屍の行方洞窟にビュウビュウ、風が吹き込む。
雨上がりの海の、何処か土の香りの混ざった潮風。
遠く聴こえる海鳴りと鴎の声。寄せ返すまだ高い波の音。じめじめと苔生し、舟蟲の這う岩壁から染み出す磯の有機的な匂い。暗がりにうっすら射し込む陽光の白い筋。
その中に巻かれた包帯を赤黒く染めた屍がひとつ、転がっていた。
血と泥にまみれた長い黒髪。
満身創痍ながらすらりとした体躯。
顔は見えない。
下には粗末な毛布。それも屍の流した血膿が染み込んだのか、どす黒く変色している。
その傍らに、革鎧を身につけた大柄の男が佇む。
後ろに撫で付けた金の髪に虎狼の如く冷たい碧眼。頬に十字の傷を刻み付けた男は歩み寄ると、転がる屍の腹を靴先で軽く蹴り上げた。
「ごふっ」
呻きと共に屍が息を吹き返す。
抵抗もなく蹴られた屍──、のように見えた男の口許からは泡立った薄黄色の胃液に血が滲んだものが垂れている。しかし、それ以上の反応はない。
男は横たわったままの元屍の汚れた黒髪を掴むと、顎を掴み顔を上げさせた。無骨な指に挟まれた細い頤(おとがい)が何か言いたげに震える。
整った鼻梁、名筆で引いたかのような柳眉はしかし苦痛に歪み、黒い睫に縁取られた切れ長の眼は伏せられたまま。頬や額に所々青や紫の痣と擦り傷があった
負傷してから時間は経っており、腫れもなく治癒しかけにも見えるものの憔悴の度合いは酷い。だがそれが一層に薄昏い容貌を引き立てすらして、まるで死んだように美しくも見える。
男は忌々しさを噛み潰したような表情で屍を手離す。支えを失った屍はその場に崩れ落ちた。
「ふん、死に損ないめ」
転がった骸に背を向け、男は石で組まれた簡素な竈に新たに薪を入れ火打ち石を打った。磯臭さと湿気の中、消えかけていた炭火にどうにか火が戻ると岩壁の空洞が赫々、照らし出される。同時に燃えた生木の匂いがあたりに立ち込めた。
ぽっかりと開けた、潮の吹き込むこの空洞は、かつて海を行き交う舟人が荷を預け身を休ませるのに使っていたと思わしき天然の洞窟。遺棄されて長い時が過ぎたのだろう、ほとんど原型を残さず朽ちた木箱や舟具の残骸には苔が生し、固着生物が蔓延り、磯や暗がりの生き物の隠れ家となっている。
洞窟の外は僅かばかりの浅瀬を挟み広がる大海原。だが、幸い海水を被ることも、潮汐の影響を受けることも無い。
断崖絶壁にあって、此処は海の小さな砦とも言えた。
男は竈に水を入れた鍋を置き、腰を下ろす。
「……もう充分寝ただろう」
男が声を掛けると、屍だった男がゆっくりと瞼を開く。
視点の定まらない無彩色の眸に竈の火の赤金がちかちかと映り込んだ。
◇
「賊の……、あの傭兵の死体が見つかりません」
報告を受けたのは反乱の一味を退けた、翌朝だった。タリス王国に属する群島のひとつを襲った賊の一群。その中にあってオグマをあと一歩のところまで追い詰めつつも、兵士たちの決死の介入によって深傷を負い足を滑らせ崖から転落した傭兵の、顛末。
「あの傷で、生きているとは思えないのですが……」
「転落したと思われる崖下にも、骸はおろか血痕も残っていないのです」
偵察兵の言葉を聞きながら傭兵隊長オグマは徐に顎を擦(さす)った。兵に目配せをするも、すぐに窓の外へと視線を戻す。明け頃は晴れていたと言うのに今は空全面に薄らぼんやりと雲が拡がっている。
「奴はサムスーフにいたそうですね? よもや……本当に物怪の類いであったのでは……」
訝しげに悪魔が棲むと言われる山の迷信を口にする兵に、もう一人の兵がオグマの顔色を見つつ口を挟んだ。
「あの辺りは岩が剥き出しとなっておりまして、落下するだけでもただでは済みません。潮が満ちてくれば流されてしまう恐れもあり……見つからないのであれば、或いは」
背筋を伸ばしたまま返答を待つ二人にオグマは向き直ると、ふう、と一つ息を吐いて頷いた。
鈍い光を差し込む窓の向こうの淀んだ灰色は報告を受ける僅かな時間にもより色を濃くしているように見えた。
「……もういい。報告、御苦労だった。下がれ」
「はっ」
オグマは偵察兵を下がらせると窓辺に両手をつき、不安げな曇天の下に遠く広がる青黒い海を眺め、呟いた。
「……ナバール」
忘れえぬ名。
網膜に焼き付いている紅の剣閃。
一陣の風のように現れ、疾く駆け、嵐のように命を刈り取る刃。色の無い眸にはしかし、確かに殺意の火が見えた。
突如現れた旧知の姿をしたその男は一も二もなく、問答無用でオグマに襲い掛かり、殺そうとしたのだ。
共に大陸に並び立つ強者として名を馳せつつも、あの時オグマは確実に追い詰められていた。間合いを取ろうにも即座に懐に入られる。他の兵士には目もくれず執拗にオグマだけを追う剣。急所を掠める鋒(きっさき)。躱したその先を読まれ防戦一方、防ぎ続けることすら易くはない。
困惑を拭い去れないオグマに対してナバールの剣に迷いはなく、必ずや仕留めるのだという狂気にも似た気迫があった。完全に気圧されていた。
しかし、ナバールの執念はオグマに加勢した兵士たちの攻撃によって阻まれ、絶たれることになった。
だが。
その死体が、無い。
◇
──午後。
天頂にあるはずの陽を隠す雲はいよいよ厚く、雨の気配が鼻先を掠める。既に日没前のような薄暗さの中に、更に陰鬱な表情を浮かべたオグマは荷を背に、単身馬を引いていた。
訓練に見廻りと武器の管理。
一通りの日課と仕事は既に急ぎつつも済ませた。
「賊の残党を追う」そう部下に告げつつも王に報告を上げぬよう、酒瓶と引き換えに言い含めてもある。
一人では危険だと同行を申し出るものもいた。
しかしオグマは頑として辞した。
