花を待つ音② 謝憐は、物心ついた頃には母親の影響でピアノを習っていた。教室は家から一人で通える近所の大手の音楽教室で、そこには様々な楽器の教師が所属していた。要するに近所の子どもや趣味を探している大人が通う、ありふれた音楽教室だった。
中学生くらいの頃の謝憐は、運動も勉強も好きで得意だったが、一番好きなのはピアノの練習とレッスンだった。この日も彼は少し早めに行って、空いている練習室で練習をしようと思っていた。ところが彼は、教室のあるビルの入り口のすぐ近くで、小学生くらいの子どもが泣いていることに気づいた。
「そんなに悲しそうな顔をして、どうしたんだい?」
子どもは、身体の小さい男の子だった。謝憐は、どうにも無視できずその子に話しかけていた。よく見ると、子どもは座り込んだ膝の上に小さなヴァイオリンを抱えていた。
「……おとうさんも、おかあさんも、おまえはできがわるいって……」
「レッスンは?」
「おわった……。できなくて、すごくおこられた……」
どうやら、両親から詰られて気分が沈んでいたところに、教師がレッスンで厳しい追い打ちをかけたらしい。謝憐は、隣にしゃがんで話をした。
「ヴァイオリンは好き?」
「……すき」
絞り出すようなか弱い声がして、謝憐は笑みをこぼした。
「上手になりたい?」
「…………なれるか、わからない。もう、ぼくが弾いても、だれもよろこばないかもしれない」
少年時代の謝憐は、小さな頃から自分がピアノを弾けばいつも両親や友人が喜んでくれたことを思い出した。これからコンクールに出て、音大を出て、プロの演奏家になれば、きっとたくさんの人が自分の演奏に心を動かされると信じている。彼は、何も躊躇うことなく子どもに言った。
「私のために、弾いたらいい」
「えっ?」
「いつか、いつか君に、私の伴奏でヴァイオリンを弾いてほしい。その日まで、自分を信じて、勇気を出してたくさん練習するんだ。君は絶対に上達して、どんなコンクールでも優勝する。もし自分が信じられないなら、私を信じて。……君ならできる!」
謝憐は、俯いていた子どもと目が合った。彼は、急に謝憐に励まされてまだ何が起きたかよく分かっていないようだった。謝憐は、通学鞄の持ち手に結んでいた珊瑚玉のついた組紐のブレスレットを外し、子どもの腕に巻いてあげた。
「これは、お守り。悲しい時や辛い時には、私を思い出して。きっとこの紐が切れる頃、君はもっとずっと上手に演奏できるはずだ」
子どもは、腕に輝く赤い石をまじまじと見つめた後、俯いて何かを取り、差し出した。
「哥哥」
「私にくれるの? ありがとう」
子どもはいつの間にか、コンクリートの隙間から生えていた白い花を摘んでくれたらしい。謝憐はそれをそっと指で受け取った。
「――じゃあ、私はレッスンがあるから、君は気をつけて帰るんだよ」
あの頃は謝憐がコンクールに出始めた頃で、彼はまだ、昨日より、一週間前より多くのことをピアノで表現できることが楽しくて仕方なかった。
そういえばあの時の子は、まだ楽器を続けているだろうか――。
最後の高音の余韻が消えても暫くの間、謝憐の心は全身が震えるような高揚感を味わっていた。
「哥哥」
そう呼ばれた後、立ち上がった謝憐は何が起きたかよく分からなかった。身体の熱が伝わって、そして、耳元で声がして、ようやく彼は自分がしっかりと抱きしめられていることに気がついた。
「――すごくいい伴奏だった。本当に素敵な演奏だったよ」
抱きしめられた謝憐は、花城の耳元に輝くものに気がついた。片耳だけ長いピアスは、レースのような美しい銀細工の蝶の下に赤い珊瑚玉が揺れている。それが揺れて、微かにしゃらりと美しい音が聞こえた。
謝憐も花城の肩の方に手を伸ばして何か言おうとしたのだが、しかしその美しい時間は、ドアが乱暴に開く音で台無しになった。
