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    Godot_Pavlov

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    Godot_Pavlov

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    くだらないはなし

    園部飛龍が肖飛龍になる話「飛龍ってさあ、中国人なの?」

     友人の何気ない問いに、飛龍は言葉を失った。
    それが彼にとって、特段聞かれたくない質問だったわけではない。ただ、単純に、彼自身にもその答えが分からないのだ。自分が何者であるのか。当時小学三年生であった彼は、その疑問に至る機会すら無かった。

    「うーん……日本人……?」
    「ハーフなんだ」
    「ううん。父さんも母さんも中国人」
    「じゃ、中国人じゃね?」
     
     友人の視線はテレビゲームに集中していた。飛龍は傍らのポテトチップスを一つつまみ、思案げに眉をひそめた。
     
    「でも僕、中国語喋れないよ」
    「えーっ?両親が中国人なのに?」
    「ほら、僕の母さんは僕が赤ちゃんの時に死んじゃったからさ。今の母さんは日本人。父さんは滅多に中国語喋んないし」
    「ふうん」
    「律はハーフだよ」
    「へー、そっか……うわ、死んだ」
    「次僕の番」
     
     コントローラーを受け取ってコンティニューを選択する。
    たちまちに復活したキャラクターを真剣に操作しながらも、彼の頭の中は先ほどの会話でいっぱいになっていた。
     自分は、どこの誰なんだろう。もし日本と中国がケンカしたら、自分はどちらにつくべきなのだろう。自分の帰る場所はどこなのだろう。


     
    「……ねえ、母さん」
    「うん?どうしたの、飛龍」
     
     柔らかい笑みを浮かべる母。律が生まれてからも、彼女は優しく、分け隔てなく愛情を注いでくれていた。その日の晩、飛龍は抱えていた疑問をそのまま母へとぶつけた。
     
    「僕は何人なの?日本人?中国人?」
    「……うう、ん」
     
     母は少し悩んだ表情をして、それから困った様に笑った。
     
    「それは、飛龍が好きに決めていいのよ。好きな方を」
    「……すきな、ほう」
    「そう。どこにいても、何をしていても、あなたはあなたらしくしていれば良いのよ」 
     
     言葉が話せないから、向こうでは暮らせないから、ここで育ったから、だから自分は日本人。でも、自分の名前は、両親は、そうじゃない。もし父さんがずっと向こうで暮らしていたら、自分は中国人になる。どちらにもなれると母は言った。そんなに単純な話なんだろうか?
    ……いや。きっと、違う、気がする。

     次の日も、そのまた次の日も、友人の態度は以前となんら変わらなかった。「人と違うこと」が容易にイジメの原因になりうるこの小さな社会の中で、それは幸運な事であった。それでも、飛龍自身は違った。どこにも帰属できない、漠然とした不安感。胸を張って「自分は何者だ」と言えない微かな後ろめたさ。ふとした瞬間にまとわりつく孤独感が幼い彼を苛んでいた。



    「今回は、グループで興味のある国について調べて発表します。……ほらそこ、ネットが使えるからってはしゃぐな。先生の画面で全部見えてるからな」
     
     えー、見えてんのかよ。ちらほらと男子学生の文句を垂れる声があがる。そりゃそうだ。思春期真っ盛り、男子中学生の頭の中はエロ一色に染まっている。飛龍は隣席の友人の腕を肘でつついた。
     
    「なあ、調べねえの?検索したかったんだろ、巨乳AV女優」
    「やめろ、蒸し返すなよ」
    「学校のパソコンならウイルス踏んでも何とかなるだろ?」
    「やーめろって」
     
     グイと強い力で押し返され、椅子から転げ落ちそうになるのを踏ん張って耐える。ゲラゲラ笑いながら戯れ合う2人を、同じグループの女子がジロリと睨んだ。
     
    「ほら、早く始めるよ。うちらのグループはどこにする?」
    「折角なら超意味分かんない国とかにしようぜ。アフリカの先住民族みたいな」
    「やだよ、1時間しかないんだよ?まとまるわけないじゃん」
    「……あ、じゃあ中国でいいじゃん。園部君もいるし」
    「確かに、困ったらなんとかしてくれるっしょ」
     
