ビコーズウィーキャン,キャン,キャン,キャン,
イエス ウィーキャン, キャン,キャン,キャン,
キャン,キャン,キャン,キャン
(俺たちは出来る、そうだ、俺たちは出来る。この会場にここまで来た。俺たちは出来る)
手から汗が止まらず、情けない程心臓が跳ねる。もうすぐ出番だというのに未だに落ち着く事のない心臓を抱えて胸が苦しくなる。盛大なファンファーレと共におなじみの出囃子が革靴を震わせる程の音量で響いてきた。プレッシャーで潰されてしまいそうだ。エントリーナンバーが刻まれた胸のバッヂを握る。
「俺様とお前さんならいける。問題ない」
霊幻の頭の上から無駄な美声が降り注ぐ。声の主は金髪の上に手を置き、ポン、と一つ叩いた。目つきの悪い男は緊張感の漂う横顔を見せ、薄い唇を引き結んでいる。
「ここまで俺たちは来た。俺様が詐欺師のお前さんをここまで連れてきてやった」
「クソ悪霊、俺がお前を連れてきたんだって!」
ライブの前に必ず交わすこのたわいもない軽口が、霊幻の呼吸を整えさせる。たったそれだけの事で手足の震えが止まった。
イエスウィーキャン。騒々しく嫌でもテンションの上がる曲に促され、霊幻とエクボの足が舞台中央へ向かった。MCの声が響く。舞台の上に降り注ぐ光が見えた。あの光をこれから一斉に受ける。
(俺たちは出来る)
(出来る)
「エントリーナンバー9999番、コンビ結成一年目!今大会の台風の目、大番狂わせも夢じゃない、何もかもがイレギュラー!その名は『悪霊と詐欺師』!」
「霊幻~!飲んでるかあああ!」
「はい、飲んでます。飲んでます」
ほとんど水のレモンサワーだが、飲んではいる。霊幻新隆はテンションの高い面子の中で一人白い顔を崩さずジョッキを傾け冷静さを保とうと努めていた。
「何だよ、お前死んだ魚の目してるぞ。飲め、とりあえず飲め」
「えーそんな事ないですよ、ま、先輩どうぞ」
ほぼ中身は水のジョッキを煽ると先輩の猪口に日本酒を注ぐ。この手の酔っ払いはとりあえず飲ませておくに限る。土日祝、快速電車が止まらない街の居酒屋にはいつも同じような芸人などの集団がいる。
霊幻は無名若手芸人の一人だった。どこにでもいる若手と違うのは、本名とは思えぬ大仰さのある名前に無駄に整った顔と平均を遥かに上回った身長を持つ事。
「今日は貸し切りだから皆楽しめよー。あ、会費は払ってくれよ」
「奢りじゃないんですかww」
「そこは兄さんの奢りでしょ!」
芸人集団がどっと沸く。少しは先輩芸人が奢るかと思ったがそういう意味でも今日はアテが外れた。少しくらいは元を取るか、と霊幻はつまみのピーナッツを齧る。
「いや年末のM1すごかったよな」
「マジで毎年レベル高くなりますよね。トップバッターからの優勝ってのも痺れる展開だったし、あれは俺たち芸人の夢だよ」
芸人たちは年末の漫才特番の話で盛り上がる。コンビで漫才日本一の座を決める今や年末の大型特番として定着したそれは一晩で人生が変わるものとして芸人の憧れにもなってした。ピン芸人の霊幻には全く無縁のもので、毎年自宅の狭いワンルームで流し見をしている。こうして最初は芸人らしくネタの話から始まるが。
「でよ、これこれ!俺先輩に勧められて始めてみたんだけど、マジ儲かんだってば!下手な競馬より上手く行く感じで完全合法!な、霊幻もやってみね?これ仲間集めるとさらにジャンプアップすんだってよ!」
先輩芸人が怪しげな事この上ない儲け話でこれだけ入ってきたとスマホの画面を見せてきた。
「先輩、危ないものに手出さない方がいいですって。あ、すみません、キムチチャーハンとちょい焼き明太一つ」
どこからどう見ても立派なネズミ講に引っかかっているが、いい大人なのだから自分で責任を取ればいい。とりあえず忠告はしたぞ、と思いながら飲み会の元を取る為にひたすら食い気に霊幻は走る。
