重力「不二くんの優しいところはすてきだけど、わたしにはちょっと重いんだ」
目覚ましのアラームよりも先に目が覚めた。起きた頭の中に残っているのは、2週間前まで付き合っていた彼女の姿だった。人生で、初めて付き合った人だった。
夢に出てくるのはこれが3回目だ。内容もすべて同じ。別れを切り出されたあの瞬間。どうせならもっと楽しかったシーンを映してほしいのに、一番つらかった場面をリフレインさせてしまうのはどうしてなのだろう。
占い師の姉に鑑定してもらおうかと思っても、こればっかりは診断を受けずとも結果がわかる気がする。不二は己の未練がましさに歯噛みした。
気分を振り払おうとカーテンを開け朝日を浴び、「おはよう」と我が子同然のサボテンたちに声をかける。不二の日課であった。
机の上に置いていたスマートフォンを手に取り、連絡が来ていないかチェックをする。どんな相手であろうと連絡を受ければ、不二は早めに返信をしておきたいタイプだ。その連絡の早さは中学の頃から仲のいい菊丸に言わせると「誰よりも早い」らしい。
メッセージアプリのアイコンに「1」の赤丸が表示されている。開くと白石からだった。
『おはようさん。申し訳ないんやけど、用事ができて待ち合わせに30分ぐらい遅れるかも』
今日は午後に白石と合う予定であった。友人との久々の再会に不二はひそかに胸を躍らせている。文面を読み、素早く返信をした。
『おはよう。それじゃあ待ち合わせ時間を30分遅らせようか』
スマホを置き、サボテンに霧吹きで水をかけているとすぐに白石からの返事がきた。
『ごめんな』
そんなに気にしなくてもいいのに。昔から変わらない責任感の強さに苦笑しながらも『気にしないで。またあとで』と気遣いの返事を送った。
待ち合わせまでの時間を本屋でつぶし外へ出ると、午後の日差しが降り注いでいたはずの空模様が鼠色に変わっていた。一雨降りそうな気配に気持ちが重くなる。彼女から別れを切り出されたあの日の空と似ていた。
今朝見た夢の中の景色とあいまって心が曇天へ沈みそうになる。頭や肩に重みがのしかかったような気がした。立ち止まろうとすると、
「不二クン?」
後ろから聞きなれた声が意識を掬った。
「よかった。やっぱり不二クンや。違う人やったらどうごまかそう思たわ」
「白石! 久しぶり」
「ほんま久しぶりやんな。元気しとった?」
変わらない親友の姿にホッとし、再会できた嬉しさで不二の気持ちは晴れやかになった。途端に体も軽くなった心地さえする。
カフェに入り、互いの近況などを語り合った。久々に会って話すからかお互い意外とおしゃべりだからか、会話は尽きなかった。冷めたコーヒーで喉を潤していると、同じように白石もコーヒーカップを口にする。白石はカップをソーサーへ戻すと、不二にまじまじと視線を向けた。不二がどうしたのかと見つめ返すと、
「不二クン、瘦せた?」
まだ誰にも言い当てられていないことを指摘され、ドキっと心臓が動いた。
「久々に会うたけど、記憶の中の不二クンよりもさらに華奢になったように見えて」
白石の観察眼に驚きつつも不二は曖昧に笑い、この2週間で3kg体重が落ちてしまったことを打ち明けた。白石が「えっ」と声を上げ目を丸くしている。
迷ったが原因となった出来事を簡素に話した。「別れた」「失恋」のワードをいざ口から出すと、心にピリッとした痛みが走った。
「そっか……それはショックやんな」
「うん……こんな反応するんだって自分でもびっくりしてる」
終わってしまったことを気にしないよう前を向こうとしても、ふとした瞬間に影が落ちる。
テニスの試合で受けた悔しさとは違う衝撃、味わったことのない喪失感、どこがいけなかったのだろうと答えの見つからないもやがかった気持ちは、体にも大きく影響を及ぼしてしまったらしい。変わらない生活を送っているつもりだが、浴室で見た自分の体の薄さに目をみはった。体重計に乗るとずいぶん数字が落ちていた。
より薄くなった体を鏡で見ながら、自分はこんなにも恋愛に左右されるタイプだったのか、と不二は己の新たな一面を知ったのだった。
「ごはんはちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