     その言葉を聞いて飛龍は大袈裟にため息をついた。
     
    「だーからあ、俺はハーフだって言ってんでしょ。生まれも育ちもバリバリのジャパニーズなわけ。聞かれたって分かんねーの」
     
     呆れた顔でそう言い切る。半分本当で、半分嘘。ずいぶん慣れたものだ。あれからしばらく経って、だんだんと彼は自分の出自を誤魔化して話すようになった。
     結局のところ、どちらにでもなれるという義母の言葉は正しいわけでは無かった。国籍が中国にあったところで言葉が話せるわけでも、ローカルな文化に詳しいわけでもない。分かるのはカラいものが多い事、あとはメイドインチャイナが安い事くらい。父親に連れられて本格中華の店に行った時も、親しみや懐かしさなんて微塵もなかった。色々と調べた結果、いっそ日本へ帰化しようと思ったこともあったが、それを両親に打ち明ける日はついに来なかった。彼にとって帰化は「日本人のナカマに入れてもらうこと」で、つまり「今の自分はナカマハズレである」と暗に認める事の様な気がしたのだ。理由は分からない。ただ、彼はそれを認めることができなかった。一体そこにどんな意地があったのか、馬鹿らしい悩みだと思った。きっと誰にも理解できないかもしれない。彼自身にも説明ができないのだ。

     悶々と考え込む日々を送りながら、やがて彼は家庭でさえ疎外感を感じるようになっていた。
     共に夕食を摂っても、外へ遊びに出ても、なんだか場違いな心地がして気まずい。そこから逃れるように一歩引いて、壁を作って、一層孤独になって、孤独の理由を探して。その理由が分かったところで、今更壁を壊す度胸なんてない。そうしてまた家族から距離をとる。それが負のスパイラルだと気付いた時には既に遅かった。
     その頃の彼にとって、もはや国籍や出自の問題ではなくなっていたのかもしれない。自分の居場所はどこなのか。そもそも存在するのかどうかすら危うく、結果として彼は適度に愛想笑いを振り撒きながら、一方では自分が建てた壁の中にひっそりと閉じこもるしかなかった。



    「……で、結局園部はどうするんだ、進路は」
    「……えー……わかんねーや」
    「分かんねえじゃすまないんだよ。ほら……進学か、就職かのどちらかくらいはあるだろう?」

     半ば飽きれたような担人の視線を食らいながら、飛龍は真っ白な進路計画表をぼんやりと眺めた。
     梅雨も明け、クーラーのついていない進路相談室はサウナみたいに蒸し暑い。窓を開けたところで入ってくるのは野球部の掛け声だけで、涼しい風なんか1ミリも感じられなかった。

    「大学は興味あるのか?」
    「……ないねえ」
    「じゃあ就職か?やりたい仕事とか、何かないのか」
    「わかんね」
    「……ううん……」

     堂々巡りの会話に、担任の男は頭を掻いてため息をついた。困らせているのは分かってる。それでも無いものは無いのだ。目標も、やりたい事も、好きなものも何一つ。残り1年を切った今までの高校生活で得たものは孤独や寂しさの誤魔化し方だった。入学後に作った僅かな友人たちとひたすらに遊びまわり、やれカラオケだ、ナンパだ、ケンカだと刹那的な享楽に耽った。楽しかった、と、思う。嫌な思考を無理矢理に振り切って、馬鹿みたいに大騒ぎしていたその一瞬は。
     それでも、ふと一人きりになった時の恐ろしさは耐え難いものであったし、「最高のダチ」に囲まれながら感じる、どこかふわふわとした居心地の悪さも健在だった。
     
    「……お前は、少し知見を広げた方がいい。もし本当に進学をする気がないのなら、夏休みの間にゆっくり考えなさい」

     飛龍は小さく頷いた。
     どうせ考えたって無駄だ。だが今はとにかく、目の前の男の話を大人しく聞いているのが得策だろう。
     
    「せんせぇ、あっちい。もういい?」
    「……ああ、今日は帰っていい。水分はきちんと摂れよ」
    「はあい」

     蒸し暑い相談室を出て昇降口へと歩く。外履きに履き替えながら、飛龍は片手間に携帯を弄った。

    『いまどこ?』
     
     短い言葉を打って送信する。今日の呼び出しは長引きそうだと、友人にそう言って先に行かせたのは飛龍自身だ。彼らはまたどこか遊びに行くと言っていた。そこへ合流しようと目論んだものの、移動中なのか既読のマークはなかなか付かなかった。
     表の自販機に並んでいたアイスを一つ買って封を開け、大きな口で齧り付く。茹だりかけていた頭が少し冷えるような気がした。このまま連絡がつくまで待つか、それとも帰るか、いずれにせよと駅の方へ歩く最中。ふと目についたのは、大通りにへ面した旅行代理店に張り出されていた広告だった。
     