「おい!! 『準備中』ってどういうことかと思えば! 貴様何をしているんだ!」
「やあ、ご健勝かな? 先輩」
何か誤解を招きかねない景色を風信に見せてしまった謝憐は、顔が噴火しそうなほど熱くなるのを感じた。花城はすっと彼を開放すると、謝憐の前に立って風信を遮った。
「もう一度聞く。何をしていたんだ?」
「何って、哥哥と今度の学内コンクールの優勝者コンサートの練習だよ」
謝憐は思わず叫びそうになるのを堪え、花城を後ろから見た。彼はわざとらしい笑顔で風信を挑発していたが、驚いて挙動不審になりかけていた謝憐の方を向き直った。
「哥哥、あなたに俺の伴奏をお願いしたい」
膝をついた様子は、まるで謝憐にプロポーズでもするかのような美しい光景だった。謝憐は、しどろもどろになりながら花城に言った。
「三郎、どうか一度立ってくれ。本当に君の伴奏は楽しかったんだけど……その、私は部外者で、ただのカフェの皿洗いだから……」
風信は謝憐がピアノを弾いていたという事実にショックを感じる暇もなく、花城を牽制した。
「そうだ。関係のない人を貴様の演奏に巻き込むな!」
「碌な伴奏者もいない癖に内輪のコンクールに出て演奏してほしいって頭を下げてきたのはそっちだろ? 入場料収入が欲しいだけのクズどもに口を挟む隙間があるかよく考えたほうが良い。そこの指揮科の院生のお師匠は、確か学長でコンクールの責任者だったよな?」
風信は舌打ちをして黙った。学内コンクールの本来の目的は学生の研鑽にあるが、実のところ、入場料収入で大学が所有するホールの運営費をいくらか賄いたいという魂胆がある。当然ほとんどの人は無名の学生が演奏するクラシック音楽に興味はないので、例年の来場者のほとんどは学生から無料招待券をもらった家族や友人だ。ところが、既に世界各地で次点がいなくなるほど完璧にコンサートを荒らし、数多の名門オーケストラからソリストに呼ばれる花城が出るとなれば話が変わる。既に出演するという前評判が立っているせいか、まだ数か月先のコンクールの一般チケットがほぼ完売しているらしい。学長の弟子でかつ大学院生という使い勝手のいい立場にいる風信は、コンクールの事務局の仕事を押し付けられているので黙るしかなかったのだった。
花城は、不満そうな風信の方を見てにやりと笑ったあと、謝憐にもう一度言った。
「哥哥、もしあなたが優勝者コンサートで俺と一緒に弾いてくれるなら、俺は学内コンクールに出ようと思ってる」
状況を理解した謝憐は、風信の視線からもどうにか丸く収めてほしいという懇願を感じた。花城が機嫌を損ねたら、彼は二度と指揮棒を振れなくなってしまうかもしれない。
「三郎、確認するけど、学内コンクールの後のコンサートの伴奏者は部外者でも良いの?」
「あなたが良いんだ。それはそこの人がちゃんと交渉してくれる。もちろん、俺自身が文句なんて言わせないけどね」
謝憐が絆されそうになっている様子を見て、花城に「そこの人」呼ばわりされた風信が突っ込んだ。
「そもそも、優勝者コンサートは各部門の優勝者しか出られない。貴様が優勝するという確証はあるのか?」
花城は風信の方を見て鼻で笑った。
「もちろんある。その辺のクズどもと一緒にしないでくれ」
「三郎、その……私で、いいのか?」
「あなたがいいんだ」
花城は謝憐の目を見て真剣に言った。謝憐は少し考えた後、口を開いた。
「……分かった」
「や、やるんですか!?」
「うん。風信、その方が話題にもなるしチケットの払い戻しも減ると思う。空席が減れば出演者のモチベーションにもなると思うけど、何か不都合がある?」
風信は思わず声にならない呻き声を上げたが、花城は謝憐の手を取って微笑んだ。
「哥哥、絶対優勝する。俺を信じてください」
「うん、信じてるよ」