「ひとりで充分だ。お前たちはおれの居ぬ間、城の警備をいつもより厳重に頼む。これは……──」
──おれの問題だ。
そう、口に出し掛けて押し込めた。
主君ある身でありながら、部下を持つ傭兵隊長でありながら私情を理由に動く。それを許せないのは何よりも己自身のはずだった。
だと言うのに残党を追うのだとかいう尤もらしい理由をつけて、まさに今、行動を起こしているのだ。蟀谷(こめかみ)がしくしくと痛むのは曇天の重苦しさのためだけではないだろう。
句を継げず口籠り、再度城の警備の念を押した。
「……おれは、何をやっている……」
そして至った城門を前にオグマは一人、立っている。
門兵には根回しはしていない。尤も城の兵士でオグマの顔を知らぬものなどいないから、咎められもしないだろうし出ていくことは容易いだろう。一応の大義名分もある。
「これは傭兵隊長殿、御苦労様です!」
「ああ、少し出てくる。夜には戻ろう」
夜には──、目的を果たすことは出来るだろう。
崖下にあるはずの骸の所在を確かめる。たったそれだけのことだ。獣に食い荒らされた肉片のひとつでも見つかればそれでいい。
それにしても、とオグマは首を捻る。
何も訊かれないのは拍子抜けだった。
門兵たちはオグマを見るなり、敬礼をして道を開ける。
その姿に一抹の違和感を覚えつつも城を離れ、離島へ渡るべく海岸へと馬を走らせた。
◇
「…………」
僅かに湿気を吸った地面を蹴る蹄。
馬に揺すられる衝撃に、癒し手の業を受けて治癒したはずの傷が痛んだ。オグマは昨日の襲撃を回想していた。
──タリス辺境を襲撃した、反乱の賊。
その中にあった見知った人物、ナバール。
それを見たとき、オグマははっきりと失望を覚えたのを記憶している。
先の戦争で共に戦場に立った剣士。
腕は認めていた。確かにいくさ場にあって背を預けるに足る剣ではあった。大陸中から集った精鋭揃いの軍に於いてもそんな存在はあの男以外には在り得なかった。
だが生き方、信条となると事情は異なる。
腕がありながら賊などに加担していたのも気に食わないが、主君たる姫や旗印であった王子に頭も垂れず不遜な態度を取り続けるのにも辟易していた。
勝負を挑まれたことはある。しかし行軍中に味方同士で私闘など馬鹿げている。そも己の剣は主君に捧げると決めているのだ。与太者の遊びに付き合う剣は持ち合わせてはいない。
元は山賊に用心棒として雇われていた破落戸(ごろつき)まがいの傭兵だ。良心も矜持も元からありはしないのだと、最初から「そういう奴」だったのだと解っていたはずだ。
そう納得しようにも、ナバールに感じてしまった深い失望にオグマは困惑を禁じ得なかった。
もしかしたら心の奥で何かしらの情を抱いていたのかもしれないと思いかけて、首を振る。そんなものは在りはしない。
そして、その失望を招いた行いの発端がオグマ自身であると言うナバールの言葉に今もなお、刺すような苛立ちを覚える。
曰く、オグマと闘いたいという。唯それだけの為に賊に身を窶(やつ)したのだというナバールの歪みきった純粋。
先の戦争でオグマはサムスーフ山でナバールと対峙した。山賊の用心棒として立ちはだかるナバールと剣を交え結局勝負がつかなかった、ただ一度の戦い。
それは確かに、かつて剣闘士としてただ相手を打ち斃すためだけに剣を振るっていた頃の昂揚感を呼び覚ますものではあった。
その時の決着をナバールは望んでいる。
だが、そんなことの為に姫の信頼も共にあった日々も何もかも容易く裏切ったのだ。
それがオグマの胸を、ナバールを退けた今も蝕む。
あの男のなにかを信じていたのだろうか。
共に、主君である姫に心動かされた者同士、たとえ生き方が違ったとしても。
吐き気を催すほどの失意と嫌悪感、呑み込み切れない靄々としたなにか。
傷──、癒えたはずのナバールに負わされた傷が痛む。
本当に、死んだのか。
(死ぬほどのことだったのか)
この剣で斬ってはいない。
(斬らねばならないのか)
屍も見つかってはいない。
(あれは本当に)
本当に死んだのか。
本当に。
◇
オグマは海岸線の小さな関所に辿り着く。まがりなりにも続いていた道も此処までになる。岬には小さな船着場。此処から小舟で漕ぎ出し、暫くすると昨日襲撃を受けた小島に辿り着く。
時化始めた白波の立つ海の向こうにうっすらと島影が浮かぶ。
それを確認したオグマは馬を「どうどう」と宥め番人に預けると島を目指す。
やがて漕ぎ着けた小島の船着場は曇天の下でいっそうに寂しく、海風が吹き付け荒波を砕く岩場と浅瀬が続いている。
オグマは遠く、崖を見遣る。
ナバールはあそこから転落したのだ。
晴れていれば何処までも碧く美しいタリスの海は今は暗く、冷たい。海鳥が何処か悲しげな声で啼いている。
オグマは空を見渡す。
厚い雲には微かな稲光すら見える。いずれ降り始めることは明白で、そうなる前に目的を果たしたかった。
屍を己の眼で見てくるだけ、それだけだ。
降りだせば行く手が困難になるだけではない。雨によって残っているかもしれない僅かな手掛かりさえ失われてしまうかもしれない。
何処からか響く海鳴りがオグマの胸を騒つかせる。
──もしもあの崖の下、奈落の底で。
万が一にもオグマを待ち続けていたら。
そうしたら、改めてとどめを刺してやるべきなのだろうか。
考えたくなくとも湧き上がる取り留めのない思考。
それを振り払う為に護るべき城を後にしたというのに、なお掻き消すことのできない想像。
胸にオグマの剣を呑み込み、歪に美しく嗤うナバールを思い浮かべては頭を振って追い出した。
死体を、屍を見つけさえすればそれでいい。
だが、背負う荷物の中身は衛生用品と毛布、食料と鍋、燃料と水だった。