(ああ、くだらない。)
霊幻が所属している事務所は中堅クラスの芸人が集まる。同じ事務所の若手のお笑い芸人たちが集まる月に一度のライブに霊幻が若手芸人として参加するようになって三年が経った。
(俺も早く先輩にぶら下がるんじゃなくてネタ見てもらって評価されたいんだけど)
黙っていれば胡散臭さは抜けないが、整った容姿を持ち口が良く回る霊幻に付けられた仇名は金髪の詐欺師。今や本名と同じくらい有名になった仇名と共に霊幻は生きている。
「先輩そういえば見ました!食リポ面白かったです」
女とネズミ講の話はもういい。話題を変えよう。売れない芸人がネタ見せ以外で地上波に出る機会はほぼ食レポか地方ロケ。
「あ、見てたんだ。あれ実はめちゃくちゃ不味かったんだよな」
「そうなんですか?全然そんな風に見えなかったです」
とりあえず持ち上げてみる。こうして適度に持ち上げておけば機嫌も良くなるのは分かっていた。
「俺もお前くらい口が回れば食リポの仕事もっと増えんのになあww」
「いや俺実は苦手なんですよ、食レポ」
「そうかあ?絶対上手いと思うけどな。口の巧さがあっての霊幻だろ。そうだ、お前顔キツネに似てるからキツネうどん食う食リポやってみろよ」
出た、突然の無茶ブリ。酒の席ではこうした後輩弄りが宴会を沸かせる。内心やってらんねえ、とは思うが笑顔を崩さず霊幻は丼を持ち上げるエア食リポを始めた。
「……えー、キツネうどん。出汁の色が金色でお揚げの色も金色で食べる前からキツネ感ありますね。さて、お味は。うん!これは!馥郁たるカツオ出汁の味と香りが鼻腔を駆け抜けます!これは美味しいですよ。こう、まろやかなしょうゆの味がシンプルにお揚げに絡んで、麺もモチモチで太麺が汁によく絡みます」
「そこはお前、キツネ顔の詐欺師がキツネうどん食ってたら共食いですね、になっちゃいますwwだろ」
霊幻への突っ込みに、座敷が笑いで満たされる。適当な食レポでとりあえず場をしのぐ事が出来た。しかし一難去ってまた一難。今度は別の先輩に肩を組まれ、絡まれる。
「なあ、詐欺師さ、あれやって、呪術クラッシュ!マジあれ効くんだよな~詐欺のくせに」
「呪術クラッシュは体内に滞っている悪霊を私の手技によって追い出すものでありまして詐欺などではございません、先輩」
霊幻の持ちネタを使って先輩が弄り始めてきた。このネタはライブでは霊幻の鉄板のネタで、マッサー……ではなく身体に潜んだ毒素という名の悪霊をゴッドハンドによって追い出すというものだった。他にアロマ暴走特急、盛り塩パンチなどの派生技もある。
「何だよ詐欺師のくせに!」
「見たところ先輩には女難の霊が憑りついているようですね!」
「げ、何だよ女難って!」
「先輩、最近そういえば某タレントさんと何やらどうかおありだとか?」
「そうなんだよ!聞けよ!あいつ他に男いやがった!」
「えーそうでしたか、先輩、ズバリこれは霊の仕業ですね。全ては霊の仕業です!それとこちら有料となっておりまして」
「金取んのかよ!」
場が一気に盛り上がった。ここからしばらく霊幻がやり玉に挙げられる事はない。
(本当はネタの話とか聞きたいんだけどな。ああ、本当今日も同じ話題しか聞いてない)
打ち上げに付き合わされ飲みたくもない酒を飲み、いつも似たような話題で盛り上がってゆく先輩や同期たちに安い笑顔を向ける。社交辞令はサラリーマン時代に身につけて今や鉄壁のものになった。詐欺師の笑みは今日も健在。バンザイ今日も酒は不味い。
芸人の道に飛び込んだはいいが、知れば知る程闇が深い。先輩後輩による絶対的な縦社会は、先輩芸人に言わせると今は随分マシらしいが軍隊式のそれだ。
