欠けた世界が満ちるまで / ✡️🎀--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
己の記憶が定かではなくなったのは、一体いつからだったというのだろう。
見慣れた平和そのものの城下の風景が、眩くも明らかな欠落を抱えている。この光景が見たかったのだという感慨と、だがそれには彼女がまだ足りないという焦燥がクロービスを視察先とは反対方向の馬車乗り場へと向かわせていた。今の今まで意識することはなかったが、通りは綺麗に道が整えられており記憶よりも走りやすい。それは魔物の襲撃が頻繁にあった以前の世界であれば驚異的だが、現在ではなんの変哲もない極めて普通のことである。なにせこの世界は、最初から魔物の脅威にさらされたことなどなかったのだから。
通常であれば視察を早々に切り上げて、通りかがかりの見回りの衛兵に託すなどまずありえないことだ。これはあとあと赤い同僚に冷やかされることになるだろう、という考えがちらと頭をかすめたが、そんなことはもう気にならなくなっていた。いま優先すべき課題は他にある。
数刻前、いかにも田舎から出てきたような身なりの少女が声をかけてきた。平和な世といえど黒魔道士への偏見は未だ健在である。珍しいものだ、という違和感を変に世間擦れしていないのだろうと片付けて、話を聞いてみればどうにも要領を得ず。ちゃんと眠れているかだとか、休みはとれているのかだとか、初対面にしては随分とこちらを案ずるような問いばかりが並べられる。ただそんな余計な世話だと一蹴したくなりそうな質問にも、不思議と気楽に答える自分がいたのもまた事実だった。そのうち期待と不安が入り混じったような目に見覚えがあるような気がして、どこかで会ったことがあるか、と尋ねれば、人違いだったと逃げるように去っていってしまった。騒々しい娘だ、という感想にどこか既視感を覚えつつ視察に戻ろうとした矢先、落とし物と思しきハンカチを見つけ、手に取る。上品にレースがあしらわれたそれに、そそっかしいのは相変わらずだな、と苦笑したところで、それを選んだ時のありもしない記憶が蘇った。
一つ手がかりが掴めればそれを呼び水として、次から次へと自分ではない自分の記憶が今の自分へと重なっていく。日常の他愛も無い会話。向けられる笑顔。繋いだ手の感触。抱きしめた時の優しい匂い。軽い目眩に額を押さえる頃には、全てが理解できていた。同時に、自分の失態もありありと自覚する。そうして、今すぐに追わなくてはという衝動がクロービスを突き動かしたのだった。
馬車乗り場へ続く曲がり角の遠く先に、とぼとぼと歩く少女の姿が目に入る。人通りが増え、長い旅で三編みの方が馴染みがあるとはいえ、今更間違えるはずもなかった。
「そこの君! 止まりたまえ!」
息を切らした叫びを振り払うように、少女は歩みを早める。すぐにでも雑踏へと紛れてしまいそうなその姿に、人違いであってたまるか、とクロービスは再度声を張り上げた。
「アステル!」
久しくその声で呼ばれなかった名に、少女の足がついに止まる。振り返った瞳には、全てを取り戻した青年が映っていた。