心願君追「温苑をここに留めさせます」
その一言に誰もが表情を曇らせたが、そこにある命に何の罪もないのは明白だった。
あの日、普通なら動けないはずの傷を負っていた藍忘機が、燃え盛る乱葬崗から連れて帰ったたったひとつの命。病を患い高熱にうなされていた子供を甲斐甲斐しく世話する傷だらけの青年に、もはやこれ以上罰を与えようなどとは誰一人思わなかった。藍忘機はあの地獄に自ら赴き、愛する者の最期を見ることはおろか、その魂魄のひとかけらにすら逢うことができず帰ってきたのだ。それはもう、この世の全てから罰を受けたようなものだと、姑蘇藍氏の誰もが思っていたのである。
「もうこの子が温氏を名乗ることは許されない。忘機、育てるのであれば名前を付けなさい」
藍忘機は、阿苑と愛する人から呼ばれていた子供に「願」と名付けた。故郷、そして家族と別れなければならなかったこの子のことを、せめて亡き家族と同じ音で呼んであげたいと思った。そして、いずれ誰もが呼ぶであろう字には自らの願いを、そして忘れてはならない悔いを込めた。再び彼の人に出会えるように。その日まで、彼の願いを思い追うことの出来る人であれるように。
数日の世話と優秀な藍氏の薬師のお蔭で熱が下がった藍願は、それ以前のことを覚えていないらしかった。藍忘機は、彼が悲しい記憶を忘れて良かったと思っていいのか、大切な家族や思い出を忘れてしまって悲しむべきなのか、どうしたらよいのか分からなかった。それでも、藍願はそれ以外の目立った後遺症に悩まされずに済み、姑蘇の生活にも溶け込んでいった。ここに留置くことを決めた時に苦しい表情をしていた姑蘇藍氏の修士たちも、藍願の無邪気な様子に今では目尻を下げてばかりいる。藍願が岐山温氏の末裔であることは機密事項となり、姑蘇藍氏の家規はいつの間にか数条増えていた。
藍願は、寝起き以外の一日の殆どを、怪我の養生で静室にいる藍忘機と過ごしていた。この日も同じように静室に駆けてきて、写経をする藍忘機の文机の隅に寄ると、構ってほしそうに待っている。
「阿願。朝来たときには何と言う?」
「おはよう、藍お兄ちゃん」
「そうだ。おはよう、阿願」
藍願は藍忘機から挨拶をされてはにかむように笑った。
「藍お兄ちゃん、阿願も字を書きたいな」
「そうか。少し待てるか?」
「うん」
藍忘機は写経を終わらせて新しい半紙を広げると、膝の上に藍願を乗せて筆を持たせた。
「筆の持ち方はこう……手が小さいな。好きに持っていい」
筆を持った藍願は上機嫌になり、藍忘機の膝の上に殆ど立ちそうなほどだった。彼ははじめ、恐る恐る文机の上の白い紙に黒い点や線を付けた。それが上手くいくと段々と楽しくなってきて、びちゃびちゃと音がする勢いで筆を墨に浸し、絵のような字のようなものを気ままに描いていった。藍忘機は暫く何も考えずに藍願を後ろから見守っていたが、しばらくして乾いていない半紙の上に寝そべりそうになったので、慌てて抱き上げて前を向かせた。
「阿願、……ま、真っ黒だ。なぜ顔にも墨がついている?」
「手も真っ黒だよ!」
満足気ににっこりと笑って両の手を広げた藍願は、硯を指さした。藍忘機が見れば、なぜか定位置から動いている硯の天地がひっくり返っており、墨は空になっている。けれども藍忘機は、怒らないどころか思わず口元を緩めた。
「手を洗いに行こう。字の練習はできたか?」
「うん!」
ところどころ服を墨で汚した藍忘機と、顔も手も服も真っ黒な藍願が静室から出てきて、家僕は大慌ての様相だった。それでも不思議と藍忘機は悪い気がしなかった。
それから暫くしたある日。家僕の一人が、藍願がどこを探しても見当たらないと藍忘機に知らせてきた。
「……私が探す」
「しかし」
「構わない。傷の具合もいい。少し歩かなければ」
藍願はこの頃、食べ物の好き嫌いをするようになっていた。藍願は琴の稽古を藍啓仁から受けていたはずである。叱られたか何かあって、その上夕飯の時間が近付いてきたのでどこかに隠れてしまったのだろうと藍忘機は思った。
藍忘機は静室から外に出ると、人目を避けながら離れに向かった。ここは初秋の頃であれば竜胆の花が咲き誇る場所であるが、今はまだ夏の盛りである。何とは分からない草がたくさん生えているところの真ん中に、白い服を着た子供が一人でしゃがんでいた。
