Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    HCmn_M

    @HCmn_M

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 13

    HCmn_M

    ☆quiet follow

    ノンケ×ゲイまとめ

    支部タグそのままだけど気にしない

    傷だらけの君は誰よりも優しい傷だらけの僕らは惹かれ合う傷だらけの僕は臆病で愚かしい傷だらけの僕は太陽に想いを馳せる傷だらけのキミは何よりも愛おしい幾百の夜を越えて朝は来る幸せなおはようをキミに『続く』傷だらけの君は誰よりも優しい

    「なんか思ってたのと違ったから……」

    形だけ申し訳なさそうなフリをして「ごめんなさい」と彼女が頭を下げた。オレはそれに「わかった」と一言返し、彼女がそうしたように、形だけ残念がるフリをして、たった今他人になった女を自宅である古ぼけたアパートの外まで送る。付き合ってほしいと請われて、嫌いでなければ了承し、そうして交際を始めるのに、いつもフラれるのはオレだった。彼女達は口々に「私のこと本当に好きなの?」だの「なんか違う」だのと好きなことを言って、オレのもとを去っていく。

    いつもそうだった。



    感傷に浸るのに丁度いい照明の暗さとジャズが流れる、通りを一本脇道に入った隠れ家的なバー。そこのカウンター席がオレのお決まりの場所だった。

    「……女って、勝手だよな」

    勝手に好きになって、勝手に嫌いになって去っていく。
    誰に向けて言うでもなく、摂取したアルコールに背中を押されて吐き出せば、カラン、と相槌を打つようにショットグラスの氷達が小気味いい音を立てて体勢を崩す。この日、オレは女に捨てられて、そのたびに訪れているうちに行きつけになっていたバーで酒を飲んでいた。1時間ほど前までオレの恋人を名乗っていた女の顔も名前も、アルコールに溶けて思い出せない。

    ぽつぽつと忘れた女の愚痴を零しながら、氷で薄まりつつある液体をグイッと煽る。

    どの女ともデートはしていた。場所も食事もそれぞれ好みに沿うようにして、プレゼントも用意したし、記念日だって面倒でもちゃんと祝った。なのに、それでもオレは捨てられた。

    (くっだらねぇ……)

    かけた金も時間も向こうの気紛れで全部が無駄になって、露と消える。実にくだらない。そう思いながら、どうせまた来週か、来月か、はたまた3日後か。きっと自分はどこかの女とまた付き合って、そして捨てられているのだろう。見慣れすぎた未来に大きなため息を吐いてカウンターに突っ伏し、意味もなく手に持ったグラスを回した。溶け出た氷水とアルコールが混ざり合い、ひとつになっていくのを腕を枕にしてぼんやりと眺める。

    そうやって不貞腐れていると、ジャズに紛れて耳障りの良い、透き通った男性の小さな笑い声が隣から聞こえてきた。チラリと目を向ければ、そこにいたのはツートンカラーの変わった髪色の男。黒のタートルネックを着た彼は、半分以上袖で隠れた手を口に当て、オレを見て可笑しそうに笑っている。白磁の肌を照明に染められて、目元の泣きボクロが品のある色香を漂わせているその男は、この辺りでは見ない顔だった。

    (…………男、だよな……?)

    性別という括りで縛ることすらはばかられ、男装の麗人と言われても違和感なく信じてしまいそうな容姿に、そんな疑問が浮かぶ。綺麗、美しいという形容詞がここまで似合う男が存在していたのかと、変に感心してしまった。

    「……あっ、すまない、笑ってしまって」

    思わず見詰めてしまったオレの視線に気がついた彼は申し訳なさそうに、けれどどこか楽しそうに眉尻を下げて「可愛らしくて、つい」と、目を細めた。オレのそれと交わった白銀の瞳が、オレンジ色の照明を取り込んで蠱惑に煌めく。初めてオレは男にドキリとした。様々な女と関係を持ってきたが、こうして胸が高鳴ったのは初めてかもしれない。

    「女性にフラれたのか?」
    「……え?」
    「そんなことを言っていただろう?」
    「……あぁ、まぁ……な」

    男は隣でずっとオレの愚痴を聞いていたらしい。他にも席はあるだろうに変わった奴だと思いながら、男の言葉に頷いたオレに、彼はカクテルグラスに口をつけて悲しげに言う。

    「それは、悲しいな」
    「……そう、だな」

    言われて、フラれることに慣れすぎたのか、それとも最初から彼女達を好いてなどいなかったのか、時間と金が無駄になったことに腹を立てることはあれど、男の言った感情は今までまったく湧いてこなかったことに、オレは気がついた。出会って1分経ったかどうかも怪しいこの男には、こんなにも心が動いているのに。

    (……どうなってんだ……?)

    驚くほど整っているとはいえ、彼は男だ。柔らかな胸も、入れる穴もない。そんな相手にときめいて何になる。いよいよ酒が回って酔ってきたのか。己の中で沸き起こる正体不明の感情に首を傾げていると、隣の彼は言った。後にオレ達の運命を動かす、何気ない一言を。

    「俺でよければ、話を聞こうか?」

    人に話して、気が晴れることもあるだろう、と。
    そしてオレはその言葉にあまり深く考えずに礼を言って、互いに持ったグラスを、コツン、と触れ合わせた。



    月明かりだけが照らす、ボロアパートと呼ぶに相応しいオレの部屋を、向かい合うように座った出会ったばかりの男と酒が体内に入りすぎたオレの乱れた呼吸が満たしていた。くちゅくちゅと粘度の高い水音を立てて、男の白魚のように白く細い手がオレのグロテスクな男の象徴を握り上下に優しく扱いている。これまでオレが受けてきたものは何だったのか。それそのものの認識を根底から覆されるほど男の手は、指は、オレの感じる場所を的確に擦り上げ、痛みを感じないギリギリの力加減で竿を撫で上げた。

    出そうになる情けない声を噛み殺し、オレは腰を震わせる。あぁ、何がどうして、オレは男にこんなことをされているのだったか。あの乾杯の後、終電の時間を過ぎるまでバーで飲んでしまって、帰れないと困り果てる彼を飲み直しも兼ねて家に招いたまでは覚えているのだが、そこからの記憶がない。なぜオレは男とセックスなんてしようとしているのか。頭の片隅で思い出そうとするが、人差し指と中指でカリを挟まれて、思考を邪魔されてしまう。

    はっ、はっ、と快感に呼吸が徐々に短くなり、押し上げられるようにその時が目前にまで迫っているのを感じた、その時。情欲に濡れた空気に似つかわしくない、弾んだ声色で彼が言う。

    「ん、よかった、男相手でもちゃんと勃ったな」

    オレを責め立てた手が、弄ばれ涎を垂らすそれから無情に離れていく。もう少し、あと少しで頂点に至れたのに。絶望にも似た疼きと熱を持て余し、オレは自分よりも少し背の高い男へ視線を向ける。

    「そんな顔をしないでくれ。大丈夫だ、きちんと最後まで付き合う」

    俺なんかで、彼女の代わりになるかはわからないが。
    バーでも見た困り顔で彼は笑い、ゆっくりとズボンを脱ぎ去ると、草臥れて久しいベッドに寝転がって足を開く。薄っぺらい遮光カーテンから差し込む月の光の中、下だけを脱いだ彼が一般的に男が性行為に使わないであろうその穴を己の指で尻たぶごと広げて、優しい口調で告げた。

    「……男はここに入れるんだ」

    縦に割れたそこが、ヒクヒクとオレを誘う。無意識にオレは生唾を嚥下していた。曲がり間違ってもオレは男が好きなわけではない。男を抱く趣味も、性癖も、持っていない。なのに、なぜだ。

    (なんで、こんな興奮してんだよ……)

    普段ならば見たくもない男の尻穴を見ても、横になった彼の腹の上にあまり使われていなさそうな白い男性器が見えても、まったく萎えることなくオレのそれは勃起を保っているどころか、男が示すその場所へ早く入れさせろと催促するように脈打っていた。ベッドサイドの引き出しからゴムを取って手早く付けると、グッ、とその穴の入口に自身を押し当てる。

    「入れるぞ」
    「……んッ、あぁ」

    興奮なのか、生理的なものなのか、目元を淡く染めた彼が頷くのを見て、腰をゆっくり進めるとすぐに温かな肉がオレを迎え入れ、優しく包み込む。キュゥっと腸壁が締まり、かと思えば緩み、オレの種を搾り取ろうと中が蠢いた。

    「……っ、やべぇ……これ……」

    本来男を受け入れる器官ではないはずなのに、彼のそこはあまりにも男を悦ばせるのに適した作りをしていた。子を孕むための女のものとは違うのだと、挿入しただけでわかる。この穴はただただ、男を気持ちよくするためだけにあるのだと。

    「……んんッ……ぁっ、ん……っ!」

    男に掘られて感じているのか、手の甲を口に当て、時おり腰を跳ねさせては先ほどまでと違う甘い声を彼は漏らしていた。自分が彼にその声を上げさせているのだと思うと、胸の内にドロっとした仄暗い何かが生まれる。

    (なんだよ……マジで、なんなんだよ、これ……)

    女を抱くことはよくあった。それを望まれて、突っ込んで腰を振れば自然と気持ちよくなれたし、精を吐き出せばすっきりする。セックスはそれだけの行為だったはずだ。

    それが、なんだ、これは。
    相手は今日たまたまバーで会っただけの男で、入れているのはその男の尻穴だ。男同士で貪り合うなんて、普通ではない。なのに、腰が止まらなかった。男の嬌声など聞きたいわけがないのに、彼のそれを望む自分がいる。彼のことをよく知りもしないのに、彼を鳴かせていることに優越感を覚えている自分がいる。どれも自分自身であるはずなのに、知らない自分がたしかにここには存在していた。

