春雷魏無羨は旅の空を東へ進んでいた。
彼は生まれてこの方自由奔放で、養父母や義姉弟のいる地元を離れて笛を吹き、日銭を稼ぎながら旅をしている。彼は一人、街の広場で笛を吹くこともあれば、笛吹きが足りない地元の楽団に加わることもあった。
この間までは酒場でチェロ弾きたちと演奏して随分稼いだ上、酒もたんまり飲むことができたのだが、彼は街での定住の誘いを断って再び旅に出た。実は、会いたい誰かがいるのだが、幼き日の記憶を辿っても思い出せないし、街中で美しい女性に出会ってもその人ではないこと以外全く分からない。魏無羨は、今日も誰だか分からない、ものすごく懐かしい人に会いたい気がして、当てのない旅の空にいるのだった。
「おいおい、雨が降るなんて聞いてないぞ……」
順調だった旅路に文字通り暗雲が立ち込めたのは、この日の午後のこと。次の目的地の村まであと半日はかかる田舎道の途上で、彼は雨に見舞われた。この道は広い森の中に荷馬車が一台通れるくらいのもので、しかも領主が近くに新しい街道を建設したため今ではほとんど誰も使っていない。魏無羨は暫く降る雨にもめげず外套を羽織って歩いていたが、とうとう雨というよりも嵐になってきた。
(これはひどすぎる! ちょっと寒くなってきたしどこかの猟師小屋にでも入るか……)
魏無羨が少し急ぐと、幸運にも、向こうに古い教会らしき建物が見えた。
(あそこだ、あそこで世話になろう!)
魏無羨は駆け出すと、ほどなくして廃村に着いた。さっき見えた教会は、この廃村にあるものらしい。廃村ということは、廃教会だろうかと思いながら前に来ると、意外にも、粗末な建物ではあったが手入れがされ、人が住んでいるようだ。魏無羨は躊躇なく扉を開けた。
「こんにちは! 誰かいませんか? 外の雨が酷いんで、ちょっと置いてほしいんですけど……」
魏無羨の声に、足音が大きくなった。幸運は重なり、本当に人が住んでいるらしい。薄暗がりから出てきたのは、背の高い牧師の格好をした男だった。
「誰だ……? 君は……」
男は少し暗さの残る電灯を点けると、黙って魏無羨に濡れた身体を拭く布を渡した。
「あ、ありがとう」
「礼は必要ない。着る服はあるのか?」
魏無羨は持っていたトランクの中身を確認した。丈夫なそれは、義姉が持たせてくれたものだ。
「大丈夫、中は濡れてない。あのさ、いきなり訪ねてきて図々しいとは思うんだけど、この嵐だし今晩ここで世話になりたいんだ。部屋とかある?」
「……こちらに来なさい」
牧師の格好をした男は何の感情も混じらないような声を発していたが、意外にも魏無羨の願いを聞き入れてくれた。もちろん仕事上断れないのかもしれないが、濡れ鼠だった魏無羨にとっては正しく彼は救世主だった。
牧師の格好をした男は、魏無羨を古い教会の中にあるとは思えない綺麗な客間へと案内した。最も神聖な場所は埃こそなかったものの、普段誰も立ち入らないせいだろうか、あらゆる設備が古びていた。しかしこの客間に関しては全く扱いが異なる。ベッドリネンから調度品に至るまで、派手ではないが非常によい品を揃えていることが一目でわかった。魏無羨は、この牧師が、もしかするとたまに人を泊めて(寄付という名目で)金を稼いでいるのかもしれないと思った。
「ありがとう。存外綺麗な部屋だな。泊まり賃はいくらだ?」
「気にしなくていい。好きなだけいなさい」
魏無羨は、優しい声色を少し意外に感じ、色白で冷たい印象の牧師の顔をまじまじと見た。
(美人だな……間違えて天から落ちてきちゃったのか?)
「牧師さん、こう言うのもなんだけど、優しいし綺麗だし、天使みたいだな!」
魏無羨は心から褒め称えたつもりだったが、本人は何とも言えない表情で魏無羨を見た。
「……私は突き当りの部屋にいる。風呂とトイレは出て右」
「あ、うん。あのさ、」
「何だ」
「牧師さん、名前は?」
「藍忘機。藍湛で構わない」
「藍湛。これからしばらく世話になるよ! 俺は魏無羨。魏嬰でいい」
「……」
魏無羨がそう言いながら濡れた服を脱ぎ始めると、藍忘機は脱兎のごとく部屋から出て行ってしまった。
(男同士なのに結構気にするんだな? なんて敬虔なんだ!)
