拍子抜けした。赤也が口にした願いは柳の想像以上にかわいらしいものだった。
「そんなことでいいのか」
『過激なものは却下する』と言っておきながら、あまりにもライトな赤也の申し出に柳はそう訊き返してしまった。
「えっ、だって柳さんからまだキスしてもらったことないし」
なぜそんなことを訊くのか、と問いたげに赤也が答えた。
勝手に自分でハードルを上げていたことに気づいた柳はこんなことを訊いてはもっと欲しがっているように聞こえてしまうと思い、ひとり恥ずかしくなった。
「ダメ、っすか……?」
赤也は聞き入れてもらえないと勘違いしたらしく不安げに柳を見つめた。赤也の視線に我を取り戻した柳は、首を横に振った。
「いいやわかった。そしたら、目を瞑ってくれるか?」
「はい!」
柳の言葉に赤也は即返事をすると、ぱっちりとした目を静かに閉じた。
柳はあたりに人がいないか、特にテニス部の3年がいないか一応周囲を見回した。2人以外屋上には誰もいないことを確認し、赤也の肩に手を添える。
赤也の言う通り、柳からキスをしたことはまだなかった。赤也とは付き合って3回キスを交わしたが、うち3回すべて赤也からだった。
自分からキスをすることを先ほど柳は「そんなことでいいのか」と軽んじたが、実際するとなると緊張していた。なんせ初めての経験なのだ。勝手がわからない。
ぎこちなく体を動かしながらゆっくりと顔を赤也に寄せた。息がかかりそうな距離まで近づき、鼻が触れないよう角度を変える。目の前の唇へ重ねるように、閉じた唇で触れた。
顔を離そうとしたら、頭の後ろに手が添えられた。赤也が目を瞑ったまま、柳に口づける。ついばむように口先に触れ、濡れた舌が唇の表面を撫でた。
初めての感触に何が起こったのか頭が追いつかず胸だけをバクバクと高鳴らせていると、赤也が顔を離し、柳の体を抱き寄せた。
「あー幸せ」
赤也の声がにやけている。
いつだって赤也は自然な動作で柳に不意打ちを仕掛けてくる。そのたびに柳の鼓動は跳ね、胸が締めつけられていた。まさに今もそうであった。「幸せ」という同じ気持ちが伝わるよう、柳は赤也の背へ腕を回し、さらに体を近づけた。
互いに気持ちを分け合うようにして抱き合っていたが、しばらくすると赤也は満足したように腕を離した。
「俺、ジャッカル先輩や丸井先輩にもテストのこと報告してきます! あ、真田副部長にも自慢しよ。じゃ柳さん、また部活で。今日は一緒に帰りましょうね!」
無邪気にそう口にし、先に屋上を降りてしまった。残された柳は気持ちを置いていかれつつも、風のように駆けて行った赤也の背に微笑みを浮かべ、見送った。
きっと3年B組の教室で丸井、仁王、真田に柳生と発見しテスト結果で盛り上がった後丸井や仁王に俺とのことでイジられる確率、100%、と思いながら。