読書 サイドテーブルを挟み緩く向かい合うように置かれた1人がけのソファで、クリーデンスとグリンデルバルドはそれぞれ本を読んでいた。日が落ちてから随分経ち分厚いカーテンの下ろされた部屋では照明も本を読むのに最低限の明かるさに絞られていた。その部屋には2人のページを捲る音だけが静かに響いている。
クリーデンスが本を読むようになったのはつい最近、グリンデルバルドについてきてからのことだった。最低限の読み書きは義母に教えられていたが、本を読む時間の余裕も、精神的な余裕も、少し前のクリーデンスには与えられていなかった。
義母の元でクリーデンスが読んだ文字と言えば自分が配る救世軍のチラシ、路地に貼られた広告や落書き、次々と立つ店の看板くらいのもので、文章と呼べるようなものとは縁がなかった。お陰でクリーデンスにはまだ子供向けの童話ですら読むのはなかなかに骨が折れる。時には辞書にあたり、進んだかと思えばまた後に戻ることも少なくないせいでページはなかなか減らない。しかしクリーデンスはそれを煩わしいとは思わなかった。今までの生活とも今の生活とも異なる世界、新しい知識に触れる事はなかなかに心が惹かれる。クリーデンスにとっては未だにはっきりとしない感覚だがこれが楽しいということなのかもしれないと、ぼんやりとだが思えた。それに今日のように隣で本を読むグリンデルバルドのページを捲るスピードは、自分のものとは異なり一定で、その微かに聞こえてくる紙のすれる音が刻むリズムがクリーデンスには酷く好ましかった。
静かな室内では小さな舌打ちもやけに大きく響く。前触れも無く響いたあまり大きいとはいえない音だったが、それを聞き逃さなかったクリーデンスは読んでいた本から視線をあげた。ページを捲る音が止んだ部屋はまるで時間が止まったかと思わせるほどに静かだ。
部屋、というよりこの家にはクリーデンスとグリンデルバルドしかいない。クリーデンスが視線を向ける先は自然と決まってくる。
ちらりと視線を左に移せば、同じように本を読んでいたはずのグリンデルバルドが彼の人差し指を眺めていた。本を捲る音の無くなった部屋は酷く静かでクリーデンスを落ち着かない気持ちにさせ、黙って彼を覗き見る事に微かな罪悪感を抱かせる。それに、おそらく彼には自分が本を読むことを止め彼を見ていることに気づかれているだろうとも思わせた。
実際クリーデンスにはいくら自分が本を読む速さがゆっくりだとしても少し沈黙が長すぎるように感じた。その沈黙のもたらす言いようの無い居心地の悪さからクリーデンスは何か彼に声をかけてしまおうかとも考えた。しかし舌打ちが聞こえた後であることが口を重くさせ、何か声をかけようかと開きかけた口は、結局閉ざしたままでいた。そのままクリーデンスはグリンデルバルドと同じように彼の人差し指を眺めている。その間グリンデルバルドはまるで舌打ちなどしなかったかのように無表情で指を眺め、クリーデンスには一瞥もくれなかった。
2人がそうしている時間は随分長い間のようにもほんの一瞬のようにも感じられたが、時計の秒針の音すら響かない部屋では時間の経過を気にするだけ無駄だろう。しかしおそらく実際にはほんの少しの間、2人はそうしていたがこの不思議な沈黙が唐突に始まったように終わりも唐突に訪れる。
ぷくり、とグリンデルバルドの人差し指に血が滲みあっという間に真っ赤な珠が盛り上
がる。グリンデルバルドは少し眉をしかめ、どこか驚いたような顔をするだけだったが、クリーデンスはそういう訳にもいかなかった。
「あっ」
思わず零れた声は決して大きなものではなかったが沈黙を破るには充分過ぎる大きさだった。クリーデンスはきまりが悪く、開いてしまった自分の口を恨めしく思った。
「久しぶりに指を切ってしまった。おもったよりも深かったようだ」
当然、グリンデルバルドの耳にクリーデンスの声が届かなかった訳もなく、彼の声と視線は指先ではなくクリーデンスの方を向いていた。一方クリーデンスの視線は直前まで指先を見ていた時の熱心さなど嘘のようにそこらを彷徨っている。しばらくうろうろとさせた後こちらを向いているだろう彼と目を合わせることは出来そうに無かったため、再び彼の指に視線をなげた。すると先程よりも指先の珠は大きくなっている。
「あの、血が……」
「ああ、結構出るな」
クリーデンスを見ていた視線をまた指先に戻し、まあ舐めておけば何とかなるだろうと呟きながらグリンデルバルドは指を口元に運ぶ。
クリーデンスは真っ赤な珠が彼の内にまた戻って行ってしまのは酷く惜しい気がしていた。
グリンデルバルドの白い指から零れ落ちそうなほどに膨れた赤は酷く美しうえに、毎晩彼の腕の中で感じる鼓動を思い出させる。彼に流れる血は自分と同じ様に赤いのだ。そのなんてことはない当然の事実を前にクリーデンスは何故か急にそれが酷く恋しくなり、是非それを口に含み飲み下したいと思った。しかし今クリーデンスが渇きを潤すために飲めるものなど、自分の唾液以外にはない。
クリーデンスはあまり眺めるのは良くないと思いながらも未練がましくグリンデルバルドが口を薄く開き指を口に含む姿を眺めていた。彼に飲み込まれるだろう赤を追って次第に目線は彼の喉仏へと動いていく。その目線の先でグリンデルバルドの喉仏が動くのをみたクリーデンスは条件反射で自分も唾を飲み込んでいた。
その瞬間仄かな甘さを感じた気がして少し目を見開いたが、その甘さも後にすぐ追ってきた後ろめたさと苦々しさに押しやられてしまった。 苦さは後をひき、クリーデンスはグリンデルバルドから目を離して膝の上にいつの間にか閉じられていた本に視線を落とした。
グリンデルバルドはそんなクリーデンスをじっと見ていたが、クリーデンスがそのことに気づき顔をあげる前に口を開いた。
「血は止まったよ」
「…よかったです」
「まったく、指先の傷は見かけよりも痛むから嫌なんだ」
「それなら魔法で治せばあっという間では…」
「後はもう寝るだけだ。血が止まったのならそこまでする必要は無いだろう。下手をすれば朝にはもう忘れているさ」
グリンデルバルドはどことなく楽しげに話している。しかしクリーデンスはそんな彼を見ながらぼんやりと、何時になっても、彼の指から傷が消えたとしても、自分はさっきの事を忘れられはしないだろうと思えた。
「本を読む気も削がれてしまった。俺は先にベッドに行くがクリーデンスはどうする」
「僕も…、水を飲んだら行きます」
杖も振らずに本をソファの後ろの棚に戻しながら尋ねるグリンデルバルドに答えれば、クリーデンスの本もするすると元の位置へと戻っていった。あるべき場所に以前と変わりなく収まる本をみて言いようの無い居心地の悪さを覚えたクリーデンスはグリンデルバルドに礼を告げ、そそくさと部屋を出た。
クリーデンスは少し前まで感じていた喉の渇きはどこかへ消えてしまったことは気づいていた。それでも喉の奥に纒わり付くような苦さや忘れられない甘さを一刻も早く押し流してしまいたかった。
そして自分も、仕舞われた本のようにいつも通り何事も無かったかのように彼の腕の中に収まりたかった。そのまま眠りについてこの数時間のうちに何度も感じた居心地の悪さから逃れてしまいたかった。