ストロベリーピーチ 1(カーズ擬人化)1 昔、まだ僕がスピードレースアカデミーに通っていた頃。
レーサーになりたいという夢を抱いている者ばかりが集まる学校で、僕らはみんな一生懸命レースに関する勉強をしていた。
ルールやテクニック、マシンの構造、空気抵抗。もちろん実際にコースで走ってタイムや最高速度も競う。
毎日、憧れのレーサーになるために時間を費やし、新しいことを覚えるのは楽しくて幸せなことだった。
だけど、お金が無かった。
当然だけど学校に在籍しているのはレーサーのたまごだ。試験で良い成績を出してスポンサーにアピールする立場。アカデミーのコースを走ったってお金は貰えない。
レースについて学んでいるのは、みんなお金持ちの家の子たち。
レースはお金が掛かる。マシンの購入、修繕や維持、性能向上のためのカスタム。レーシングスーツやヘルメットだって自腹だ。
走るのが好きで、そこいらの子達よりも速く走れる能力がある僕もレーサーに憧れてアカデミーに入った。
正直、家は裕福じゃない。財布はいつだって空っぽ、僕の経済は火の車だった。だけどレース関連の費用は出来るだけ削りたくない。使えるお金のなかで一生懸命やり繰りをして捻出する。
手っ取り早く切り詰められるところといったら、食費。
あの頃、情けない話だけど僕はいつもお腹を空かせていた。
2 スピードレースアカデミーに在籍するレーサーのたまごのなかには少ないけど女の子も居た。
当然、裕福な家庭のお嬢さん達だった。彼女らは自分を飾ることにも余念がない。女性レーサーは元々人数が少ないからデビューすれば注目されることは間違いないが、華やかさを兼ね備えていて損は無いもの。
ある日、座学のための講堂に入ると甘い香りが漂ってきた。すごく瑞々しくて、とても美味しそうな……。何の香りか分からなかったけど、少ない女の子たちが集まって何事か楽しそうに話している。
「やあ、おはよう」
「おはよう。マックィーン」
いつものように挨拶しながら輪を覗くと、机の上で何かがキラリと輝きを放った。
「それ何だい?」
「香水よ」
聞けば、昨晩はお気に入りのブランドのレセプション・パーティだったと言う。関係者や招待されたお得意様だけが出席できるのだそうで、僕には全く無縁な世界の話だった。
「招待客へのお土産よ。来月発売の新作ですって。」
「すごく良い香りだね」
「でしょ。だけど私には甘過ぎて似合わないの」
彼女は僕の手を取り、手首の内側へシュッと吹きつけてくれた。その手首を耳の後ろあたりへ押し付けると、甘い香りに包まれて思わずうっとりしてしまう。
「そうだ、あなたにあげるわよ」
その場には他にも女の子が居たのに、彼女は僕に香水をくれるという。専用の箱に香水瓶を仕舞い、小さくて上等そうな紙袋へ入れて手渡してくれた。
「僕に?そんな貰えないよ。高価なものなんだろ」
「どうせ持っていても使わないし、この香りはマックィーンのほうがよく似合う」
他の子たちも「そうね」と納得したようにうなずいた。
「それにあなたはもう少し自分のことを構うべきよ。これをつけてオシャレしたら」
「ありがとう…」
オシャレどころか、レースのためにお金を貯めておかないといけないから髪もこまめにカットできないくらいなのに香水だけ高価なブランドものをつけていたら滑稽じゃないか?なんて思いもしたけれど、素直に嬉しかった。
なにせ、うっとりしてしまうくらい好きな香りだったから。
下宿に帰って香水瓶はパッケージの箱や紙袋と一緒にチェストの上へ飾った。
丸みを帯びて透き通った赤いボトルはどこから見てもレディース用で、僕の貧相な下宿部屋では異端な存在に見えて苦笑いした。
「ストロベリーピーチ…」
紙袋に入っていたリーフレットには、そう書いてある。時間経過とともに、どんなふうに香りが変化してゆくかや、香料にはどんな原料を使っているか。原料となる果実はどんな農園で作られているかまで細かく説明が載っていた。
瑞々しく、甘く、けれど透明感のあるその香りは僕と相性が良かったのかも知れない。
これをくれた女の子たちが言っていた『僕に似合う』の意味は自分ではよく分からないけれど、僕の気持ちを落ち着けてくれる。
座学の小テストで成績が振るわなかったとき、サーキットで思うような走りが出来なかった時…。
