付き合うって何ですか?社内で噂の、窓拭きの王子様。精悍な顔つきに、鍛えていることが服の上からでもわかる、しっかりと筋肉のついた体。一目でモテるだろうなーとわかる容姿に、社内の女性社員は飛びついていた。
そんな彼がまさか自分に駆け寄って、
「一目惚れしました!」
と太陽のような笑顔で言ってくるなんて、誰も想像できないだろうなと思う。
あっという間に連絡先を交換されてしまって、気づけば、もう片手が埋まりそうなほど、数を重ねていた。
今日も約束をしていて、仕事終わりに食事をすることになっている。
匡は夕食を食べて帰ると伝えた時の、兄の鬼の形相が気になったが、低い声で「遅くならないように……」と言って了承してくれた。
兄は少し……、いや、かなり過保護なところがあり、何か少しでもかわったことをしようとすると、心配してどこに行くでもついてこようとする。さすがに食事場所まで付いてくることはないが、帰る時に連絡をしないとメッセージが飛んできてしまうのだ。
前回の食事会の時、少し話が弾んでしまって伝えていた時間より遅くなってしまった時など、気づけばメッセージが10件以上もきていてかなり心配をかけてしまったのだ。家に帰れば玄関で待っていて、扉を開けたとたんに抱きつかれて泣かれてしまった。
時間はまだ10時を回ったくらいだったのだが、今まで会社の飲み会以外で夜遅くまで出ることがなかったので、余計に心配をかけてしまったようだった。
24歳にもなって、こんなに心配されるのは少し恥ずかしいと思うところもあるのだが、とても嬉しくもあった。
2人で地元から東都に出てきて、少し古くはあるが趣のある家を借りて過ごしてもう数年。ずっと2人だったのに、急に現れた男に兄が危機感を持っているのも、少し気持ちがわかる。
兄が仕事関係の人や、仕事の関係で知り合ったというちょっと胡散臭い探偵などと家で楽しそうに話をしたり、電話をしているのを見かけると、心にモヤモヤとしたものが生まれるのだ。
きっと兄もそれに似てものを感じているのかもしれないと思うと、少し嬉しい。
仕事を終えて会社を出ると、窓拭きの王子様、有栖川帝統が嬉しそうに手を振っていた。
「すみません。お待たせしてしまって……」
急いで賭けよると、有栖川はニコニコしながら「いいって!」と言って夢野の頭撫でた。
「こうして待ってるのも、なんか楽しいんだよ。なんかよくわなんねーけど。だから気にしなくていいぜ」
同性のしかも4つ年下の男に頭を撫でられるのはなんとも恥ずかしいことではあるが、有栖川の大きな手に撫でられるとなんだか少し安心する。
「今日も会社の人に聞いたとこなんすけど、美味しいって言ってたんで、期待してください」
有栖川はスマートフォンを操作して地図アプリを立ち上げると、夢野の手を引いて歩き出した。
「い、いつもお店まですみません」
「いいっすよ。店決めるの、ダチと行くときはだりーって思うんすけど、夢野さんと行くとこ探すのはすげー楽しいんで!気にしないでください。それより、本当に食べられないものないんすか?」
「ええ。基本好き嫌いはありませんし、アレルギーもないです。あ、一個だけ……。メロンが苦手です」
「メロンかー。じゃ、デザートとかはメロンが乗ってないもの頼みましょうね」
「ありがとうございます」
手を引かれて歩き出したが、いつの間にか手を繋いで歩いている姿がガラスに映り、はっとして手を離そうとしたが、有栖川の大きな手はそれを許さなかった。
「い、嫌じゃなかったら、このまま、いいっすか?」
マフラーから覗く耳がほんのり赤くなっているのが見えて、夢野も自分の顔が熱くなるのを感じた。
店に着くまでは、今日の仕事の話や、最近読んだ本の話、昨日のお笑いの番組が面白かったなど他愛のない話をしながら、夜のシブヤを歩いた。
寒さのせいか、周りの人はどこか足早で自分たちが手を繋いでいることなど、誰も気に留めていにようで、夢野は少し安心した。
「ここっす!」
最近オープンした大きくきれいなビルの7階。お洒落なバーのような雰囲気の居酒屋で、しかも席は半個室のような、客のプライバシーに配慮してる店だった。
通された席は窓側で、7階でもシブヤの街を一望できる見晴らしの良い席だった。シブヤのネオンがキラキラとして星のようで、夢野はおもわず窓の向こうに気を取られた。
「きれいです!」
少し興奮気味に言うと、有栖川が嬉しそうに笑った。