(幸い脱げとかまだ言われた事ないけど昔はあったみたいだしな)
それでも飲み会に出ている理由がある。時計を覗き込めば時刻は10時を回っていた。
「兄さん到着しました―――!」
店の入り口に立つ地味なキャップ姿の男は、後輩のテンションの高い大声を遮るように手を振ると背を丸めて店の奥にある座敷に足を向けた。
「お疲れ。みんな飲んでるか?」
即座に準備されていた上座に通される。駆け付け一杯のビールを一気に飲み干したところでまた座のテンションが一気に上がった。この先輩芸人は霊幻が目指す芸人スタイルを確立しているピン芸人でネタが特にいい。
今日は彼が打ち上げに合流すると聞き、半分嫌々ではあったものの参加を決めた。ネタの話なんか少しでもしてくれたらいいな、という淡い期待もあったが30分後、それは見事に裏切られた。
「霊幻ちゃ―――ん、飲んでる?ん?全然飲んでないじゃん、どうしたの?」
「あ、俺下戸なんで本当すんません。飲んで先輩の高いアルマーニゲロまみれにしたくないんで」
「いいねえゲロまみれアルマーニ!ゲロマーニ!俺もやっぱピンでやってるから、霊幻ちゃんに親近感あってさ。ライブで見て時からいいなーって思ってたんだよね」
肩を抱き込まれ、距離の近いところに酔っ払いの顔がある。大物先輩芸人は霊幻をいたく気に入ったらしい。座布団の上で正座に耐える霊幻の膝の上に腿を置かれてホールドされる。
「先輩お酒好きなんですね……」
「酒は飲んでも飲まれるな、だぜ霊幻ちゃん」
どの口が言う事か。呆れるがここまで酒癖が悪いタイプだったとは知らず霊幻は自分の選択を後悔した。表向きほぼ姿を消したと思われていた、アルハラ・パワハラ・セクハラの三大魔王が芸人社会ではまだ生き残っている。
「霊幻ちゃんさあ、本当顔きれーだよねえ。何?もーさ、こう何か顔見てっと妖しい感じになるわ」
「先輩、俺だからいいですけどそれ他の人に言ったらまずい奴ですよ」
大人しくターゲットが切り替わる事だけを願って、サワー抜きのレモンサワーの水割りを飲むしか出来ない。早く帰りたい。
「いや、マジさ。俺男全然なんだけどれーげんちゃんなら全然アリ。アリもアリでマジなんだけど。ね、今彼女とかいない感じ?」
漢字で呼んでいた名前がひらがなに変わった。確実に理性を欠いた血走った眼が霊幻を捉えている。
「いませんけど先輩、はい水ですよー」
水を飲ませてもトイレに立ってはまた霊幻の所に戻るを繰り返している。トイレに立った隙を見て逃げ出そうとするが先輩たちが霊幻の肩を掴み、また座敷に戻される。
「いやー、いないんだったらマジ、俺とかどうよ?」
「もー先輩綺麗な彼女さんいるじゃないですか、元モデルの」
「ああん?!あんな金喰い虫の女もうとっくに別れたっつうの!なーにがプラダじゃなくてそこはバーキンでしょ、だ。プラダだかプララだか知らねーよ、っつとに女って面倒くせえ」
「ぷららはインターネットのプロバイダ―です、先輩」
霊幻も返しが雑になる。誰も分からず受けない突っ込み返しをする程、霊幻自身ここから一刻でも早く逃げたくてたまらない。
「いや、ほんとかわいーなー。モデルと付き合ってもロクなことねえからな。金かかるし、なら俺れーげんちゃんに乗り換えるわ」
「いやいや、ほんとお酒飲みすぎですって」
「俺に免じてぶれーこー!はい、皆飲め!」
彼の掛け声に面れて周囲の芸人たちがグラスを空ける。霊幻という生贄を捧げられて明らかにラッキーと胸を撫でおろしているのがわかる。丸裸にされた因幡の白兎と化してお持ち帰りされる未来が見える。
(もうだめだ、俺は喰われる。)
酒臭い息が近づく。もうあとはネタではなく正当防衛パンチを繰り出すより後がない、そう感じた霊幻の視界が黒いもので塗りつぶされた。
(え、何??)