    「ぁっ、ゃぁ!?そこ……ゃっ、だめ……んんんっ!!」
    「……ぅっ、く……すげ……締まる……っ!」

    ゴリッと他よりも硬い何かに先端が当たると、銀の目を見開き背を仰け反らせて、腰を浮かせた男は一際甘く鳴く。体に力が入ったからか腸壁がギューッと強く締まり、挿入前に彼の手で高められていたオレは衝動のまま男の決して柔らかくはない体を掻き抱いて、呆気なくゴムへ種を吐き出した。

    全速力で走り抜けた後のように上がる息の中、摂取したアルコールが一気に回ったらしく、視界が急に狭まりオレの意識はそこでプツリと途切れる。ブラックアウトする直前、オレよりもずっと低い体温の手があやすように背中を撫でているような気がした。



    意識を失い、すやすやと眠る彼の下から抜け出して、俺は「やってしまった」とため息を吐く。こんなつもりで声をかけたわけではなかった。いや、そもそも一緒に飲むのだって本当は予定になかったのだ。ただ純粋に、女性にフラれたらしい彼の不貞腐れるような、拗ねているような顔が子供っぽくて、可愛くて、思わずクスリと笑ってしまっただけだった。なのに、気がつけば家にまで上がらせてもらって、ならばせめて心の傷を少しでも、と深く話を聞くうちにあれよあれよとベッドに押し倒されていた。

    人肌の温もりが心を癒すこともある。
    そう思って、出会ったばかりの彼と肌を重ねた。

    ベッドサイドにあるティッシュを拝借してつい先ほどまで男を咥えていたそこを拭き、使い終わったそれを丸めてゴミ箱に放り込む。次いで、俯せに寝ている彼の体を仰向けにして、相当溜まっていたのか、かなりの量の精液で満たされているゴムを外して口を縛り、同じくゴミ箱へ。それから元気を失って落ち着きを見せるそれに付着している白もきちんと綺麗にしてあげて、最後に自身の手荷物からウェットティッシュを取り出して手を拭いた。そうやって事後処理を手早く終えたところで、ズキンと不意に脇腹が痛んだ。その痛みに、そういえば、と思い出す。

    痛くも、怖くもないセックスはいつぶりだろうか。スリ、と恋人に性欲処理を命じられ、もっと締めろと殴られたそこを押さえて、気持ちよさそうに眠る男に目を向ける。

    こんなに優しく抱かれるとは思わなかった。男の絶頂とは違う、終わりのない雌の果てを味わっている時に感じた彼の温もり。思い出すだけで、いけないとわかっていながらも、存在しないはずの子を成す器官がキュンと疼くような錯覚を覚えてしまう。

    「……すまない」

    彼は女性を愛する異性愛者だ。そんな彼に求められたとはいえ、こんなことは本来するべきじゃなかった。

    これは、一夜の過ち。
    互いに酒に浮かされて見た都合のいい夢。

    そう思うことにしよう。
    泊めてくれるつもりでいたらしいが、このまま彼の傍にいてはまた恋人の機嫌を損ねることになるかもしれないと、身なりを整えた俺はその場を後にした。

    さようなら、名前も知らない優しい人。



    バイトもその他の予定もないまだ明るい真っ昼間。彼と肌を重ねたのと同じ草臥れたベッドの上で、あんあんとジャズの中で聞いたあの声とは違う、耳障りで喧しい甲高い声で女が鳴いている。

    目の前にいるのは、記憶が定かではないがオレのバイト先によく来ていたと思われる客の女。邪魔なことこの上ないがある日のバイト終わりに出待ちの末告白され、後はいつもの流れで現在に至っている。しかし、今回の交際は何もかもが違った。一体何が違うのかと言えば、主にオレの精神状態が、である。

    オレの下で善がっている女はオレが今まで付き合ってきた女の中ではかなり平均的な容姿をしていた。デカいというわけではないが、皆無でもない胸に、顔も美人とは言い切れないが、まぁ悪くはない。つまり抱くのに苦労しない程度の身体スペックは持っている。だから自分が気持ちよくなれるよう腰を振って適当に奥を突けば、双方満足できるはずだった。なのに、オレの思考を埋め尽くすのは眼前の女などではなく。

    『……んんッ……ぁっ、ん……っ!』
    『ぁっ、ゃぁ!?そこ……ゃっ、だめ……んんんっ!!』

    バカみたいに酒を飲んでいたのに、どうしてか鮮明に覚えているあの声が脳内にリフレインする。

    淡く桜色に染まった目元と頬が青白い月光に照らされ夜桜のように美しく、儚く。恥じらうように手の甲で隠された口からは、押さえきれない嬌声が漏れ出ていた。そしてそんな彼の中はオレを柔らかく抱き締めてくれて、優しく、激しく、手を引くようにオレを絶頂へと導いてくれる。ただ女というだけで労せず男を受け入れて刺激を与えてくるこの穴とは違う。彼のそれには男という生き物への愛があった。

    どれもこれもこの品もなく股を開いて、大声で喘ぐこの女とは大違い。その違いに思わず眉間に皺が寄り、火照っていた体が、急速に体温を下げて落ち着きを取り戻していく。

    (……マジか……)

    これまでなったことのない己の体に起きた異変にオレはズルリと女の穴から自身を引き抜いた。オレの突然の行動に「なんで」「どうして」と女の声が聞こえてくるが、もう彼女に興味はなく、そのままシャワーでも浴びようとベッドから降りようとするオレの手に女のそれが伸ばされる。鬱陶しいそれを反射的に避けると「ねぇ、なんで!?」と今度は金切り声を上げ始めたので、オレは段々と込み上げる苛立ちを隠しもせずに一瞥した。

    「萎えた」

    オレの言葉にキーキーとまたそれは何かを喚いていたが、そんなものはどうだってよかった。それよりも重要なのは、どうして体がこんな反応を示したのかだ。先ほどまで兆していたオレのそれは、今見事にやる気を失って股の間にぶら下がっている。その原因はどう考えても、ひとつだけ。それはきっと。

    (……名前、聞いときゃよかったな)

    彼との夢のような熱い夜から、すでにひと月の時が過ぎていた。それは考えるには十分すぎる時間。考えて、違うかもしれないと、また女と付き合って、そして、今答えは出た。

    オレは呼びかけるための名前も知らない美しい青に恋をしている。



    フライパンの上でこんがりと焼けた、野菜を練り込んだ肉の塊をフライ返しで掬い上げて、焼いている間に作っておいたポテトサラダが乗っているお皿の上に盛り付ける。形も焼き加減も恋人である彼の好みの通りに完璧に作ったワンプレート。後は残った肉汁でソースを作って、彼の帰宅に合わせてご飯を盛り付ければ夕飯のできあがり。

    (今日は食べてもらえるだろうか)

    一昨日は朝に食べたいと言われたムニエルを作ったが、気分ではないとひと口も食べてはもらえず、その後作り直せと言われたメニューは材料が足りずに彼に手を上げさせる結果となったし、昨日は彼の帰宅が予定より早くて調理が間に合わず、結局怒らせてしまった。ここのところ上手くいっていないから、これで喜んでもらえればいいのだが。

    (……いや、もうわかっている)

    きっとこれも彼の口には入らない。よくて俺の翌日の食事になるか、最悪床に投げ捨てられるか。そのどちらかだ。わかっている。それでも俺は毎日、恋人の食事を用意する。

    少しでも彼の機嫌がよくなるように。殴られないように。怒鳴られないように。そして、捨てられないように。

    (俺達に、愛はあるのだろうか)

    それだって、とっくの昔に気づいている。ただ、それを信じたくないだけだ。一度必要とされて囁かれた愛を、信じていたいだけなのだ。信じて尽くせば、きっとあの頃の彼に戻ってくれる、と。もうあり得ないのだと、今の彼が真実の姿なのだと、わかっていたとしても夢を見ていたかった。

    ソースを作り終え、ハンバーグにかけたところで玄関のドアが開かれる音が聞こえてご飯の盛り付けに取り掛かる。けれど、電話をしているらしい彼の声が怒声であることがわかり、あぁ、と嘆息した。

    どうやら、今日の料理も行先は床の上のようだ。

    (……このプレート、気に入っていたのだが……)

    割れなければいいな、と他人事のようにぼんやりと考えて、そういえば、と脳裏に過ぎった姿に俺はまた思考の海に逃避する。

    古ぼけたアパートに住んでいる優しい彼は、きちんと食事は取れているのだろうか。飲み直しにと上がらせてもらった時に見た冷蔵庫は、お酒は潤沢なように見えたが、食材は詰まっているのか。ふと気になって心配になる。

    ひとつになった時に触れ合った肉体は見た目以上にがっちりとして、逞しかったから栄養が足りていないということはないだろうが、好きな物ばかり食べて健康を害していないだろうか。そんなことを気にしたところでもう会えないのだが、どうしてかあの夜から、優しかった彼のことを考えるようになっていた。

