踊り明かせよ月影にて 今は雲来の海に数多の客船が揺蕩う夜半。とりわけ豪奢な装飾の船舶に響く音楽を、雪国の武人はどこか遠い気持ちで口遊んでいた。部下の一人が落ち着かない様子でこちらへと向ける視線がむず痒い。心配しなくても直に戻るから、と後ろ手を振ればなおも恐縮したように身体を硬直させている。そう気を揉まずとも重客の接待を放り出しはしないのにと、自身の信用の薄さを溜息混じりにタルタリヤは嘆いた。
今宵は晩餐会。あらゆるものから切り離された遠海で北国銀行の賓客を招いた夜会が催されている。表向きは銀行の名を借りているが、実際に招待されているのは誰もがファデュイを陰ながら援助している富裕人ばかり。スネージナヤの投資家からフォンテーヌの卸売商、スメールの老学者に璃月の海運業者等々、老若男女を問わずテイワット各地で名を上げるような資産家の面々が一堂に会していた。その親愛なる客人を真心込めてもてなしながら従前の支援に感謝の意を示しつつ、今後も良い関係を築けるようにと一層の援助を慎み深く促す。これこそが今回、執行官であるタルタリヤに下された命令であった。
「こういう『見えない手段』は好きじゃないんだけどね」
退屈な独り言が水面に溶ける。他者へ媚び諂うことも陰湿めいた陰謀も趣向に合わないが、それでも女皇陛下の勅命であるならばタルタリヤは任務を遂行させるだけだ。お得意様に愛想を振りまき、味の濃い料理を上品に食し、単調な曲に合わせてステップを踏む。退屈なことこの上ないが、幸いにもこの船舶だけは今まで見た中でも一際豪勢な造りで妙に気分がいい。船の乗り心地は素晴らしいものだぞ、と幾らか得意げに語った堅牢な男の声が再び聞こえてくるようだった。
璃月風の豪華客船はどこを切り取って見ても贅を尽くした拵えで、今夜のために北国銀行が大枚を叩いて借り受けた一級品だ。珠鈿舫に勝るとも劣らぬ絢爛な帆船は、故国の賓客を満足させるのに十二分な誠意を示すことができるだろう。港の迎賓館や高級料亭の貸切ではなく、この素晴らしい船舶を選び出したアンドレイの賛美眼には光るものがあったようだ。
「……『公子』様。大変恐縮ですが夜風も冷えておりますし、そろそろ……」
恐る恐る投げかけられる部下の声が現実へと呼び戻してくる。釣られて溜息を吐き出せば哀れな肩が小さく跳ねた。もう少し夜空を楽しみたかったがそうも言っていられない。昨夜二人で眺めた月が、今宵はどこか冷え冷えと冴えるような光をタルタリヤに注いでいた。
「分かったよ。今戻る」
あまり意地を悪くするのも却って良くないだろうと腹を括って、堅苦しいネクタイを整えながら退屈な社交場へ戻るべく重い脚を踏み出した。
優美な音楽に包まれた大広間には、仮面で顔を隠した男女が各々歓談に勤しんでいる様子だった。北国銀行もといファデュイが各国の業界人を招いて夜会を開催しているなどと、誰の耳にも訝しく聞こえてしまう上、実際問題あまり公には出来ない目的の下に集めているのだ。故に今夜は機密性を重視して仮面舞踏会を開いたのだが、主催であるタルタリヤ以外の客人は名乗らない限り互いの正体を知ることはないはずだった。
だというのに、会場の一角に異様なほどの人集りが出来上がっているではないか。
「うわ、何あれ」
「さ、さあ……」
見張りに立っていた部下にそっと耳打ちをしてもはっきりとは分からないようだった。余程の大物を招待していたか、或いは仮面越しでも分かるほどの美男美女がいたか。大方そのどちらかではあるだろう。幾つか思い当たる名前と顔を並べていると、普段通りの仮面を身につけながらも夜会に合わせて着飾ったエカテリーナがどこからともなく現れた。
「ん? やあエカテリーナ。そのドレス、とてもよく似合っているね」
「お褒めに預かり光栄です……ではなく。『公子』様、お耳にお入れしたいことが……」
只事ではない様子の彼女に首を傾げていると、遠くの集団が突如割れるように二手へと分かれ、その中心からすらりとしなやかな長駆をした男が緩慢に姿を見せる。見覚えのある立ち姿に衝撃が走った。男を見て驚嘆を零す部下を軽く片手で制しながら、簡単に動揺を見せるなよ、と小声で諫めるものの一番動揺しているのは間違いなく自分の方だ。
男の佇まいは兎に角美しいの一言に尽きた。足元から全身を覆う暗色の正装に隙はなく、重厚ながらに滑らかな布地の艶が彼の所作一つ一つを美しく描き出している。唯一淡い色合いをしたネクタイが首元を華やかに飾り上げながらも、目元を隠してなお分かる精悍な顔立ちに、細いシルエットの燕尾と手入れの行き届いた艶やかな長髪が歩調に合わせて優麗に踊っていた。仮面の向こうで鮮やかな石珀の双眸がゆっくりと瞬きをする。一際目を引く男の正体が誰であるのか、タルタリヤは名前を叫びそうになるのを必死で堪えた。
「…………これはこれは、ようこそお越し下さいました。お楽しみ頂けているようで何よりです、お客様?」
皮肉めいた口振りでにこりと笑顔を作り上げる。男はただ愉快げに口元で三日月を描いてみせた。