「悪いな、こいつ今日から俺様の相方なんで」
頭上から無駄にいい声が響いた。アルコールの入った頭では多分まともな判断は出来ていないはずだが、その声は相方、と言ったように霊幻は聞こえた。
「オラ、帰るぞ。あ、これで会計」
ヒラヒラと札が二枚空を舞うのが見えた。限界に近かった足を崩され、急に身体が軽くなる。状況が理解できずにいるが霊幻は誰かの腕の中にいて、もしかしなくても俗に言うお姫様抱っことかいう横抱きにされている様子だった。身長178センチの男を。
「え、ええええ、と」
見上げた顔は人相が悪すぎた。口端から牙のような八重歯が覗いている。
「うるせえ。行くぞ」
どう見ても堅気の男ではなかった。黒いスーツに左耳が欠けた大柄な男が霊幻を担ぎ上げている。男は見た目に反して丁寧に頭を下げると大股で居酒屋を後にする。後ろから先輩芸人を始めとした歓声か悲鳴か怒号かどれか全く分からない声が響いていたが、男は霊幻を担ぎ上げたまま夜の闇の中に溶けてゆく。
「おい!なあ!お前どこ行くんだよ!」
「裏手に公園あるだろ」
「離せってば!」
「公園着いたら下ろしてやる。お前さん足限界だったろ」
人気のない公園に着くと、男は遠慮なくドスンと霊幻をベンチに下した。俺のコート、と言おうとする前に荷物が一式、霊幻の前に戻ってくる。お姫様抱っこで持ち帰ってきたわりに扱いが雑だ。
「おい!お前誰なんだよ!何だってあんな……。お姫様抱っこされるアラサーの立場考えろよ」
「分かりやすくていいだろ。放っておいたら確実にお前さん持ち帰りされてたしな」
「……それは、そう、だけど。あんた一体」
「俺様の事見た事ないか?」
公園の明かりに照らされた男の顔を霊幻は見上げる。霊幻より拳一つ分は高く、ロングコートに黒いスーツにネクタイと葬式帰りのような姿は最初の印象同様、堅気に見えない。某グルメ漫画の新聞記者かよ、と内心突っ込みを入れるがそっちの人、と言っても通じる威圧感を漂わせている。見上げた顔は紅い痣のような頬が目立つ。小さな針で刺したような瞳孔の色は綺麗に澄んだエメラルドグリーン。霊幻の胡散臭さを抱える狐顔と違い、猫科の動物を連想させる。
そうだ、こいつは、と霊幻はベンチから立ち上がると男の横に並んだ。自称俺様。長身の霊幻と並んでもそれ以上の体格を有しているこの男の名前は。
「(笑)、カッコワライの吉岡……兄弟?」
「そうだ。兄貴の方だ。俺様は吉岡エクボ。お前の相方になる男だ」
今日一日で霊幻は人生が大きく変わってしまった事を知る。某芸人のネタを借りるならこうなる。
「なんて日だ!!」
「おい、色々言いたい事があるんだけどよ。相方いたろ。双子の弟」
(笑)と書いてカッコワライと読む双子のコンビ。漫才でライブハウスや事務所ライブに出ていて、ピン芸人の霊幻とは事務所に入った時期も違う為接点が全くない先輩に当たった。(笑)の芸人歴は六年目になる。
「あんたとはほとんど接点ないし、絡んだ事もないけど地上波出てたし俺より有名だろ。何で俺がお前の相方なんだよ。話が急展開すぎてワケが分からねえ」
先輩と後輩の関係絶対、だが霊幻はエクボに全く敬意を払う事なく睨むような目を向けた。酒癖の悪い先輩にテイクアウトはされなかったが待っていたのは柄が悪い、態度が悪いとなかなか事務所内の評判は芳しくないはずの男。前門の虎後門の狼。狼というよりは黒豹か。