背中に重い矛盾を背負いながらオグマは屍を探し歩く。
曇天は今にも滲んで雨を吐き出しそうに暗い。ビュウビュウと音を立てるほどに強くなってきた潮風に白波も高くなる。岩にぶつかり砕ける。
早く見つけて帰らねば。オグマは額に飛んできた飛沫を拭った。
落下点には何もなかったと報告を受けた。
それを疑うわけではないが、己の目で確かめたい。
確かめなくてはならない。
やがて。
辿り着いた崖下にはごつごつとした岩場に黒ずんだ低樹木が疎らに生えていた。流木が所々に横たわり、かさこそと磯の生き物の気配もする。漂着物や干からびた海藻を見れば、確かに報告通り満潮時には海水に沈んでしまうのかもしれない。
しかし血痕や何かが落ちた形跡は無かった。波が何もかもを浚ってしまったのだろうか。痕跡といえるものは残されていなかった。
だが、オグマはその「何も無さ」に震えた。
少なくとも、ナバールは此処に落ちたのだ。だが、此処には完全に何も無い。昨日の今日の出来事だというのに。
そしてこの時化始めた海辺にあって、岩と石の転がる地面はさらさらと乾いている。
潮は昨日からまだ一度も満ちてはいない。骸が転がっていたとして、流されてしまったわけではないのだ。
部下の言葉が甦る。
「よもや……本当に物怪の類いであったのでは……」
背中に厭な汗が流れるのを感じつつもオグマは首を振った。そんなわけはない。如何に狂気を抱いていようとも、あれは物怪などではない。血を流しながらも激情を秘めたまなざしでオグマを睨み、刃を向けた姿が脳裏を掠める。その剣戟の痺れるような衝撃が、鍔迫り合いの火花が、閃く鋒が甦る。
オグマはそれを追い払いながら、周囲を隈無く見渡す。
何も無さ過ぎるが故に、そこには人為があった。
注意深く見れば見つかる巧妙に存在を消した形跡。
折れた枝を隠し、足跡を、血痕を海水で流し消してある。微かな、しかし確かな気配。
やはり生きていたのだ、とオグマはその痕跡を辿った。
手負いのまま、波風や夜露を凌ぐこともなく長らえることは如何にナバールが人並外れた生存能力を持っていようとも容易ではあるまい。夜も冷える。
ほんの僅かに残るナバールの足跡の方向に、オグマは身を隠せる場所の心当たりがあった。
波の砕ける険しい崖の陰に隠された空洞があるはずだ。記憶を手繰り寄せる。
それはまだ幼姫だったシーダがペガサスを駆って空の散策を楽しんでいた折に発見したものだ。
歴史の浅いタリスにおいては新旧の人間の入れ替わりも多く、建国前のことを仔細に知るものも余り残ってはいなかった。歴史に記されていない歴史が数多にある。地図から消えてしまった旧き人々の棲み処もそれは同様だ。
故にそれは人に見つからず、島の一部として存在していた。
自分の知らない洞窟を見つけたシーダはオグマに、共にそれを見て欲しい──父王や他の家臣たちには内緒で──と、冒険に付き合わせた。
大発見と秘密の共有にくるくると瞳を輝かせ、嬉しそうにオグマの手を引く在りし日の幼姫の姿が今も瞼の裏に在り在りと浮かぶ。
勿論、ナバールが空洞の存在を知っていたとは思い難い。しかし、余計な勘の利くやつであることは充分に承知している。
何れにしても、落下時点では既にオグマの剣と横槍を受けた結果負った傷もあり、満身創痍だったはずだ。崖は高さもある。普通の人間であれば如何に受け身を取ろうとも、報告を受けた通り死んでいない方がおかしい。
そんな状態の上に野晒しとなれば、結局は生きていたとして死を多少ばかり遠避けただけになる。生き延びるのであれば身を隠す場所は必要だろう。
海辺を進むにつれ、痕跡に気付くことが容易になってきた。ナバールの気配を追い、進めば進むほど、工作の跡はあからさまに雑になっていく。それは工作者の油断などではなく、純粋に余裕のなさだと見て取れた。
──ああ、この先にいる。
オグマの胸が早鐘を打つ。
やがて血痕や木の枝に引っ掻けた衣服の繊維などがそのまま残されるようになり、漸く、崖下の岩に隠されたまま時を鎖した洞窟に至った。
オグマは足を踏み入れた。
そして。
遂に思惑通り、手負いの獣が横たわるのを見つけたのだ。
「……ナバール」
名を呼べど、返事はない。
血塗れの獣はオグマが近付くと身動ぎ、剣の納められた鞘を頼りに身を半ば起こすと転がるように間合いを取る。
息は荒いが弱く、長い髪から覗く顔には汗が浮かび、幾分か赤い。額からは血の筋。オグマを睨む視線は鋭さを残しつつも視点が定まらない。
「おれが判るか、ナバール」
呼び掛け、歩み寄ると獣は威嚇するように剣を抜く。
怯えているようにも怒りに震えているようにも見えた。
オグマがまた歩を進めるとその分、後退る。
身を低く屈め、剣を構える。
迎え撃つ為にオグマもまた、自らの剣の柄に手を掛けた。
対するナバールは確かめるまでもなく瀕死に等しい。それでも皮膚がひりつくような殺気に息を呑む。
仕留められるだろうか、オグマは汗ばむ掌で柄を掴んだ。
その刹那。
ナバールは何かを言いたいのか戦慄く唇を開いて、一言二言呻き声を洩らして。
──そして。
不意に。
糸が切れるように。
どさりと、その場に崩れ落ちた。
苔生す岩場に黒い髪が染みのように広がっている。それを掴み上げ、オグマは恐る恐る顔を見た。
弱々しい吐息は熱く、半開きの瞼の奥の眼は精彩を欠いて熱に潤み、濁っている。
全身に負った傷に病魔が取り憑いたのだろうと判断したオグマは掴んだ髪をゆっくりと手離すと、熱に浮かされてぐったりとした顔を暫く眺め、頭を巡らせた。
──殺すか、生かすか。
胸を蝕む元凶。
主君の領土を侵した罪人。
裏切り者。
生かす理由などない。