    そしてまた、手に持ったこれから捨てられる料理を見て、俺は夢想する。

    もしも。もしもの話だ。あの優しい彼ならば俺の料理を食べてくれたり、するのだろうか。
    美味しい、と、言ってくれるのだろうか。

    俺は呼びかけるための名も知らない優しい彼の温もりに、夢を見ていた。

    傷だらけの僕らは惹かれ合う

    「……あ?……あぁ、別に貸してやっても……あ?いや別に気にすんなよ、それしか取り柄ねぇし」

    ソファに座って誰かと通話する彼の足元に座り込み、股座に顔を埋めて起立した男の象徴に舌を這わせる。裏筋を尖らせた舌でなぞり、カリ首を優しく舐め上げて、鈴口はほじるように。彼が感じ、好む順番で刺激を与えると、ぐしゃりと髪を掴まれて頭を股の方へと押し付けられた。俺は抵抗せずにされるがまま、求められるがままに男性器を咥え、今度は喉の奥まで彼のそれを迎え入れて歯を当てないよう細心の注意を払いつつ、ぐぽぐぽと口を窄めてしゃぶる。

    「まぁ、具合だけなら1級品だからな……っと、悪い」

    相手に断りを入れて携帯を横に置いた彼が、この日初めて俺へ目を向けた。そして髪を掴んだ手に力を込めて頭を固定すると、腰を突き上げて俺の喉奥にドロドロとした液体を放つ。

    「オラッ、全部零さず飲めよ……!」

    最奥にて数度に分けられて出されるそれ。これまで何度も受け止め飲んできたが、今日は上手く飲み込めず喉に引っ掛かるような感覚がしてゲホゲホと咳き込んでしまった。俺の口から吐き出された白が床を汚す。それが生理的に出る涙で歪む視界の端に見えた瞬間、俺は次に来るであろう痛みに身を固くした。

    「飲めつっただろうが!!」

    掴まれた髪を引っ張られて体ごと持ち上げられ、それに呻くより先に頬を強い衝撃が襲い、俺は床に叩きつけられる。

    「……っ、ぁ……ごめっ、なさ……」

    殴り飛ばされ倒れた俺をまた髪を掴んで起き上がらせた彼はソファの上に投げ捨てると、ズボンと下着を力任せに引っ張って下半身を露出させる。

    「ケツ上げろ」
    「……ひっ……ぅ………は、い……」

    使えねぇな、とベシンと素肌を叩かれながら四つん這いになり、尻のみを高く上げた体勢を取るとテーブル下の収納に置かれたローションボトルの口を尻に突き入れられ、そのまま中身を注がれた。冷たいままのそれが腸へと流れ込み、体内を冷やされてぶるりと震える。

    「……ったく、顔とケツマンしか取り柄のねぇやつだな」

    吐き捨てるように彼はそう言ってボトルを床に放り、まだ男を受け入れる準備の整っていない固く閉ざされているそこに勃起した切っ先を当て、そして。

    「っ、ぐ……ぁあ……ッ!!」

    肉が引き裂かれる激痛。飲めなかった瞬間にこうなるとわかってはいたけれど、この痛みには慣れることはない。意識が遠のくほどのそれに拳を強く握ることで、何とか耐える。尻から垂れた何かが太腿を伝う感覚がして、あぁ、切れたんだな、と他人事のように思った。ぐちゅ、ぶちゅり、と抽挿のたび大量のローションが彼の剛直に押されて俺の腹を圧迫する。

    「鳴いてねぇでちゃんとケツマン締めろ!それしか能ねぇんだからよ!!」

    背後から聞こえた怒声と舌打ちの音にビクンと反射的に身構えると、スパンキングと呼ぶにはあまりにもプレイの域を逸脱した力で思い切り尻たぶを叩かれる。

    「ゃっ、……ごめ……なさ……ぁッ!」

    叩かれて、突かれて、罵られて。痛みに力めば中にいる彼を締めつけてしまい、挿入時に切れたそこがまた痛んで、それから逃げようと力を抜けば、緩めるなとまた暴力を振るわれた。

    苦しい。
    痛い。
    怖い。

    もうずっと、愛しいはずの恋人とのセックスで俺の心を染めるのは、そんな感情だ。今はこうでも、最初はこんな関係ではなかったはずなのに、どこで間違えてしまったのだろう。いつから俺達は歪んでしまったのだろう。

    愛しい人とのセックスとは、本来どのようなものだっただろうか。

    閉じた瞼に映るのは今俺を抱く恋人ではなく、いつかの優しいオレンジ色。



    慣れ親しんだ悪夢が終わり、傷ついた患部の治療もすませた俺は1人、フラフラと夜の街を歩く。

    飲み屋をハシゴするサラリーマンに、何かの打ち上げをしているらしい陽気な男女複数人のグループ。それと、おそらくこの時間にいてはいけないはずの学生と思われる歳若い女性と、その隣にいる不釣り合いな大人の男性。様々な人が様々な事情と目的を持ってこの通りに集まる。そんなここは俺にとって妙に落ち着く場所だった。けれど、今日はここが目的ではない。

    携帯の画面で前回そこに行った時と違う時刻であることを確認する。それにどれほどの意味があるかはわからない。だが、何もしないよりは幾分かいいと思った。その方が「できる限りのことはしたがダメだった」と言い訳ができる。何への言い訳かはあまり深く考えないでほしい。

    ホームグラウンドとも呼べるそこを過ぎて、普段は行かない通りへ。そしてさらにその奥、隠れるように脇道に一本入ったそこ。その並びにあるバーがこの日の目的地。

    ここに2度も来るつもりはなかったのに、また来てしまった。ここでなら、あの夢のような夜に浸れるような、あの幸せな時間に、より深く溺れられるような。そんな気がして、気がつけば家を出ていた。

    あぁ、けれど、名も知らぬ彼にはできるなら会いたくない。
    きっと会ってしまったら、その優しさに縋ってしまうから。



    己の恋心を理解したあの日から、オレは毎日のように夜の街を駆け巡っていた。すべてはあの青色に再び会うために。

    探すにあたって、オレが彼について知っている情報はたった2つ。

    ひとつ、顔がそれなり広いオレがまったく知らなかったことから、あのバー周辺にはあまり来ていないのだろうということ。
    あれほど人目を引きまくる整った容姿で夜の街にいて、噂のひとつも立たない、となれば、これはおそらく合ってる、と思う。

    ふたつ、彼はおそらくゲイ、もしくはバイであるということ。
    あの夜。オレの人生を変えたあの日、彼はとても男に抱かれるということに慣れていた。男が男に抱かれ慣れている理由。そんなのはひとつだけ。だから、これも合っているだろう。

    オレが知っているのは、たったこれだけだ。
    自分でも思う。よくこれで恋をしたな、と。今は関心がなさすぎてもう思い出せないが、きっと交際していた時の女達の方がずっとオレは人となりを知っているだろう。それでも。たとえそうだとしても、オレの心は今もあの青色を求めていた。

    はぁ、と自身の置かれている状況に大きく息を吐く。毎夜時間の許す限りバーや酒を飲める場所を巡っては愛しの彼の姿を探しているが、まったく影も形も、名前すらわからない。思い切ってゲイバーにも足を運んで彼について聞いて回りもしたがこれと言った収穫はなく、ただオレが無駄に陽気で仕草が女っぽい男にケツを撫でられただけだった。もうああいった店には行かない。

    「いいよなー!お前は!美人の恋人がいてよー!」

    たまたま立ち寄ったファミレス。こちらが休日の昼間から鬱々としている中、俺が通された席の通路を挟んだ隣の席から、この時間から酔っ払っているのかと疑いたくなるほどの声量が聞こえてきた。チラリと横目で見れば、足をだらしなく投げ出して座り、頭の横を刈り上げたあまり頭のデキが良くなさそうな男が携帯を耳に当てて喋っている。内容は、オレが今あまり聞きたくないもののようだ。

    「しかも今もよろしくヤってんだろ?いいご身分だよな!マジどうやって射止めたんだよ!」

    こちらの気など知らない男がゲラゲラと笑う。オレは気を紛らわせるため手元にある水を1口含んで使う予定のない喉を潤した。冷たいそれが体内を冷やしながら巡り、胃に落ちていく。

    美しい彼に懸想するようになってから、オレは自身の部屋には長居せず、こうして金を払ってまで外にいることが増えた。というのも、どうしてもあの部屋にいると、彼と繋がったあのベッドに目が行ってしまって……あとは察してほしい。しかし、あの夜の後に女と過ごすこともあり、あのベッドで女を抱いたことも数度あった。今思えば、あれはあのベッドではなく多少金はかかるがホテルでヤるべきだった。彼女達に罪はないのだろうが、何となく彼との思い出の場所を汚された気がして、腹が立つ。

    「……え?……は?いいのか?お前らそんな状態でも付き合ってんだろ?」

    隣の男の煩わしい声と様々な記憶からふつふつと湧きそうになる感情を抑えるため、もう一度、冷たいそれに口をつける。こんなに誰かを好きになることが、想うことが辛いことだとは思わなかった。今までオレが恋愛だと思っていたものが、子供のごっこ遊びであったことをつくづく思い知らされる。

    (どこにいんだよ……)

    会いたい。会って、この気持ちを伝えたい。1人で抱えるにはあまりに大きすぎるこれを吐き出してしまいたい。たった一度会って、アルコールに浮かされて肌を重ねただけの関係でそんなことをされても、相手には迷惑かもしれない。けれど、それでもこの歳で芽吹いた初めての恋。伝えず、何もせずに捨ててしまうことはできない。

    「お待たせしました」

    やって来た店員がコトリと目の前に注文していた品を置いてそのまま立ち去り、隣の客は誰に止められることもなくまだ騒いでいた。

    うるせぇな、とただでさえうるさい声量に加えて、電話という片一方の言葉しか聞こえない会話に悪態をつき、オレは運ばれてきたパンケーキにフォークを突き刺した。

    「恋人相手にその言い方とか、さすがに冬弥さんが可哀想になってくるわ」

    誰だよ、冬弥って。
    口に入れたパンケーキはファミレスのクオリティを超えていると話題になっていたもののはずなのに、不思議と味がしなかった。



    この日も開店直後から数店舗のバーを渡り歩き、けれど追い求める姿を見つけることはできなかった。時刻はそろそろ学生であれば警察に声をかけられるであろう時間。いくつか店を回るうちに、気がつけばこんな時間になってしまった。