母親のような心配をする白石に苦笑しつつも、口に運ぶ量が減ったことや時々食欲がないことを言い訳に食を抜かしている事実は伏せた。言ってしまうと健康マニアの白石に何を言われるかたまったもんじゃない。
「ほんなら今度美味しいモン食べに行こう。気分転換せなな。言うて俺まだこっち来たばっかりやから何があるかわからんねんけど」
朗らかに笑う白石につられて不二も笑った。明るい白石と話していると心が晴れ渡っていく。早速次に会う予定を立て店を出ると、どんよりとしていた曇り空が割れ、茜色の夕日が空を彩っていた。
それから不二は会えるいとまを作っては白石と多くの時間を過ごした。ユーモアがあり優しい白石の隣にいるのは心地よかった。
昔から感じていることだが、白石には『ついていきたくなる』オーラがある。そばにいると自然と前を向ける気持ちになれるのだ。頼りたくなる強さがあり、隣にいれば大丈夫と思える心強さがある。
生まれ持ったものなのだろうか。言葉にできない正のパワーに不二は白石が中学の時、2年生から部長に任命され部を率いていた理由を垣間見たような気がした。
お互い半日会える予定ができたのでせっかくだから遠出をしてみようと、周遊パスを使って海の街に観光へ行く日だった。券売機の前に立ち、買い方の利用案内に目を通すが、書き方が悪いのかそもそも手順が多いからなのか説明が複雑ですぐには読み解けない。
「これ、どうやって買うんだろう」
「ちょい待っとってな。俺からやってみるわ」
白石が率先してパネルを操作する。こういう場面に遭遇すると先に動いてくれるのはいつも決まって白石だった。会計の割り勘の計算も、乗り換えやマップを調べてくれるのも、注文を頼む際店員を呼び止めるのも。まるでそうするのが当然かのように自ら動く。もはや身に染みているのだろう。自然な気遣いに不二は感謝を抱き、こういうところもモテるんだろうな、と思っていた。
「おっ、できたで。買えた買えた」
不二が切符を買う際にも「ここを押して、これを選んでな」と隣でリードしてくれる。すぐ横に掲示されている利用案内よりもよっぽど頼りになった。
雲一つない空だった。好天に恵まれ市街を歩いていると、不二や白石たちと同じように周遊パスを使った観光客と思しき人々を見かける。カップルの姿が多く目立った。
「めっちゃ綺麗やな」
「いい景色だね。僕ら運がよかったみたい」
海の向こうに夕日が沈んでいく。光が水面に反射し、海辺に幻想的な光景をつくっていた。周りにいる観光客のみならず犬の散歩をしている地元民さえもこの美しさにみな夢中になり、多くの人がスマホで写真を撮っている。不二も持参したカメラで景色をおさめた。
「なんか心が洗われるわ」
「ほんとだね」
自然がつくり出す息をのむ美しさだった。滅多に目に触れることができない景色を白石と一緒に見られたことで、不二はさらに感動を深くした。
「不二クン」
「うん?」
「元気もどった?」
白石の思いもかけない優しい声に、一瞬胸が震えた。まさかまだ気にかけてもらえているとは思いもしなかった。
「うん。おかげさまで」
白石と遊ぶようになってから不二は心も体も元通りになった。完全に忘れ去ったわけではないけれど、夢に見ることもなくなった。前を見て日常を歩けている。
よかった、とほっとしたような顔を浮かべる白石にありがとう、とお礼を言った。砂浜を歩く一組のカップルが視界に入る。見覚えのあるその2人は行きの電車や市街の観光中にもよく遭遇した。
「白石って」
「うん?」
「付き合ってる子いないのかい?」
突然白石がゲホゲホと咳き込みだした。予想外の質問に驚いたのだろうか。「大丈夫?」と不二は背中をさすった。白石はけほっと咳をして呼吸を整えていた。
「おらんで。どないしたん? 急に」
「もし恋人がいるのに時間を作ってもらえてるとしたら、悪いなと思って」
「そういうのは心配ご無用やな」
「気になる子は? いない?」
「急にめっちゃ訊くやん」
不二の積極的な質問に白石は吹き出していた。「せっかくだから」と言葉を添える。もともと気になってはいたのだが、何となく聞けずにいた。今日一日見た光景に影響され口をついて出たのかもしれない。はたまたロマンチックな光景に気持ちが高揚しているのかもしれない。
