【北組】葉に包まれた一輪の白花よ ――――咳を一つするにも体力が必要だ。体の中で何者かが暴れまわっているような感覚。体は昔より強くなったはずなのにこうも好き勝手されてしまえば人間は倒れてしまう。喉がヒリついて息をするのも億劫だ。体も節々が痛む。頭も締め付けられるように痛んでぼんやりとしている。熱が上がっているのだろうか、悪寒まで止まらない。
着ている着物が邪魔ったくて仕方ない。汗で張り付いてしまって不快極まりない。仕方ない、と北は微かに震える歯を誤魔化すつもりで食いしばって起き上がった。途端に割れそうな頭痛に襲われる。雨が降ったり京都のお山に近づいた時のような頭痛とはまた種類が違う。酔うような頭痛ではなく、頭を殴られるような痛みだ。思わずこめかみを押さえて見たが気休めにもならなく、首をもたげることしかできなかった。
晴れている日曜日とは、北にとっては儲け時である。この春の時期、花見客をターゲットにした出店を北組が広げている。今年は回転焼き。流行に鋭いアランが「これや」と激押し。その猛烈なプッシュに負けて北組はこれになった。程よくかかる費用に目を伏せながら、北は下準備と当日の焼きの手伝いを予定していた。しかし一日目の土曜日。想像以上の日差しとヒノキ花粉によって夜から 体調を崩した。こんなことがあるのか、と布団の中から恨み言を嚙み砕くことしかできなかった。
こういう時、母がいればいいのかもしれないが、生憎母に捨てられてしまった身である。父の代わりの人間はいるが、とうの昔に別の管轄をもつことによって、上司と部下のような関係になった。まともな会社ではないし、そもそも会社ですらない組織であるのは間違いないが、それだけの関係になった。そうなって時間にしてもう一〇年ほどが経っただろうか。その間、一度たりとも体調を崩していないし寝ていなくてもそこそこには動けていた。しかしどうしたものか。こうも動けないものなのか、と不安になるほどだった。
「若様」
外にいるのは練だ。この男、とことん子供に嫌われてその母親にも嫌われる。本人は子供好きだったりする一面があるだけ余計に悲しい。ああいう花見の席では子供が多い。泣かれてしまったらこちらの商売が上がったりである。
北は「ん」と返事をしたがその声はまるで芯がなくかすれていた。
「お加減はいかがですか」
この部屋には入らないように伝えている。昨今よく分からない菌が流行っているとのこと。北組は定期的にボクトの伝手でコミに検査をしてもらっているが、今のところ異常を示す人間はいない。とにかく北の潔癖気味な消毒癖やマスク着用や外出から帰宅後は必ずシャワーを浴びること(これは北が花粉症ということもある)が徹底されているおかげかもしれない。もちろん北も今回熱まで出ているので夜中にコミを呼び出して検査をさせた。「インセイで~す」と連絡をしてきたコミは覇気が全くなかった。しかし部屋にはなるだけ入らないように、と伝えているので、練は忠実にその約束を守っている。
「ん」
それだけしか言えなかった。情けない話だがヘビースモーカー、アルコール依存症、過労、寝不足。これだけの要因が揃えば隊長も崩れるというもの。しかし北はどれも手を抜くつもりはないという。
「……あの、黒須会長がお見えです」
北はむせ返ってしまった。ひゅ、と喉が鳴った瞬間、炎症を起こしている喉に大量の酸素と唾が通過した。驚いた喉はそれらをまとめてさらに炎症を起こしている気管支に送り込んだ。結果、むせた。カヒュ、げほ、ゴンゴホ! ひゅ、ぜー……ゴホ……と咳が止んでも体力がないため返事もできないし立ち上がって会長に顔を向けることもできない。情けなくなってしまって布団を握る力ばかりがこもる。
「は――……いま、いく」
ようやっと落ち着いた頃に北は精一杯の力で立ち上がって笑う膝を押さえて這いずるようにして襖に近づいた。
「おう信介。哀れやな」
北が部屋の襖を開けたところにもうすでに黒須はいた。驚く暇もなく、北はその痩身の肩を押された。力なんてまともに入っていない北の体は体重に準じた速度で倒れていく。