それから二人は、謝憐のカフェの閉店後に少しずつ練習をすることにした。といっても、練習は半分本当だがもう半分は口実で、二人は謝憐が暇な時間に座っている窓際のソファ席で色々な話をすることが多かった。
「大学はどう? この国は色々と勝手が違うだろう?」
「気になるほどではないよ。八割くらいつまらないけど、でも理論の授業とか、副科とかは悪くないかな」
「そうなんだ。私が先生で、君みたいな輝かしい学生がいたら緊張するだろうな」
「哥哥が先生だったら真面目にやるよ」
「そう? 本当に?」
「本当だ。哥哥、信じて」
謝憐は花城の少し子どもっぽい言い方に思わずふふっと笑ってしまった。
「それなら、副科のピアノも真面目にやるんだ」
「哥哥が練習を見てくれるなら……やってもいい」
謝憐は花城のピアノの課題を見たり、一緒に他の人の演奏を動画で見たりもした。風信と慕情は、最近閉店後はそそくさと家に帰るようになり、謝憐は毎日のように花城とこの時間を過ごしている。
「哥哥、夜ご飯は?」
「ああ、慕情が用意してくれてるんだ。今日は君の分も用意させたから食べよう。温めるよ」
「手伝うよ」
謝憐はカウンターに入って、慕情に無理を言ってお願いした二人分のパスタを電子レンジに入れた。慕情は帰り際、ドアを開けて店の外に出た後まで色々文句を並べていたが、ラップの上のメモを見れば、ご丁寧に固くならない温め方と時間まで書いている。花城は温め終わったものを席まで運んだ。
「俺も演奏家は少し休んで、哥哥と一緒にカフェがやりたいな」
「君の音楽は、みんなから必要とされているだろう?」
「そうでもない。みんな物珍しさに惹かれてるだけさ。それより哥哥とここで一緒に弾いてる方がずっといい。俺は哥哥が聴いてくれるなら、世界中から見向きもされなくていいと思ってる」
謝憐はなぜだかとても恥ずかしくなって、パスタを口に入れたが噎せそうになった。
「哥哥、大丈夫?」
「ごめんごめん。君は本当に不思議な人だ。私のところに突然やってきたかと思えば、まさか年単位でピアノから離れていた私に伴奏を頼んでくるなんて……」
水を飲んだ謝憐は、どうにか呼吸を整えて言った。花城は何も言わず、どういうわけか謝憐の方を怒ったような、悲しんでいるような表情で見た。
「……三郎、何か悪いことを言ったなら謝る」
「哥哥、あなたは何も悪くない。手に触れてもいい?」
「いいけど、どうしたの? あんまり綺麗じゃないから、じっと見ないで欲しいけど……」
謝憐はフォークを置くと、右手を花城に差し出した。謝憐はカフェの「店長」ではあるが、やっていることは掃除、片付け、ドリンク作り……というわけで、水仕事が多く手荒れは防げない。仕事中にハンドクリームを塗るわけにもいかないので、ひび割れそうな場所には絆創膏を貼っている。
「本番までは、ゴム手袋をしても水仕事をなるべく控えめに。このカフェの食洗器は、そのまま食器を入れても大丈夫。それから、絆創膏を貼る前には薬を塗って」
「うん、ありがとう」
謝憐は後片付けを終えると、終電の時間を気にした方がいい時間になっていることに気がついた。
「三郎、君の家はどこ? 終電まであと五十分くらいだけど」
「ああ、歩いて帰れるから大丈夫。それより哥哥は?」
謝憐は返答に迷った。彼の家はここから電車に一駅だけ乗るか、歩いて三十分ほどの距離の場所にある。しかし、謝憐にとってはあまり居心地のいい場所ではないため、彼はここで寝て、明け方にシャワーを浴びたり着替えたりするためだけに一時間ほど帰ることが多かった。
「……私はここで少し寝てから朝帰るよ」
「そう? それなら戸締りに気をつけて」
「うん。三郎も気をつけて帰るんだよ」
楽器と鞄を持って店の玄関まで進んだ三郎が、突然振り返った。
「哥哥、目を瞑って」
「えっ?」
いいから、と促されて、謝憐は目を瞑った。
首元にひんやりとした感覚があった。