食費を切り詰めてお腹がぺこぺこに減っている時だって、この香りを嗅げば気が紛れた。
僕にとってはオシャレなデザートみたいなものだった。
3 それほど大好きで気に入っていた香水だけど、お別れする日がくるなんて夢にも思っていなかった。
スピードレースアカデミーを卒業した僕は一旦、アマチュアのレースチームに籍を置き、その後にエージェントのハーヴや、今も僕の輸送を担当してくれているマックと出会い、念願叶ってピストンカップに出られるようになった。
学校は、自分で言うのもなんだけど、とても優秀な成績で卒業した。アマチュアのレースチームにいた頃も、持ち前の速さでみんなを驚かせた。
だけど……。
「出るだけじゃダメなんだ…勝たないと」
当時の僕の口癖はネガティブだった。
ピストンカップに出ることは出来たが、スポンサーはラスティーズじゃなかった。業績低調の小さな会社で、輸送車もボロボロ。輸送担当のスナイダーはポンコツだった。
レース会場に余裕をもって到着出来たことなんて、たったの一度もなかった。
「おい、スナイダー!なんで僕らは誰もいないテキサスのレース会場へ来てるんだ!?」
「だってここがレース会場だろ?」
「違うよ!レースはアリゾナだってあんなに何度も言ったじゃないか!!」
そんなやり取りは日常茶飯事。
レース会場までの道案内を僕がやらないとスナイダーは迷子になる。連日の練習やレースの疲れでうっかりうたた寝でもしようものなら、確実に行き先を間違えてくれた。
ボロボロの輸送車はとにかく揺れたし、エンジンだって調子が悪いし、タイヤがパンクしてしまうことも度々あった。
他のチームや、レーサー達が余裕を持って会場に到着して、休息を取ったり、練習をしてるというのに僕は道案内して、エンジントラブルやパンクの修理手配をして、寝不足になりながらギリギリに到着する。
レースには出ていたが全然勝てなかった。勢いよくスタートして、最後のほうにゴール。それがお決まりのスタイルになってしまって、学校は好成績で卒業したのに少しも良い結果が出せず、僕の評判はガタ落ちだった。
「こんなはずじゃなかったのに…」
レースが終わって会場を出発した後、少し走って寂れた田舎の幹線道路脇に差し掛かったなら、輸送車を停めてしばらく休む。
なにせ、スポンサーは業績低調だからモーテルに泊まることさえ出来ない。こうして車中泊を繰り返すのはもう慣れていた。
輸送車の外へ出て、星空を見上げながらあれこれ考え事をするのも恒例になっていた。
その日は、久しぶりにバッグに入れてあった僕の宝物…例のストロベリーピーチの香水瓶を手にしていた。
実は、ピストンカップに出るようになってからは、その香水は封印していた。残りが少なくなっていたから。
だけど、今夜は負け続きで気分が滅入っていた。せめて好きな香りを纏って、少しでも気分をすっきりさせたかった。
だけど、予想外のアクシデントが起きる。
「ライトニング!何か良い匂いがしないか、美味そうな甘い匂いだ!」
「そ、そうかい?!僕は特に何も感じないけど…」
真夜中の道端で決して自然に発生する訳がない香水の香りを嗅ぎつけたスナイダーが輸送車の運転席から飛び出してきた。
僕は慌てて手にしていた香水瓶を背中のほうへ隠してバッグへ仕舞おうとしたけれど、こんな時に限ってスナイダーは素早かった。
「それだ!お前が持ってるその瓶から美味そうな匂いがしてる!ジュースか?自分だけなんてずるいぞ」
「違う!ジュースじゃないよ、これは大事なもので…やめて!」
「違うっていうなら見せてくれよ、こんなに甘い匂い変だと思ったんだ」
「やめろったら!返せ、スナイダー!!」
「見るだけなんだからいいだろ」
小さな瓶を暗がりで奪い合う。
当然、乱暴に扱われた香水瓶は二人の手から滑り出して、宙を舞った。
パリンと、とても軽やかな音がして、アスファルトに黒く染みが広がる。そこからとっても甘い香りがふわりと立ち上った。
「……」
「…ごめん。でもお前が見せてくれないから…」
「いいんだ。もういい」
「ライトニング…」
「今日は特別疲れたから、向こうで一人で休むよ。夜が明けたら出発しよう」
スナイダーの返事を聞かず、僕は少し離れた所に生えている木のそばまで行って腰を下ろした。