白石は照れくさそうに頭の後ろを掻くと、逡巡するような間をとって海の向こうを見つめた。
「好きな子は、おるよ」
白石の返答に不二は、自分で訊いておきながらも、知りたくなかった現実を目にしてしまったかのように頭の奥がヒンヤリとした。なぜかはわからない。うまくいくといいね、とも言えなかった。
季節が夏にかかっても、不二は白石と変わらず会い、ともに時間を過ごしていた。
「不二クン髪切った? 涼しそうやんな」
白石はいつも不二の変化に目ざとい。汗で首にへばりつく後ろ髪をさっぱりさせたくて少し切ってもらったものの家族には気づかれなかったのに。
「うん。暑くなってきたからね。白石も髪切った?」
「俺は切ってへんよ。何も変わってないやろ」
不二の軽い小ボケにも笑ってツッコんでくれる。こんなやりとりでお互い笑い合うたび、不二の胸は温かくなった。
すれ違う女性の多くは浴衣姿だった。みな彩り鮮やかな柄に包まれ、華やかだ。
ベンチに座り打ち上がる花火を白石と並んで鑑賞した。ヒュー、ドンと大きな音とともに歓声も響く。隣で白石が「たまや~」と緩く声を上げているのが楽しそうで、不二もマネをして「たまやー」と声に出し、2人で笑い合った。
ドーンと体の奥が持ち上がりそうな重低音が響くと、夜空に大輪の花が咲いた。迫力のある美しさにこの日一番の歓声が上がる。不二も感動し隣に座る白石に「すごいね」と話すが、周りの喧噪にかき消されてしまい声が届かないようだった。
すると気づいた白石が、「ん?」と不二の顔へ耳を寄せた。
なんてことはない一瞬の仕草のはずだ。それなのに、その一瞬の優しさが胸をついた。
空には打ち上がった花火が散り散りに消えていく。
花火大会も終わり、周りにいた大勢の見物客も人並みにそってゆっくりと姿を消していった。混雑を避けるためと思ったが、辺りに人がいなくなっても白石は腰を上げようとしなかった。不二がそろそろ僕らも帰ろうか、と口にしようとした時だった。白石の左手が不二の右手をつかんだ。
ドラマのようにうまい話などあるわけないと思っていた。なので好きと自覚したその数時間後に好きな人から告白されるなど思ってもみなかった。
「ずっと前から、好き」
受け入れない理由がなかった。
『今日は急にごめんね。どうしても話したいことがあって』
『不二くんと付き合うのは楽しいよ。でもね、時々つらくなるの』
『自由に、なりたいんだ。だから……ごめんね』
「不二くんの優しいところはすてきだけど、わたしにはちょっと重いんだ」
はっ、と短い呼吸とともに起きた。カーテンの隙間から明るい陽が差し込んでいる。不二は呼吸を整え、今は朝でさっきまで見ていたのは夢だと整理した。もう無縁になった光景だと思っていたのに。久しぶりに会ってしまった。
ベッドから起き上がるとスマホが鳴った。画面を見なくとも誰からの着信かわかる。混乱していた気持ちが徐々に落ち着いてきた。
「もしもし。おはよう」
『おはようさん。ちゃんと起きとった?』
「今起きたところ」
明るい声で白石からの電話に出ながらカーテンを開けた。体に注ぐ朝日が気持ちいい。窓を開けると秋風が入り込んだ。
「風が気持ちいいね」
『もうすっかり秋やな』
毎朝の連絡は文字だけのメッセージで済ませることもあれば電話の時もある。最近は電話で話す方が常だった。モーニングコールは白石から掛かってくることの方が多い。もはや不二は毎朝待ち侘びている状態だった。
「そうだね。今日は夕方ぐらいにそっち行くから」
『待っとるで。日落ちると肌寒くなるから、しっかり着こんでな』
今日不二は白石の家へ泊まりに行く。3回目だった。泊まった日の翌朝目を覚ますとすぐそばに白石がいて、起きた時に隣に好きな人がいるのはいいな、と不二は胸をときめかせたものである。いつも白石は不二よりも先に目を覚ましていた。
「おはよーさん。かわええ寝顔やったで」
朝の雰囲気に合う冗談かもしれないが、白石がそういった言葉を口にすると様になるから不思議だ。不二は照れくささのあまり笑ってしまったが。
サボテンの蕾の様子を教えてあげてから、白石との通話を終えた。