    また会えなかった。

    もしかして、あまり酒を飲みに行くタイプでもないのだろうか。そうならば、もう打つ手はない。元々見つけられるような情報だってほとんど持ってはいなかったのだ。諦めるしかないのか。

    (クソっ、諦められるかよ……)

    こんなにも、恋焦がれているのに。
    後ろ向きになりそうになる思考を、頭を振って追い出す。きっと空振り続きで落ち込んでいるだけだ。こんな時はあそこに行こう。そうすればあの時の気持ちを思い出して、また前を向ける。

    彼と初めて会った、あのバーへ。

    傷だらけの僕は臆病で愚かしい

    通い慣れた道をいつもより遅い時間に歩み、経年で劣化した木製の扉を開けると、中に流れるあの日と同じジャズの音色がオレを出迎えてくれた。彼を求めるあまり様々な店を見る機会が増えたが、やはりここが一番落ち着く。

    癖のようにカウンター席へ目を向けて、そこでオレの足は、いや、呼吸から時間、何から何まで。オレのすべてがその役目を忘れて静止した。そこにいたのはオレが求めて止まない愛しい青色。今は照明に照らされて色味が変わって見えるが、あぁ、けれど、見間違うはずはない。

    彼だ。

    一夜でオレの心を掴んで、そのまま無情にも姿を消した彼が、あの夜と同じ席に座っている。

    その青に心臓が壊れたのではないかと心配になるほど大きく脈打ち、緊張に呼吸が浅くなる。すぐに駆け寄って声をかけたいのに、踏み出す足が震える。もどかしい。何日も何日も、探して、求めて、夢にまで見た想い人が目の前にいるのに、思うように体が動かない。

    (……焦るな、落ち着け……)

    深呼吸を一度、二度、と繰り返し、ドクンドクンと血を大量に送り出す心臓を鎮めて、地面を蹴る。彼まではたった数メートル。そんなに広くないこの店のオレが気に入っている席の隣は、出入口からそう遠くはない。そのなんてことのない距離を何度も躓きそうになりながら、オレは走るように歩いた。

    「あ、あの……!」

    張り付いた喉を意地でこじ開けて、声を出す。その際、気持ちごと体が前のめりになりすぎてカウンターに手を付くことになったが、それをカッコ悪いと気にする余裕すらオレにはなかった。そして、ついにその時が来る。

    カクテルグラスの中を見つめていた彼がオレの方へと振り返り、記憶の中にあるのと同じオレンジの光を受けて輝く白銀が、オレを捉える。たったそれだけのことを、幾夜夢見てきただろうか。視線が交わっただけで、オレの体は歓喜に震えた。

    「………あっ……」

    小さく漏れた彼の声は相も変わらず透き通っていて、耳に心地いい。オレを見上げるツリ目の銀色が大きく見開かれて、そして、バっ、とマスターの方を見て立ち上がり、懐から財布が取り出される。

    「……は、えっ……!?」

    その行動はどう考えても会計。バーでの会計が意味するものは、つまり。

    「ちょっ、ちょっと待っ……待て!待って……ください!」

    慌ててマスターへ声をかけようとする彼の手を握りそれを阻むと、ビクンと彼の体が跳ねる。こちらが驚いてしまうその反応に掴んだ白魚を離してしまいそうになるが、手を離せばもう二度と会えないような気がして、それはできなかった。

    「……少しだけ、少しだけでいいんだ……話が、したい」

    あの日のように。そして、可能ならば気持ちを伝えたい。彼を握る手に思わず力が入る。彼は俯いていて、表情は読めなかった。

    「……して、くれ……」
    「……え?」

    ポツリ、と零された声はあまりにも小さくて、店内に流れるメロディに潰されてよく聞こえず、聞き返すと、こちらを伺うように見た彼が途切れ途切れに言う。

    「手を、はなして、くれ……痛い」
    「…………っ、悪い……!」

    痛い、という言葉に直前ではそうすることを躊躇っていた癖に、反射的にパッと手を離す。すると本当に痛かったらしい彼はスリスリとオレに掴まれていた手を労わるように撫でていた。クソっ、と心の内で自身に吐き捨てる。人に与える第一印象など気にしたことはないし、二度目なのだから正確には第一印象ではないのだろうが、いきなりでこれは、あまりにも印象が悪すぎだ。

    こんな時、どうしていたんだったか。交際経験はかなり豊富であると自負はあるのに、どういうわけか何も頭に浮かんでこない。いや、どういうわけか、ではないか。相手によく思われたいと考えるほど、誰かを好きになったことがないからだ。だから、どうしたらいいのかわからない。

    「ぁ、え……と、悪い……どうしても、話がしたくて……だな……」
    「……話?俺と?」

    頷くと、きょとんとした彼が迷うように視線を泳がせた後、「あまり話すのは上手くないぞ」と前置きをした上で元の席へと戻ってくれた。オレもそれに倣い、いつもの席に腰を落ち着けて、どうしてオレを見て逃げ出すように帰ろうとしたのかは気になるし、かなりショックではあったが、ひとまずスタートラインに立てたことに胸を撫で下ろす。

    マスターに前回のように途中で意識がなくなる、なんてことのないよう軽めのカクテルを頼み、目で騒いだことを謝ると、出来の悪い子供を見るような生暖かい目を返されてしまった。シャカシャカとマスターがシェイカーを振り始めた頃になってようやっと彼との再会に心が追いついたオレは隣に目を向ける。

    「そういえば、前、名前聞けてなかったよな」
    「……そう、だな……」
    「聞いても、大丈夫か?」
    「……ぅ、あ、あぁ……」

    あまり大丈夫ではなさそうな様子だが、彼の名前を聞かせてもらえるならば、できれば聞きたい。そんな思いでオレは自分の名を告げ、彼のそれを待つ。彼はやはり迷うような、戸惑うような仕草をしてから、その桜色の唇を開いた。

    「青柳、冬弥だ」
    「………冬弥、か……」

    ずっと呼びたかった名前を声に乗せる。彼を表すそれは、とても口に馴染むものであった。

    それから、オレ達は色々な話をした。冬弥は聞き手に回ることも多かったが、前よりは自身の話をしてくれている。

    料理がかなりできること。仕事としてカフェでピアノの奏者をしていること。本を読むのが好きなこと。そして何よりオレを驚かせたのは、年齢が30歳であることだ。こんなに美人な三十路がいていいのか。若作りなんてものの次元を超えているにもほどがある。

    「すまない、前の時に年齢については言っておくべきだったな」

    すまなそうにそう言う彼になぜかと問うと、どこか気まずそうに冬弥は言った。

    「俺が三十路のおじさん……なんて、知っていたらしなかっただろう?」

    何を、とはあえて言わない言い回しだが、オレはあの夜について言っているのだとすぐにわかった。即座に首を横に振り、彼の言葉を否定する。たとえ年齢を知っていたとしても、オレはあの夜絶対に彼を抱いた。そんなことは思案せずともわかる。

    「した、しました……絶対に……!」
    「ふふ、ありがとう、彰人。お世辞でもそう言ってもらえると嬉しい」
    「……いや、お世辞なんかじゃ……!」

    優しく、ふわりと冬弥が笑う。酒が入っているからか、あの夜のように目元が淡く色づいていて、泣きぼくろと相まって艶やかな色気を放っていた。あぁ、そんな彼が、冬弥が、オレの名前を呼んでくれている。オレの隣で話している。かつては女を抱いても、愛を示されても、まったく心は動かなかったのに、ただ名前を呼ばれただけで胸が破裂しそうなほど高鳴って、隣にいてくれるだけで他には何もいらないと思えてしまうほど、幸せだった。

    そんなオレ達の間に流れる空気はとても穏やかで、冬弥の表情も出会い頭に帰ろうとしたとは思えないほどに柔らかい。だからこそ、オレは気になって仕方がなかった。白くシミひとつない綺麗な彼の頬に貼り付けられている、湿布。再会してすぐは緊張で気づけなかったが、それが解れてからはそこばかりに目が行ってしまう。肩や額ならば特に気にならないが、訳もなく顔にそれを貼る人間はいない。一体、彼の身に何が。

    オレがそこに視線をやりすぎたのだろう。ポツポツとゆっくり話していた彼が、前にもよく見せてくれた可愛らしい困った顔で首を傾げた。

    「頬がそんなに気になるのか?」
    「まぁ……どうしたんすか、それ……」
    「無理に敬語は使わなくていいぞ、彰人」

    おかしそうに笑った彼は、けれど言葉を切った後その表情を固くして、逡巡するようにふるりと長い睫毛を震わせてから、また、笑った。しかしその顔はオレに何度も可愛らしいと思わせてくれたそれとは似ても似つかない、まるで泣くのを我慢する子供のようなそれだった。

    「お付き合いをしている彼が、少し……少しだけ、情熱的なんだ」
    「…………は?」

    彼が何を言っているのかが、よく理解できなかった。そもそも恋人がいたのか、それも彼氏なのか。ならばやはり思っていた通り、冬弥はゲイなのか。だとしたら男のオレにも望みはあるのか、いや、交際中ならないのか。与えられた情報量の多さに頭が一気にパンクしそうになるが、それはこの際どうだっていい。今はそんなことよりも優先すべきことがある。