    『夏休みシーズン到来!スーパーサマーセール展開中』
     
     ベトナム、ハワイ、アメリカ、グアム、タイ……つらつらと並べられた国名に視線を滑らせ、一つの単語に目を留めた。
    それは中国行きツアーの張り紙だった。

    「…………」
     
     これまでの人生で中国へ訪れたのは片手で数えるほどだった。父親に連れられて、知らない親戚と漢字と言葉に囲まれて。祖父母はいつも歓迎ムードだったが、共通言語を持たない自分たちにキチンとした会話が叶う事はなかった。当時は退屈でつまらないところだと思っていたが、今は、少しだけ、行ってみようという気になった。

     父親にそれを打ち明けると、彼はそれに快く賛成し、旅費まで出してくれると言った。やっと息子が自分の祖国に興味を持ち始めたのが余程嬉しかったのだろう。祖父母に会うのかという質問には小さく首を振った。
     
     そうして彼は、数年ぶりに出生の地を踏むことになった。 
     

     
     一人、大きめのリュックを背負って空港に降り立ち、地下鉄を経由して上海の市街へ出る。やっぱり、何度見ても知らない街だった。泊まる場所こそ決めていたものの特に行きたい場所も無く、ふらふらと彷徨って疲れ切ってしまった。
     ……自分はこんな所で何をしているのだろう。後悔ともの寂しさが襲う。ふと携帯を覗き込めば、充電が5%を切っていることに気付いた。辺りはとうに薄暗くなっていて、ネオンが道を煌々と照らしている。今にも力尽きそうなスマートフォンを片手に茫然と立ち尽くしていると、ふと、後ろから声をかけられた。
     
    「帅哥」
    「え?」
    「帅哥 你怎么了?没事吧?」
    「っ……あ、えっと……」
     
     声をかけてきたのは露出の高い服を着た女だった。困惑して女を見つめ返すと、しばらく思案した後、彼女は「ああ」と何か思い立った様子で言葉を続けた。

    「那个…你是日本人吗?」
    「り、りーべん……」

     知っているフレーズだった。きっと、日本人かどうかと聞いているのだ。飛龍はそれに返そうとして言葉に詰まった。
     答えることができない。自分は、なんなんだ?何になろうとしてる?何でありたいんだ?この人から見れば自分は異邦人で、とはいえ、日本に帰った所で、自分は、きっと。どちらにいようとしてもどちらからも追い出される。……なかまはずれみたいに。

    「……っう」
    「啊?」
    「……不知、道……、う……っぐ、」
    「哎!帅哥」
    「不知道……不知道、不……う、ぅう」
     
     視界が滲む。溢れたものが頬を伝う。嗚咽が止まらない。足に力が入らず、その場に蹲ると、上から女の焦ったような声が降ってきた。その言葉の意味はわからない。どこに行ってもダメだ、答えが見つからない。不安と悲しみでおかしくなりそうだ。心細い、居場所が欲しい、独りはいやだ、寂しいのもいやだ……。
     
    「ねえ、アンタ大丈夫?」

     やたらと軽薄そうな男の声に、飛龍ははっと目を見開いた。恐る恐る顔を上げると、声の通り胡散臭そうな男の顔があった。

    「はは、すっげ、顔から出るモン全部出てんじゃん」
    「……っあ」
    「ちょっと待ってな」
     
     そう言って彼は先ほどの女といくつか会話を交わした。少しして男が女の腰を抱き寄せ、口付けをすると、それが合図の様に女はコツコツとヒールを鳴らしてこの場を去っていった。
     男はこちらを見下ろし、飛龍の腕を引いて立ち上がらせる。
     