「阿願。探しに来た」
「……いや」
藍願は地面を見つめ、蟻が数匹草の間を器用に進んでいくのを見ていた。
「戻りなさい。食事をとらなければいけない」
「いや」
「食事にも作ってくれる人がいる」
「いや。苦いもん」
「じきにここは暗くなる」
「いや」
「阿願。……私が作っても嫌か?」
藍忘機は石のように動かない藍願の隣にしゃがみ込み、一緒に蟻の列が家に帰っていくのを眺めながら、いつの間にかそんなことを言っていた。
「……藍お兄ちゃんがご飯を作るの?」
「うん」
本当だったらあの人にしてあげたかったことだった。姑蘇の食事は不味いとずっと文句を言われていた。連れて帰りたいと願っていたあの頃、密かに料理を学んだが、ついにそれが役立つ日は来なかった。
藍忘機はこっそりと厨房に藍願を連れて行き、彼を料理人たちがまかないを食べるところの隅の円座に座らせて待たせた。料理人たちは藍忘機の来訪に皆苦笑していたが、主人の一人である彼に強くは言えず、余っている食材を出してくれた。藍忘機が料理をするところなど、料理人たちは誰一人見たことは無かったが、彼の思わぬ手際の良さに料理人たちは舌を巻いた。しかし出来上がってみると不思議なことに、座卓の上には藍忘機が好まないであろう西方の料理ばかりが並んだ。
「阿願、食べなさい」
「藍お兄ちゃん、ありがとう」
食が細く下女や家僕たちから心配されていた藍願であったが、藍忘機が手づから料理した食事は瞬く間に食べ尽くしてしまった。
「……藍お兄ちゃん、今日のご飯おいしいね。明日も藍お兄ちゃんが作って」
食べ終わった藍願の一言に、藍忘機は僅かに目を細めた。
「それはだめ。……阿願が琴の練習を頑張った日に作ろう」
「ほんとう?」
「うん」
それから藍啓仁が、「あんなに自分を怖がっていた藍願が、部屋を訪ねてきては琴の稽古をせがむ」としばらく困惑していたのは言うまでもない。
またある日のこと。
白い服を着た藍願は、白いうさぎの群れの真ん中でしゃがんでいた。正確には、うさぎがいつもいるちょっとした広場の真ん中に藍願がいて、それをうさぎの群れが遠巻きに見ていた。そこにえさの入った籠を手に提げた藍忘機がやってきて、「阿願」と声を掛けた。このところ藍願はうさぎが気に入っていて、藍忘機がうさぎの世話をする時間を見計らって連れて行くようねだるのだった。
「藍お兄ちゃん、うさぎが逃げちゃう」
「いじめたのか?」
「いじめてない。いじめちゃいけないって決まりだもん」
「よく覚えている」
「『こそらんしのうちでし』だから、覚えたよ」
まだたどたどしいが誇らしげな藍願の言葉に、藍忘機は複雑な感情を覚えた。本当は彼が「姑蘇藍氏の内弟子」などと名乗ることなどなければよかったのだ。そうすれば、あの人もきっと、あの日のまま無邪気に自分を揶揄い、ここでうさぎに囲まれて笑っていられたはずだ。今、ここでうさぎを追いかけまわしているのは、あの日夷陵で出会ったときよりも大きくなった藍願である。彼はうさぎを捕まえようと追いかけまわし、すんでのところでそれを逃してしまった。
しかし、藍忘機は思わずその光景に魏無羨の面影を追っていた。眩暈がしたような気分になり、藍忘機は思わずしゃがみこんだ。
「藍湛! ほら見ろ、うさぎが今――」
聴こえないはずの声がして、藍忘機は思わず耳を塞いだ。
「ねえ、――藍お兄ちゃん、大丈夫?」
肩を叩かれて、藍忘機は正気に戻った。
「――ああ、大丈夫だ。阿願、私は戻るから、えさやりを頼めるだろうか」
「もちろん。この間お兄ちゃんがやってたみたいにでしょ!」
「そうだ。終わったら籠を持って、兄上のところに行きなさい」
「はあい」
それから藍忘機は真っすぐ寒室にいる藍曦臣のもとを訪ねた。
「兄上」
「忘機……酷い顔色だ」
藍忘機は、大丈夫ですと言うことが出来なかった。
「……しばらくの間、阿願を頼めますか」
藍曦臣は全てを察したように強く頷いた。
「――彼のことは私に任せて暫く休みなさい。無理をして疲れているのだろう」
藍忘機は覚束ない足取りで静室に戻ると、そのまま牀榻に横たわった。
最初は藍願がやんちゃをしてもあまり苛立たない自分が、あの頃より成長したのだと思っていた。しかし藍願が大きくなるにつれて、彼の行動に出会った頃の魏無羨を重ねているだけだと気づいてしまった。そして、日を重ねるごとに魏無羨の面影は色あせるどころか濃く、より鮮明になっていく気がした。
