総務の夢野さんと作業員の帝統くん入社時の会社の説明、福利厚生や給料についてなどなど。
手元の資料と映し出されるプロジェクターからの映像を真面目に見つめていた。手元の資料に必要なことをメモしながら、とても真剣に、有栖川帝統は見つめていた。
正確には、説明している人を真剣に見つめていた。
帝統がこの工場に働きに来たのは、単発のバイトでそこそこ給料が良かったからだ。
3日何も食べておらず、公園の水だけでなんとか命をつなぎ、何かしらの日雇いのバイトでもしなければと思っていた時に見つけたのが、この工場の求人広告だった。
なんとかあと数%残っていたスマートフォンから電話をかけ、即日採用してもらった。
この工場は、製品にシールを貼ることを主とした工場で、手先の器用な帝統はすぐに仕事に慣れていた。数日働けば、この工場で扱っている製品のほとんど対応できるようになった。あとは熟練の技が必要な、ハイブランドの化粧品を残すのみとなっていた。
この職場は、時給はそこまで高くないのだが、時給プラス出来高なので、シールを貼れば貼るほど、給料が上がるという仕組みだ。
「おう!ダイちゃん!今日も張り切ってたな!」
人懐こそうな男性に声をかけられ、帝統は飲んでいた缶コーヒーから口を離した。
「おっちゃん!いや〜、いろいろ教えてくれてありがとうな!とりあえず、バイト今日までなんだわ」
「お、そうなのか?ダイちゃんめっちゃいい仕事してくれてたから、明日から大変になるな」
「またまた〜。嬉しいこと言ってくれんじゃねーか」
「いやいや、マジな話。ダイちゃん来てくれて、結構早く仕事終わってるんだよ。ありがとうな。また金なっくなったら来てくれよ。主任さんもいて欲しいって言ってたしな」
「え?そうなの?」
主任さんはちょっと目つきのきつめの男性で、初日に身だしなみについて叱られてから、少し苦手意識が付いていた人だ。
特に話しかける用もなく、向こうからも話しかけられなかったので、怒ると怖い人くらいの印象しかない。
「初日に厳しく言ったこと、ちゃんと理解して次の日から気をつけてたし、仕事も真剣にやってるって。若いからどうかと思っていたけどって感心していたぜ」
「へー」
これは素直に嬉しかった。面と向かって言われるよりも、一緒に働いていた人に言ってくれるのが、その人の本当の気持ちがわかる気がして、帝統はへへへと笑って頬をかいた。
「短期でも寮に入れてくれて助かったぜ。明日の朝飯まではいいって言われてるけど、本当に大丈夫なのかな?」
「おー、大丈夫、大丈夫。その辺、総務の夢野さんが働きやすい環境づくりってやつで、うまいこと整えてくれたんだよ」
「総務の、夢野さん?あのおばちゃんか?」
「違う違う。あー、ここのところそういえば遅めの夏休みだって言ってしばらく休みだったな」
「へー、夏休みがあるんだな」
「そうそう。正社員は5日、契約社員は3日。ちゃんと有給なんだぜ?」
手厚い福利厚生である。帝統は素直に感心した。だからなのかはわからないが、今まで短期で入ったどのバイト先よりも、活気があって、働いている人も健康そうだった。
「働いている人間の環境を整えて、長く働いてもらうっていう夢野さんの案に社長が大いに賛同してな。本当に働きやすくなったよ。夢野さん、頭いいんだろうな。法律周りも勉強して、2年ぐらいかな?社長たちお偉方も、俺たち働く側も、双方にとっていい環境を目指すって方向に転換したんだよ」
「すごい人だな」
「ああ、しかもものすごい美人さんだぞ」
「へー」
「あ、いた。あの人だよ。夢野さん」
男性が指差す方を見ると、ふわふわの柔らかそうな髪の毛が見えた。顔は残念ながら、パソコンのディスプレイで見えなかったので、美人の程度がどのくらいかはわからなかった。
「ロッカーの鍵返すの夢野さんだから、そのときじっくり見るといいさ」
「そだな」
帝統と男性は仲良くロッカーに向かい作業着から普段着に着替えて、また会えたら会おうと軽く挨拶をして別れた。