    「……おお、アンタ、意外とデカいんだね」
    「え……っと」
    「で?どうしたの?財布スられた?女に捨てられた?なんでもいいけど、こんなところじゃアレだから取りあえずうちの店に来なよ」
    「……」

     一方的な言葉に押され断ることも出来ず、黙ったまま男の後を歩く。道中、彼は『梁』と名乗った。ビルの横道に入り、暗い路地を抜けた先にある建物の一室。パチンとスイッチを入れて灯りをつけると、中はカフェのような、バーのような、見慣れない装飾が所々に置かれた狭い部屋だった。

    「適当に座って。そのうち鈴鈴もくるからさ」
    「りんりん」
    「ウン、さっきの子。声かけたのがあの子で良かったね。ヤバい奴だったらアンタ、今頃終わってたよ」

     梁はソファにどっかりと腰掛けると、服のポケットからタバコを取り出して火をつける。ふっと吐き出される紫煙をぼんやりと眺めていると、梁がこちらを見て眉を動かした。
     
    「あ、吸う?」
    「……あ、いや、俺……未成年だし……」
    「そうなの?アンタ歳いくつ?」
    「18」
    「じゅうはち??つーことは……高校生、大学生?」
    「……高校、です」
    「あ、へえ、そうなんだ」

     梁はしばらく飛龍を見やった後、撫でていた唇をニヤリと吊り上げた。
     
    「ミント好き?」
    「……まあ、普通……?」
    「好きな果物は?」
    「え?」
    「リンゴ、ピーチ、メロン、イチゴ、グレープ」
    「……っと……じゃあ……リンゴ……?」
    「紅茶派?コーヒー派?」
    「え?なに?」
    「まいっか紅茶で」
    「……」
     
     彼は煙草を咥えたまま徐に立ち上がると、カウンターの方へ歩いて行った。タッパーの並んだ棚からいくつか取り出し、それを開いて何か作業を始めた。ソファからは何をしているのかよく分からない。それは料理にも工作にも見えた。
     しばらく彼の様子を見ていると、店のドアがカランと装飾を鳴らして開いた。
     
    「哥〜来了〜」
    「嗯 鈴鈴 謝了」

     ふと声のする方を見ると、先ほどの女が現れてにこやかに手を振る。そうしてこちらへ歩み寄り、鞄から飲み物の入ったボトルを次々と置いた。
     
    「ウチ、酒とかしか置いてないんだよね」
    「嗯……this…tea, 还有 this peach juice……coffee」
    「し、謝謝……」
    「帅哥! you good chinese 哦〜」
     
     女が目を細めて飛龍の頭を撫でる。甘い香水の香りがふわりと香った。気恥ずかしい気持ちを誤魔化す様に出されたコーヒーを手に取り、キャップを開けて飲んだ。
     
    「はあい、お待たせ」 

     梁が何やらたいそうな器具を持ってソファへやって来た。水の入ったガラスの置物の様な物にパイプが繋がっている。
     
    「……なんですか、これ」 
    「知らない?シーシャ。水タバコ」
    「だから俺、未成年って……」
    「大丈夫、ニコチン入ってないから……ただの水の煙」
     
     そう言って梁は器具を置くと、飛龍の目の前に腰掛けてパイプを口に咥えた。

    「こう。ボコボコーって吸って、ベーッて吐く。そんだけ」
     
     パイプを手渡され、言われるがままに吸う。甘い空気が口内から肺を満たしていく。ふう、と吐くと、梁がやっていた様な沢山の煙は出なかったが、彼は飛龍を見て満足そうに頷いた。
     
    「オレねぇ、ここで水タバコ屋やってんの。鈴鈴はオレの可愛いセフレちゃん」
    「……はあ」
    「で?アンタは?」
    「えっと……園部、飛龍」
    「フェイロン?日中ハーフなんだ?」
    「……いや、ハーフっていうか…その……」
    「ああ、在日?」
    「……みたい、な」
    「はは、なんでそんな意味ありげな顔してんの」
    「いや、その……」
     