「それにあんな事されたら、俺事務所で何言われるか分かんねえよ」
「そう付き合いがよさそうにも見えないけどな」
「お前程じゃないよ。はーあ、本当今日は何て日だ、だ。で、(笑)はどうなったの」
「護がな、女が出来たからこれを機に社会復帰すると言いだして昨日付けで解散だ」
「解散かー。ってことは捨てられたってワケか」
芸人を辞めるのは簡単だが、解散とは離婚に相当すると言ってもいい。一緒に活動する事が皆無でもコンビの名を残し続ける事がほとんどだ。兄弟コンビは多いが、双子の芸人コンビはレアケースでこれからという時の解散。
「言っておくが俺は護に捨てられたわけじゃない。女に負けたわけでもない。護は俺を捨ててない。芸人が嫌になっただけで俺の事は捨ててない。護はそんな奴じゃない。護は俺の為に自分の身を犠牲に……」
捨てられてコンビを解散させられた兄は、がっくりと膝をついた。
「いや多分それ違う」
吉岡兄弟の仲の良さは霊幻も知っている。同じ顔をした双子のブラコン拗らせ兄弟としても有名だった。悪人顔で恰好付けていた男が弟の事になるとこれだ。突っ込みところ満載。
「とにかく(笑)は昨日付けで解散したが俺様としては芸人を続けていきたい。なら相方がいるだろ」
弟の話題はこのくらいにしてもらうとする。本題に入った。
「はあ。で何で俺なの」
会話をしたどころか、ほぼ初対面だ。それなのにこの気安さといい互いに遠慮がない。エクボは年上で上下関係絶対主義の同じ事務所の先輩のはずだが、霊幻の頭には一ミリもそんな感覚が浮かばない。正直、相方と言われても関係性の対等さで言えば違和感がなかった。
「ネタ見たんだがな。お前さんべしゃりは最高にいいのにネタがイマイチなんだよなあ」
痛いところを付かれて霊幻はわざとらしくよろよろとベンチに倒れ込んで見せた。まさにドストレートな一撃を喰らった。
「詐欺師って言うワリに詐欺師ネタがイマイチだ。呪術クラッシュからの暴走アロマ特急のコンボは悪くないんだが、こう決め手に欠ける。ネタは全体的にオーソドックスすぎて新鮮味がねえ」
呪術クラッシュは身内にはウケはいいが舞台でやると微妙な反応になるネタだ。正当防衛パンチの方がウケはいいが、あれは相手あってのもの。舞台でやってもイマイチ反応が弱いネタだった。
「悪かったな。前からそれが課題なんだよ」
「勿体ねえ。お前さんはコンビ組んだ方がウケるぜ。まあそんな感想を持ってたところにお前さんがお困りのご様子だったからな。颯爽と俺様登場だ」
「お前自分の事王子様か何かだと思ってるんなら一度自分の面鏡でよく見た方がいいぞ」
「いい男だろ?」
背は高いしスタイルもいい。男前かと言われたら多分そうだとは思うが決定的にこの男の顔は。
「その悪人面のどこが王子様なんだよ!」
「お姫様抱っこで助けられた割に減らず口を叩く奴だな。さすが口から生まれた詐欺師」
「うるせえよ。んな悪人面した王子様がどこの世界にいるんだ。渡りに船って言いたいんだろうけどそんな急にコンビなんて組まないよ。俺ピンだし」
「まあ水飲め」
黒コートのポケットからエクボがペットボトルを差し出してきた。冷えた水は霊幻の心に冷静さを取り戻させる。
「お前さんあんな目にこれからも遭い続けるぞ。芸人の世界はああいう理不尽に満ちてる」
エクボの言葉にほんの数分前の恐怖が霊幻の中に蘇る。セクハラ・パワハラ上等、乗り越えて芸人と言う。令和の世にあってそれが許されるはずもないというのに、誰が言うまでもなく芸人社会はこれが常識。そんな中で霊幻は一人だった。
