半径二メートル [とわみら]「お、瀬文! おはよ! 朝飯だけどさ、今日は、」
「未來くん、ちかい」
「あー……うん、そうだったな! わりぃわりぃ! でも同じ部屋で暮らしてて三メートルはさすがに厳しいから簡便な!」
「……じゃあ、二メートル?」
「二メートルも難しいけどなあ。……まあ、それよりほら、食うぞ!」
「うん。おはよう、未來くん」
「おう!」
半径三メートル以内に近づかないで、と突然永久に言われてしまってから一週間ほどが経った。いきなりなんだと憤って怒鳴ったのは最初だけで、永久のまっすぐな瞳に未來は頷くほかなかった。けれどもちろん、納得出来ているわけではない。近くに寄りさえしなければ他は何も変わらないから応じているだけだ。そのうち元に戻るだろうし、なにより互いの人生を絡めるように手を伸ばし合って、今は同じ夢を見ている。それは確かだから。
「瀬文は今日はなんか用事あんのか?」
「うん。ちょっと出かけてくる」
「そうなのか? 珍しいじゃん! てかひとりで大丈夫なのか? 俺も一緒に行こうか?」
「だいじょうぶ。それに、ひとりじゃないんだ」
「へ……そう、なんだ。誰と行くんだ?」
「小宮山くん。ほしいものがあるって話したら、いっしょに行ってくれるって」
「小宮山かあ! アイツ何だかんだで面倒見いいよなあ。ん、楽しんで来いよ!」
「うん」
頬張っていたご飯が何故か喉につかえる。それをどうにか飲みこみながら未來は永久に親指を立てて笑ってみせた。
色んな世界を知ったほうがいい、永久に伝えた言葉が未來の胸を掠める。願った道を歩き出したバディの姿は喜ばしい、そうだ、そうに決まっている。再確認するようにひとり大きく頷くと永久が不思議そうに首を傾げたが、未來は「なんでもねーよ!」と笑った。
✩
見通しが甘かったな、と未來が深くため息をついたのはそれからもう二週間も経った週末だ。永久は相変わらずの様子で、うっかり近づこうものなら律儀に「ちかい」と非難してくるし、何かと理由をつけて部屋を空けることも増えてきた。
今日だって夕飯の時間ギリギリに戻ってきて、食べ終えたと思えばそそくさと風呂を済ませ、すぐに自室に引っ込んでしまった。その扉の前で未來は右に左にとウロウロし、ノックしようか迷っている。意を決して持ち上げた手は、けれどノックすることは叶わずだらりと垂れる。それをもう何度かくり返した。
もしかして、もしかしなくても、永久に避けられているのではないか。ぽっかり空いた胸の穴を未來はもう認めざるを得ない。同じ空間にいる、間違いなく誰より一緒にいるのに、いやだからこそこんなのは淋しい。そもそも友だちなのだから無闇に近づく必要はなくて、一般的には適切な距離であったとしても、だ。
「せ、瀬文! 入るぞー!」
もうどうにでもなれ。半ばやけっぱちな気持ちでノックと同時に扉を開ける。鍵がかけられていなかったのは幸いだ。ふたりきりの部屋で一歩踏み出せば、少し焦ったような永久がいつものように「未來くん、二メートル」と制す。そう言われる度に心の端っこを少しずつ、チリチリと焼いてすり減らすような心地を味わってきた。
「っ、なあ、それさ、いつまで?」
「え?」
「その二メートルってやつ。瀬文が言うから気をつけてたつもりだけどさ、もう正直、キツいって言うか」
「…………」
「俺、何かしたかなあ」
言葉にしたことで、ああ思っていた以上に随分と堪えていたのだと未來は気づく。うっかりすれば泣いてしまいそうだ。バディとしてだけじゃなくて、友だちとして、一対一の人間としても仲良くなれたと思っていたから。
なあ瀬文、お前は違った?
