目を、背けてきました。
これまで、何度も。
何度も。何度も。何度も。
失敗を、逸らしてきました。
何度だって、間違えるわけがないと。
そう、自分に言い聞かせてきたんです。
見たくない現実に精一杯蓋をして、気付かないフリをして、他のことに必死に意識を向けて、逃げて、逃げてきました。
言い訳が、得意で。
周囲の人が気にかけてくれる声に、いつだって私は、耳を塞いで。
『土浦さん、無理しないでね。』
−大丈夫です。無理なんて、していません。
『ずっと病まれていたのでしょう?回復の見込みはなかったって。』
−母さんは今日も元気ですよ。いつも私が会いに行くといっぱい喜んでくれて。
『親族の方は他にいないの?そんな歳で一人なんて…』
−入院じゃ、仕方ないですよね…!
『見たことあるわ。確か、有名なピアニストの…』
−父さんは、
『止めてちょうだい。』
酷く、鮮明だ。
色とりどりの鍵盤が特徴的なピアノのおもちゃは、父さんが私の一才の誕生日の時に買ってきてくれたものだ。
まだ幼い頃、母さんの腕の中で満足に動き回ることの出来なかった私にそんなのを送るものだから、母さんは呆れたような声を漏らしていた。まだ幸せな頃の記憶。父さんが買ってこなくなったのはそれから暫くしての事だった。
両親の反対を押し切って、身一つで父さんに着いていく為に海を渡った母さんが、そんな現実を受け入れられるわけがなかった。
自分がそれまで抱えていた夢さえも諦めて、身を焦すような想いで、愛に溺れた母さんが、堪えられるわけがなかったのだ。
それまで暮らしていた家を引き払わなくちゃいけなくなった時、中身のまだ少ない段ボールにそれをこっそり入れようとした所を、母さんに見つかってしまった。
父さんがいなくなってから何かあればすぐに大きな声を上げるようになった母さん。でも暴れずに、ジッとしていればそれ以上は何も起きた事がなかったから。だからあの時の私も、口を噤んで黙っていた。
『止めて、一色。』
『駄目よ。それは持っていかないの。』『持っていきません。』『止めて、』『一色』『そんなもの見せないで』『こっちに渡して』『どうして言うことを聞いてくれないの?』『母さんを困らせないで』『ねぇ、一色いい子だから』『なんでよどうして…どうして言うことをきいてくれないの?』『どうして困らせるの?』『一色?』『一色』『ねぇ、いい子だから。』『母さんの事が嫌いなの?そうなんでしょ?』『あなたもなの』『だから、きっとそうよ、だからよね…』『母さんを困られて楽しい?』『こんなのおかしいじゃない!』『一色』『私がどうして棄てられなくちゃいけなかったの?』『きらい、きらい、嫌いよ、あなたなんて』『愛してるって、言ったじゃない』『何がいけなかったっていうのよ…なにが、何が、』『産まなきゃ、よかった…』
恐らくは、親に言われたら子どもが傷ついて当然の言葉を全部とまではいかずともぶつけられたのだろう。全て覚えてはいやしない。ノイズがかったような記憶では、覚えれいる内容もやはり曖昧だ。
一点。今だから言えるのだが、そんな心無い言葉を実の子どもに投げかけるような母親であったが、ただの一度も手をあげることはなかったのは救いだろう。施設に預けられたばかりの頃は検診で執拗なぐらいに暴行の痕跡がないか診られたものだから。
向けられた言葉はどれも酷かったが、世間一般的にそれ以上に酷い、暴力を一度も振るわれなかったのは、奇跡だろうか。
ただ、それでも…。
予約を入れていた引っ越し業者の人達がいくらインターホンを押しても、家の中からは悲鳴にも似た女性の声が聞こえるばかりで誰も出てこない。普通の人はそれをおかしいと気付いて当然だ。仕事をしに来たのに仕事ができないというのも問題だが、それ以上に事件の可能性を考えたのか。警察にすぐ連絡が入ったのそうだ。
そして三十分と経たずして、近所の交番勤めの駐在さんと、大家さんがやってきた。
大家さんの持っていた合鍵で玄関が開けられ、警官が中に入ってくる。