北のぼやける瞳の先には表情のない黒須がいた。何かがあったわけでもなく。いつもの癖で正座をして額を畳にくっつけた。
「情けないやつや。誰が花見の屋台ではしゃげ言うた」
「ハイ」
絶対に返事をして見せる、という意識はあった。しかし何故か一抹の寂しさがあったのも事実だった。目の前にいる男のことを北はなんと表現しようとしたのか。その解答なんてすぐに思い当たり、自分に失望した。なんと情けないのか。黒須の言う通りだ、と落胆した。
「お前な、そないなことで動けんようやったら北組の看板降ろすか」
「い、イイエ」
初めて聞いた言葉だった。雷が落ちるような感覚に言葉が一瞬遅れた。看板を降ろす。つまり黒須の役に立てていない、ということだ。頭が途端に真っ白になってしまって弁明の言葉が思いつかなくなってしまった。
「大耳」
「はい」
「下がれ」
「ハイ」
今の北にとって、それが一番有難かった。もう、これ以上北が惨めな姿をしているところを誰にも見られたくなんてなかった。上司は部下のために頭を下げることがあって当然なのは堅気の世界のみ。北たちが生きる世界では己の責任は誰であって己で取る。当たり前だ。その中でも組長や若頭というものは、部下たちにとって羅針盤の針で常に膝をついてはいけない。しかし今の北はどうだろうか。自己管理の徹底を忘れてしまいこのざまだ。これ以上視姦されてしまえば舌を嚙み切って死にたくなってしまうところだった。
襖の向こうの練の雰囲気が消えた。北は畳の上に額を伏せたまま動けていない。一ミリも動くことができていない。動けないのだから。頭に血が昇り始めていてだんだん気分が悪くなってくる。頭痛が加速する感覚に背筋が凍る。
「シンスケ」
「はい」
熱からくる悪寒で背筋が震えて言葉の端も震えてしまった。生理的涙も浮かんできているし、額をつけていた畳に熱が移ってほんのり暖かくなっている。花粉症からくる鼻水も垂れ流しになっていて、今の自分の顔面を想像するのも恐ろしい。
「ええ加減にせぇよ」
「はひ」
「花粉症の薬は飲んどるんか」
「いえ……いえ?」
するとハ――ーッと大きなため息が聞こえた。そしてその汗をかいてベタついている髪の毛を引っ掴まれて顔を晒された。いつもの黒縁眼鏡をかけている黒須の顔は迷惑そうに歪められている。
「オウオウ、情けないなりにみすぼらしい顔になっとるやん」
男前や。と付け足されると、髪の毛から指が離れた。北は次にくる行動を予測できなかったが、身に力を入れた。あるだけの体力を使って身を固めたが、その顔に飛んできたのはスポーツドリンクだった。
「大耳が言うてた。薬も飲まんと白湯しか口にしとらんやろ。姐さんからスポーツドリンクと、梅干しとチョコの見舞いや。なんか栄養取ってから解熱剤飲め。ええな」
そういうと黒須は早々に立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「お、まちく」
バタ、と無理やり起こした体がやっぱり倒れていく。情けなくて泣きそうに迄なっている。これは生理的涙なんかじゃない。その音に黒須は受け止めようにも受け止めきれず中途半端な体制で腕を伸ばすことになった。
「お前もう寝とけ。また治ったら報告しに来い、ええな」
「しか、し」
「なんや俺に横抱きされたいんか」
「ちが、」
否定してしまって惜しいことをした、と北は激しく後悔してしまった。
「あの、ありが、とございます……ねえさんにも、御礼に参り、ます」
「ん、分かった。しっかり落とし前つけぇよ」
「はい、おとう、さ……」
「――――……」
たっぷり一〇秒ほどの空間が生まれた。高熱に魘された北は自分が何を言ったのか理解なんてできないし、意識が飛びかけている。この言葉を正しく理解できる人間はこの空間でたった一人だけだった。
「――――はよ、よぉなれ。俺のたった一人の……」
燃えるように熱い額に、最愛を。
おやすみ。
#【ひとりしずか】
センリョウ科の多年草。
花言葉は「隠された美」「愛にこたえて」。