だが。
オグマは、失望を覚えたのだ。
「……悪運の強い奴だ」
オグマはだらりと力の抜けた熱い躰を担ぐと、洞窟の奥へと入っていった。
その入口を閉ざすかのように、いよいよ雨が降り始めた。
◇
岩に囲まれた洞窟内はしんと冷えていた。
外界に響く波と、海面を叩く雨の音。
獣の咆哮のような遠い海鳴り。
オグマは意識を失ったままのナバールを持参した毛布に寝かせると小さな竈を組み、火を熾す。その上に水を入れた鍋を掛ける。
地下水が染み出るのか、点在する水溜まりに火の光が映り込む。炎の照り返しを受けながら、オグマは思案していた。
とどめを刺す、そのつもりだった。
だが一方で最低限とはいえ生存に必要な道具も荷袋に詰めてきた。迷いがあったのだと今更に思う。
「ナバール……」
傍らに横たわる男の名前を呼ぶ。
返事はない。反応もない。まるで屍のように昏々と眠っている。
擦り切れ千切れてボロボロになった衣服の裂け目から傷を負った素肌が覗く。
刃傷、矢傷、擦過傷、打撲傷、内出血、化膿。良く見れば脚の角度もおかしい。折れているのだろうか。額には濡れた手拭いを畳んで被せてあるものの、頬は熱い。
オグマはナバールの襤褸切れに等しい衣服に手を掛けた。血が乾燥して布と傷の間で固まっているのを無理に剥がないよう注意深く衣服を濡らしながら血糊を溶かし、少しずつ、少しずつ衣服を脱がせる。
痛むのかナバールは時折、呻き声を漏らした。
オグマは構わずに服を剥ぎ終えると、全身の傷を水を含ませた布巾で拭っていく。傷から病が取り憑いている以上、清潔に保つのが何よりだ。癒し手に看せる方が傷の治りは良いだろう。しかしナバールは此処、タリスに於いては既に重罪人だった。連れていくわけにはいかない。
殺すはずの男の手当てをしてやるという理不尽を内に感じながらもオグマは淡々と処置をする。
煮沸した布巾で再度創部を清め、より深い傷には強い酒を吹きかけて消毒を施し膏薬を塗り包帯を巻いていく。
「やはり折れているな」
肋と左脚に触れ、オグマは溜め息を吐いた。あの崖から転落してこの程度の骨折で済んだことが寧ろ信じられない。
その上、自らの痕跡を消しながら此処まで逃れ、あまつさえオグマに剣を向けたのだ。その生存本能と闘争心にオグマは呆れて、改めて舌を巻いた。
折れた脚には添え木をし、肋には薬草を貼り付け包帯を巻く。
処置を施した端から血が滲んでは来るが縫合する道具はない。尤も、失血で死んでしまうのならそれまでのことだ。
それでも雨の夕暮れは既に暗く、冷える。気温は時を追う毎に下がっていくことだろう。
「どうしたものか」
未だに目を醒まさないナバールを一人で置いていく。
そのことに迷いもあった。
冷えだけではない。ろくに抵抗も出来ない、血の匂いを漂わせた身体が野の獣どもの格好の餌であることはよく考えずとも判る。
とはいえ、城の夜を空けるわけにはいかない。
屍の行方を突き止めることは出来はしたものの、とどめを刺すことも、話をすることも出来なかった。
「いい加減に起きろ、ナバール」
呟けども、やはり返事はない。
暫くの逡巡の後、オグマは竈に炭を残し、飲み水と食料を置いて一時、帰城することを決めた。
洞窟の外はなおも雨が降っている。これ以上の降りになれば海を渡ることも、馬を駆ることも難しくなるだろう。
「……また、来る」
聞こえていることを期待せずにオグマは洞窟を後にした。
◇
オグマがタリスの城に戻ってすぐに雨は激しく土砂降りとなった。黒雲に覆われた空には稲光が駆け巡り、大地を叩く雨音と空を震わせる雷鳴が腹の底にも響く。
「あら、帰っていたのねオグマ」
花の囁くような可憐な声。
窓の外を眺めていたオグマは、はっと振り返る。
そこには楚々とした青の長髪の少女が立っていた。
遠い日にオグマを救い、生に意味をくれた少女。流刑地に生まれ闘犬の如く育った人のかたちをした獣に人間の生を与えてくれた、聖なるひと。
オグマは慌てて跪く。
「姫、まだお休みになられていなかったのですか」
「ええ、酷い雨で眠れなくって」
姫と呼ばれた少女、タリスの王女シーダはオグマの隣まで歩を進めると窓辺に手を掛けた。夜着のやわらかな衣擦れが微かに耳を撫でる。
「彼には会えた?」
「……何の、ことでしょうか」
オグマは動揺した。
主君である少女に今回の探索行については何も告げてはいない。それどころか部下に根回しまでして隠しすらしていた。なるべく平静を装いつつ、慣れない誤魔化しを口にする。
そんなオグマの何処かぎくしゃくとした気配を察したのかシーダはくすくすと、鈴を転がすように笑う。
「それなら良いわ。亡くなった人を罪には問えないもの」
「………」
吹き荒ぶ風雨、雷鳴。豪雨の城壁を叩く音。
轟音の中でなお、二人の間には暫しの沈黙が流れた。
音の意味が移ろうような耳を震わせる静寂の中、面を伏せたままのオグマにシーダは向き直り、広い肩に手を置く。
「立って、オグマ」
促されて立ち上がったオグマにシーダは微笑む。
「あなたも怪我をしたばかりだわ。疲れているでしょう? だから暫くの間、夜警の番を外しておいたわ」
「……! それは……」
言外の意を汲み、オグマは眼を見開く。
シーダは一つ頷くと、透き通る大きな青の眸で真っ直ぐにオグマを見つめた。心の奥底までを見透すような青。
「近頃、夜はとても冷えるのよ。心配だわ」
刹那、オグマは息を呑んだ。
オグマが深い失望を感じていた間も、迷いながらも己の納得のために屍を探し歩いていた間も、それを残して帰城した今も、シーダはあの男を案じ、信じ続けているのだ。
一介の傭兵に過ぎない。それどころか自らの国土を侵し、襲撃した賊である男を。