折角詰めた、片付けた筈の段ボールは乱雑に床に散らばり。食器でも割れたのか、破片が足元に広がっていた。その中心で奇声のような、最早何を言っているかも分からない女性が暴れ狂う。部屋の隅には膝を抱えて小さく蹲る子どもがいれば、それを見た人間が何を思うかなんて分かりきった事だ。
三日三晩施設に引き取られてからは、念の為の検査入院を受けさせられたのだから。
そうして私は、一人になった。
「前置きは別に良いんです。ちょっと気持ちの整理を私は勝手につけたかっただけで。」
小さな物音が響く。見渡す限りの風変わりな骨董品で溢れかえった、元は植物園か何かなのか。高い天井から所々蔦を伸ばしているように見える植物は店主自らが育てているものなのか、あるいは自生したものか。
知るよしはないのだが、物で溢れかえったこの空間は非常に落ち着く。若干埃を被ったような物もあって、几帳面とかけ離れた女主人である彼女ならどこか納得してしまう。
視線を逸らすも、すぐ先に何かがあるというのは、逃げ道があっていいものだ。
「ふふっ。そういう話は、私みたいな人にして良いと思ってるんですか一色さんは?」
「メイメイさんはきっとそこまで関心がないかなって思って。言うて私もこんな話、人にするの二回目で。この前やっと気持ちの整理がついて、スクールカウンセラーの人に少しずつ話せた程度なんです。こういうのは多分、関わりの深い人に話すよりも、浅い人の方が話しやすいと思うんですよ、私。はい。」
癖だ。話しおえる時に、“はい”と置いてしまうのは。私はそれ以上話さないから、どうぞお好きに次に話してくださいと言わんばかりに。あまり人と話し慣れていない、目を合わせるのが得意ではない私の、悪い癖。
そうする事で、たとえ顔を見ていなくてもなんとなく相手はそれを察してくれることだろうと期待している。人任せでしかない。
「……」
「………、」
一筋縄ではいかないのが、この店主だ。
相手が何か切り出してくれるのを待っていたというのに一向に何も口を開かない。
そんな沈黙を長く耐えられるわけがなく、左手の棚の上に鎮座していた、あれは確か何の変哲もないあひるのおもちゃだったか。それからゆっくりと視線を逸らす。
逸らして話し相手の彼女を見遣れば、案外早く目線が交差した。
こちらが他所を向いている間も、彼女の視線は向けられていたのだろうかと考える。ただじっと、静かに。
「やっと、こっちを向いてくれましたね。」
「…。」
「駄目ですよ。人と話す時は、目と目を合わせないといけないんですよ?」
口下手だ。自分の話は一方的にしておいて。いざ回答は望んでいないのだ。反応は怖い。これまで意図して避けてきたことなのだから当たり前か。
テーブルの上に置かれたティーカップの、注がれた紅茶がほんの僅かに波紋を広げる。微かな振動の正体は、テーブルの脚に当たる、私の手元だった。
「そんな怖がるぐらいなら、初めから無理に話さなくて良いんですよ。話したくない事なんて、一つや二つ、誰にだってあるんですから。」
「メイメイさんにもあるんですか。」
華奢な指先が、持ち手に指を絡める。
「さぁ、どうでしょうね。」
伏せられた瞼が、小さく震えた。
これはまだ専門的な話で、私がそれを自身を持って語れるような事では決してないが、人は寝ている時に瞼の裏でも眼球が動くのだという。寝ている時に眼球が動くのは確か眠りの浅いレム睡眠の時だったか。
ただ目を伏せただけの彼女だが、どうしてか言葉を今も交わしているというのに、そんな彼女が、私には眠っているように見えてしまった。
夢を、見ているような。
何も夢とは、希望に満ちたものばかりではない。過去を振り返ることも、望めなかった未来を思い浮かべることも、夢は自由なのだ。
(何がしたいんだろう…)
既に数年前に母さんが亡くなっていたのを知ったのはつい先日のことだ。
母さんが以前入院していた病院に、私が足繁く通っていたのは、私がその現実を長い間受け止められなかったからで。実際の所は、病院で主治医の先生とお話しをしていただけだった。自分自身がその事実に気付けないぐらい、現実を直視出来なかったのだ。思い返せば笑えない冗談だ。