「お前さんはまともな社会で生きてきたろ。芸人の世界なんて本当夢みたいなモンだって入ってみて思い知らされたよな。俺様は護がいたからそれでも何とか続けてきたが、何度先輩どもをぶん殴りてえって思ったか分かんねえぞ」
「ホモソーシャルな世界とは分かってたけど、まさかなあ」
芸人社会はいまだに男社会でもある閉鎖的なムラ社会。霊幻はその輪の中に入る事も出来ず、強制的にその輪の中に放り込まれたかと思えば対等に扱われる事もない。
「俺様も護以外とつるんでこなかったからな。まあ似たようなもんだ。事務所に挨拶に行ってきた帰りだった。引退かピンか、コンビ新しく組むかどうするか早いところ決めてくれって言われて相方になりそうな奴でもいるかと思って顔を出したらお前さんに会った」
飲み会にエクボが参加するのはまさにレアケース。同じ事務所の中にいながら出会ったのが初めてという奇跡のような一夜だった。
「見りゃ先輩連中に囲まれてセクハラされてる中で鮫の目してたからな」
「鮫の目か……。俺鮫映画好きだけどそんな目してたか。死んだ魚の目よりひっでえ」
「深海で出会ったら殺される奴だな、ありゃ」
「何言われてもああいう場じゃ大人しく騒がず、笑ってやり過ごすのが正解なんだろうけど。多分エクボが来なかったら俺先に殴ってた。まあそういう意味では助かった」
大人しく裸の白兎となるくらいなら一発殴る選択をするのが霊幻だった。しがらみの強い建前だけの社会に見切りをつけるつもりでこの道へ飛び込んできたはずなのに、どこにいても人間は変われない。最後くらいは自分で引導を渡すつもりでいた。
「誰が見てもヤバい状況なのに笑ってるばかりで何もしねえ奴らも俺様はまとめてぶん殴りたくなったがな。胸糞悪い」
「そんな正義感強いタイプに見えないけど」
「俺様はダセえ奴が嫌いなんだよ。ああいうのが一番ダセえ」
ケッ、と地面にエクボが唾を吐く。あれはどうやらエクボの流儀に反したらしい。
「みんなそれだけ売れる事に必死なんだよ。俺も売れたいか売れたくないかって言ったら売れたいけどさ。でもああいうのに染まっていくの、本当怖い。甘いって言われんの分かってるのにこういう事言っちまう。ああ、俺芸人失格だな」
「芸人失格ってのは残念ながら人間としちゃマトモすぎるってこった」
箍(たが)が外れたくらいが丁度いい。人間として真っ当に生きていけば芸人の道は途中で潰える。霊幻はその狭間にいた。どこかで諦めきれない『何か』になりたい自分が中途半端に霊幻を留めさせている。
「お前は?」
エクボは人に媚びる事をせず社交辞令も使えない。そんな不器用な男が芸人を続けてきたのは弟と一緒だった事もあるが、純粋に芸の力あってのものだろう。若手芸人は先輩という後ろ盾がなければ群れて連帯感を持つ事で生き残りの道を探す。エクボはその方法を全く使わないまま芸人を続けている。
「俺様は上級悪霊だからな。人じゃない」
「その設定まだ使うの!?」
ベンチから飛び起き霊幻が詰め寄った。当のエクボは全く表情が変わっていない。事実を淡々と語っている様子に霊幻は驚きを隠せなかった。
「そりゃさ……(笑)の設定だろって、お前が五百年生きてる上級悪霊とやらで弟が突っ込みで……ボケが過ぎる……ネタにしたって今言う話か?」