身勝手な行いを咎められた方が余程ましだった。
ささやかな、そんな名前で呼ぶのが相応しいかもわからない嫉妬。怒り。
それ以上に、オグマは主君である少女の純真に心臓を刺し貫かれる思いがした。目頭に熱が込み上げる。
少女は凶刃を振るうあの男も、彷徨するオグマも、何もかもを察しながら許し、慈しむ。その魂の高貴。
オグマは拳を握り締め、静かに頷いた。
「ありがとう、オグマ。おやすみなさい」
◇
翌朝、オグマは朝礼を済ませ職務の指示を出すと早馬を駆り、再び海辺の洞窟を訪れていた。
雨は上がっていた。濁流が流れ込んだ海は淀んだ色にそれでも空の青を映して揺れている。
洞窟にビュウビュウ、風が吹き込む。
雨上がりの海の、何処か土の香りの混ざった潮風。
遠く聴こえる海鳴りと鴎の声。寄せ返すまだ高い波の音。
じめじめと苔生し舟蟲の這う岩壁から染み出す磯の有機的な匂い。暗がりにうっすら射し込む陽光の白い筋。
屍は昨日と変わらず、動いた形跡もなく転がっていた。
手着かずの水と食料を見てオグマは無性に腹が立ってきた。
タリスを襲撃したことは元よりオグマの心に爪を立てたことも。大罪を犯しておきながら主君の慈悲を注がれていることも。それなのに食事も摂らないことも。一連の愚行によって生命を落とそうとしていることも。こんな無様を晒していることも。なにもかも。
それでも、主君のためにこの男を世話せねばならぬことも。
オグマは大きく溜め息を吐き。
屍の腹を軽く蹴りあげた。
◇
「雨が幸いしたな」
横たわったままのナバールの傍ら、野営の支度をしながらオグマは口を開く。
豪雨の中、出歩く獣もいなかったのだろう。食事や水にも手を着けず、動いた形跡もない転がる肉を喰らいに来るものは無かったようだ。
一晩の間にも出血し続けていた身体からは鉄錆びた匂いと膿の生臭い匂いがする。オグマは何も答えることのないナバールの身を起こし、ゆっくりと血膿の張り付く包帯を解いた。触れた身体は処置が功を奏したのか高熱は引いたものの、今度は芯まで冷えている。瞼は開かれているが、虚ろな眸はオグマを見ることもない。
「立て」
指示を出しても立たないナバールに苛立ち、腕を引っ張って立たせると、次の瞬間ぐらりと均衡を崩した。倒れる前に抱き留めながらオグマはナバールの脚が折れていることを思い出し、舌を打つ。
「……捕まっていろ」
「…………」
オグマは木桶に湯を張り、包帯を解いたナバールの衣服を脱がせていく。応急措置は済ませてあるとはいえ不衛生なままでは再び傷を病み兼ねない。温浴により身体を温める意図もあった。
立たせて、両腕を肩に掛けさせ上半身を支える。次第に露になる膚にナバールは恥じらいも、抗いもしなかった。
「熱かったら言え」
ナバールの身体を清めながら、オグマはもう何度吐き出したか分からない溜め息を吐いた。返事は何もない。逆らいはしない代わり、自分から身体を動かそうともしない男にオグマは怒りと共に戸惑いも感じる。
ただ意地を張っているのならまだしも、頭を強く打ちでもして意識に異常が出ているのではないか。心も、思考ももう此処にはなく、今あるこの身体は抜殻に等しいのではないか。
そんな不安が過る一方で、それを不安に感じる己自身にも芯が揺らぐような不安を感じる。
かつての敵対者。そして今も、死んだことになっているとはいえこの島にある限りオグマにとっては未だ敵対者なのだ。姫が寛容を示したとはいえ、どうしてこの男を許せよう。だというのに、オグマはナバールの精神が失われることに不安を覚えている。
長い髪に絡む血と泥を溶かして流し、隠そうともしない裸身に湯を浴びせながら傷を刺激しないように洗う。
オグマは迷いを潰すように、奥歯を噛み締めた。
「……まったく、返事くらいしろ」
きれいになった傷に膏薬を塗って包帯を巻き、更に新品の胴衣を被せてやる。
作業をしながらも「何故此処までしてやらねばならないのか」と、口の先まで何度も出掛かる言葉を押し込めた。
身勝手に屍を探しに来た昨日とは違い、今日はこれの世話をする理由がオグマにはある。
──ありがとう、オグマ。
脳裏に花の囁きがひらりと舞った。
「…………」
抜殻だとしても姫はこれを生かせと仰るのだろうか、いっそ殺してやった方が情けというものではないのかと小さな疑問を生じる。
だが、それでも姫は可能性がある限りこの男を、仲間を救おうとするだろう。ならばその意向に沿うのが己の務めだと、オグマは思考と感情を呑み込む。
「本当に、世話のやける」
長い髪の露を拭いながら、オグマはナバールの頭を軽く小突いた。
◇
そうこうしている内に粥を炊いた鍋がぐつぐつと音を立て始めた。蓋を取れば目の前の浅瀬で獲った二枚貝で出汁を取り岩海苔をあしらった粥の香りが広がる。
竈の周りには棒に香辛料と塩を混ぜ込み挽いた肉を巻き付けたものも香ばしく焼けている。
「食わねば死ぬぞ、せめて水くらいは飲め」
オグマは毛布の上に座らせたナバールの前に粥の椀と水袋を差し出す。
どれだけ意地を張ろうとも、一昨日の交戦以前から食事を摂っていないはずだ。食事の匂いに食欲を刺激されぬはずがないと踏んで、オグマは挙動をただ待つ。
竈の炭火の弾ける洞窟内を小蟲が這う。外からは波と風と木々の微かなざわめきと海鳥の声が遠く聞こえていた。
時が緩やかに流れている中でふたりの周囲だけが停止している。
やがて。
「……殺せ」
ナバールが、聞こえるか聞こえないか判別が付かないほど小さく呟いた。
半ば予想していた言葉にオグマは嘆息する。
「あんな場所から落ちて生きているような奴を易々と殺せるわけがなかろう。殺しても死なん」