一応1週間の短期間だったとはいえ、借りていたロッカーはなるべくきれいにして、鍵をかけた。鍵を無くすのを防止するためにつけていたキーホルダーを外してポケットに突っ込んだ。今日着ていたはいつもより丁寧にたたんで、クリーニングボックスへ入れておいた。
「すいませーん。今日までの短期の有栖川ですけどー」
事務所に入って声をかけると、「はーい」と声が聞こえた。
「すみません。お待たせしました」
先ほど見かけたふわふわの髪の毛が動き、その人物が立ち上がった。
確かに、美人。少し古いデザインの眼鏡が、逆にこの人物の瞳のきれいさを引き立たせていた。
「1週間、お疲れ様でした。鍵、預かりますね」
差し出された手にロッカーの鍵を置こうとして、まじまじとその手のひらを見る。
確かに男の手なのに、指がすらっとして、節くれもあまりなく、きれいな手だった。
「有栖川、さん?」
気づけば帝統は夢野の手をとって鍵ごと両手で包んでいた。
「夢野さん、何歳ですか?」
「へ?」
「俺は有栖川帝統!ハタチです!」
「夢野さん、名前はなんていうんですか?」
「はい?」
この場にいた事務の女性は後に語る。
「人が恋に落ちる瞬間を見てしまった」
ギャンブルで勝つか負けるかのギリギリの戦いをしていると、生きてるって感じがして、その瞬間が好きだった。
負けて強面の男に殴られたり蹴られたりしたこともあったし、逆に勝って一晩で数百万使う豪遊もしたことある。
ドキドキとして、最高の瞬間だった。
種銭が足りなくなったらテキトーに日雇いのバイトして、寝るところがなかったら、公園や一緒にギャンブルを楽しんで意気投合したおじさんの家に行ったこともある。
帝統は容姿が良かったので、女性に声をかけられることもあったが、それは丁重にお断りしていた。
女性相手は危険だ。何が起こるかわからない。子供が出来たなんて言われたら、わずらわしいことこの上ない。
ギャンブルができなくなってしまう方が、寝床がないことより辛かった。
そうやって約3年生きて来た。この生き方が自分に合っていると、確信していた。
だが、1週間の短期のアルバイト先のシール貼り工場で、帝統は運命の出会いをした。
相手は4歳年上の、本当にきれいな男性だった。
男だとか、女だとか、そんなことは帝統にとって些末な問題だった。
だって、この人だと思ったのだから……。
困った表情で八の字になる眉がさえも、愛おしいと思えたのだ。
「あの……、有栖川さん。とりあえず、手を離してくれますか?」
あの日、突然手を握りしめた帝統に、総務の夢野さん、夢野幻太郎は急なことに驚いてはいるものの、帝統に嫌悪感は抱いてないようで、諭すように優しく声をかけてくれた。
「はい!すみません」
帝統は名残惜しそうに幻太郎の手を解放すると、とにかく隅から隅まで、幻太郎を見つめた。
ふわふわのミルクティー色の髪の毛、エメラスドのようにキラキラとした瞳、小さな口にプルリとした唇。身長は帝統と変わらないが、とにかく細かった。腰は両手でつかめそうなほどだった。
「有栖川さん、ここに名前書いてください。これが今日分の昨日分のお給料です。今日の分は明日お渡しします。今日は寮に泊まってもらって構いません。朝ごはんを10時ごろまでに食べ終えたら、またこちらの事務所にお願いします。今日の分のお給料と1週間分の明細をお渡ししますね。寮の部屋の鍵もその時返却ください」
「はい!」
「お給料確認したら、ここに名前書いてくださいね。有栖川さん?おーい」
帝統は元気よく返事はしたものの、その目線は幻太郎に釘付だった。
「何歳、ですか?」
「そこに戻るんですか?24歳です。名前は幻太郎って言います」
くすくすと笑いながら帝統の質問に答えると、とにかくお給料を受け取ってサインをもらわないといけないので、幻太郎は給料袋を帝統の手に握らせると、サインをする枠を指でトントンと指し示した。
「有栖川さん、ここ。ここにサインしてください。間違ってないと思いますが一応金額確認してくださいね」
「はい」
やっと魂が自分の体に戻ってきた帝統は、封筒の中身を確認して幻太郎が指し示す枠に名前を書いた。