    彼氏が情熱的だから、頬に湿布を貼らなければならないとは、どういうことだ。

    顔で額ではない場所に湿布を貼ることなど、早々ない。強くどこかにぶつけたり、それこそ殴られでもしない限りは。ギリッ、と歯を噛み締める。

    冬弥は恋人に手を上げられているのか。

    (…………んだよ、それ……)

    悔しかった。オレが欲しくて堪らないその椅子を勝ち取り、オレが欲しくて堪らない冬弥の愛を受け取ることを許された見知らぬ男が、オレが愛する冬弥にこんな顔をさせて、あまつさえ、傷つけていることが。

    「オレならお前にそんな顔させねぇのに……」

    思わず出てしまった言葉に、慌てて冬弥へと視線を向けたところでまた、オレの時は止まった。冬弥はどこか遠くを、または届かぬ夢を見ているような表情をしていた。先ほどまでとも、オレと談笑している時とも違うそれにオレは息を飲んだ。

    「彰人と、もっと早くに出会えていたなら、違う未来が待っていたのかもしれないな」

    流れるジャズに消えて、溶けてしまいそうな声色でそう言った冬弥があまりにも儚くて。今にもどこかに消えてしまいそうで、オレは自身の発言の真意を誤魔化すことも忘れて、カウンターの上の白い手に己のそれを重ねてギュッと握る。

    『もっと早くに出会えていたなら』

    そう願ってくれるなら。手を上げる男よりも、オレを選んでくれるなら。まだ一緒にいた時間こそ少ないが、そんなのはこれから増やしていけばいい。

    喉が、唇が、ぶり返す緊張で震える。告白なんて、今までしたことがない。したいとも思ったことはなかった。けれど、男にはやらなきゃならない時がある。

    すぅ……と息を吸って、その言葉を音にした。

    「なぁ……それ、今からじゃ……ダメなのか?」

    見開かれた銀色はあの日のように照明のオレンジに照らされて、けれどキラリと煌めくそれはあの日よりも潤み、彼は変わらず困ったような表情で笑っている。微笑んではいたが、しかし、見えない涙がたしかにオレには見えていた。

    「ありがとう。その言葉だけで俺は十分救われた」

    重ねた手を、もう片方の手でそっと持ち上げられて離される。それが答え、ということなのだろう。唇を噛み、瞳に見えない涙を溜めた冬弥は、「マスター、チェックで」と言って「いいんですか」とオレに視線を投げかけるマスターにも頷いて、手早く支払いを終えてしまう。

    「………っ、冬弥……なんでだよ……なんで、そんな……」
    「きっと」

    自分を幸せにしてくれない男のもとへ帰ろうとする?
    そう問おうとするオレを遮って、店の外へと繋がる扉に手をかけた冬弥は、こちらを見るとこもなく告げた。

    「きっと、彰人と結婚する女性は、幸せ……なんだろうな」

    今日はありがとう、久しぶりに楽しかった。

    その声が震えているような気がして、咄嗟にオレは駆け出した。けれど、彼に手が触れるよりも早く、バタン、と無慈悲に扉は閉ざされる。それもまた、彼からの答えだった。冬弥は待ってはくれなかった。オレの手を取ってはくれなかった。

    「………っ、く……ぅ……」

    固く閉ざされた扉に拳を叩きつけ、そのままズルズルと崩れ落ちて、瞳から溢れ出た幾筋ものそれが頬を濡らした。

    オレに救われた、と彼は言った。だが、それは違う。これまでの人生をなぁなぁで生きて、腐りきっていたオレがこんなにも誰かを愛することができた。必死に求めて、他人を想うことができた。愛を知ることで、オレはやっと人になれたのだ。だから、違う。

    本当に、救われていたのは。

    「……オレの方なんだ……冬弥……!」

    ドン、と届かなかった想いをぶつけるように再度扉を殴るオレの背後で、応えるように冬弥が飲んでいたアメリカーノのグラスに残った氷が、カラン、と鳴った。



    バタン、と扉が閉まる音に、やってしまった、とツキリと痛む胸を押さえた。あぁ、こんなところまであの夜と同じでなくていいのに、と俺は自らを嘲笑う。一度、感情を表に出すと、もう、ダメだった。ボロボロと我慢していたそれらが決壊して止める術もなく、零れていく。

    手を離したのは、優しく重ねられたそれを拒んだのは、俺の方なのに。

    元々フラついていた体は不安定な精神に引っ張られて己の体重すら支えることもできなくなり、俺は情けなくも背後の扉に背を預ける形で、地面へとへたり込む。扉の向こうから、彰人だろうか、ドン、と叩かれる衝撃を感じた。それが、まるで臆病な俺を責めているように思えて胸が締めつけられる。

    (……ごめんなさい、ごめんなさい……)

    こんな俺に手を差し伸べてくれたのに。
    再会してすぐ逃げようとした俺を引き止め、握ってくれた手に唇を寄せる。まさか会えるとも思っていなかったのに、手まで握ってくれるとは思わず、高鳴る胸が苦しくて、彼は強い力で握ったわけでもないのに「痛い」なんて嘘を言ってしまった。

    あぁ、もう……こうなってしまったら、自分を誤魔化せない。これまでずっと、どんなに暴力を振るわれようと彼が好きなのだと言い聞かせて、だから大丈夫だと自らを騙してきたのに。こんな気持ちを知ってしまったら、もうダメだ。

    冬弥、と俺の名を呼ぶ声が、扉の向こうから聞こえてきて、ぶわりと体が熱くなる。

    (………あき、と……)

    応えたかった、本当は。叶うのなら、手を握り返したかった。「今からじゃダメなのか」と言ってくれた彼の胸に、飛び込んでしまいたかった。けれど、それを俺が望むたびに長い年月をかけて恋人の手で刻み込まれた見えない傷が、鎖となって俺の体を縛りつけて動けなかった。

    (……ごめんなさい、あきと……)

    恐怖に負けるような臆病者でごめんなさい。愛を受け取ることもできない癖に、彰人の人生に割り込んでしまって、ごめんなさい。どうか、どうか、忘れて。俺のことなど忘れて。そして、幸せになって。

    いつまでもここにいてはお店の邪魔になってしまうと、扉を支えに立ち上がり、恋人が待つ監獄へ帰るための一歩を俺は踏み出した。

    さようなら、誰よりも優しい、俺の初恋の人。
    できることなら、あなただけでも幸せでいて。

    傷だらけの僕は太陽に想いを馳せる

    彼に捧げることもできず、けれども捨てることもできない俺の気持ちを、愛しい人の手を取れなかったあの日に置き去りにして、季節はひと巡りした。あれから俺は一度もあのバーにも、その周辺にも行っていない。もちろん、彼の家にも。たったそれだけのことで連絡先を知らない彼とは、顔を合わせることはなくなった。俺と彼との繋がりは所詮、そんなことで途切れてしまうほど薄氷の上に成り立っているものだったのだ。

    仕事が終わり、恋人から頼まれた用事もすませてガチャリと恋人と暮らす自宅のドアノブを捻り屋内に入ると、リビングから複数の声が聞こえてきて、息を吐く。今日も、ここは相も変わらず俺にとって監獄であり、地獄であるようだ。靴を脱いで揃えてから、俺は廊下を進む。ドアを開けた音で気がついたのだろう。賑わうリビングから恋人が出てきて、俺を出迎えてくれた。本当の愛の形を知ってしまった今となっては、特に嬉しくはないが。

    「遅かったな」
    「ごめんなさい、少し時間がかかってしまって……」

    以前ならばここで一度殴られていたが、今の彼は俺にあまり手を上げたりはしない。興味がない、とも言えるか。謝る俺を鼻で笑った彼は「ん」と手を差し出す。それに慌てて俺は鞄の中から封筒を取り出して、彼の手の上に乗せた。

    「ちゃんと言った金額あるだろうな?」
    「はい、きちんと確認しました」

    俺の言葉に満足そうに笑った彼は「じゃあ、今日もしっかり稼げよ」と言って自宅を出ていく。ここ数ヶ月、彼にはお気に入りの男子大学生がいるようだから、今日も愛しのその子に会いに行くのだろう。バタン、と音を立てて閉まるドアと、遠ざかる足音にぼんやりと意識を向けて、俺はまた溜息をついた。俺が渡したあの札束はその彼へのお小遣いか、それともデート費用か。今日はどちらだろうか。どちらにしても、わざわざ銀行で綺麗な紙幣と取り替えるなんて手間をかけようと思うくらいには、若い大学生にご執心らしい。お金を稼ぐのも、取り替えるのもすべて俺なのだが、そこは彼にとってはさしたる問題ではないのだろう。

    帰宅してから3度目の溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げる、というが、今の俺に逃げるだけの幸せはあるのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、俺はガヤガヤと複数の声がするリビングのドアを開けた。

    (……5人、か)

    よかった、今日は少ない。

    ソファやテーブルが避けられ、中央にマットの敷かれたリビングにいたのは、5人の男性。彼らはみな服を脱ぎ、下着姿でリビングへと入ってきた俺を……いや、俺の体を食い入るように見てきた。ヒュゥ、とその中の誰かが口笛を吹く。

    「写真よりずっと美人じゃねぇか」
    「マジで30超えてんの?これで?」
    「んなこといいからさっさと始めようぜ」
    「あぁ、もう待てねぇよ……!!」

    ギラギラと獲物を見つけた獣のようにギラつく10個の瞳が俺を捉えて、その中の1人が出入口に立つ俺の手を引き、マットへと導いた。汚されたり引っ張られてダメにされては困るため手早く服をすべて脱げば、おぉ……と声が上がり、視線に熱が篭もる。毎回感じるそれを無視して、俺は口を開いた。