鼻をズ、と静かに啜ると、それが聞こえてしまったらしい永久が慌てたように立ち上がった。腰かけていたチェアがフローリングの上を滑って、デスクにぶつかる音が鈍く響く。永久は未來の目の前までやって来て、オロオロしながら顔を覗いてくる。
「未來くん、ないてるの?」
「っ、泣いてなんかねえよ! 泣いてねえ! けど、見んな……」
こんな情けない顔、見せてたまるか。いや泣いてない、泣いてなんかないけどと言い訳をしながら、未來は腕を突きだして永久の胸をトン、と打った。久しぶりに触れた体温はからだに沁みこんできて、ああ本当に淋しかったなと遠ざけられた日々を噛みしめるくらいには、近くにいることは大切だったのだと気づく。
「未來くん、ごめんなさい……俺、未來くんのこときずつけた、んだよね」
「……本当に分かってんのかよ」
「どうかな、未來くんがはじめての友だちだから。ちゃんと分かってるか、分かんないかも」
「はは、なんだそれ」
「でも、未來くんかなしそうだから。俺がわるいのは分かるよ。だから、ごめんなさい」
「…………」
例えばホラー映画だとかそんなものすら知らずに二十歳になった永久は、体や年齢は大人でもまだどこか幼い子どものようだ。誤解を恐れず言ってしまえば、世間知らず。そんな永久が他人の感情を理解するのはまだまだ難しいのかもしれない。だってそれは未來だって、自身の気持ちすらちゃんと掬い上げるのは難しい。痛いと鳴いて淋しいと音を上げても、じゃあそれが何故かなんて、きちんとした名前を付けられそうになくてもどかしい。地元の仲間たちとの間にこんな切ない想いはしたことがなかったから。
「ゆるしてくれる?」
「…………」
「未來くん」
「……理由は? 二メートルの理由。それ教えてくれたら、許す」
だからこの辺で理由だけでも聞ければ「そんなこともあるよな!」と許して、これから色々なことを一緒に知っていこうとまた絆を深められる、と未來は思っていた。瀬文がもう少し強くなるまで保護者代わり――その決心を思い返せば子離れの過程の、例えば反抗期みたいなものだっただろうか。それこそ永久自身にも言葉にできなくて、なんとなく、なんて言われることを想像しながらの問いだった、のだけれど。
永久の思いがけない言葉に、不格好な音色を心臓が奏でるなんて。未來は想像もしていなかった。
「……未來くんといると、なんだかどきどきしちゃって」
「……へ?」
「近づかれるともっとで、くるしくなるから。胸のとこ、ぎゅうってなるし。ちょっとお腹もいたい気がする」
「…………」
「今もすごいよ。すごく、どきどきしてます。だから、二メートル」
「ドキドキって、お前……」
ひくっと跳ねた心臓がうっかりそのまま飛び出してくるのではないかと未來は本気で思った。ドキドキなんてワード、緊張する場面だとか、恋心、だとか。その程度の可能性しか混乱している未來の頭には浮かんでこない。ふたりのあいだに緊張は今更ないだろう、じゃあ、なんだ。恋心はまさかで、けれど自分自身の名前の付かない感情を振り返れば大変なことに気づいてしまいそうで、未來はふるふると首を横に振る。
「あー、あれか! あれだな! なんかそういう、夢でも見たんだな!? お前のわんわんクッキー狙ってるクマと一緒に俺も出てきたとか! それは悪かった! いや俺は何もしてねえけどさ!」
「そんな夢みてない」
「あ、あー、そう……じゃあ、なんなんだろうなー!」
「宝田くんが、それはだいじな気持ちだよって」
「へ、宝田?」
「うん。どうかしたのって聞いてくれて。俺もこのままはいやだったから、相談した。そしたら言われた。でもちゃんとはおしえてくれなかった。自分で気づいたほうがいいからって」
「…………」
永久はそう言って、大きな背中を丸めて未來にグッと顔を近づけた。ドキドキしてるんじゃなかったのかよ。そう叫びたくなるくらいまっすぐな瞳が逸らされることなく未來を捉えている。どこまでも澄んだ無垢な瞳になにもかも見透かされてしまいそうで、耐えられなくなった未來はおずおずと床へ視線を逃がした。
苦しくて、胸のとこがぎゅうってして、ドキドキする。そんなの――俺もじゃん。
