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    seki_shinya2ji

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    北さん目線の話

    【侑北】山吹色の鏡像が芽吹く時 侑は北にとって遠い存在ではなかった。
     ただ近くもない。
     隣にいるのに、隣にはいない。
     隣にいるのが侑であってもそれは侑ではない。
     例えるなら、そう、例えるなら。鏡の向こうにしか映らない存在。現実世界にはいない、それでも鏡の向こうにいる自分の背後には笑って立っている存在。見えていて鏡ごしには触れるような。
     北にとっての侑はそういう存在だった。
     
     春も桜が散ってしまった土曜の午後。練習はまだ続いている。北は三年生になった。侑たちは後輩を持つことになった。新体制とは妙な浮つきと緊張感のある距離を感じる。一年の緊張が三年にも移るが、一年に緊張するな、というなんてことは言えなかった。緊張して当たり前。泣くことが仕事である赤子に「泣くな」というようなものだと北は思っていた。浮つきは二年の間にある。後輩がきになるという好奇心が顔に出ている。角名はあまり興味がなさそうだがチラチラしていたのは雰囲気で分かった。銀は北の中では完全にムードメーカーであった。後輩に一番気を遣った声をかけていたし、後輩によく話しかけている。治は一切に興味がなさそうだ。それはそれだが声をかけてほしいなんて誰も頼んでいないのも事実。目線だけは送っているが、それが後輩を思いやってのものなのかは北には分からなかった。
     そんな中、侑の存在は北にとって心が普通に戻る存在だった。北は新主将となり前主将を見習って反面教師にして動いていた。しかし、今までユニフォームすらもらったことがない。他人の姿を見てはいたが、『見ていた』と『経験がある』は全く別物である。本番で緊張しないのは、練習があるから。しかし主将業は練習できない。北は珍しく緊張して疲労を覚える程には体に力が入っていた。そんな中、上が変わろうが下が追加されようが、侑の練習は変わらずAからZで、日々に進化があった。その姿は、北にとって揺るがない指針になっていた。疲労だって溜まるし、一年の面倒を見るためにいつも通りに動けないことだってあった。それでも侑が飛んでいる姿を見ていると気持ちがリセットされるのだ。そして同時に、見えているのに、触れる距離にあるのに、触っている侑は本当に侑なのか、と思うようになった。それはまるで足元が体育館の床から雲になるようだった。
     確立されることは『侑に触れて普段の北信介になりたい』という気持ちだった。
     しかしそのたびに頭を振る。今自分が見ているのは鏡の向こうにいる侑で、触れたところで鏡越し。自分が想像するような肉感なんて得られなくてガッカリするだけだ、と。その無理やり作り出した言い訳一本で北は立っていた。
     
     
     寮の夕食後。ここからは決まった時間に風呂に入るが、北は浴室の清掃を行っているため最後に入る。つまり、一年が風呂に入る時間まで北は自由時間がある。その時間に行うのがトイレ掃除であった。タイルに水を撒いて少量の粉洗剤を振りかけて掃除をする。
     掃除をすることに意味がある。一日のメンタルをリセットして明日にする。北は後悔、憤怒、悔しさを明日には繋げられない。それらをまとめて混ぜこぜにして固めた明日は明日とは言えない。それを一滴だけ垂らして丁寧に整形して、そしてやっとできた綺麗な球体を大事に研磨してできたものを明日まで温める。その研磨こそが、トイレの床を擦ることで、トイレの便座を磨くことで、トイレの鏡を拭くことだった。
    「ぉ、」
     最近この黄色いものをどこかで見た気がした。ああ学校の花壇にあった山吹の花だ。
    「すんません、借ります」
    「……おん」
     床の泡が排水溝に流れていく。水の音が雑音に代わるほどに空間が歪んでいく。
     よくアランが「アイドルはクソせんねんな」と言って「意味わからん」と答えていたのが恨めしくなる。生理的音を聞いてしまうと、鏡の存在であることが否定される気がしてしまった。
     用を足し終えた侑は北が磨いている鏡の隣に立った。手を洗う姿は丁寧だ。自らの指が人を飛ばす道具である。侑自身が愛して丁寧に扱っているのが良く分かる。北はその動作に見惚れてしまった。ああこれだ。自分が見ている理想の侑がある。北という概念すら混じらないような汚れを知らない純潔な侑。北が一種の安堵を覚えた。
    「あの、北さん」
    「……ん? なんや、相談か」
    「いや、えっと」
     ――俺は、ここにおりますよ
     鏡越しに目が合った時、北は冷や汗をかいた。どっ。心臓が勝手に走り出す。顔が真っ青になる感覚。血がどこかから抜けていく感覚すらあった。
     北は鏡越しの侑を見ていたことに、今さらながら気づいた。
    「そんな熱い視線、”こっちの”俺やなくて”こっちの”俺に向けてくれませんか」
     侑が指した指は自らの鼻をさしていた。しかし、北は鏡の中の侑も、隣にいる侑も見るころができない。見ているのに”どっちの”侑を見ているのか、よく分からなくなってきた。トイレの床のタイルが雲になる。すっぽ抜けてしまうような北の足元が震えてしまうほど恐ろしく感じた。
    「……いま、俺の目の前におる北さんは、誰ですか」
     北は何も言えなかった。鏡にいる侑を侑だと思っていた人間が、隣の侑にそうだとは素直に言えなかった。嘘もつけなかった。本能的に何かを口にしてしまえば何かが破綻してしまうと思ったのだ。
    「北さん、こっち向いて」
     果たしてどこを向けばいいのか。北が目線だけ上げた先には、やはり侑がいた。鏡越しだったか実体の侑だったのか。分からないまま、北は侑を見た。侑も、鏡越しに北を見ていた。
     すると侑は背伸びをして、北が磨いたシンクにその手をついて、鏡に口を寄せた。丁寧に閉じられた瞳が薄く開かれて、北のことを見ている。自分がどんな顔をしているのか、北には分からない。呆然としてしまった北は持っていたデッキブラシを床の薄い水面に落とした。
     バシャンと音を立てて割れたのは、一体何だったのか。
     その時の北は分からなかった。
     
     #【面影草】
     やまぶきの古名。春になると鮮やかな黄色い花を咲かせる。
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