藍願の無邪気な様子に彼を思い出すのは、甘美な悪夢のようでさえある。藍忘機は背中に痛みを感じながら、目を閉じた。
「阿願、今日は何をするかい? 絵を描いてもいいし、琴を弾いてもいいよ」
「藍お兄ちゃんの兄上、今日も藍お兄ちゃんと遊んじゃいけないの?」
藍忘機と会えなくなって暫く経った頃。ついに藍願は藍曦臣にそんな言葉をつぶやいた。
「忘機お兄ちゃんには、もう少ししたら会えるよ」
藍曦臣は優しく微笑みかけたが、藍願はぶんぶんと首を振り、藍曦臣の服の袖を引っ張った。
「もう少しっていつ? ねえ、教えてよ!」
藍曦臣の腕は子供に引っ張られてもびくともしなかったが、泣き出しそうな藍願の表情に彼の心は大きく動揺した。藍願は藍曦臣の服の袖にしがみついて、ついにぐすぐすと泣き出してしまった。
「…………阿願が、悪い子にしていたから、嫌いになっちゃったのかな。阿願、もう墨で遊ばないでちゃんとお勉強するよ。好き嫌いしないよ。それから、……うさぎさんもおいかけない。あと、琴もいっしょうけんめいやる」
大きな瞳から涙をぽろぽろと溢して寂しそうに言った藍願の頭を、藍曦臣はやさしく撫でることしかできずにいたが、何とか会う口実が出来ないかと思い立った。
「阿願、琴を頑張ると言ったかい?」
「うん」
「お前は筋がいい。藍先生に頼んで、忘機お兄ちゃんのために曲を教えてもらおうか」
「うん!」
「――叔父上、そういう訳なので、少し早いとは思いますが特別に阿願に曲を教えてやってはいただけないでしょうか」
藍曦臣は藍啓仁に時間をもらい、藍願を連れて事情を説明してくれた。藍啓仁は髭をいじりながら窓の遠くを見つめて話を聞いていたが、終わりかけの頃にずっと真っすぐ彼を見つめていた藍願を見て、よかろう、と一言言った。
「藍願、約束しなさい」
「はい」
「良いと言うまでは忘機に曲を聴かせにいってはいけない」
「はい」
「叱られたくらいで機嫌を損ねてはいけない」
「はい」
「お前はもう立派な姑蘇藍氏の門弟なのだから、目上の者にはきちんとした言葉遣いを心がけなさい。藍お兄ちゃんは『含光君』、藍お兄ちゃんの兄上は『沢蕪君』と呼び、私は『藍先生』だ。……藍じじ上と呼んではならぬ」
「はい」
「よろしい。では、毎朝辰の刻に来なさい」
「よろしくお願いします」
それから藍願は、言われた通りに毎朝辰の刻に藍啓仁を訪ねた。多忙極まりない藍啓仁であったが、朝食を食べる前の少しの時間で藍願の稽古に付き合ってやり、藍願は他の勉強や修行の傍ら暇さえあれば琴を練習した。それでも小さな手が満足に曲を演奏できるようになるまでには、かなりの月日が掛かった。最初は譜面を読むことすらままならなかったが、次第に指を正確に動かせるようになり、しばらくしてようやく譜面を見なくとも弾けるようになった。
「――藍願。よくここまで上達した」
そしてついにその日がやってきた。
ここ最近、藍願は全て通して曲を弾くことができるようになり、曲の間に挟まれる藍啓仁の口数も少なくはなってきていたが、それでも中々合格はもらえなかった。ようやく藍啓仁の僅かに安堵したような声が降ってきて、藍願は破顔した。
「ありがとうございます」
「忘機にも聞かせてやりなさい」
「ほんとうですか……?」
藍啓仁は久しぶりに藍願の子供らしい笑顔を見たような気がした。
「嘘は言わない。忘機のところに行く前に曦臣に言って連れて行ってもらいなさい」
「はい。ありがとうございます!」
思わず琴をそのままにして走り出しそうな藍願を、藍啓仁は窘めた。
「片付けをしてから。稽古は礼に始まり礼に終わる。忘れてはならぬ」
「……はい」
藍忘機はその頃ようやく再び起き上がれるようになり、調子の良い時には書を写したり、琴を弾いたりして過ごせる日も増えていた。それでもまだ眠りが浅く、悪夢を見て夜中に目覚めることも少なくない。そんな折、いつものように藍曦臣が様子を伺いに訪ねてきた。しかし、藍曦臣はなぜか琴を背負っている。
「忘機、今日はどうだい?」
「兄上、悪くはありません」
「今日は阿願を連れてきたんだ。琴を聴いてほしいそうだよ」