(笑)の漫才の鉄板のネタだった。エクボ(ボケ)が自称五百年生きている上級悪霊で弟(突っ込み)は普通の人間。五百年生きるエクボと人間の護のズレを警戒なトークに載せて漫才をするというもの。事務所ライブの中で霊幻も見た事があるがネタとしてはかなり面白い。事実結成六年目で(笑)はお笑い通には知られた存在ではあった。
「ネタじゃねえって言ってんだろうが」
「あーそれ(笑)のやつで散々見たわ。ほんっと面白れえ、ダメだ、この顔で悪霊って言われたら納得するけど、五百年生きてんのに関ケ原知らないとか」
「じゃお前さんは今の政治家が何やったか覚えてんのか!?」
「関ケ原は知らないのに織田信長がちょんまげ結ってたのは知ってるとかそれ俺でも知ってるわ!」
「そうか?じゃお前さんは総理大臣の髪形思い出せるか?」
「政治家は大体七三分けだよ!」
「俺様八二だが」
「お前の事はいいよ!あと五百年生きて参勤交代見たとかウソも大概にしろって!」
「日本橋渡ってったの見たぞ」
「え、マジなのそれ」
「渋滞できてすごかった」
「日本橋前はいつも渋滞してるよ!なんで参勤交代で渋滞なんだよ!普通に通勤ラッシュだろ!」
「あとまだ飛脚が走ってんだな」
「それ宅配サービスの車!」
「そういやお前さん詐欺師って言われてるらしいな。五百年前にも詐欺師がいてな」
「へえ、五百年前の詐欺師ね。どんな奴だよそれ」
「農民出身だったくせに武士の出身だって言ってしまいに自分を関白だって言ってたっけな」
「それ詐欺師じゃなくて秀吉!日本の歴史で一番有名な奴!確かに農民だったらしいけど!」
「あと何でもかんでも霊の仕業だ、悪霊の仕業だって言って除霊するって言って単なるマッサー……じゃない、施術するって言ってた奴もいたな」
「それ俺!俺の必殺技!呪術クラッシュ!本当にお前五百年も生きてたのかよ。あとお前ネタでスマホ持ったの最近だとか言ってたよな。悪霊もスマホ持つ時代なのか?」
「お前さんだってつい最近までガラケーだっただろうが」
「え、何で俺のネタ知ってんの」
「俺様は上級悪霊だからな、何でも知ってんだよ」
「素直に事務所ライブ見たって言え!」
公園には二人の男が端から見ればネタ合わせをしているようにしか見えないだろう。霊幻は自然にエクボのボケに付き合い、突っ込み役に徹した。エクボは三白眼を限界まで見開き、至って真面目に自分が上級悪霊だと自称する。
「あー、何かホントお前面白い。ピンにしとくの勿体ない。解散勿体ないな」
あまりに続くボケのラッシュに突っ込み疲れを覚える。突っ込み疲れって何だ、と自問するがピンで活動する霊幻が味わった事がないものだった。
「お前さんもな。ネタさえ良ければもっといいのにな」
笑いの波が収まれば後は凪が来る。霊幻もエクボも冷静さを取り戻した。常夜灯に集まる蛾が鉄柱にぶつかる音が小さな羽音と共に響く。駅の裏手にありながら狭い公園には誰の気配もなく、深い夜の底で二人の男が未来を決めようとしていた。
「なあエクボ。俺真面目な話だと最初思ってなかったけど、本当に俺とコンビ組む気ある?」
小さな公園にはブランコがある。古びたそれに霊幻は腰を下ろす。キィ、と小さな軋みを立てたブランコが揺れる。エクボもそれに釣られるように大きな身体をブランコに載せる。軋みを上げながら微かに前に揺れ、革靴が足元の砂を蹴った。
「このブランコみたいに俺らの行く末なんて不安定で揺れまくりだろうけど」