「おやすみ哥哥。また明日!」
目を開けた時には、もう花城はドアの向こうから謝憐に手を振っていた。慌てて振り返した後、彼の姿が見えなくなるとようやく謝憐は何が起こったのか首元を触った。
「…………これは?」
謝憐は、服の襟元から鎖骨の下にあったものを指でつまんで持ち上げた。銀のネックレスには美しい指輪が付いていて、透かし彫りがされている。彼はそれをじっくり眺めた後、この姿を誰かに見られていたらひとたまりもないと思ってもう一度服の中にしまった。心が温かくなって、とても安心しているのにもかかわらずどういう訳か寂しくて、謝憐は、「三郎」と小さく声に出してしばらくドアの前に立っていた。
本番前の最後の練習は、謝憐のカフェではなく花城の大学の練習室になった。辞めた大学に一人で出入りするのは何となく気が引けて、謝憐は門の前で花城と待ち合わせをしたのだが、案の定おやつ時の混雑に巻き込まれて少し遅れていた。慕情の作るプリンが最近SNSで評判らしく、彼は鼻高々の様子で朝から準備をしていたが、謝憐が出てくるまでに完売していた。これなら鼻高々でも誰も文句を言わないだろう。
大学の正門の前に立っている花城は、遠くからでも非常に目立った。というより、小さな人だかりが遠巻きにできていて、それを目印に謝憐は近付いた。
「伴奏が必要だったら言って」
「四重奏で一人探しているんだけど」
彼とどうにかお近づきになりたいのであろう色んな声が聞こえて、謝憐は花城が気づく前に一度足を止めた。興味半分、本当は良くないと思いつつも、花城がすげなく断ることへの期待半分。
「――心に決めた人がいるから他を当たってくれ」
花城のどこか冷ややかでうんざりしている様子を隠さない声色に、遠巻きに見ていた謝憐まで少し緊張した。一体花城の心に決めた人とは誰だろう? そう思っていると、出来ていた円陣はすぐに散って、謝憐はあっさり花城の視界に入った。
「哥哥! 忙しかった?」
「ううん、そんなことない。待たせてごめんね」
「大丈夫、哥哥を待つのなんて何年経とうが全く苦にならない」
花城はそう言うと、謝憐を練習室に案内した。
練習室は二人で演奏をするには十分な広さで、グランドピアノが置いてある。
謝憐は、美しく黒いそれに自分の顔が反射したのを見て、急に激しい動悸と眩暈に襲われた。
「哥哥!?」
花城がすぐに腰を抱き、謝憐は何とかしゃがみ込まずに済んだ。しかし冷や汗がどっと出て、手が震え、溺れそうな気分になってくる。
「三郎……ごめん、少ししたら、治るから……心配しないで……」
謝憐は身体がぐるぐると回る感覚に耐え切れずに目を閉じた。花城は手を取り、脈を測ってくれているらしい。十分ほど経って、ようやく謝憐は目を開けることができた。
「哥哥、まだ休んでいて。水は飲める?」
「ありがとう。もう大丈夫だ」
「練習室は八時まで借りてるから気にしないで。それより哥哥の体調の方が心配だ」
花城はまだ心配そうな表情のままだった。彼は鞄から白いハンカチを出すと、謝憐の額の汗を拭いてくれた。謝憐は、これが本番ではなくて良かったと心から思った。
謝憐がようやく起き上がったのは、それから四十分ほど経った頃だった。
「哥哥、本当にもう大丈夫?」
「うん。さっきは驚かせたし、心配をかけてごめん」
花城は黙って首を振った。
「――実は、……言いにくいんだけど、……」
謝憐は本当のことを言おうと思った。しかし、いざ言おうとすると言葉がでない。彼が言葉を詰まらせたとき、花城がそっと手を握った。
「何でも言って」
それからしばらく謝憐は言葉を詰まらせていたが、背中を擦ってもらうとようやく落ち着いてきた。
「…………疲れているときにグランドピアノを見ると、たまにこうなっちゃって……」
「大丈夫。哥哥の体調が一番大事だ。今日はやめようか」