すぐそばにある永久の体温にあぶられたかのように、頬がじわじわと熱まで持ち始める。伝染したかのようなその感情をどうしたらいいかと混乱していると、あのね、と永久がつぶやいた。
「ずっと考えてたけどわかんなくて。だいじって言われたのに。未來くんはわかる? なんでこんなくるしいの?」
「っ、わ、っかんねぇよ、俺にも」
「ほんとに?」
「ほ、本当だ」
「そっか。じゃあ、未來くんはなんで顔あかいの?」
「は、はぁ!? 赤くねえし!」
「うそつき。赤いもん。あ、もっと赤くなった。ねえ、なんで」
「だーっ! うるせえうるせえ! 俺だって分かんねぇよお!」
「分かんないの? じぶんのことなのに」
「……それお前にだけは言われたくねえなあ?」
ああもう、何がなんだか。ドキドキしたのもただの気の迷いだったのかもしれない。ギャーギャーと言い合っていると――騒いでいるのは自分だけだが――繊細な感情も霧散するような気配がして、未來は正直ほっとした。そうだ、瀬文相手にまるで恋のような心音を上げるはずがない。とりあえず見えた解決をきちんと再確認して、明日からは元通りの俺たちになろう。そう思ったから永久の黒髪に手を伸ばして、くしゃくしゃと撫でた。
「ま、理由も聞けたし満足したわ。二メートルも終わりってことでいいよな」
「うん、おわりにする」
「おう! ……って、お、おいおい瀬文! どうした!?」
髪を撫でたのは、愛らしい犬にそうするような感覚だった。辛い数週間だったけれど、これもステップになってきっと今までよりもっと仲良くなれる。そう思って触れた手に永久の手が重なったかと思えば、気づいた時にはその大きなからだにすっぽりとくるまれていた。
抱きしめられている、と理解するのに数秒かかった。
「おわりにするけど、まだドキドキするよ」
「っ、は!?」
「するけど、いやなドキドキじゃない、ってわかった。から、二メートルおわり」
「お、おう。それはよかった、のか? ……で? なんっで俺はハグされてんだ!?」
「んー……もっとこのドキドキほしいなっておもったら、つい」
「ついって、お前なあ……」
「ちゃんともっとドキドキできてるから、だいじょうぶ」
「……~っ! なんも大丈夫じゃねえな!?」
「そうかな。俺うれしいよ」
「いやいやおかしいだろ……」
この腕を離してほしい、俺の心臓が暴れ狂って仕方がないから。そうは思っても言うわけにもいかなくて、永久の縋るような抱きしめ方が振り払うこともさせてはくれなくて。満足してくれるまでこのままでいるしかないか、と諦めながら、未來は永久の背に手を回してぽんぽんとやさしく撫でる。
「さみしかった」
「それお前のせいなあ」
「許してくれて、ありがとう」
「ん、どういたしまして」
「きょうはいっしょに寝たい」
「おう。……ん? 今何つった?」
とんでもないことを言われた気がするのに、安心感や体温のあたたかさに絆されて生返事をしてしまった。今のはなしだ! と慌てて否定してみても、永久の拗ねたみたいな顔と声色に未來はめっぽう弱かった。分かった、わかったからと宥めれば、ベッドにずるずると引きずり込まれて。抱き枕よろしく嬉しそうに抱きしめられてしまえば、未來はやっぱり振りほどくなど出来るはずもなく。
「二メートルまではいかなくても、お触り禁止はありかもなあ……」
「なんにも聞こえない」
「聞こえてんじゃん」
「いままた心臓痛くなった。未來くんのせいだよ」
「はぁ……」
そのセリフは今この状態の俺からそっくりそのまま返してやりたい、と未來はそう思う。
お前の腕の中で俺がどんな想いをしてると思う? 答えは自分でだって見つからない、いや、知らないふりをしていたいけれど、永久が言うように嫌なわけではない逸る鼓動に今は揺蕩っていたい。そんな自分に驚いて、今日はなんだか疲れたからと言い訳をして、一日くらいいいかと瞳を閉じる。
「瀬文、おやすみ」
「おやすみ、未來くん」
明日も早起きして朝ご飯を作るから、久しぶりに隣同士でいただきますをしよう。お前の未来と、永遠に近づいた俺の夢で、煌めく世界。鼓動の正体はその先で、いつか答え合わせをしようか。