「……くそ」
抱えて立てた片膝に額を擦り、そのまま長い髪の向こうへ表情を隠す。
「貴様は生き延びようとしていたではないか。此処へ至るまでの痕跡を消したのも、生きるためだろう」
「……お前の、情けを、受けてまで……長らえようとは、思わん」
疲労と空腹のためかナバールの言葉は辿々しい。嗄れた喉で絞り出すように話す。
自分の器に粥を注ぎ、焼けた肉の串を皿の上に並べながらオグマは「やはり意地を張っていたのか」と心の内に吐き出した。意固地な男に腹も立つが、負傷によって頭や心の何処かが壊れてしまったわけではなさそうだ。
かつての仲間に胸を傷める王女をより悲しませることにはならなそうで、一先ず胸を撫で下ろした。
「だが、おれは貴様を死なせるわけにはいかないのだ」
「……お前の、都合など、知るか。……俺は、負けた。敗者は、死ぬのが必定……さっさと、殺れ」
「横槍が入ったからだろう? 加勢がなければ貴様に分があった、それは承知している。そもそも貴様とて納得はしていまい?」
言葉を返すようにはなったものの、顔を伏せたまま相変わらず視線ひとつ寄越さないナバール。
オグマとの対決のために賊に身を窶し、何もかもかなぐり捨てて来た上での転落は身体の傷以上に精神を蝕んでいるのかもしれない。
然りとても、再び黙りこくり俯いたままのナバールをこのままにするわけにもいかない。
「……ナバール、いい加減にしろ」
「っ?!」
業を煮やしたオグマはナバールの前髪を掴み顔を上げさせ、首を捉えて押し倒した。背を打った衝撃とまだ折れたままの肋の痛みにナバールは顔を歪める。だが、身を起こす前にオグマが倒れた身体に馬乗りになった。
「なにを……、ん……っ」
ナバールが言葉を紡ぐ間も無くオグマは水袋を掴むと水を口に含み、そのままナバールの唇に押し当てた。突然満たされた口腔内の水を流されるまま飲み下してから、はっとするように逃れようとする。オグマはその頭と顎を押さえ、再度水を含み口移しした。
もう二度と侵入させまいと拒む唇を舌先で抉じ開け、無理矢理に水を注ぎ込む。ナバールは噎せながらも喉を鳴らして水を飲み込んだ。
「ん、……けほっ……。よくも……、んぐっ」
「余計な口を利く暇があるなら食え」
オグマは更に冷めかけのナバールの椀を手に取り、粥を啜るとまた同様に口から口へと流し込む。空っぽの胃袋に無理やり食べ物を押し込まれた反動と行為への拒絶感に嘔吐くナバールに構わず、オグマは無骨な手で鼻と口を塞ぎ、戻しかけたものをもう一度飲み込ませた。
「、……ぐぶ、……んぐぅっ、……んぇ、ん、……かはっ、……はあっ……、……ろせ、……、もう殺せ、はぁ……はぁ」
口の周りを汚し、目許に嘔吐感と屈辱のためにか涙を滲ませながらナバールはオグマを睨む。苦しげに喘ぐ唇は音にならずとも「殺せ」という言葉だけを結び続ける。
ころせ、ころせと声無き声で喚きながら、時折嘔吐く。その度に分泌される涙が目許をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
オグマは馬乗りのまま今度は挽肉を串から外し、ナバールの口に押し付けた。
「殺さん。こんな死に損ないの貴様を斬る剣はない。いいか、これは温情ではない」
咳き込み、はぁはぁと口呼吸をする口許に肉を捩じ込みながらもオグマは諭すように話す。温情でも、他の何かでも、ナバールと己の間に何ら情など無いのだと自らにも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
主君の大切な仲間を死なせない。
今はそれが未だ言語化すら出来ない多くの矛盾を抱えたオグマの胸に方向を示す、主君の慈愛。
「死なせない」
ナバールを見下ろし、はっきりと告げる。
涙と吐瀉物と食べ物にまみれたナバールは眉間に深く皺を寄せ、恨みがましげにオグマを睨む。憎悪か怨嗟か、或いはもっと深い感情なのか。嘔吐反射が収まっても涙は頬を伝い続けている。
「食わねば、おれを撥ね退ける力も出んだろう? ゆっくりでいい。食え」
「……、くそ……」
やがて。
観念したのか、ナバールは肉を僅かに咀嚼し始めた。少しずつ噛み締め、飲み下す。
抵抗を見せはしたものの、やはり堪え難い程に腹も減っていたのだろう。一口飲み込んでからは口に運ばれる端から喰らい付き、がつがつと夢中で貪った。
最後は指に纏わりついた肉片や脂を舐め取らせ、オグマはきれいになった指をナバールの口から引き抜いた。
「……肋が痛い。退け」
食事が終わるとナバールは忌々しげに眉根を寄せ、口許を拭った。態度の割に何処か満足げなナバールを見下ろしながらオグマは漸く、立ち上がる。
「折れているのを、知っている癖に……。さっきも、蹴っただろう。お前は、本当に……、俺を生かすつもりが、あるのか」
「ふん、気付けだ。貴様はあの程度で死ぬタマではないだろう」
身を起こし脇腹を擦りながら悪態を付くナバールに悪態で返しながらオグマは水を差し出す。それを引ったくり、呷ってナバールは、しかし再び片膝を抱えた。
「どういうつもりだ……、オグマ」
漸く自分の食事を始めたオグマに問う。
何故、助けた。
何故、生かす。
何故、殺さない。
無彩色の昏い眸がそう訴えている。
或いは剣を交える程の。
殺す程の、価値もないのかと。
刺すように注がれる視線にオグマは暫し逡巡の後、目を逸らした。
「……また、あの女……か」
"あの女"。その言葉を聞くなり、冷静だったオグマの血が沸騰する。刹那、オグマは肉を歯で引き抜いた後の串をナバールの目の前に突き出した。
ナバールは避けも瞬きもしない。