「その必要はないんだ。これは……私が、自分で克服しないといけないことだから…………」
立ち上がろうとした謝憐は、もう一度ふらついた。すぐに、花城が彼を抱きしめた。
「あなたが苦しいとき、悲しいときは、俺を頼ってください」
謝憐は、ありがとうと微かな声で呟いた後、ようやくグランドピアノの椅子に座ることができた。隣には花城が座って、謝憐が鍵盤の蓋を開けるのを注意深く見ていてくれた。謝憐が恐る恐る鍵盤に触れようとしたとき、ようやくほぼいつも通りの表情になった花城が言った。
「哥哥、今週の課題も酷いんだ。見てくれる?」
花城は鞄からタブレット端末を取り出すと、楽譜を開いて譜面台に乗せた。謝憐は置かれたベートーヴェンのソナタの楽譜を眺め、深く呼吸をした。
「長い曲だからまずは前半から少しずつやろう。どこまでやってこいって?」
「短調に切り替わる前全部」
「それは、少し大変だ。三郎、最初の方は弾ける?」
「哥哥、どんな感じか忘れたから弾いてほしいんだけど」
記憶にない曲だったので、謝憐は楽譜を注視し鍵盤の方はほとんど見ないでゆっくりと最初の数小節を弾いた。
「ああ、確かにそんな感じだった気がする」
謝憐は「もう。しっかり聴いてきなよ」と思わず花城を窘めた。しかし、謝憐はあることにも気づいていた。花城が副科のピアノの課題を持ってくるときは、彼の課題をどうにかすることに必死でピアノに触れることについてあまり考えなくなっている。そして、曲を弾けるようになっている。
「三郎、もう一度弾くからよく聴いていてね」
謝憐は自らに実験を課すためにそう言うと、最初の和音を弾いた。そこからは夢中になって画面に出ている範囲のベートーヴェンのソナタを弾くことができた。
「哥哥、あなたはやっぱりすごい。本番も絶対大丈夫。何があっても俺を信じて」
「うん。でも三郎、君の今週の課題はちょっと難しいから、先にやっておこうか……」
謝憐が言うと、「哥哥のいじわる」と呟きながらも、花城はしぶしぶ鍵盤に手を乗せた。
学内コンクールは、一年に一度三日がかりで行われる。事前審査を突破した優秀な学生たちが各日専攻ごとに分かれて演奏を行う。午前中に本選、午後一番に審査発表があり、夕方にその日の各部門の優勝者がコンサートを行う。謝憐は午前中からコンクールを見るべくホールに座っていた。風信によればチケットは完売したとのことだったが、謝憐は花城から関係者席のものを一枚もらうことができた。謝憐の隣には、早朝から運営業務にあたり一仕事終えた風信が座っていた。
「三郎は、事前審査があったなんて言ってなかったけど……」
パンフレットを読みながら、謝憐は風信に小声で尋ねた。
「あいつには無いですよ」
「ああ、なるほど……」
謝憐はため息をついた。圧倒的な腕であることはカフェで演奏を聴いていても分かることだが、このところは彼の演奏以外ほとんど聴かないので、普通の上手な学生の腕はよく分からなくなっていた。新学期が始まってすぐにあるコンクールなので、一年生が出場することすらもちろん異例である。
花城の出番までに、ヴァイオリンの演奏者は四人出てきた。本選は自由曲だけなので謝憐は様々な曲の技巧や表現を楽しむことができた。倍率の高い学科だけあって、どの学生も上手いのは当たり前、あとはいかに細部まで思いのままの表現をし、いかにこの場を自分のものにするかといったところだろう。
花城は、光沢のある黒いシャツを着て最後に出てきた。
すぐに、周りからはっと息を呑む音が聞こえ、心なしか名前を呼ぶ影マイクの声まで震えているような気がする。花城が舞台袖から出てきた瞬間に、まるでこの世界が、いや、地上だけでなく三界が彼に圧倒されたような感じだ。会場を、観客を空気を全て自分のものにして、彼はそこに堂々と立っている。謝憐は思わず隣にいる風信を見たが、花城が指揮科にいなくてよかったと顔に書いてあって控えめに苦笑した。