    「あの、金額については……」
    「それはさっきアンタの彼氏から聞いてる」
    「……そう……ですか」

    彼氏、という単語に違和感を覚えてしまうが、世間的に俺と彼の関係はそういうものであるため、そう呼称するのは正しいことなのだろう。恋人の体をこういったことに利用するのが正しいかどうかは別として。

    「それでは、よろしくお願いします」

    ぺこり、と俺はこれから金を出して俺を犯す男性達に頭を下げた。



    「……あぁあ……出るっ、出る出る!3発目……!」
    「ひぅ……ぁッ、あぁあ……ゃ、はげし……んぁあッ!」
    「ほら、お尻にばっかり夢中になってないで、俺にもご奉仕して?」
    「んッ、ぁっ、はい……ごめん、なさい……」

    勝手に出し続ける男の精を受け止めて、動物の交尾のような体勢で、パンっ、パンっ、と止まらないピストンに揺さぶられながら、目の前に差し出された男性器を俺は口に咥えた。たっぷりと唾液を出してそれを絡ませた舌でぐるりと舐り、頭を前後に動かす。引く時に唇を窄めてカリに引っかかるようにすれば、口淫を受けている男から情けない声が漏れ出た。

    (そういえば、彰人もここが好きだったな)

    彼の時は手だったが、彰人もここを責めると気持ちよさそうな顔をして、やめると強請るような目で俺を見てきた。

    (あの時の彰人は、可愛かったな)

    もっと気持ちよくしてあげたいと自分から思ったのは、あれが初めてだったように思う。あぁ、そう考えると、もうあの時点で俺は彼のことが好きだったのかもしれない。今さらそんなことに気づいたところで、遅いのだけど。

    差し伸べられた手を離したのは、俺なのだから。

    痛む胸に窓へと視線を向けると、帰ってきた時はまだ陽が落ちかけているくらいだったのに、そこから見える空には太陽を隠す夜の帳が下りていた。見たかったいつも俺を照らしてくれる明るいオレンジ色が見えなくなってしまったことに、胸の痛みが増していく。

    (………彰人……)

    彰人、彰人、とその資格もない癖に、助けを乞うように俺は心の内で彼の名を繰り返す。やはり、名前なんて聞くんじゃなかった。彼を表すものをこの体に残すべきではなかった。思い出だけに留めておけば、苦しみも減っただろうに。

    愛してなんて、我儘は言わない。冬弥、とまた優しく名前を呼んでほしい。いや、それですら強欲だと言うのなら、それも望まない。望まないから、ただもう一度だけ、彰人に会いたい。

    男達に犯されるのとは違う、感情の込められた涙が頬を濡らし、その名を間違っても口にしないように、より深く男を咥え込む。こんな穢れた空間に、愛しい3文字を出すわけにはいかない。

    「……いきなり締まっ……くっ……搾り取られる……!!」

    挿入前に今日のために自慰を禁じてきたと宣言していた男がドピュっ、とまだ勢いの衰えない4発目を俺の中に放つ。同時に吐精し終えた男の手で、数枚の紙幣が精液に塗れた俺の体に撒かれた。どうして彼らは俺の体にそれを投げたがるのだろうか。まったく理解に苦しむ。紙幣に付着した精液を拭き取るのは中々に面倒なのでやめてほしいのだが、言ったところで聞いてはもらえないので、もう諦めている。

    「クソっ、退け!」
    「あ、ちょ……!」
    「……っ、ゃぁああっ!」

    部屋の片隅で自らの手で慰めていた男が、抜かずに連続で4度出した男を跳ね除けて、ずぷりとペニスを力任せに突き入れてきた。入れる方向も何も考えられていないのか、腸壁のあらぬところが抉られて体が痛みを訴えてくるが、己の快楽のみを追い求める男達にはそんなことは関係ない。突然の痛みで止まったフェラチオを催促するように、俺の口に入れて黙っていた男が、ツートンの髪を掴んで腰を前後に動かし始める。

    「あーー、口マンコもすげぇ……腰止まんねぇ……!」
    「んんッ!……んっ、うぅ……んぐぅっ!!」
    「ねぇ、僕のもこの手でシコシコしてよ」

    そっと別の男が体を支えていた俺の手を取って、血管が浮き出て脈動に合わせ跳ねる己の男根を握らせる。それを手癖のように人差し指と親指で輪を作って、シュッ、シュッと擦ってやると、男はすぐに天を仰いで俺の横顔に白濁を吐き出し、男の達する早さに周囲から笑いが起きる。

    前と後ろ。どちらからも突かれ、揺られ、出されて、見られて。毎日、毎晩、全身をくまなく犯され尽くして、金を渡されて。その金で俺の彼氏と呼称される男は、今日も若い誰かと愛を紡いでいる。

    太陽は、まだ上らない。



    「それじゃあ、今日は気持ちよかったよ、またね」
    「はい、こちらこそ……ありがとうございました」

    リビングを出ていく彼らをマットに横になったまま目だけで見送り、ドロドロになった体を近くにあった真新しいタオルで拭く。腰も、尻も、口も。男達を満足させるのに使われた全身が悲鳴を上げていた。1人1人の回数が多く、夕方頃から始まり、すでに数時間ではすまないほどの時間が経過して、暗かった外は徐々に明るさを取り戻し、きっとすぐに太陽が上る。そうなれば、今度はカフェでピアノを弾かなければならない。こんな体では行けないから、出勤前に身を清めて、あぁ、その前にばら撒かれた紙幣を拾って精液を拭き取らなければ。それから食事は、作る時間も気力もないから数日前に買い置きしていたカップ麺ですませて、水分だけはきちんと取るようにしよう。眠る時間は、諦めるしかなさそうだ。

    「……ふふっ」

    まだ彼の名を知らなかった頃、彰人の食生活を心配していた俺がこれでは、笑えないな。窓の外で白み始めている空に愛しいオレンジ色を重ねて、俺は思う。今、彼は何をしているだろう。こんな時間だから眠っているだろうが、初めて会った夜のようにお酒を飲みすぎていたりはしないだろうか。そして、俺のことを忘れて、ちゃんと幸せになってくれただろうか。また女性に振られて、心を痛めていなければいいが。

    (いや、彰人なら心配はいらない、か)

    彰人はゲイである俺のこともあんなに優しく抱いてくれて、愛そうとまでしてくれた人だ。だからきっと大丈夫。

    そう信じることにして、仕事までにやることはたくさんあるが、まずは彼に渡すことになる紙幣を何とかしようと重たい体を持ち上げてマット中に散らばったそれを拾い上げ、床に並べてウエットティッシュで白濁を拭き取る。遊ぶために無駄に高く設定された金額のせいで枚数が多く、手早くやらなければそれだけで街が活動を始めるような時間になってしまう。俺は床にぺたりと座り込んで、黙々と自身の体に支払われたそれを清めた。

    今日もまた、無意味で無価値な1日が始まる。



    ポーン、と鍵盤を叩き、最後の1音までしっかりと奏でて担当している時間が終わりを告げる。今日も何とかやりきったが、これ以上演奏が酷くなるなら店長に言って休ませてもらわないといけないかもしれない。

    (頭が……ボーッとする……)

    集中力が続かない。生演奏が聴けることを売りにしているこの店で、奏者がこんなことでは折角聴きに来てくれているお客さんに失礼だ。拍手をくれる女性客に頭を下げて、俺はバックヤードへとそそくさと退散する。今は彼女達の声も、鳴らされる手の音も、頭に響いて痛かった。

    明らかな寝不足。理由なんて考えるまでもない。仕事が終わればすぐに始まる狂った宴は、バラつきはあれど朝方まで続く。俺ももう若いとはあまり言えない年齢だ。肉体的に酷使され続ければ疲労も溜まるし、どこかで限界が来てしまう。それがもう近くまで来ているのだろう。

    では、彼に「もう無理だ」と伝えるのか?
    いや、伝えたところでおそらく聞いてはくれない。そもそも彼の求める金額は増える一方で減ることはないし、体を売るのを止めれば俺の貯金から渡すことになるが、カフェでの収入ではとても彼の要求額を賄えない。だからあれは続けなければならない。

    こんな俺でも誰かを楽しませることができるこの仕事が好きだった。最初はたまたま俺はピアノを弾くことができて、たまたまピアノを弾ける人をこの店が探していただけだったけれど、今はここが唯一俺にとって青柳冬弥として求められ、安心できる場所になっている。俺が店に出る時間まで確認して聴きに来てくれるお客さんを、ガッカリさせたくはない。だから休みたくなはないが、他に打つ手がないのも事実。

    俺はどうしたらいいんだろう。

    「青柳くん」
    「……あっ、はい……なんですか?」

    帰り支度を整えていると突然呼ばれて、肩が跳ねた。そちらを見ると、そこにいたのはこのカフェの店長で、今回の演奏について咎められるのかと無意識に体が強ばる。けれど店長は眉を八の字にして周囲を気にしてから、抑えた声で言った。

    「大丈夫かい?体調があまりよくなさそうだけど」
    「えっ、あ……はい、平気です。すみません、今日の演奏……あまり上手くできなくて……」
    「いいんだよ、調子の善し悪しくらい誰にだってある。むしろ君の場合はいつもが凄すぎるくらいだったし、誰も気にしてないさ」