付き合っていた彼女とも1日1回は声を聞きたくて不二は毎日連絡をしていた。会えない日だけではなく、会う日の朝も、会った日の夜にも。どこにいて、どんなことをしているのか純粋に知りたかった。
「不二くんって意外とソクバクするタイプなんだね」
電話越しに震えた声で言われた言葉は今思えば嫌味だったのだとわかる。ただ好きな子とコミュニケーションをとりたかっただけなのに。
晴れやかな気持ちになったはずが、苦くなった思い出がよみがえり、心が重石を乗せたように沈み込む。
恋人と常に言葉を重ねることを欲するのは、重いんだろうか。
「僕って、重いかな」
ベッドに腰掛け口を開いた不二の言葉に、隣の白石はポカンとした表情を浮かべた。風呂上がりだから同じ石鹸の香りがする。
「え? 不二クンめっちゃ軽いで。もうちょい食べた方がええくらい」
「えっと、物理的な問題じゃなくて……」
重いの意味を履き違えている白石に吹き出すと、白石はなぜ笑われているのかわからない、と言いたげに不思議そうな顔で首を傾げる。時折見せる恋人の天然さは不二のツボだった。
「付き合ってて、重くないかなって。前に付き合ってた子とはそれが原因で別れたから」
「そうなん?」
朝の電話を求めたのは不二の方からだった。付き合ってから初めてかけた時、白石から「何かあった!?」と突然の連絡を心配されたが、今では白石の方から電話をくれる。毎朝のやりとりはすっかり2人のルーティーンになった。内容はほとんどない。「おはよう」から始まってその日の天気の話やお互いが育てている植物の成長なんかを手短に話すだけだ。それでいい。それだけでいい。不二が欲しているのはそんな日常の会話だった。
白石との付き合いは凹に凸がピタリとハマるように不二の心を占めていた。不二が求めることに白石は応えてくれる。それも1を10にも100にもして返してくれる。白石の深い愛が、不二は大好きだった。付き合えば付き合うほどに好きになっていく。この恋を長く続けさせるためにも、前回の二の舞を演じたくなかった。いまだに自分のどこが『重い』のかわかりきってはいないけれど。
「全然。重いなんて思うたことないで」
「そっか。ならよかった」
気を使って嘘をついているようでもない白石に、不二は胸のつかえが下りたように安堵した。
反対に白石はぼんやりと考えこむような表情で不二を見つめていた。
「不二クン」
「うん?」
白石の顔を見つめながら不二は前にもこんな場面があったことを思い出した。綺麗な海が見える。
『元気もどった?』
優しい声をかけられ胸が震えたあの場面だった。
「俺、毎日めっちゃ楽しいで。朝一番に不二クンに電話して声聞けるんもめっちゃ嬉しいし、今日も一日がんばろうって思えるねん。あの日、不二クンから掛けてもらわれへんかったらこの幸せに気づかんままやったわ。せやから全然重くないで。むしろ、おおきにな」
白石は優しい。不二の求めている言葉や気持ちを察してすぐにプレゼントしてくれる。1を10にも100にも、1000にもして。
唇を緩めると震えて涙が出そうになるのを不二はこらえた。白石の唇が降ってくる。重ねた時に瞼を閉じたら、目に浮かべていた涙が一筋こぼれた。白石が何も言わずその跡を指で拭った。世界一優しい指先だと思った。
♢
深い眠りについた不二のやわらかな髪に触れた。起こさないようにそっと。
『僕って、重いかな』
はたしてどこにそんな要素があるのか記憶を探ってみたが、白石には皆目わからなかった。
だいたい世間一般で言う『愛が重い』にも白石はあまりピンと来ない。好きな子に優しくしてあげたいのは男としてなら当然だと思うし、好きな子と話せるのはいつだって嬉しい。だって、好きなのだから。
何も心配はいらないから、笑っていてほしい。つらい過去の記憶など思い出す暇もないくらい夢中になって、すべて新しい思い出で上書きされればいい。
額へ唇を寄せた。同じ香りがすることに心が満たされる。無防備な寝顔が愛おしい。明日の朝は電話越しではなく顔を見合わして「おはよう」が言えることに、この上ない幸せを感じた。
眠っている不二にそっと囁く。おまじないのように。いい夢を見られますように、と。
「もっと俺のことで頭いっぱいになってな」
夜の帳とともに、重力が下りてくる。白石も瞼を閉じた。