何はともあれ、魏無羨は幸運にも暫くの間寝る場所に困らなくなった。着替えて部屋の暖炉の上に濡れた衣服を干し、ベッドに横たわれば、今日一日の疲労が心地よい眠気に変わってくる。
魏無羨が目を閉じて暫くうとうとしていると、香辛料のいい匂いが鼻を掠めた。そういえば、今日は朝から何も食べていない。魏無羨は思い切って藍湛のいる突き当りの部屋を尋ねることにした。
「藍湛! うまそうな匂いだな」
「夕飯はもうすぐできる。そこに座って」
藍忘機の住む突き当りの部屋は、扉を開けるともう一つ小さな家があるような造りになっていて、魏無羨が入ると台所と居間、そしてダイニングが目に入った。奥の方に扉がもう一つあるので、あの向こうが藍忘機の居室なのだろう。
夕飯は香辛料の効いた肉の串焼きに、野菜がよく煮込まれたシチューだった。藍忘機は肉を魏無羨に勧め、自身はシチューを上品に食べている。
「藍湛、すっごく美味しいよ。これ、俺の故郷の香辛料だと思うけど、どうやって手に入れたの? こっちの人はあんまり辛い物を食べないって聞くけど」
「前に君のように訪ねて来た者が、路銀に困っていたので買い取った」
「へえ。お前は料理も上手くて綺麗なのに、どうしてこんな寂れた廃村にいるんだ?」
「隣村までの距離が長く、教会からここの番を頼まれた」
「なるほどね。そうだ、俺笛が得意なんだけど、何か役に立ちそうなことがあったら言ってよ」
「うん」
藍忘機は魏無羨の話に耳を傾けつつも、返事は口の中のものを飲み込み、口元を拭いてからだった。魏無羨はこの上品な男がどういうわけか気に入り、暫くここで世話になっても良いかもしれないと思い始めていた。困ることといえば、この周りには何もなく、稼ぎ口と暇つぶしが何もないことだ。
「藍湛、ここから近い村はどこ?」
「皆東の街を目指すが、北に酪農をしている集落がある」
「へえ、知らなかった」
「私は昼間そこの教会へ出向くことが多い」
「へえ。それ、俺も行っていいい?」
「構わない」
魏無羨は沈黙に耐えられない性分なので、その後も色んなことを藍忘機に話した。色んなこととは、これまでの旅で行った場所や出会った人、そこで聞いた伝承などのことだ。
その中にはこんな話もあった。
「――なあ、遥か東には吸血鬼が住んでいるんだけど、その吸血鬼たちは人間に馴染んで暮らしていて、もちろんすごく眩しい太陽の光とか銀は苦手だけど、滅多に人の血を吸わないんだって。で、面白いと思って聞いていたんだけど、その吸血鬼たちの間では、『心から愛している人の血をもらえると、来世は人間になれる』って伝承があるんだってさ。本当に吸血鬼なんているのかな? 妙に現実味があるから聞いちゃったけど、結局人間になれたかどうか、そもそも生まれ変われるかどうかなんて誰にも分からないよな」
「あるかもしれない」
魏無羨は、堅物だと思っていた藍忘機が思いのほか地域の伝承やホラ話も聞いてくれたので嬉しくなった。おまけにこの牧師は、魏無羨にお手製のグリューワインまで振舞ってくれている。
「藍湛、お前本当にいい奴だな。よし気に入った! 明日はお前の伝道に付き合ってやるよ」
それからというもの、魏無羨は藍忘機の家でもある廃教会にひと月ほど滞在した。北の集落の人々は藍忘機と共に神に祈りを捧げ、羊を放牧してのんびり暮らしている。魏無羨はたまに藍忘機に付いていき、笛を吹いて人々を喜ばせたが、少し遠くても街の賑やかさの中で日銭を稼ぐ方が多かった。街にも宿はあるが、どういう訳かあの廃教会の方が居心地がいいので、魏無羨はいちいち廃教会に帰っていた。
魏無羨はひと月ほどの暮らしの中で、藍忘機について不思議に感じることがいくつかあった。