先ほど彼女に話したように、それを他人に語るのはこれが二度目で。誰かに話すというのはアウトプットに繋がり、自分の中に押し留めておくよりはずっと、吐き出して整理をした方が良いという主治医の言葉を受けてだ。
医師がそういうのなら間違いはないだろう。
とはいえ、近しい(仲が良いと呼べる関係の人は少ないのだが)誰かに語るのは気が引け、相談をする時ぐらしか顔を合わせないスクールカウンセラーや、いっその事他人にあまり興味を示さなさそうな彼女に話してみようと思ったのだ。
先日の雨の日の一件に関与していた事だし、以前から何度か興味本位で訪れていた骨董品屋だ。面識の有無は気にしていたが、やはり全くの初対面の相手じゃ若干の抵抗も少なからずあった。
大人と呼ぶには幼い容姿をした骨董屋の主人は、しかし大人びていて。
自分の言葉でしっかりと返してくれるような気がする。安心感。
居心地がいいのは、何も店だけではない。彼女と接する時間も、気が紛れるのだ。
この店自体と言ってもいいかもしれない。元はそう、あまり人の寄り付かない山の奥にあるここに偶々足を踏み入れてしまったのがきっかけだったのだから。
居心地が良いからここに足を運ぶ。それだけ。
(なんて、言ってほしいんだろう、私。)
自分のことな筈なのに、求めている言葉が分からない。欲しい言葉なんて分からないのが当たり前かもしれないけど、わざわざこんな話を、たとえ心の整理をつけるためとはいえ、慣れる名目もあるだろうがするのだから、もう少ししっかりと考えておけばよかった。
無理に話さなくて良いと言ってくれた言葉に甘えるように、私は少々強引に話を終わらせようとした。こんな話の終え方をしてしまえば、気が重たく、いくら居心地が良くて気に入っていたとしても。もう立ち寄る機会は今後ないかもしれないと、やたらと美味しい紅茶を味わえるのもこれが最後かと、おいとまをしようとした。しのたのだが、
「あっ、そうでした。一色さん、今手って空いていますか?」
上着のポッケにしまっていた自転車の鍵の存在を確かめながら帰り支度を始めていたら、彼女がそう呼び止めてきた。
帰るという意思は伝えたのだが、まさかこのタイミングで呼び止められるとは思っていなかったため、驚いた声をあげてしまったが、割とすぐに返事をかえすことが出来た。
「手?手、ですか?…どういう意味の空いてるかはイマイチ分からないですけど、手が空いてるとどうかしたんですか?」
「そのですね。実は今ここのお店、人手が欲しいなと考えていたんですよ。もし一色さんがよろしければ、バイト、してみませんか?」
「バイト…ですか?」
「はい、バイトです。」
結局本題となるその先の話を一つも出来ず、まだ私には少し早かったなと感じてところ、まさかそんな突拍子もない提案をされるとは思ってもみなかった。
「何度か見掛けた事あるかもしれませんが、今学生のバイトさんが一人いて。多分、これからもう一人、一色さんもよく知る人がここに住むようになるんですけど、少しでも知った人がいた方がその人も気が休まると思うんです。」
「知った、人?」
誰だろう。あまり顔は広い方ではない。正直高校生の頃にバイトで貯めた貯金だって余裕があるわけではないが、今は大学二年生だ。早い人はもう就職活動に着手している。そちらに専念するつもりでいたのだが。
(息抜き程度には、なるかな…)
物の多い店内。乱雑に積み上げられていいのかさえ分からない骨董品の奥に、少し古びたピアノを見る。
あの日から、あれば思わず無意識に見てしまうものだ。
ここで働くという事は、常にピアノがある空間で過ごす事が出来るということで。そんなに頻繁に人が出入りするわけでもない。蕗満市の中でも端にあたる、辺鄙な場所だ。特別忙しいということもなければ、時間があれば課題なりレポートなりをしながら、というのを許してもらえるだろうか。
店番や変わった骨董品の整理なり手伝いをお願いしたいと言われる。時給はまさかの破格の二千円と来た。断る理由は、ないだろう。