【侑北】スミダ川は穏やかでも 春の、うららの、墨田川
有名な歌の歌い出しである。適当にとってしまった選択科目の音楽で、侑はこの歌の存在を知った。音楽はペーパーテストもあるが歌の実技テストもある。歌詞を覚えて大体正確な音程で歌うことができたら合格、という簡単なものだ。この歌が課題にされた時「どうして関西人が関東の歌を歌わないといけないのか。道頓堀じゃアカンのか。スカイツリーがなんや。こっちは通天閣やぞ」と思った。兵庫に通天閣はないというのに何とも傲慢な意見だった。しかし道頓堀も墨田川も変わらんやろ、と思ってオンライン地図を見て比較してすぐに閉じた記憶もきちんとある。テストもそこそこに評価される程度には真面目に受けた。許されてもいいだろう。これが一年の時の記憶である。
二年生に進級して、春の追補講の日。これは一年の時に赤点が多かった生徒が受ける授業だ。そこに古典授業を受けろと選ばれてしまった侑が聞いたのは紫式部の和歌である。
――春の日の うららにさして 行く船は 棹のしづくも 花ぞちりける
「これは情景的な短歌で、性格が暗い言われとる紫式部らしい歌になっとるな」
侑は古典の先生がはきはきと喋りながら黒板に書き記していることを嫌々で書き写す。黒板に書かれた現代訳は「春の陽がうららかに射す中、棹をさして行く舟は、そのしずくも花が散る様のようだ。」であった。
「せんせー」
「ん?」
この教室には侑以外生徒はいない、という全く持って恵まれた待遇である。自由に質問ができるし、自由に意見が言える。先生がたがそうしたのではない。必然的にそうなってしまう現状がこれである。
「桜散ったら綺麗やん。なんで暗いん」
「あーそれな。まあ人によって解釈はちゃうんやけど、桜が散るんて一瞬やろ?」
「おん」
「せやから、散る様子が儚くてあんまええ意味持っとる花ちゃうねん、桜って」
「ほーん」
「でもこれは先生の解釈で、宮が綺麗な歌や、って思うんならそれは綺麗な歌や。解釈は宮の思うようでええねん。私かてこの解釈を紫式部から聞いたんとちゃうしな」
「ふーん」
「ちゅうか、この話は授業でしたはずやけど?」
「続けてくださ~い」
不機嫌そうな女の先生だが、すぐにその表情を収めて次の話をし始めた。
「そういや、一年の頃、音楽の授業で花のテストしたやろ」
そういうと先生はメロディラインを鼻歌でなぞり始めた。その歌は侑の覚えている。なにせ奇天烈なエピソードがくっついている。
「それ、この歌がモチーフやで」
そういわれてみれば、と思ったのはその言葉を聞いて歌詞を思い出した五秒後だった。
――春の、うららの、墨田川
歌詞を思い出した。歌になると儚い印象なんてどこかに行ってしまう。道頓堀改め墨田川様は春になると桜が咲いて綺麗だという歌だったのをぼんやり思い出す。春の日差しに麗らかさを感じる、というような歌詞だった気もしてくる。思い出せば思い出すほど、侑の脳内にミュージックビデオの如く映像が音楽付きで流れ始める。
しかし悲しいかな、侑の脳内ではどうしても道頓堀になる。そのイメージを振り払うためにウララカウララカと唱えて脳内を落ち着かせる。
そして次に流れた風景は海だった。
しかもそこに人が立っている。そこにいるのは、侑でもなく、目の前にいる古典の先生でもなく、もっと言うと片割れでもなく、真っ白な人だった。
「そしたらヤマセン、頭しばいてきよって……」
「当たり前や。せっかくマンツーマンで授業しとんのに真面目に聞いとらん赤点の奴が目の前におるんやから」
磯の香りとおにぎりの塩加減は意外とぶつからない。防波堤の傍にある桜の木と古びたベンチに二人。膝の上に侑の片割れが握ったおにぎりを置いて思い出話をする。侑の隣にいるのはあの時の侑自作ミュージックビデオの主人公・北信介だ。
「あん時から北さんって、海みたいに平坦で穏やかな人でしたねー」
「おもんない人間で悪かったな」
「ちゃいますよ」
ザァと吹き抜ける潮風は緩い。優しい。
「こう、感情に波がなくて落ち着いてて。確かに厳しい人なんは間違いないんですけど」
「……」
侑の動く口を北はおにぎりを頬張りながら黙って聞いている。侑の優しい声と波の音は最高のBGMである。言葉は恥ずかしくてむず痒い思いではあるが、言葉選び以上にその声のトーンが落ち着く。この空間は二人きりなのではないか、と思うほどはっきりと芯をもって北の耳に届いてくる。
「その姿を見とったら俺の気持ちも引き締まって次のプレーが心静かに? 穏やかに? 何ていうたらええんか分らんのですけど、とにかく落ち着いてできるんです」
侑の横顔が、春の日差しに充てられてぼんやりする。決して泣いているためとか恥ずかしくて、とかではなく、気持ち柔らかく見えるのだ。夏になるとギラギラとしてガメツイ海も、今日は色彩穏やかで心が落ち着いてくる。
「そないに侑の脳みそにお邪魔してしもてすまんな」
「? 何がアカンのですか? むしろずっと居ってほしいです」
そう言った侑の手にはもうおにぎりはない。北もあと一口だ。
「俺の脳内北さん、高校二年の時からおるんですから、もう永住やないですか?」
耳を疑うようなその言葉に北の心は妙に波打った。
#【春の海】
春の穏やかな海。