再び舞台を見ると、謝憐は花城と目が合って微笑まれた。謝憐はすぐに顔が熱くなった。もし叫ぶことのできる状況であれば、「演奏に集中して!」と叫んでいただろう。
花城が演奏したのは、パガニーニの二十四の奇想曲五番。以前曲を決める際に二十四番と迷っていると言われたが、謝憐は前奏の高音までのアルペジオと、主部の全く休みなく躍るようなサルタート奏法を気に入って五番を勧めた。三分足らずのうちに終わり、息をつく暇もなく圧倒されたまま終わるのも良いと思ったのだ。
その実、彼の三分足らずは本当に圧倒的な演奏で終わってしまい、弾き終わった瞬間感嘆の声がホールのそこかしこから漏れ聞こえた。
「こんなの、ずるすぎる……」
風信も思わずそう言葉を漏らしながら事務の仕事に戻っていった。
結果発表は何の疑念も驚きもなく花城が優勝を掻っ攫っていき、謝憐は久しぶりに三つ揃いのスーツに着替えて花城と控室に入った。
「五番はどうだった? 哥哥がいたからちょっと力が入りすぎちゃった」
「そんなの全然分からなかったよ。会場の中が全部君のものになってた!」
謝憐は目の前にいる花城が、自分の前では少しはにかみ屋になるのが嬉しくて仕方がなかった。謝憐は自分でも興奮しているのが分かるくらい目を輝かせながらニコニコ笑って、花城も最終的に笑顔を見せてくれた。
「哥哥、次が本番だよ。体調は平気?」
「大丈夫、三郎がいてくれるから」
謝憐はあの夜に花城がくれたネックレスのことについて何も聞けずじまいだった。彼は家にもほとんど帰らないし、そうかといって店に私物を置くわけにもいかず、結局自分の首にずっとつけて、お守り代わりのようにしている。花城がいれば、本番直前まであてがわれた練習室のグランドピアノも、何もこわくなかった。
控室に入ると、本番に呼ばれるまではすぐだった。
「哥哥、あなたなら絶対大丈夫。信じて」
「うん」
お互い、無意識のうちに隣同士に立って、指を絡めた。
この数か月、毎日のように二人で弾いていた甲斐もあって、謝憐は全く緊張せずに伴奏を務めることができた。花城のヴァイオリンは先ほどの攻撃的なまでの超絶技巧と反して、優美で繊細なドビュッシーを奏でた。ピアノを愛するように柔らかに響くヴァイオリンは、会場を魅了していた。
最高の演奏をした後、二人は人波を逃れるようにそっと人の利用が少ない門から帰ろうとした。
「ねえねえねえねえねえ! ほら! やっぱり!! 謝憐じゃないか!」
にぎやかな声に思わず謝憐が振り返ると、そこには見知った顔があった。師青玄と明儀だ。彼らは謝憐と同じ年にこの大学に入学して、それぞれフルートとチェロを専攻していたはずである。専攻が違う上、謝憐は大学を辞めてしまったので疎遠になっていた。彼らは留年していなければ三年生なので、恐らくどこかの日程でコンクールに出ているのだろう。
「謝憐、久しぶりだな!! 元気にしていたか? ずっと見かけてなかったから心配だったんだよ! とにかくまだピアノ弾いててよかった!! 今日はすごく良い演奏を聴かせてくれてありがとう!」
「言いたいことは言ったか? 帰るぞ」
「待ってよ明兄! まだ山ほど伝えなきゃいけないことがあるのに!!」
師青玄は結局嵐のように謝憐を褒めちぎった後、明儀に引っ張られるようにして離れていった。
「哥哥、あいつらと知り合い?」
「うん。私と同期で、最初の半年だけ語学のクラスが一緒だったんだ」
「ふうん」
花城はそれ以上は興味がないのか何も聞かなかったが、謝憐は歩きながら花城が黙ったままゆっくりと歩いていることに気づいた。謝憐は気づかないふりをして、彼が何か喋るのを待ってみることにした。謝憐は真っすぐ自分の店に来るのかと思っていたが、なぜか花城は回り道をして、夕暮れ時の公園を歩き始める。遊歩道のようになっている比較的大きな公園で、住宅街への近道になっているせいか、帰り時のこの時間も全く人気がないわけではない。このままだと公園を一周しかねないと思った謝憐は、人通りがほとんどなくなった場所で思い切って尋ねてみることにした。