さっきの会話は意図したものではなかったが、自然に突っ込んでいた。古い言葉で言うならばエクボは天然ボケという分類なのかもしれないが、水が流れるように言葉が続いた。
「いきなりピンの俺がコンビって言われてもどこまで出来るか分からない。ただどうせ組むなら面白い奴の方がいいな」
「お、それはお前さんのお眼鏡にかなったって事か?」
牙のように見える八重歯を見せてエクボが笑う。笑うと悪人顔が少しは優しく見えるから不思議だ。脂ぎった先輩芸人の顔に見慣れたせいか、エクボの彫刻刀で削ったようなシャープな顔立ちはどこか清潔感がある。怖い顔も見慣れるとそうでなくなるというが、黒豹のような姿の男に感じた恐怖感は今や完全に消えた。むしろ不思議な安心感がある。自分よりも体格のいい男に滅多に会わない事もあるが、年上のエクボにそうした頼り甲斐を感じたのは事実だった。
「今、ちょっとやってけるかもって手応え感じた。それと一人って気楽だと思ってたけどそうでもない」
「俺様もそうだ」
ネタが甘い霊幻と話術以上に社交辞令が出来ず、世渡りの下手なエクボ。人に合わせる事を知らない男が一人で生きていける程この世界は甘くない。
河に流されてもつれて消える木の葉のようにピン芸人の立場は弱い。芸人の世界で共に濁流に飲み込まれても向こう岸へ渡る事を諦めない存在があれば生きていけるだろう。人はそれを相方と言うのだ、と霊幻は思い出した。
誰でもいいわけではない。自分と共にこの泥の中を渡る覚悟と才覚のある者でなければいけない。
「お前事務所の先輩に嫌われまくりだもんな。飲み会も出ないし」
「下らねえ席で不味い酒飲むなら俺様は護と飲む」
「出たブラコン。でもまあお前もキャラ強いよな。上級悪霊。それに俺が詐欺師か」
どこへ行っても芸人として一人で生き続ける限り、薄紙を張り付けたような心の通わない笑顔を見せていく事になるのかもしれない。何のために芸人になったのか最初の思いさえ忘れて。
「エクボ。もし上手く行かなかったら辞めてピンに戻る」
「ああ」
「モノは試しって言うだろ。やってみなきゃ分からないならお前との可能性に掛けてみる。俺のネタの弱さ、お前の社交性のなさ、どっちも芸人には致命的な欠点だ」
「俺様苦労した事ねえがな」
「弟いたからだろ。エクボ、一人でやってけんの?」
「相方はいた方がいいな」
「なら俺とコンビを組もう」
霊幻はエクボに手を伸ばす。誰かの手を取らなければ生きていく事が難しいと今更ながら実感した。自称上級悪霊でブラコンで、というロクでもない設定持ちだがエクボは今まで見てきた芸人の中では今は一番マシに見える。
「詐欺師のお前さんのどこまでが本気だ?」
「そうだな、少なくとも利害の一致ってところと他の芸人と組むよりマシなところかな」
「利害の一致か。悪かねえ」
霊幻は嘘をついた。本当はエクボに期待している。ピンからコンビという新しい可能性に賭ける。
「ダメなら辞める。だからコンビ、やろう」
「お前さんからプロポーズしてくるとはな」
「プロ、ポーズ!?」
「芸人がコンビ組むってこった、そのくれえの意味があるってモンだろ。霊幻新隆。俺の相方になってくれ」
「俺もだ。エクボ。今日からお前は俺の相方だ」
悪霊は詐欺師の手を取った。
「悪霊と詐欺師だ。悪くねえ」
こうして悪霊と詐欺師、結成初日。人の話を聞かないエクボと嘘つきの霊幻はコンビとなった。