ひどい喪失感だった。よく悲しい時に胸が締め付けられるというけれど、本当にそうなんだ。
きりきりと痛むような、息が苦しいような感じがした。
結局、その晩は眠れないまま夜が明け、輸送車で出発する前に割れた香水瓶を見に行くと、朝日を浴びてキラキラと光っていた。
もう染みは乾いていたけれど、ほのかに僕が好きだった香りが漂っているような気がした。
だけど、割れたボトルも蒸発した香水も元には戻らない。
それっきり、呆気なく香水とはお別れした。
4
「その少し後で、今の輸送担当のマックと出会ってラスティーズに移籍。そこから僕の快進撃が始まったのさ」
すっかり冷めた紅茶を飲み、カップを戻す。
黙って聞いてくれていたドックも紅茶を飲み、それから椅子の背もたれへ深く身体を預けた。
「初めてお前が此処へ来た時にはとんでもない世間知らずの坊やがやってきたと思ったが、それなりに苦労をしているじゃないか」
「うん、まぁそうなるのかな」
「今ならその香水を買うことも出来るだろう、売れっ子レーサーなんだから。限定品といっても探せばデッドストック品があるんじゃないのか?」
お茶を淹れなおそうと言い、キッチンへ立ったドックはティーポットの中に残った茶葉を捨て、シンクで濯(すす)いだ。
僕も手伝おうとケトルに水を注ぎ、ガスコンロに乗せて火をつける。
「探そうにも、なんて香水だったか分からないんだ」
「なぜ?パッケージ類があるだろう」
「それがさ、箱や紙袋、リーフレットもすべて捨ててしまったんだ」
「そんなに大切にしていたのにか?」
新しい紅茶の葉っぱをティースプーンで計っていたドックが怪訝そうに僕を見る。
「香水のことを思い出すとスナイダーに酷く当たってしまいそうな気がして、未練を断とうと思って……」
香水瓶が割れてしまったあの日、次のレース会場へ向かって出発したあとも、その先もずっと、僕もスナイダーも香水の話は二度としなかった。
もしスナイダーがその話をしようとしたら僕はきっと遮って止めただろうし、それ以前にきっと怖い顔をして話させまいとしていたんだろう。
「スナイダーだって悪気があった訳じゃないって今なら分かる。予算が無いなかで、彼なりに一生懸命やっていたのに僕ときたら…」
なんだか気まずくて別れの挨拶どころか、ラスティーズへ移籍することもスナイダーにはろくに話さなかったな。
「こんなふうに考えられるようになったのも、このラジエータースプリングスでみんなと出会ったからだね。此処へ迷い込むことがなければ僕は以前と変わらずに嫌な奴だったに違いないや」
こんこんとお湯が沸き始めた銀色のケトルは使い込まれていて、僕の姿がぼんやりと写っている。
「そうでもないさ」
すっかりお湯が沸騰し、ケトルの注ぎ口からシューシューと蒸気が勢いよく吹き出す。僕が火を止めるとドックは手にキッチンミトンを嵌めてケトルを持ち上げ、ティーポットやカップへ静かにお湯を注いだ。
「その何とかっていう以前の輸送担当者をそれ以上、傷つけたくなくて香水のことを忘れようとしたんだろう。お前は十分、優しい奴さ。元々そういう性格だったからこそ、このラジエータースプリングスの皆とも馴染めたんだ」
「急にそんなこと言われると、くすぐったいな」
「確かに生意気で世間知らずではあったがな」
そう言ったドックは温めたティーカップへお茶を注いでいて僕のほうを見なかったけど、声は優しく笑っていた。
「そういえば冷蔵庫にストロベリージャムがある。紅茶に入れてみるか?ロシアンティーというんだ」
「そんな飲み方があるの?やってみようよ」
あの香水ほどじゃないけれど、ほのかに甘い香りがティーカップから立ちのぼる。
「ドック、ありがとう」
「特別なことじゃない」
「うん。でも、ありがとう」
ジャムを入れてもまだ温かな紅茶を飲むと胸のあたりがぽかぽかとあたたかくなった。
5
さて、この話にはまだ続きがある。
それから二週間ほど経ったある日、ラジエータースプリングスの天然のダートコースでドリフトの練習をしようとドックを誘いに行った。
実はこの前日までドックは留守にしていた。
ラジエータースプリングス唯一の開業医の彼からは診察に使う道具を買い替えるため、二泊三日の買出し旅行に出掛けると聞いていた。