「はい。これで大丈夫です。ではまた明日」
「はい……。また、明日」
バイバイと手を振る幻太郎に、帝統も手を振りながら、フラフラと夢心地のまま事務所を後にしたのだった。
それから2ヶ月経って、帝統はまたシール工場で働いていた。今回は1ヶ月の帝統にしては長い期間だった。
実はかなり大口の大量の仕事が何件か舞い込み、通常のメンバーと短期のバイトでは回らなく、人数より仕事の早さと丁寧さが必要となり、帝統に白刃に矢が立ったのだ。
連絡をしてきたのは、1週間の短期バイトの時に厳しくも帝統を評価していた主任からだった。
帝統は帝統で、またなんとかあの工場で働きたいと思っていたのだが、そんな時に限って、負けがこむことなく、漫画喫茶やカプセルホテル等で過ごせるくらいにはお金に困ることがなかったのだ。
変なギャンブラーの信念で、お金に困ってないのにバイトをするのはダメだと思っていた。
しかし、こうなれば人助けだ。帝統は主任からの電話に食い気味に「やります!」と返事をしたのだった。
そうしてまた、駅から徒歩25分。コンビニまでは15分以上かかる、シール工場に帝統は戻ってきた。
2ヶ月ぶりに会う幻太郎も、美しく、帝統は前回と同じ説明を今度は幻太郎から聞きながら、早速作業着に着替えたのだった。
仕事を始めれば、ものすごい集中力で、どんどん製品にシールを貼っていく。その帝統の姿に、短期で入っているアルバイトは、思わず「おお〜」と声を上げた。
ひとまず午前中のノルマを終えた帝統は、昼休憩のため食堂に向かった。
学生の頃の食堂に比べたら少し高いが、普通の店に比べたらとてもお手頃価格の今日の定食を買い、どこか空いている席はないかと探したら、窓側の席に座る幻太郎を見つけた。
「夢野さん!一緒にいいですか?」
なぜか幻太郎の前だと大声になってしまう帝統に笑いながら、幻太郎は「どうぞ」と席を指さした。
「あざっす!」
幻太郎の前の席に座ると、帝統は幻太郎の前にある四角の箱に目をやった。
綺麗な黄色の卵がとても美味しそうに見える、お弁当だった。
「夢野さん、それ……」
まさか、誰か幻太郎におっ弁当を作る人がいるのか、と帝統は背中に嫌な汗をかいた。
「ああ、僕はここの食堂の量は少し多いので、お弁当持参してるんです。家族のお昼ご飯を作ってくるので、それを持ってきてるんです」
「え?家族?」
幻太郎は24歳。この工場の正社員で、仕事もできる(と聞いた)。結婚して家庭を持っていても不思議ではなく、なぜ今までその思考に至らなかったのか、自分の考えなさを殴ってやりたいほどだった。
「兄がいまして……。兄は自宅で仕事をしているのですが、仕事に没頭すると飲食を忘れるので、朝出社する前に兄のお昼ご飯を作っているんです。そのついでに自分のお弁当を詰めてます」
柔らかく笑う幻太郎に、帝統ははああぁぁと大きく溜息を零した。
「にいちゃん、か。良かった……」
最悪の想像をして、帝統はお行儀が悪いことは承知で、そのまま机に突っ伏した。
「どうしました?」
「家族っていうから、夢野さん、結婚してるのかと思って、めっちゃ焦りました」
「へ?」
帝統は席から立ち上がり幻太郎の手を取ると、じっと真剣な眼差しで、幻太郎のエメラルドグリーンの瞳を見つめた。
「夢野さん!俺と結婚、してください!」
「はあ?」
幻太郎は目がこぼれ落ちそうなほど大きく瞳を開いて、大きな声を出した。
食堂で休憩をしていた人たちが、2人をじっと見ているのを感じて、顔に熱が集まってくる。
「まだ、会うの2回目だけど、夢野さん以上の人ないない!俺、ギャンブルばっかりやって誠実さのかけらまないかもしれねーけど、夢野さんのことは本気だ!俺と、ケッコン、してくださーい!」
「いや、え?待って」
「いや、待てねぇ。ありかなしか、言って欲しい」
帝統のあまりにも真剣な瞳と声に、周りは囃し立てることもできずにいた。
幻太郎も、帝統の手を振りほどくことができない。
「だって、まだ2回しか会ってないのに……。そんなの。決められません」