     その後も、梁はぽんぽんと質問を投げかけ、飛龍はそれに答えた。返答を拒む事はできなかった。いや、というよりは、この男に対して言葉を濁しても意味がない様な、何を話しても平気な様な、そんな感じがした。
     やがて、その問いはプライベートな事へ向かって行ったが、不思議と話したくないという気持ちにはならなかった。
     生まれの事、母親の死、父の再婚。籍が中国にあるのに中国語を話せない事。日本人じゃないのに、中国人にもなれないこと。その事で悩み続けていた事。自分がどこの誰であるべきなのか、分からないこと。疎外感を感じていた事。
     梁はそれを興味があるのか無いのか分からない素振りで聞いていた。女は梁にぴったりとくっ付いてスマートフォンを弄っている。甘ったるい匂いの中でゆっくりと時間が過ぎていく。
     やがて、自分の一切合切を話し終えると、梁は紙煙草の煙をふうと吐いた。
     
    「……で、どうにかなりたくてココに来たんだ?」
    「どうにかなりたいというか、なんか……わかるかと思って」
    「なんか分かった?」

     飛龍は小さく首を振った。
     
    「……ここは、俺の故郷じゃない。でも……あっちも、多分違う」
    「……」
    「母さん、義母は……どこにいても自分らしくいれば良いって言ってた。でも、自分らしさなんて分からない」
    「ねえ、自分らしくってさ、なんなきゃダメ?」
    「え?」
     
     梁はニヤリと口角を上げた。長い指がグリーンの髪を梳く。
     
    「そもそも『自分らしさ』ってなに?じゃあ今のアンタはアンタじゃないの?十何年も飛龍をやってんのに?『らしい』『らしくない』じゃない。今ここにいる、中国生まれ日本育ちの国籍文化が宙ぶらりんのドコゾのナニモンでもないオマエがお前。なんだっけ……肖?そう、肖、飛、龍。それじゃダメ?」
    「……ダメっていうか……」
    「諦めなよ。生まれ育ちなんてもうどーーにもなんねえんだ」
    「……っ」 
     
     どうにもならない。キッパリとそう言われて飛龍は目を伏せた。
     
    「アンタの疎外感なんて誰も解っちゃくれない。苦悩なんてしったこっちゃない。アンタがそうやって悩んでる限り、終着点なんてどこにもないよ」
    「だったら、どうしたら」
    「そんなん簡単だよ。考えんの辞めりゃいいじゃん」
    「は……?」

     梁はあっけらかんとした表情でそう言った。考えるのを辞めろったって、そんなこと。今更。眉を顰めて男を見やれば、梁は鈴鈴の肩を撫でて含み笑いをした。
     
    「なあ。悩める事は人間の特権だけどな、権利であって義務じゃない」
    「……」 
    「アンタ、そうやってこの後の一生ずーーーーっとジメジメ暗ぁい事考えながら生きていきたいの?」
    「違う」
    「だろぉ?もう良いじゃん。思春期のフェーズはもう終わり。それにさ……」
    「……それに?」
    「なんかそれ、スペシャルっぽくてよくね?かっけーじゃん。なんにもなれないオ、マ、エ!」
     
     呆気に取られて甘い煙を吐くと、それを見た梁はさぞ面白そうに口を開けて笑った。それに驚いた鈴鈴が携帯から目を離して梁を見やる。二言、三言会話を挟んでまた、携帯の画面へ向き直る。
          
    「いいか、肖飛龍。これから数年もしないうちに、アンタみたいな人間はもっと増える。欧米人の顔をした日本人も、イギリス人の両親を持った韓国生まれのフィリピン育ちだってきっと増える。環境さえそうなってりゃな」
    「……」
    「国籍だの名前だの、文化だのなんてもんは単なる形式に過ぎなくなる。人間は今よりずっとミックスされて、『違う』という共通点で結ばれていく。根っこの部分はどいつもこいつもみんな独りぼっちで、独りぼっちの集団を作っていくんだよ」
    「……独りぼっちの、集団」
    「アンタは時代を先取りしてんだ、良かったじゃねえか。今のうちに精々楽しめよ。そのうち、唯一性だらけで特別も特別じゃなくなる……」
     
     どこか遠くを見つめながらそう言って、梁はまたタバコに火をつけた。彼の自論はいまいち要領を得ずに飛龍の頭を混乱させた。しかし、ただ一つ、『精々楽しめ』という言葉だけが彼の心の中にすっと落ち着いた。
     