塗装屋のラモーンも仕事に使う道具を買い足すと言って同行し、彼らが戻ったのは昨日の午後。
町の皆で集まってフローのカフェで食事をして、お土産話を聞いたりして過ごした。
「明日の朝からまた練習を再開するよね。朝食を済ませたら診療所へ行くよ」
「ああ。俺が留守していた間に腕を落としていないだろうな」
「当然、ちゃんと練習していたさ」
そんな会話をしたから、当然すぐに例の天然のダートコースへ出掛けるものだと思っていた。
けれども、いつもなら朝食を済ませたら運転しやすい服装に着替えてスタンバイしているドックが、その日は普段の格好…さっぱりとしたワイシャツにスラックス姿のままで居た。
「どうしたの?もしかして練習なし?」
まさか具合が悪いんじゃ…と落ち着かない僕をよそに、ドックは僕にリビングのソファで待てと言い残して、奥の寝室へと引っ込んでしまった。
どうすることも出来ないで、仕方なくソファへ腰を下ろして待っているとドックはすぐに戻った。
「ほら」
唐突に、たったその一言だけを添えて目の前に小さな紙袋を突き出てきた。
袋は上等そうな厚紙が使われているけれど、無地だから中身は何だか分からない。ただ大人の握り拳よりも少し大きいくらいで、大したものは入りそうにない。例えば、ジュエリーボックスとか香水とか……。
「え、これは…?」
「土産だ。たまたま見つけた」
早く受け取れと言わんばかりに、ぶっきらぼうに突き出した片手で紙袋を押し付けてくるので慌ててそれを受け取る。
「開けてもいい?」
「ああ」
許しをもらうと逸(はや)る気持ちを抑えられず、急いで取り出した小箱は見覚えがある。
「発売されたその年だけの限定品で生産数も少なかったそうだ」
「待って、待ってよ。なぜドックがこれを僕にくれるの」
「土産だと言ったろ。開けてみたらどうだ」
頷いて、被せになっている箱を開けると柔らかに皺が重なる布の上で、あの懐かしい小瓶が静かに艶をまとっていた。
鮮やかな赤い、丸い瓶。中の液体がちいさく揺れる。
「生産から年月が経っているから少し目減りしているかもな」
「ありがとう、ドック…すごく嬉しい。ああ、さっそくつけたいけど勿体ないな」
そっと手に包むようにして箱から取り上げた小瓶は蓋を開けずとも、わずかに甘くて瑞々しい香りを漂わせている。
「今日くらい構わんだろう。どんな香りだ?」
少し腰を屈めるようにしたドックの顔のそばへ小瓶を近付けると、皺のある少しごつごつした手で扇(あお)ぐようにして香りを嗅いで小さく頷いた。
「甘いな」
「そうなんだ。この甘い香りがまるでお洒落なデザートみたいに思えてさ…」
いくら好きな香りだといっても、我ながらよく空腹を誤魔化せていたなぁと笑ってしまった。
「そのストロベリーピーチも悪くはないが、いくら坊やと言っても今のお前には少し甘過ぎるかも知れないな」
そしてドックは背中の後ろへ隠していたもう一方の手を突き出した。
その手は光沢のある赤い小さな紙袋を掴んでいる。
「これもお土産?」
ドックから何かを貰うなんて、くすぐったくて茶化して尋ねてみたけれど少し肩を竦(すく)めただけで、ろくな返答はなかった。
よく見るとドックも耳が赤くなっているから、きっと彼も僕と同じでくすぐったいとか、照れくさく感じているんだろう。
「サンプルだ」
「ずいぶん太っ腹なサンプルだね」
受け取った紙袋には、どう見たってサンプルには見えないサイズの香水瓶が上等な箱に収まっている。
瓶は円柱型のスラリとした背の高いデザインで見るからに大人っぽい。
「気が向いたなら使えばいいんじゃないか」
「うん。…気に入ったよ。珍しくて良い香りだね」
化粧箱に添えられているカードを見るとその香水のノートについて書いてある。
「ベルガモット…」
「紅茶の香り付けにも使われる柑橘だな」
「ああ、どうりで」
嗅いだことのある香りだと思った。
ドックが淹れてくれた紅茶と同じだ。
「ストロベリーピーチと混ぜて使えば、ロシアンティーになるかな?」
「馬鹿言え、あれはアッサムやセイロンを使うんだ」
ため息をついたドックはケトルに水を注ぐ。
「それじゃ、まずはティータイムといこうか」
「オーケー。練習はその後だね」
コンロの前でお湯が沸くのを待つドックの鼻歌が心地よくて、思わず僕も口ずさんだ。