「じゃあ、考えてくれ!1ヶ月ここにいるから。毎日、一緒に昼飯食って、時々、晩飯も一緒に食いにいこ!」
ぐいぐいと迫る帝統に、幻太郎の背骨は反りすぎて悲鳴をあげていた。
「な、考えるだけ、考えてくれ!俺とケッコンするかしないか」
「なんでいきなり結婚なんですか?」
「だって、結婚しなきゃ、夢野さんのこと俺だけのもんにできねえだろ?」
「はい?」
「あ、そうか」
帝統は急に何か思いついたような顔をして渋い顔をすると、幾つかの言葉をモゴモゴ口の中で呪文のように唱えると、今度は真っ赤な顔をして、こほんとせきばらいを一つして、幻太郎に向き合った。
「夢野さん、前回のバイトの時、一目惚れしました。付き合ってください!」
ガバリと勢いよく頭をさげると、左手を幻太郎に差し出した。
「と、友達、から、お願いします……」
逃げられないことを悟った幻太郎は、自分の手よりも少しゴツゴツしている帝統の手を取ったのだった。
この時、食堂にいた社員たちは思った。
「なぜ、帝統はプロポーズより告白の方を恥ずかしがっていたのか」
答えは分からずじまいだったが、1ヶ月後、帝統のバイト期間が終わる頃、明らかに縮まった2人の距離に微笑まずにはいられなかった。
そして現在。
「ギャンブルばっかりやっているのは、ちょっと……」
という幻太郎の言葉に触発(?)され、帝統はこの工場の採用試験と面接を経て、晴れて契約社員となった帝統は、幻太郎が説明する会社案内に耳を傾けていた。
やさしい、柔らかい声にうっとりとする。
ギャンブルは今でもヒリヒリする、魂が震えるような熱いものだが、幻太郎と過ごすようになって、ずっとそこに身を置かなくても、生きている実感が湧くようになったから、帝統は一つのところに止まってみようと思ったのだ。
幻太郎は帝統からギャンブルを全て取り上げようとはしなかった。今までに魂を揺さぶられたギャンブルについて、目をギラギラさせながら、でも楽しそうに話す帝統を見るのが好きだから。
契約社員の採用試験に通ったら、約束していたことがある。
工場が休みの土曜日に、幻太郎が作ったお弁当を持って、ピクニックに行くのだ。
そして、幻太郎の兄に紹介してもらえることになっていた。
結婚を前提とした付き合いをしている、と伝えるために。
あの食堂での大告白劇のあと、2人の距離はどんどんと縮まっていき、「幻太郎」「帝統」と呼ぶほどになった。
そして、自然と幻太郎が帝統の昼用のお弁当を持ってくるまでになるのも、時間はそうかからなかった。
「卵焼き!最初に見た時から、うまそーって思ってたけど、めっちゃうまい!」
幻太郎が作ってきた弁当を食べながら、キラキラとした目でそういう帝統に、幻太郎は少しずつ自分の中に帝統の存在が大きくなっていくのを感じた。
お日様みたいに眩しくて暖かい帝統の笑顔。その笑顔を見るだけで、心がぽかぽかと暖かくなるのだ。
「うっし。午後も頑張るわ」
「はい。がんばってください」
食堂を出たら、事務所と作業場に分かれて進むと、2人は同時に振り返って手を振りあった。
2人の微笑ましいやり取りに、工場内の人々はほっこりと暖かい気持ちになり、2人を応援していこうという気持ちになっていた。
順調に交際を重ねていた2人だったが……。
半年後、大事件が起こった。
まさかの授かり婚になることとなり、帝統と幻太郎も、幻太郎の兄も、工場の人々も、ただただ驚き、兄以外は祝福をしたのだった。
もちろん、帝統は幻太郎の兄にボコボコにされるが、終始ニコニコとしている帝統に気持ち悪くなった兄が、最終的には折れる形となった。
2人は工場からそんなに遠くないところに家を借り、裕福ではなかったが、つつましく幸せに暮らした。
帝統は変わらず工場で「シール貼りの帝統」という二つ名で呼ばれるほど真面目に働き、産休、育休に入った幻太郎は、内職で家計を支えた。
生まれた子供は帝統そっくりの男の子で、幻太郎の兄がとても複雑そうに抱っこしている写真が、幻太郎のアルバムに加わったのだった。