藍忘機は村の人々に比べて恵まれた体躯を持っているが、食べる量は非常に少ない。そして、何時に魏無羨が帰って来ても出迎えてくれるのだ。しかも、眠そうだったことも一度もない。まるで寝る必要が殆どないかのようである。魏無羨が酔っ払って帰ってくれば水を用意してくれるし、居間のソファの上で寝ても翌朝にはきちんとベッドで目が覚める。そして、藍忘機はいつも魏無羨より早く起きていて、既に彼が起きる頃には朝の礼拝を終えて他の仕事をしているのである。
(おもしろい奴だな……)
そして、魏無羨は一度だけ藍忘機が少し慌てているのを見たことがあった。この村の周りはあまり晴れることが少ないのだが、少し日が差した日に藍忘機が居間のカーテンを閉めていたのだ。魏無羨は出かける前だったのでさほど気にしなかったが、あの日以来、昼間にあの場所のカーテンが閉まっている日はない。
今日は酷い雨だ。魏無羨は出かけるのをやめて本を読むことにした。魏無羨は、旅先で古本を買い求めるのが好きだった。収集した本は重たすぎれば実家に送り返し、路銀に困ったときには手放すのだが、特にその地域の伝承や、怪談、不思議な話にまつわるものが多い。彼はベッドに転がって遥か東の吸血鬼の伝承を読みながら、暫くはずっと東を目指そうとぼんやり考えていた。
本を読んでいるうちに、雨は収まってきたが雷の音が酷くなっていた。藍忘機の気配はまるでなく、雷の音を除いて教会の中も静かなので、自分の部屋にいるのだろう。今日は教会への報告書をまとめると言っていた。魏無羨は本を読み終わると、笛を出して曲を作り始めた。最近はこの教会から歩いていけるいくつかの街で演奏をしているので、徐々に目新しさがなくなってくると稼ぎも減ってしまう。もちろん客からのリクエストにも応えるが、オリジナルの曲もいくつか作る必要に迫られていた。
魏無羨はふと思いついた曲の一節を吹いてみた。それは次々と新たな音を生み出して音楽を奏でていく。魏無羨は、自分が天才音楽家なのではないかという気持ちになりながら、思いついた音を次々繋げていった。時折それを忘れないように書き留めていると、部屋の戸がいきなり開いた。
「君……そ、その曲は……」
「藍湛? これか? 今適当に吹いてただけだよ。うるさかった? でもお前も気に入ったなら、きっと俺の名声を高めてくれる曲に違いないな!」
「……」
藍忘機は何か深く案じているような、悲しみを奥底に秘めるような表情をしていたが、魏無羨が何か言おうとしたとき、今までに聞いたことのないような轟音が響いた。
「藍湛!」
「ここに落ちたのかもしれない。外へ逃げなさい」
魏無羨は笛とトランクに適当に放り込んだものを持って慌てて外へ出た。しかし振り返ると、藍忘機がいない。様子を見に行ったのだろうか? 心配していると、教会のどこかから上がった火の手があっという間に教会を包んでしまった。
「藍湛! 藍湛!!」
魏無羨は探しに行こうと外套を脱ぎながら叫んだ。すると、遠くから人影が見え、低い声がした。
「……魏嬰、ここだ…………」
藍忘機は教会から持ち出したものと思しきいくつかの本を持ってよろよろと魏無羨の方へと歩いてきた。魏無羨は慌てて駆け寄ったが、倒れ込んだ藍忘機は煙を吸っているのか顔色が悪い。魏無羨は彼の肩を抱き、どうにか危なくない場所へ行こうとした。
「藍湛、しっかりしろ、藍湛!!」
魏無羨は雨にも関わらず火が収まらない教会を横目に、藍忘機の身体に怪我がないか確認しようとした。その時、魏無羨は肩口か首のあたりに衝撃を覚えた。
「……えっ?」
くらくらした感覚と共に、魏無羨はその衝撃が何だったのかよく分からないまま視界が暗くなっていくのを感じた。
「魏嬰……すまない」
「藍湛……? ごめんなんて……言うな…………」
手放しそうな意識の中で、魏無羨はぼんやりと理解した。――藍忘機は、吸血鬼だったのだ。