「姫は関係無い」
「図星、か」
ナバールが口角を歪に上げる。
オグマの豹変が余程面白かったのか、或いは気に入らないのか、くくっ、と喉を鳴らす。
串を突き付けたまま、オグマは冷たい青の眸に静かな怒りを湛え、威嚇するようにナバールを睨めつけた。
ふたりの間の空気が張りつめていく。
先日、敵対者としてオグマを追い、勝負を迫ったナバールは確かに言った。「あの女を殺せば」
"女は殺さない"という、正義も矜持も無いナバールの、しかし強い拘りに反するその言葉が何処まで真実かは判らない。
だが、あの女──シーダを殺せば、と、そう告げたあの時のナバールからはある種の狂気も感じられた。オグマと戦うためならば、オグマに戦いを求め血に狂(たぶ)る剣士の本性を認めさせるためならば、シーダを殺すという手段をも厭わないと。
少なくともその口に上らせる程度には想定していたのだ。
「二度と、"あの女"などと口にするな」
地を這うような低い声でオグマは念を押した。
ナバールの眼前の串の先が、怒りのためにか僅かに震えている。それを見てナバールは目を細める。
「ふっ……。そう、熱くなるな」
その表情がやけに寂しそうに見えてオグマは僅かに怯んだ。
仄かに届く陽の光と明滅する炭火の赤光に映し出された顔には青痣や擦過傷もまだ残っており、憔悴のためか幾分か目の周辺も落ち窪んでいる。だが、それを加味してもナバールの表情はそこはかとなく切なげで、儚く見える。
オグマの戸惑いを知ってか知らずかナバールは溜め息をひとつ吐くと、薄い唇を開いた。
「……また殺し損ねた。サムスーフと同じだ。俺たちの間にはいつも、横槍が入るな」
片膝を抱えた腕に細い顎を乗せて、穏やかではあるが心底残念そうな声色で呟く。言葉の物騒ささえ無ければまるで逢い引きを邪魔されたかのような口振り。
無彩色の眸に一瞬、光が揺らめく。
「いまは、はいらない。戦もない、誰もいない」
「その脚でやる気か。着かなくなるぞ。貴様の世話が長引くのは御免だ」
オグマは串を納め、大きく嘆息した。
「やる」と言ったら脚が折れていようが即座に抜刀するだろうナバールに、しくしくと痛むこめかみを押さえてかぶりを振る。
「ナバール。おれは、貴様の屍を見に来た」
自分の椀に粥を注ぎ足しながらオグマは言葉を紡ぐ。
ナバールは変わらず、目を逸らさない。
「死んだことを確かめたかった。生きていたのなら、この手で引導を渡すつもりだった」
「ふん、言うことが、二転三転するな。……ならば何故だ。血迷ったのか。お前はその大剣で、幾人殺した。同じように、屠れば良かっただろう?」
オグマの言葉にナバールは嘲弄混じりで返す。
それを受けながら、匙を口に運ぶ。飲み込む。
「……そうだな。血迷った、きっとそうだろう。結局、貴様を助けたのは、姫でも誰でもなくおれの判断だ」
粥の残りを啜る。
飲み切りの音がやけに大きく洞窟内に響いた。
オグマは椀を置くとナバールに向き直る。
「ナバール、誓え」
獲物を見定めるが如くの、オグマの青い虎狼の眼。
それを受けるナバールは表情を変えず、視線を返す。
「二度と……、姫を裏切るな」
「あの女は、関係無いのではなかったか?」
「誓え」
一段と低い声でナバールに誓いを求めるオグマにナバールはくくっ、と喉を鳴らしながらも何処か不機嫌そうに眉を顰め、煽るような口調で答えた。
「何に誓えと言うのだ? 神とやらにか? ……違えぬという証は?」
信ずるべき神などこの世に存在しない。
ナバールの眼がそう弄しているように見える。
オグマは壁に立て掛けてあるナバールの愛刀に目線を移して、顎で示した。
「剣に」
「この剣に求めるものは、強さのみだ」
愛刀に手を伸ばし、鞘を一撫でしてナバールは鼻で笑う。まるで騎士の真似事よろしく剣に誓いを立て、主君への忠義と恩義のために剣を振るうオグマを嘲笑うかのように。
だが、オグマはその挑発的な態度には応じない。
誓いなど、凡そナバールには似つかわしくない言葉であることは解っている。それでもオグマは淡々と続ける。
「ならばおれに誓え」
ナバールは目をきょと、と見開いた。
次の瞬間、ふっと吹き出す。
「俺が、お前との約束事など守るとでも?」
「……そう、思っている」
馬鹿馬鹿しいと吐き捨てるナバールにオグマはなおも、真っ直ぐ視線を注ぎ続けた。
信じるに値しない人間。
賊などに平気で雇われる破落戸。
その雇い主すら裏切る人でなし。
そして心を動かされたはずの王女すら裏切り、手に掛けようとする狂人。
約束事など。
共に命を懸け戦場に立った日々など。道は違えども剣を志すものとして感じ得た儚い共鳴など。
この男にとっては大した意味を為さないものなのかもしれない。
だとしても、オグマは告げる。
「もう、失望させるな」
絶対に相容れないものと同じだけの在りもしないなにか。
オグマに深い失望を与えたなにか。
積み上げたかに見えて崩れてしまう、砂上の楼閣のようななにか。確かと言える程、定かではないはずなのにいつの間にかオグマの心の奥に生じていたなにか。
その所在を。
きっと己にも、ナバールの中にも願う。
"思っている"。
ふたりはゆっくりと二呼吸ほど視線を合わせ。
やがて、オグマが先に目を逸らした。
「また、夜に来る。何処かへ行くならば止めはせんが貴様は死んだことになっている。だが、港も含め島にいる限り見つかれば重罪人だ。いいな」
そうナバールに言い残し、オグマは残した仕事を熟すためにタリスの城へと戻っていった。
◇
それから数日──。