     面白くならない事なんて何一つない。馬鹿騒ぎも、孤独も、絶望も。結局は気の持ちよう次第。そう続けた梁は目を細めた。
     
    「俺サ、実は国籍無いんだァ。羨ましいだろ」

      

     
     
     ――上海浦東空港、第2ターミナル。あっという間に予定していた1週間が過ぎ、来た時と同じ様に大きなリュックを背負って立つ。一つだけ変わったのは、それを見送る人物がいた事だった。

    「よお。達者でやれよ」
    「アンタもな」
    「次来る時は勉強しとけよ、中国語!」
    「どうかなあ」
     
     とぼけた様に返すと、梁は殴るようなそぶりをしておどけた。

    「喋れねー奴は雇っちゃやんねーぞ」
    「わかったよ、やるよ。挨拶くらいは」
    「馬鹿」
     
     予約していたホテルの部屋は結局キャンセルし、飛龍はこの1週間を梁のもとで過ごした。彼は不思議な男だった。良いことも悪いことも全て面白がるかのように口元の笑みは絶えない。ベロベロに酔った客がふざけて店の備品を派手に壊した時ですら、梁は腹を抱えて大笑いしていた。どうして怒らないのかと問えば、彼はあっけらかんとした様子で「なんで?別によくね?ウケるし」と言い放った。
     よっぽど心が広いのか、それとも何も考えていないだけなのか。ただ、薄ら笑みを浮かべる彼の目に一種の諦念が窺えたような気がするのも確かだった。
     国籍が無いと言っていた。梁の半生に一体どんな困難があったのか。それを聞く勇気はなかった。――少なくとも今は、その時ではないだろう。
     
     宿代の代わりに店の手伝いをしていた飛龍に、梁は高校を卒業したらこちらに来ないかと提案した。将来進むべき道を決めあぐねていた彼にとって、それは願っても無い幸運だった。進路が定まるだけではない。飛龍にとって、ここは今までに無いほど居心地の良い場所だった。
     街の片隅にひっそりと位置したこの店は、決して多くはないものの人が絶えない。誰かが帰ったかと思えば誰かがふらっと訪れ、梁と世間話をしながら水煙草をふかしてくつろぐ。怠惰な空間であると同時に、そこの客たちはみなどこかしら奇人変人であった。要するに飽きないのだ。
     ヤク中の女も、ゲーマー気質でやたらブツブツとものを話す男も、見てくれは普通なのに「俺の前世は大魔王だった」と突然言い張り出す男も、明らかに表の人間じゃ無さそうな男女も。戸惑う事は多かったが、何だか自分が中和されていく様な、ここにいても良いような、普通や常識という概念が壊されていく様な、そんな感じがした。
     
     己の人生を勝手気ままに生きる人々を見るうちに、自分の悩みがいかにどうでも良い事なのかようやく自覚し始めた。ある種、うまく諦めがついたと言ったところだろうか。
     これから一生、自分が抱えた違和感が拭えることは無いかもしれない。疎外感も、躊躇いも、ふと襲うネガティブな思考も、きっと今さらどうにかなるものではない。自分は時間をかけすぎたのだ。その溝を埋めるには今までの何倍も時間が要るだろう。
     ならば、全て無かった事にしてしまえば良いのだ。抱え込んで面白がるほどの度量はまだ無い。ただ、無理に答えを見つけて立ち直る必要だってない。付き合いきれないものは全て追いやって、放棄して、代わりに好きなものだけを詰め込んでしまえたらいい。
     
    「留年すんなよぉ」
    「はは、しねーよ」
     
     へらへらと笑いながらスマートフォンの時計を確認する。もうそろそろ行かなければ。ズレたリュックを背負い直して、飛龍は右手を振った。
     
    「谢了 梁!」
    「嗯、再见 飞龙」
     
     次にこの地を踏むのは半年後。それが早く来てほしいような、少しだけ待っていてほしいような、不思議な心地がした。明日の自分は、半年後の自分は、数年後の自分は、一体どうなっているのだろう。どんな自分になっているのだろう。何者になっているのだろう。……なんだっていいか。分からないことが楽しいと思えるのも初めてだ。全ては気の持ちよう。精々楽しめば良いのだ。
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