「カクテルの種類も多いし、夢野さんが好きな甘めのものも結構あるんで、今日も腹いっぱい食べましょうね」
「はい」
タブレットで注文をする形になっているので、2人でタブレットを覗きながら、注文をしていった。自家製豆腐のサラダや、大豆ミートボールなど体に良さそうなものも注文し、有栖川はビールの大ジョッキを頼んでいた。
夢野は地方の濁り梅酒というのが気になり、1杯目はそれをソーダ割りで頼んだ。
「大ジョッキって、いつも思うんですけど、それだけでお腹いっぱいになりすです」
届いたお酒で「かんぱーい」とグラスをあてて一口飲んだと、ごくごくとビールを飲み込む有栖川にそう言うと、一気に半分まで飲んで、「ぷはー」とビールを飲んだ時の鉄板のようにそう言うと、有栖川は大きなジョッキを机に戻した。
「最初の一杯は、がぶがぶ飲みたいんすよね。そうすると中ジョッキだと足りなくて……。大ジョッキがあるところはありがてーっす!」
お通しの枝豆を食べながら、有栖川はあっという間に大ジョッキを飲み干してしまった。
「っはー。仕事終わりのビールって、うますぎるのなんなんすかね?しかも夢野さんとなんて、嬉しすぎます」
「ふふ。ありがとうございます。僕も君の気持ちのいい食べっぷりと飲みっぷりは、見ていて気持ちがいいです」
「窓拭きって結構体使うんすよ。ゴンドラに乗ってるけど……。動かす回数減らすために、手がとどくぎりぎりの範囲を磨いていくから、結構大変で……。別にジムに行ってるわけでもねーのに、腕に筋肉めっちゃつきます。ほら」
むん!と力を入れて腕を曲げると上腕二頭筋がはっきりとわかるくらい盛り上がった。
「す、すごい」
思わず夢野は自分の腕を触ってみるが、半分くらいしかなさそうで、同じ男として少し恥ずかしくなった。
「俺、もともと筋肉つきやすいみたいで……。特にスポーツしてたわけでもなかったんですけどね……。気づいたらなんか、服はいらなくなってて、てことがあって、無駄な出費がありました」
「窓拭き、結構重労働だよね」
「そうなんすよ。でも短時間で手っ取り早く稼げるんすよねー。うちの会社週払いしてくれるんで、ありがてーっす」
注文した焼き鳥を豪快に食べながら、おかわりのビールも飲みながら、有栖川は楽しそうに話をしている。
「ギャンブル、でしたっけ?」
「最近はパチばっかすけど。最近は賭場には行ってねーけど、前みたいな無理はしてねーっす」
「無理って?」
「あー……。言えない感じ」
「はあ。あまり自分の体を粗末にしないでくださいね……」
「もうしねーっす。だって、夢野さん、悲しそうな顔したから……」
食事をするにあたり、いろいろ自己紹介も兼ねて話をしたことがあった。その時聞いた有栖川の荒れた生活に、夢野は悲しくなってしまったのだ。
「死んでもその時はその時」
そう言った有栖川の顔は清々しいものだったが、夢野は胸の奥がズキズキと痛み、悲しくなったのだ。
「はい。悲しいです。こうして知ってしまったからには、あなたに何かあれば、僕は悲しくて泣いてしまいます。ギャンブルのスリルが好きだとういうあなたの気持ちがわからないわけではないです。でも、命だけは大切にしてください。あなたと食事をするのはとても楽しいです。この時間がなくなってしまうのは、とても悲しいです」
「うっす。全部やめることはできねーけど、体は大事にします」
「本来なら、こんなこと言う権利など、ないと、わかっているんですけど……。あなたが命を粗末にしているわけでもないというのもわかっています。でも、怪我とかするかもしれないと思うと、悲しいし、怖いです……」
夢野は小さな口でちびちびと1杯目の梅酒を飲みながら、目を伏せた。
親でも親戚でもない自分に、彼の行動を制限できる権利なんてないし、こんなことを言うのは失礼なのかもしれない。
でも、怪我をした彼を想像するだけで、悲しくなるし、胸が苦しくなるのだ。
窓拭きの仕事も、高いビルであればゴンドラで降下しているが、低いビルだと、紐で降下しているところもあると聞いた時は震えた。
確かに低いビルではゴンドラは設置できないのは理解できる。だが、もしその紐に何かしらの欠陥が生じたら……。急に突風が吹いてバランスを崩したら、そんなことを考えては、体の芯が凍えるのだ。
ましてギャンブルの危なさなんて、夢のには想像することもできない。