    店長は明るく笑い飛ばすと、それよりも、と表情固くする。

    「大丈夫なのかい?ここ最近は見ていられないくらい体調が悪そうに見えるし……ほら、君の彼って少し……アレなんだろ?」

    店長は俺の恋愛対象が男性であることを知っている。というより、店長が俺をそういう意味で口説いてきた、というのが俺と店長の出会いだった。当時俺はもう今の彼とお付き合いをしていたので断ったのだが、ピアノ演奏を探しているというのでそちらのお誘いは受け入れて、今に至っている。そして、店長は俺の恋人の暴力性も、知っていた。そのため、この問いの真意は……。

    「大丈夫です。彼、最近は優しいんです。ほとんど手も上げられてませんし……」

    嘘はついていない。手を上げられてはいないし、嬉しそうな顔も見せてくれている。だから、嘘はついていない。

    俺の言葉に訝しむような目を見せつつも、それ以上語らないことを悟ったのか店長は「ならいいんだけど」と店の方へと戻って行った。

    (心配をかけてしまっていたんだな……)

    やはり、休みたくはない。これ以上の心配も、迷惑もかけたくはない。こんな俺を置いて、働かせてくれる店長のためにも。

    そうするのが正しいと、睡眠も栄養も欠いて正常な思考を行えなくなった頭はそう考えた。



    今日は人数こそ多かったが、犯される俺を見て興奮する変わった人が数人含まれていたため身体的負担は少なく、時間的にも早く終わることができた。しかし、店長に心配されてから数週間、体に起きている異常は当然のように改善はされず、悪化の一途を辿っている。例えば、頭がボーッとするだけではなくて、足元が覚束なくなって、抱かれている間には何度が意識が飛ぶようになっていた。

    けれど、幸い今日はまだ夜が明けていない。これなら早く事後処理を終えてしまえば、久しぶりに体を休めることができる。

    「……ぅっ……」

    だから早くすませてしまおうといつものように紙幣を拾うため体を起こすと、吐き気が込み上げて俺はマットの上に蹲る。ごぷり、と嫌な音を立てて尻穴から男達が吐き出した精液が溢れ出るが、それを気にする余裕もない。まともに物を入れなくなって久しいそこがぐるぐると変に動き、不快感を訴えてくる。

    これならトイレで吐き出してしまった方が楽だと立ち上がろうにも、体に力が入らず、犯された後というのもあり腰が痛んでまったく動けない。その間にも吐き気は増していき、胃液が喉を焼きながら体外を目指して上がってくる。

    ここで吐いてしまえば楽になれる。けれどそうするとその後に片付けの工程が追加され、また眠る時間は削られる。助けてくれる人など俺にいるはずもなく、どうすることもできない。何かが、俺の中で崩れ始める音がした。

    「……うぅ……っ、……も、やだぁ……」

    ぽたぽたと、汗とは違うものが決壊したように次々と頬を滑り落ち、誰に届くこともなく男達の欲で汚れたそれに飲み込まれていく。

    なんで、どうして、俺はこんなことをしているのだろう。
    こんなことを望んだことなど、一度だってないのに。
    交際を始めた頃はただ、好きな人を思って尽くしていただけなのに。

    どうして、こんなことになってしまったのだろう。

    口に手を当て吐き気に耐えていると、ガタン、と玄関から物音がして、次いで聞こえてきた声に俺は息を飲んだ。俺の耳朶を叩き、心臓を掴んだそれは今は俺の体で集められた金で大学生と遊んでいるはずの彼の怒声。以前はよく聞いていたが、ここ半年はまったくと言っていいほど聞かなくなったそれが、この家に響いている。

    ドスドスと怒りを顕にした足音と共にそれは俺のいるリビングに近づいてきて、数年にわたって教え込まれた恐怖は未だきちんと機能しているらしく、条件反射のように俺の体はカタカタと震え出す。吐き気も、涙も、俺の何もかもが恐怖の前にひれ伏した。

    開けっ放しだったドアからリビングへと来た彼はマットの上でへたり込んでいる俺の傍に歩み寄ると、この生活が始まってから薄くなり続けている俺の腹へと、思い切り爪先をめり込ませる。すっかり軽くなった俺の体は彼の蹴りで簡単に吹き飛んで、ゴロゴロと転がり、マットから落ちたことでようやく止まった。しかし、その1発では満足できなかったらしい彼は床に倒れた俺の髪を慣れた手つきで掴み、マットの上に投げ飛ばして仰向けに晒された白い腹を躊躇なく踏みつける。何度も、何度も、怒りを叩きつけるように。

    「あのクソガキ……っ!!!」
    「……ぐっ、ぁあっ!」
    「クソっ!!クソっ!!!」
    「ぃやぁっ!痛っ、あぁ!!」

    ミシリ、と聞こえてはいけない音が体内から聞こえた気がした。

    苦しい。
    痛い。
    怖い。

    (……たすけて)

    誰か。

    たすけて、















    あきと。

    傷だらけのキミは何よりも愛おしい

    訳もわからないまま振るわれた暴力は、結局彼の気がすむまで行われた。玩具のように蹴られ続けた俺の意識は途中で途切れ、目が覚めると、その日の客にばら撒かれた紙幣と共に彼の姿は消えていて、朝焼けの中に俺だけが惨めに転がっていた。

    まだ、生きている。

    判然としない頭でそんなことを思って、同時に、このまま消えてしまえばよかったのに、とも思った。男を喜ばせるためだけにある体と、恋人と言える関係であるはずの彼が、どこかの誰かと遊ぶために利用される人生。心は、初恋の彼を傷つけてしまったあの日で止まったまま。時間と共に彼との温かい交わりが薄れ、彼が触れてくれた温もりを見知らぬ男達に上書きされて、思い出が汚されてしまうくらいなら、まだ彼を覚えたままの俺で終わってしまいたかった。

    けれど、俺は生きている。息をしている。

    (……まだ、終われないのか……)

    この地獄から、抜け出すことは許されないのか。

    落胆しながらも癖のように時間を確認して、もうすぐ出勤しなければならないことがわかると、痛みを訴えるそれを無視して俺の体は勝手に出かける準備を始めていた。

    「……いっ、つぅ……」

    そうして、普段の倍以上の時間をかけ、歩くだけで痛む脇腹を押さえながらカフェまで辿り着いた俺は、出番まで椅子に座り今日弾く予定の曲目を確認する。視界が僅かにブレるが、これならまだ弾けるはず。怒り狂った彼が狙ったのが腹部だったのは、不幸中の幸いだった。この状態であれば、まだお客さんに隠し通せる。

    「青柳さん……その、もう時間だけど……」
    「……っ、すみません、行ってきます……!」
    「あ、いや……体調悪いなら休んで……」

    かけられた言葉にハッとして立ち上がり、激痛によろめきながら出入口へと足を向ける。慌てた声が背後で聞こえた気はしたが、それに答える余裕は申し訳ないことに俺にはなかった。消えるどころか動くたびに増し続ける痛みに倒れそうになりつつ、壁に手をついて普段ならばなんてことのない距離をフラフラと歩く。そしてコーヒーを片手に談笑するお客さんの時間を寄り良いものにするため、俺はピアノの前に立った。

    俺の存在に気がついた数人が、こちらを見る。その瞳の中に期待の色を見つけて、痛む脇腹をそっと撫でた。

    (……大丈夫)

    やるべきことはすべて体が覚えている。そう自分に言い聞かせて、椅子に腰掛けた俺は鍵盤に指を乗せた。



    トンネルを抜けるとそこは……というのは、とある有名な小説の書き出しとして知られているけれど、俺が目を開けると、そこには見知らぬ白い天井が広がっていた。

    (……ここは、どこだ?)

    首を傾げて目線だけで辺りを見回してみるが周囲はカーテンで仕切られており、状況はよくわからない。けれど、自身が寝かされている白いベッドの形はどこか見覚えがあり、さてなんだったか、とぼんやりする思考をゆっくりと時間をかけて巡らせ、あぁ、病院のものだ、と思い至る。しかしながら俺の中にある最後の記憶は、カフェでいつも通りピアノを弾いていたというところまで。こんな所に来た覚えはない。

    「青柳さん、起きてますかー?」
    「……えっ、あ、はい……」

    何があったのだろうと思案していると、看護師だろう女性の声がして、それに反射的に答えると「入りますよ」とひと言あった後にシャッ、と音を立ててカーテンが開けられた。人の良さそうな柔和な顔立ちのその女性は俺を見て、ホッとしたように息をつく。

    「よかった、目が覚めたんですね」
    「……はい、あの、俺……どうしてここに……?」
    「あー、そうですよね」

    困ったように笑った彼女は「先生を呼んできますね」と言って出て行くと、暫くして医師であろう若い男性を伴い戻って来た。

    男性が言うには、俺は突然カフェで倒れてこの病院に運び込まれ、その時点で酷く衰弱していた俺は昏々と3日ほど眠り続けたらしい。そして体の状態なのだが、過労に栄養失調、それから肋骨にヒビが入っていた、とのこと。なるほど、道理で脇腹が痛むわけだ。

    「すぐに退院させてもらえるのでしょうか……?」
    「それは難しいですね、かなり免疫も落ちてますし……今青柳さんには静養が必要ですから、1、2週間といったところですね」
    「……そう、ですか……」

    それで治るわけではないので、その後も自宅でしっかり療養してくださいね、と不思議と有無を言わせぬ圧を感じる笑顔で言われ、俺はこくん、と頷く。しかし、俺が3日眠り続けた、ということは、事実上俺の体を売って生活している彼の懐にはそれだけの間、お金が入ってきていない、ということだ。機嫌を損ねていなければいいが。

    まだヒビが治っていない脇腹について説明を終えると、床頭台の鍵を置いて医師も看護師の彼女もいなくなり、辺りが静寂に包まれる。医師達が出ていく際にカーテンの隙間から見えた限りここは数人でひと部屋のようだが、あまり騒ぐ人がいないのか、それとも不在なのか。廊下から人の声は聞こえてくるものの、それはどこか遠い。