日没前頃になるとオグマは洞窟を訪れた。水と食料と着替えを運び、夜が明ける前には戻る。部下たちには女でも出来たのかと揶揄もされはしたものの、日頃から信任も厚く慕われもしているオグマを追及するものもいなかった。
紅く染まる海、沈みかけの黄金の陽、紫と薔薇色と藍の空。山際には星も輝き始めている、夕凪。
「もう動けるな。痛みはあるか?」
「ない」
海辺で素振りをするナバールにオグマが話し掛ける。
「身体が鈍って仕方がない、付き合え」
ナバールが木の枝を放る。受け取るとオグマは構えの動作もなしに振り掛かった。それを躱して間合いを詰めたナバールが下から振り上げ、オグマは身を逸らして躱す。
その動きを見切るように弧を描いて凪いだ枝をオグマは枝で受け止めた。
「貴様はやはり、治りが早いな」
「何処ぞの傭兵隊長殿に言わせれば、獣だからな」
「獣にも劣る、だ」
枝を合わせながら笑みを交わす。
次の瞬間、ナバールは背後に隠し持つもう一本の枝を逆手に振り上げた。寸でのところで躱したオグマの胸元に、しかし風圧で薄く傷が付く。
「卑怯者め」
「ふん、俺の得物を知っているだろう?」
ナバールは東洋風の長刀と隠し刀の二刀を扱う。先制を取って機嫌が良さそうなナバールに、大剣を扱うオグマは「その理屈ならばおれもこんな短い枝では割に合わん」と肩を竦める。
と、足元の砂を蹴った。
突然の目潰しに間合いを取るべく飛び退ったナバールは傷めている軸足を付いて蹌踉めく。その隙に枝を捨てたオグマが胴に飛び付き、ナバールを制圧した。
「どちらが卑怯者だ、くそ」
「実戦では剣だけが勝敗を決すると思うなよ」
「死ね」
覆い被さるオグマの背中に枝を突き刺しながら、ナバールは目に入った砂を流すようにぱちぱちと瞬きをした。オグマはその目許に掛かる長い前髪を撫でるように退け、ナバールの顔をまじまじと見つめる。
傷や痣は消え、血色も戻っている。ナバールが視線に気付き、目が合うとオグマは話し始めた。
「……明日の明けすぐ、船の手配をしてある」
海鳥たちが巣に帰り、潮騒だけが浜辺に響く。もう陽は殆ど落ちて水平線が僅かにきらきらと光るばかり。
「この島の南端だ。見送りには行かん。おれの名を出せば素性を訊かれることなく、大陸に渡れる」
そこまで告げると、オグマは改まった表情でナバールの頬を両手で包んだ。視線を逸らすことの無いように顔を向けさせて、言い聞かせる。
「もうタリスの地は踏むな」
「……ふん」
ナバールは表情を変えずに、鼻を鳴らした。
それが返事なのだろう。
オグマは身を起こし、ナバールの手を引いて立ち上がらせる。陽はもう完全に落ちて周囲には薄闇が広がっていた。
崖の向こうには昇り始めた満月があるのだろう、岩肌の影が黒く、蒼い闇に浮き上がっている。
「おれもこの後、大陸への任でタリスを離れる。貴様が此処を訪れる理由はもう無い」
「……そうか」
「何やらキナ臭い話も聞く。また戦になるのなら、再びまみえる機会もあるだろう」
冷えてきた潮風の中を長い髪が踊る。オグマに背を向け、星空を見上げるナバールの表情は見えない。
今夜が最後の夜になることに僅かばかりの寂寥を感じつつ、気の迷いだとかぶりを振った。
「…………」
ナバールに話すべきことは終いではあるがオグマにはもうひとつ、やることが残っていた。
オグマは拳を握り締め。
その名前を呼んだ。
「ナバール」
ゴッ──!
ナバールが振り向いた瞬間、オグマの拳が左横面を捉えた。
振り抜かれたオグマの拳の向こうで黒髪が舞い上がる。その黒の隙間に鋭い眼光が覗いた刹那、今度はオグマの顎をナバールの拳が穿つ。
ガッ! と、衝撃が下から上へと稲妻のように突き抜け、オグマの脳を激しく揺さぶった。一瞬にして気を失いそうな一撃を堪え、オグマは仰け反ったまま丹田に力を込め、体勢を維持した。
一方、ナバールは眩々しているのだろう頭を振りながら、鼻から口許まで垂れてきた紅を拳で拭い、構え直して不敵に嗤っている。
「やるのか?」と無言で問うその顔にオグマは大きく肩を竦め、首を振った。
ナバールは拍子抜けしたように構えを解いた。
「今のは貴様のしでかしたことへの罰と世話代だ。これで貸し借りは無し、……のつもりだったのだがな」
「なるほど」
オグマの言葉にナバールは少しつまらなそうに目を逸らす。オグマはそれを見、ふんと鼻を鳴らした。
「しかし、こうもすぐに返されるとは……」
しかも、加減したつもりが思い切り返された。
何の説明もなく殴り掛かった自分も悪いが、目の前のふてぶてしい男ももう少し反省してもいいのではないだろうかとも思う。
「悪いな。やられたらやり返すことにしている」
「それでは仕置きにならん、まったく」
「ならば次に取っておけ。どうせお前も海を渡るのだろう?」
はぁ、と大袈裟に溜め息を吐き捨てるオグマの顔を風に流されたナバールの長い髪が擽る。ナバールは首を捻りながら拳を擦っている。
オグマは徐に、目の前で揺れるナバールの髪を一束指に絡めた。髪はするすると指を逃れ、再び風に舞う。何処か遠くで海鳴りの音がする。
「風が出てきたな」
「……オグマ」
ナバールがオグマを振り返り、覗き込むように見上げた。夜の蒼に翳る顔が妙に艶かしく、オグマの胸がひとつ大きく拍を打つ。
「俺もひとつ、返し忘れていた」
薄い唇が弧を描く。しなやかな腕がオグマを捉える。
制止する間も無かった。
気付いたときには、唇に柔らかいものが触れていた。
衝動の名前を定義する前に身体が動いた。
黒い崖の影から銀の満月が昇り始めていた。
◇
──夜明け前。
腕の中のぬくもりは鳥の囀ずるより早くするりと抜け出し、白み始めた空の元へ歩き出した。
「二度と、裏切るなよ」
潮騒と海鳴りの向こうへ吹く風へと、オグマは呟いた。
了