武勇伝のように語る有栖川の危険な行為に、強くなって涙をにじませたことがあった。
その頃から、有栖川は危険なところには行っていないと言う。
「夢野さん悲しませるのは、なんか、俺も心臓の奥が痛くなるから」
「そう、ですか。あなたの娯楽を否定したくはないんです。楽しんでいるのなら……、なおのこと。でも……」
うつむいた夢野の手を、有栖川が優しく包み込む。
「ねえ、夢野さん。そんなに俺のこと心配になるってことは、少しでも俺のこと好きになってくれたっこと?」
「へ?」
「俺、夢野さんに一目惚れしたって言ったけど、こうして会って話ししてたら、もっと、もーっと好きになった。夢野さんが俺のこと好きだって思えるようになるまで、待とうと思ったけど……。もう待てねーかも」
じっとこちらを見る有栖川の瞳は真剣そのもので、夢野はどう受け止めていいものか、迷っていた。
自分のことを好きだと言ってくれる。そのことは素直に嬉しい。自分も少なからず、彼に好意を抱いている。
でなければ、こんなに彼のことを考えはしないだろう。
でも、素直に認めてしまうのは怖い。これからもっと、もっと彼を好きになっていった時に、彼からもう好きじゃなくなったと言われたら、自分はどうなってしまうんだろう……。
「夢野さん、俺と正式におつきあい、してください!」
ガバリと勢いよく机に両手をついて、有栖川は頭を下げた。
「俺、自分のことどうしようもないクズだってこと、わかってます。仕事しても金はすぐギャンブルに使っちまう。貯金なんてことは1ミリも考えてねー。でも、夢野さんだけは諦められないんっす!」
真剣に、まっすぐこちらを見つめる瞳に、嘘はないことはわかる。わかるのだが、ハイそうですか。付き合いましょう!とは言えなかった。
「すぐに、返事をってわけじゃねー。あ、ねーです。ゆっくり考えてもらって……。ぜんぜん、待ちます!ただ、こうして飯行くのは、今まで通り、誘ってもいいっすか?」
少し悲しそうな顔をして、こちらをちらりと見てくる。
かっこいいのに可愛くもある。夢野のときめきのツボを心得ているのか、子犬のような目で見つめられると、嫌とは言えない気持ちになる。いや、食事に行くのは夢野も実際とても楽しいし、楽しみにしているのだ。
「も、もちろんです。あと、普通に喋ってもらって構いませんよ。タメ口、というんですか。敬語や丁寧語を使わず、気を使わず話してください。あなたの話はとても面白いですから」
「え、あ、ああ。それは助かる。あんま丁寧に話すの得意じゃなくて……」
「はい。あの、すぐにお返事はできませんが、まずは、友人として、仲を深めさせていただければ、と思って、ます」
少し頬を赤らめてそういうのが今の夢野には精一杯であった。
「マジで!やったー!ウンウン。これからもよろしく頼むな!」
やはり太陽のように眩しい笑顔で、有栖川は夢野の手を強引に握ると、ブンブンと上下に動かした。
「はい。よろしくたのみます」
無邪気にはしゃぐ姿が、少し年相応に見えて、とても可愛らしく感じてしまった。
「あ、あと、さ……」
少し言いにくそうに言い淀むと、有栖川は大きく深呼吸をして、再度夢野をじっと見つめた。
「夢野さんの名前って教えてもらってななくて……。教えて下さい。あと、俺のことは帝統って呼んでください」
「は?え?言ってませんでしたか?」
「ずっと聞こう聞こうと思って、聞きそびれてた」
メッセージアプリにはフルネームではなく「夢野」とだけ登録している。そしてさらに、すでに名前を知られていたので、改めて自己消化はしていなかったと思い至り、夢野は今更という少し恥ずかしい感じもしたが、有栖川に手を握られたまま、少し背筋を伸ばして、まっすぐ有栖川を見つめた。
「あー、幻太郎です。夢野幻太郎と言います」
「幻太郎。かっけーな!」
「ありがとうございます。えっと、その……。だ、帝統」
「!ありがとうーな。幻太郎!」
そこからはもっとくだけた態度になった有栖川の最近起こった不幸なことや、ひょんなことから知り合ったデザイナーの友人の新作発表のモデルとして写真撮影をした話などを聞き、楽しい時間を過ごした。
「今日は、ありがとな。また、誘うな!」
「はい。またスケジュール決まったら教えて下さい」
「ああ。わかった。来週のシフトは明日くらいに出るから、連絡するな」
「よろしくお願いします」
店を出て少し2人で歩く。