藍曦臣が言うと、彼の背後から藍願が現れた。藍忘機は少し動揺したが、頷いた。彼が久しぶりに見た藍願は、記憶よりもさらに大きくなっていて、最後に会ったときよりも随分しっかり立っていた。
「含光君、たくさん練習しました。聴いていただけますか」
「うん」
藍忘機は静室に二人を招き入れた。藍願は藍曦臣に出してもらった琴の前に座り、少し緊張した面持ちで指を置いた。演奏された曲は、姑蘇藍氏に弟子入りした子供たちが最初の方に習う曲で、紡がれたのは決して優美とは言えない音色だ。けれども、藍忘機はそれに聴き入るように瞳を閉じていた。
曲が終わり、音を止めた藍願が恐る恐る顔を上げた。
「――阿願」
「はい」
「長い間、寂しい思いをさせてしまった。……許してくれるのであれば、もう一曲弾いてくれるだろうか」
藍願はそれを聞いて、満面の笑みで元気に返事をすると、別の初級者向けの曲を弾いた。彼の小さな指で紡がれる音は、まだ拙さがあるものの、藍忘機の心に小さな灯りをともした。
再び彼の人に出会えるように。その日まで、彼の願いを思い追うことの出来る人であれるように。
その願いを、藍忘機は立派に育てようと心に定めたのであった。
それから、十数年の時が経った。
「思追、琴の稽古をするから来なさい」
ある日藍思追は藍忘機に呼ばれ、静室に来ていた。琴の稽古はいつもであれば別の部屋を使う。ところがどういう訳か藍忘機は静室で稽古するという。藍忘機と魏無羨が道侶になってからというもの、藍思追であっても滅多に静室の近くには来ないため、彼は緊張を隠せないまま静室の前で暫く逡巡した。
「おお、やっと来たな」
藍思追が後ろからの声に驚いて振り向くと、声の主の魏無羨がすれ違いざま上機嫌に藍思追の肩を叩いた。
「魏先輩、入っても大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。――藍湛、今日の主役が来たぞ!」
「うん。入りなさい」
藍思追は少し緊張しながら静室に入った。いつものように文机の前に藍忘機が座っており、そこに魏無羨が駆け寄って遠慮なく寄りかかった。
「ここで。――曲は任せる」
「それでは」
彼は深く一呼吸して、前にいる二人が良く知る曲を奏で始めた。魏無羨は思わず寄りかかっていた藍忘機の腕を掴み、驚いた様子で彼を見上げた。藍忘機はそっと唇の前に人差し指を立てて魏無羨に注意をしたが、その表情は柔らかく、道侶に対する慈愛に溢れたものだった。
藍思追はその曲を見事に演奏し、音を丁寧に止めると顔を上げた。彼の育ての両親は笑顔で藍思追を見た。
「ハハハハハ、お前がまさかこの曲を全部弾けるなんて!」
「――私が琴の手ほどきを直接受けていた頃、含光君が良く弾かれていたんです。だからもう覚えてしまって……ですが、間違いなどありませんでしたか?」
藍思追の問いかけに、藍忘機は微笑みながらゆっくりと首を振った。
「上手くなった」
「ありがとうございます」
藍思追はどういう訳か何となく鼻がつんとなるような心地がした。
「思追」
追い打ちをかけるように魏無羨が彼を呼んだ。
「何でしょう?」
藍思追は琴を端によけて、文机の前にいる藍忘機と魏無羨の向かい側に近寄った。
「今日はこれから色んな奴がお前の取り合いをしに来るからな。朝から呼び出して悪かった。――誕生日おめでとう。生きていてくれて、本当にありがとう」
「思追、おめでとう」
「……! あ、ああ…………ありがとう、ございます!」
自分をいつも見守ってくれている二人の笑顔と自分を祝う言葉に、藍思追は我慢していた涙をこらえきれなかった。
「ハハ、お前、今日は誰の前でも泣いちゃうのか?」
「そんなことしません…………っ」
「俺たちが先に贈り物をもらっちゃったけど、藍湛、今度は三人で弾こうか」
「うん」
いつの間にか藍忘機が片付けた文机の上に琴を出していて、魏無羨が笛を手にしていた。藍思追は慌てて自分の琴の前にもう一度座るのだった。
「――ああ、ちゃんと物も買ってあるから、『朝から演奏をせがまれた挙句親からは何ももらえなかった』なんて友だちに言いふらすんじゃないぞ?」
「とんでもない!……私の誕生日の願いはとっくに叶っていますよ」
大きな言祝ぎとなった藍忘機の願いは、目尻を指でなぞりながら笑った。