言うまでもないことだが往生堂に招待状は出していない。ましてや彼────鍾離をファデュイの巣窟に招くつもりも一切ないのだ。だからこそ、璃月七星が嗅ぎつけて来たのであればまだしも、なぜ鍾離がここにいるのかタルタリヤには理解できそうになかった。彼が未だ統治者の立場であったならば話は別だが今となっては一介の稼業人に過ぎない。ファデュイが璃月の安寧を積極的に壊そうとしない限りは進んで介入しないだろう。
タルタリヤの疑念を察したのか、仮面をつけた鍾離は謝意を示すかの如く丁寧に辞儀をした。
「貴殿の招待した客人……名は伏せるが、急遽来られない所用が入ってしまったようでな。代わりに参加してもらいたいと依頼を受けて脚を運んだ次第だ。素晴らしいもてなしに感謝している」
そう言って鍾離がエカテリーナを見た。彼女はかしこまった様子で頭を下げている。無論、北国銀行で窓口に立つ彼女は鍾離とも顔見知りだ。タルタリヤの知人と知っている以上、招待客でないと分かっても無碍に追い返すことも出来ずに手厚く迎える他なかったに違いない。
「とんでもない、これも何かの縁でしょう。どうか今宵はゆるりとお楽しみください」
にこやかにそう語る傍らで、大人しくしててよ先生、とそっと耳打ちをする。鍾離は否定も肯定もせず、仮面の下で柔和な微笑を湛えるばかりだ。妙な予感を覚えると、鳴り止んでいたはずの音楽が突如大広間を揺さぶるような管弦の高波を起こした。
「……ああ、もうそんな時間か」
タイミングが悪い、と内心で舌打ちをする。鍾離は勝手が分からない様子でぐるりと会場内に視線を巡らせた。
「? これは……」
「ダンスが始まるんだ────ですよ。ほら、あちらに」
促すように向けた視線の先は広間の中央。璃月造の提灯から絢爛な灯りが降り注ぐ中、数組の男女達が手を取り合って踊り始めていた。小気味良い三拍子の曲調が軽やかに、高い笛の音が華やかに旋律を歌っている。ほう、と鍾離が感嘆をこぼした。
「そういえば踊る必要があると言っていたな」
「ははは。さて、そうでしたか?」
話を合わせる気があるのだかないのだか、呑気に納得している鍾離に乾いた笑声を返す。先程から周囲の、特に女性からの視線がこそばゆくて仕方がないのだ。おそらくはエスコートもせずに壁の花を演じているタルタリヤを、或いは正体不詳の美丈夫たる鍾離をダンスのパートナーにと目論んでいるのだろう。面倒なことこの上ないが、鍾離は兎も角主催者側の自分が誰とも踊らずに過ごすのは些か体裁が芳しくない。
「それでは……私は他の皆様にもご挨拶に伺いますので、これにて失礼を。お客様はどうぞパーティーを楽しんで────」
正直に言えばこの男から目を離すのは気が引けたが、急拵えの言葉を取り繕って場を離れようと試みる。しかしそれを他でもない鍾離が留めたのだ。くい、と腕を引く彼の手首から琥珀色のカフスが鮮やかに瞬いた。
「ふむ……ならば公子殿、社交界に明るくない俺にダンスをご教授願えるだろうか」
「……は?」
突飛な台詞に理解が追いつかない。あんた踊り方知ってるだろ、と反論する言葉も出てこなかった。涼しい顔をしたこの男はこともあろうかタルタリヤにダンスの誘いを申し入れたのだ。えっ、と部下達が驚嘆を飲み込むのも無理はなかった。大の男二人が踊れば、それも一方はファトゥスと知られている状況を鑑みれば必然的に他人の目は避けられない。それが分からない鍾離ではないはずだ。
「お誘いは嬉しいんだけど……生憎と俺にはまだ仕事が残ってる。賓客を手厚くエスコートしろって上から煩く言われているからね」
「酔狂な客がいたのだと、俺のせいにしておけばいいさ」
「……あのさ先生、自分が注目されてるって自覚はあるかい? 俺と踊れば尚更目立つし、万が一正体がバレたら困るのは先生の方だろ」
最小限に声を殺して冷ややかな視線を向ける。ただでさえ衆目に晒される中、敢えて悪目立ちをしようとする理由が見えてこなかった。それを好む男とも思えないが、タルタリヤには彼の腹の底がいまいち探りきれていないのだ。
それでも鍾離が諦める様子はない。袖を引く手がするりとタルタリヤの指を絡め取り、やんわりと包み込むように手を握ってきた。すり、と親指の付け根を優しく擦られる。鍾離が甘える時の仕草だった。
「っ、先生……?」
「踊るならお前とがいい……駄目だろうか?」
「!」
そう言って囁くような声で小さく打ち明けながら、鍾離はことんと小首を傾げて見せた。
────いや、それは反則だろ。齢六千年を数える男のあどけない仕草に、不意に突きつけられる独占欲の塊に胸の内を掴まれる心地がした。未だ感情の機微に疎いのだと語りながらも、こうして無遠慮にタルタリヤの内側へ容易く踏み入ってくるのだからたちが悪い。
「ああもう…………すっかりおねだりが上手になったよね、鍾離先生?」
左手を後ろに身を屈め、右手を差し出しながら恭しく辞儀をする。すると鍾離は一瞬目を丸くして、やがて満足げな表情で美しく笑った。満月に似た相貌がとろりと甘やかな円みを帯びている。
「お前の手解きが上手かったのだろうな」
そうして愉快げに喉を鳴らしながら、この一瞬を味わい尽くすかのような眼差しをタルタリヤに注ぐのだった。