アルコールで火照った体に外の寒さが沁みるが、店に行くとき同様、繋いだ手はとても暖かかった。
「では僕はこちらなので……」
曲がり角。いつも分かれるところまできたが、今日はとても離れがたかった。
明日も仕事だから、帰ったら早く寝なければ。少し遅くなってしまったから、兄が心配しているかもしれない。
前回みたいに、「では」と言ってスタスタ家路に向かうことができず、夢野は有栖川の手を離せないでいた。
「幻太郎」
少しかすれた、優しい声で、有栖川は夢野腕を引いて、そのまま自分の腕の中に夢野を抱きしめた。
「またな。また行こうな。すごく離れがたいけど、明日もお互い仕事頑張ろうな」
そう言って体を離すと、有栖川は夢野の手を取り、そのままその手に唇を落とした。
「またな!」
驚いて固まっている夢野の手をゆっくりと離すと、有栖川は夢野とは反対方向に曲がって走り去っていった。
「また、ね……」
口付けられた手を抱きしめて、有栖川の姿が見えなくなるまで、その背中を見送ったのだった。
「おかえり!可愛い弟よ!」
「ひぃっ!に、兄さん?」
「ひぃって何だい?というか、今何時かわかってる?」
ちらりと腕時計を見れば、11時を少し回ったところだった。
「10時には帰るんじゃなかったのかい?」
「あ、えーと……」
「メッセージも送ったのに、未読無視。心配で一雨にすぐ見つけて連れ帰るように言ったのに、一向に一雨からも連絡がなくて。どれだけ心配したと!」
「ご、ごめんなさい。楽しくて、時間忘れて……」
「楽しくて?」
兄は目を大きく開いてぐわし!と弟の方をつかんで前後に揺さぶった。
「たーのーしーくーてー?」
「その辺にしとけ……」
玄関が開いて、男が1人遠慮もなく入ってくる。
「一雨!お前も、遅いんだよ!」
兄は弟の離すと、今度は一雨と呼んだ男の胸倉をつかんでいた。
「まあ、落ち着けって。弟君、早く家に入って風呂に入っちゃいな。お兄さんは任せて」
「はい。すみません。兄さん、遅くなって本当にごめんなさい。今度また遅くなるときは、ちゃんと連絡するから」
そう言い残して、弟はささっと家の中に入ってしまった。
「落ち着いたか?」
「ああ。すまない。大丈夫だ」
兄は玄関に座り込むと、大きく息を吐いた。
「相手の男の調査書読んだ」
「そうか」
「弟が巻き込まれることがあったら、絶対に許さない」
「そうだな。ま、そのときは俺も微力ながら加勢するから」
「もう二度と、ーーーーーーーーーだ」
「ああ。わかってる。引き続き、あの男について新情報あれば教えるよ」
一雨は兄の隣に腰掛けると、タバコに火をつけようとしたが、ライターを使おうとしたところで、兄に制された。
「今は真面目に窓拭きの王子様してるだけみたいだぜ。本人は家とは切れてるって思ってるみたいだし」
兄は少し考えて立ち上がると、大きく深呼吸をして、目を閉じた。
「弟は、俺が絶対に守る」
きっとこのままだと、弟は例の彼のことを好きになるだろう。それは仕方のないことだと思う。人の心を曲げることはできないのだから。
いつも彼との食事の後は、楽しそうにどんなものを食べたのか、どんな話を聞いたのか、写真を見せてくれながら話をしてくれていたのだ。
「兄ちゃんは大変だな」
「別に苦じゃないからね。弟を守るのは兄として当然のことだ」
「はいはい。ちゃんと謝って、仲良くね」
そう言うと一雨は玄関の扉を開けて出て行った。
「兄さん」
呼ばれて振り返ると、お風呂に入る支度をした弟が、眉根を下げて立っていた。
「兄さん、心配かけてごめんなさい」
「ああ、俺も悪かったね。心配したからって大きな声出して。起こっているわけではないよ。ただ、心配だったんだ」
「うん。わかってるよ」
兄は弟を抱きしめて、自分と同じふわふわの頭を撫でた。
「さあ、お風呂に入っておいで。追い焚きボタンを押すのを忘れないように」
「はい」
くすくすと笑って、弟は風呂場に向かったのだが、くるりと兄に振り返って、ぽそりとつぶやいた。
「と、友達の話なんだけど、また聞いてくれる?」
友達の話という枕詞がつく時は、大体自分のことなんだと教えてにもかかわらず、こう言ってくる弟が本当に可愛くて仕方なかった。
「わかったよ。あとで少し話をしよう」
こうして仲直りをした兄弟だったが、「友達の話」がまさかおつきあいに関することだとは、さすがの兄も、このときは想像だにしていなかったのだった。
FIN