「三郎、この間君が色んな人に囲まれているときにちょっと聞こえたんだけど」
「……」
そこでようやく花城は立ち止まった。彼は後ろを歩いていた謝憐を振り返ったので、謝憐の方がなぜか背を向けてしまった。
「その……心に決めた人って、誰? ああ、いや、ごめん。ええと、……ちょっと気になって……」
君が秘密にしたいなら聞かなかったことにしてほしい、と謝憐は付け足そうとしたが、急に背中に何かがぶつかる感覚がして何も言えなかった。背中から絞り出すような声がした。
「哥哥、もう知ってるでしょう? ……心に決めた人なんて、俺には人生でひとりしかいないよ」
後ろから抱きしめられている謝憐は、少しの沈黙の後で言った。
「返事をしてもいい?」
「待ってください。……心臓が止まりそう」
謝憐は一度離れた花城の方に向き直ると、次の瞬間自分から彼に飛び込んだ。
「三郎、私も……私も同じ気持ちなんだ!」
二人はしばらくの間しっかりと互いを抱きしめていたのだか、見つめ合うともう互いを求めずにはいられなかった。おそるおそる触れ合った唇はやがて熱を持ち、何度も互いを溶かし合った。
謝憐が臨時休業中の店に戻ると、なぜか店の電気がついていた。今日は慕情が一人になってしまうため、最近のプリン特需で朝から晩まで卵を割り続けていた彼にも休んでもらうことにしていたのだが、誰か来て何かしているのだろうか。
「誰かいるのか?」
謝憐が声をかけると、「私だ」と低く威厳のある声がした。謝憐は何も言えずに店の中に入った。カウンター席にはこの店のオーナーの君吾がいて、彼は自分で勝手に作ったらしきコーヒーを飲んでいた。
「近くに来たので寄ったら臨時休業だったが、君は来ると思って勝手に待たせてもらった」
「そうですか」
謝憐は荷物を適当に置くとカウンターに入って手を洗った。
「謝憐、最近ピアノを弾いていると聞いた」
ゆっくりと優しいが、誤魔化しを許さない声色で尋ねられ、謝憐は喉が渇いていくのを感じた。
「頼まれて……少し、伴奏をしただけです」
「……そうか。聴かせてはくれないな?」
「伴奏ですので……」
謝憐が控えめに言うと君吾は声を出して笑い、上機嫌にコーヒーを飲んだ。
「謙遜することはない。私は楽器のことはよく分からないのだ。失敗したって分からない」
「そうだと良いのですが……」
しかし次の瞬間、君吾は「謝憐」と名前を呼ぶと、真剣な面持ちで謝憐を見た。
「店を任せられるのは君だけだ。楽しむ分には大いに構わないが、ほどほどするよう」
「それは、分かってます」
「……言い過ぎた。私は君が、またピアノで傷つかないことを願っている」
君吾はまた少し表情を緩め、「君はよくやっている」と一言言うと、コーヒーを飲み干して足早に店を出ていった。
君吾がいなくなって緊張から解き放たれると、謝憐はさっきまでの花城との甘いやり取りが夢であったかのような錯覚に陥った。彼は置いていた荷物をもう一度持つと、とにかく店から出たくなって店を飛び出した。しかし、そうかといって咄嗟に行く場所が思いつかなかった彼は、どうにもならない鬱屈した気分をどうにか晴らそうと、ひたすら歩いて家に戻ることにした。
謝憐の家は薄暗く、埃っぽい。彼は自分が寝ればそれだけでいっぱいになるほど狭い自分の部屋に荷物を放り投げ、暫く入っていなかったリビングに入った。小さなリビングはほとんどグランドピアノで埋め尽くされていて、その横に小さな祭壇があり、位牌が二つ置いてある。謝憐はそれを見つめたあと、床によろよろと座り込んだ。
(花を待つ音③へ続く)