    (……1、2週間……か)

    彼は俺の入院を知っているのだろうか。カフェで倒れたのなら、確実に知っているのはあの日のカフェにいた従業員と店長ということになる。それなら、昔から俺の恋人の気質を心配してくれていた店長のことだ。伝えてはいないだろう。

    (そうだ、携帯)

    何か連絡が来ているかもしれない、と上半身を起こして座り、床頭台の引き出しの鍵を開けて携帯を取り出す。切られていた電源を入れて、起動までの時間を妙にもどかしく思いながらホーム画面を開くと、ピコン、ピコン、と溜まっていたメッセージ達が次々に届いた。その表示された通知の内容に俺は目を見開き、息を飲む。

    『どこにいる』
    『金はどうした』
    『まさか浮気してないだろうな』
    『誰が居場所を作ってやったと思ってる』
    『お前みたいなビッチを愛してくれる男なんて他にいないってわかってるのか』

    それは、言ってしまえばただの文字の羅列。俺がよく読んでいる書籍と同じもので形成されているそれ。俺を傷つけるためのナイフとなったそれらの一番下。最も新しいメッセージが目に入り、俺の口から乾いた笑いが漏れた。

    『可愛い子見つけたから、もういいわ』

    こんなに簡単に終わるものなのか、と。たったこれだけで何年も縛られて、犯されて、それでも尽くして、尽くし続けた俺の時間はすべてなかったことになるのか、と。

    こんな終わりのために、あの日芽生えた恋の花は無惨に摘み取られてしまった、なんて。

    ふと窓から見上げた空はいつも見るそれよりもどこまでも澄んでいて、あまりにも綺麗なそれに目の奥が熱くなり、脇腹が痛むのも気にせず蹲る。

    彰人、俺はもしかしたら都合のいい男なのかもしれない。虫が良くて、我儘で、自分勝手な、一度彰人を傷つけてしまった、そんな男でも、彰人は言ってくれるだろうか。こんなにも汚れて、あれからたくさんの時が過ぎてしまったけれど。

    また、手を握ってくれるだろうか。

    これまで彼と過ごした年月と比べると短すぎる3日という空白で、その支配から呆気なく解き放たれた俺は、病院での治療に専念した。と言っても点滴を受けながら体を休めているだけで、苦労としたことと言えば、ずっとまともな食事をしていなかったからか、胃が普通の食事量を受け付けてくれなかったり、動くとヒビの入った脇腹が痛んだ程度。そうして1週間、2週間と日は進み、腰のコルセットも取れて、ゆっくりであれば普通に食事を取れるようになり、数日経った今日、俺は退院の日を迎えることができた。ちなみに入院している間、彼からは一度も連絡は来ていない。本当に、俺にはもう興味がないらしい。

    恋人に浮気の末捨てられたはずなのに、病院の廊下を進む俺の足取りは軽やかで、清々しささえ感じている。お世話になった看護師の女性に頭を下げロビーに行くとベンチに店長が座っており、彼は俺に気がつくと軽く手を上げた。

    「青柳くん、退院おめでとう」
    「はい、ご迷惑をおかけしました」

    店長には倒れた日はもちろん、頼れる人がいない俺の身の回りのサポートまでしてもらい、元から恩義は感じていたが、より一層、それが深まった。けれど店長は「いいんだよ」と笑って、そっと俺の腰に手を回す。

    「……店長?」
    「退院はできたけど、やっぱりまだ細いね」

    昔から細かったけど、これはさすがに……。
    そう言いながら、すり、とそこを撫でられて、俺は首を傾げた。そんな俺に苦笑した店長は、そう言えば、と声を上げる。

    「青柳くんを探してる子が店に来てたんだ」
    「……俺を?」

    一瞬、俺を捨てた彼かと心臓が跳ねたが、それにしては店長は明るい顔をしており、何となく違う人なのだろうな、というのがわかった。だが、その他に、俺を探すような人はいただろうか。

    「なんでも、『もう一度だけでいいから、会いたい』とかで……」

    その後に続いた言葉に、俺の心臓はドクンと大きく脈打ち、早鐘を打ち始めた。恐怖とは違うもので呼吸が僅かに乱れ、頬に熱が集まる。それを俺に言うのは、たった1人。愛しい太陽のようなオレンジを持つ彼。

    「まぁ、彼が来たのは1週間くらい前なんだけど……その顔を見る限り、どうするのかは決まってるみたいだね」
    「……はい」

    迷うことなく頷く俺を、楽しそうに見つめる店長は秘密話をするように、俺の耳元へ唇を寄せた。

    「フラれたらいつでも家においで。お酒の席でも、ベッドの上でも、好きな方で慰めてあげる」

    茶化すような声色にくすりと笑って、初めて会った時のように、けれど、その時よりもはっきりと俺は言葉を返す。

    「それは、遠慮させていただきます」

    この気持ちを彼に受け取ってもらえるかはわからないが、それでももう、彰人以外にこの体を許すつもりはない。

    「そう、それは残念。でも困ったらいつでも連絡くれていいからね」
    「はい、ありがとうございます」

    肩を竦めながら店長は笑い、俺も釣られて笑みが零れる。こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう。そんなことを考えながら、頭の片隅で伝え聞いた言葉を反芻する。店長へと託されて、たった今届いたそれ。

    『あのバーで待ってる』

    彰人、それはそういうことだと、期待して、夢を見てもいいのか?



    何時、という指定はなかったが、不思議と時間帯は予想がついて、その時間に俺はまたあの通りを抜けた先の脇道にあるその店の前に立っていた。初めて彰人に出会い、恋に落ちて、そして1年前に心を置き去りにした、すべての始まりの場所。

    この場所で、きっと何かがまた動き出す。それが何かはわからないし、もしかしたら、1週間も待たされた彰人はもう待ってはいないかもしれない。けれど、それならそれでいいと思った。この気持ちを抱えて、彼の幸せを願いながら生きていこうと、そう思えた。何がどう動いても、きっと今までの人生より幸福な未来が待っている。

    その確信を持って、俺は運命の扉を開いた。

    宝物のように大切な思い出と同じジャズが流れる店内は、あの日と同じようにオレンジ色の照明で落ち着く暗さに調節されている。たかが1年。されど1年。大昔、というほど前ではないのに感じる懐かしさに、胸の辺りをギュッと握って、かつて彼が座っていたカウンター席に目を向けた。

    「………………あっ……」

    そこにいたのは、オレンジ色。照明に照らされ、色を濃くした明るい太陽が、そこに座っていた。

    体が震える。何度、その姿を瞼の裏に描いただろう。何度、犯されて折れそうになる心を、その温もりに支えてもらっただろう。何度、その腕に抱かれたいと、夢を見てきただろう。足を1歩前に出せば、彼との距離がそれだけ縮まり、それを咎める人も、振り下ろされる拳も、どこにもない。何かに突き動かされ、1歩、もう1歩と歩を進めて、彼のもとへと駆け出すと、彼もこちらに気づいてくれて、澄んだ青朽葉が俺を写してくれた。

    あの日取りたかった、握りたくて仕方がなかった手を俺は自ら伸ばす。すると彼も席から立ち上がって、あの日のように俺に手を差し伸べてくれた。

    「………っ、彰人!」
    「冬弥さん!」

    触れ合った指先を絡めて、決してもう離れないように、俺達は互いのそれを握り合う。節くれだった男らしい手からじんわりと温かな温もりが伝わり、その熱が今まで想いを堰き止めてきた何かを溶かして、俺の頬を伝い落ちた。

    「……あき、と……」

    両手で彼の手を包む。ポタポタと彰人の手に落ちた涙が弾け、彰人の指がそれにピクリと反応した。

    「……ごめっ、ごめん、なさい……」

    怖い、けれど、言わなければ。
    たくさんの勇気を振り絞ってくれただろう彼の思いを、俺は一度踏みにじってしまった。臆病風に吹かれて目を背け、逃げてしまった。だから、1年も待たせてしまったけれど、今度は俺から。

    「俺は一度、彰人を傷つけて、逃げてしまった……」

    ギュッと彼の手を握ると、震える俺のそれに彰人のそれが添えられて、まるで大丈夫だと言うように、彼はそっと優しく握り返してくれた。それに背中を押され、情けないほどか細い声で俺はそれを音にする。

    「だが、まだ……間に合うだろうか……」

    彰人の息を飲む音が聞こえる。

    「今からでも、いいだろうか……」

    彼がどんな顔をしているのか。それは、怖くて見ることができない。そうやって俯いていると、俺の手に添えられていた彰人の手が離れて、下を向いている俺の顎に彼の指が当てられ、少しだけ上を向かされる。そして、あっ、と思う暇もなく、涙でボヤけた視界を埋めつくしたのは、一面のオレンジと少しの黄色。

    「ダメなわけ、ねぇだろ」
    「……あき……んッ……」

    塞がれる唇に頭がふわふわとして、体が火照るのは、彼から感じるアルコールのせいか、それとも。どちらかはわからないが、俺はマスターの無言のクレームが来るまでの暫しの間、初めて味わう感覚に酔いしれた。

    すでに耳にタコができるほど聞いた音楽が流れる店内。ポロポロと彼の白く滑らかな頬を流れる涙を拭って、出会った日と同じ席へと彼を導く。そっとその手を引いた際に指先を控え目に握られ、心臓が跳ねた。丸椅子に腰掛ける冬弥の形のいい耳がほんのりと赤く、まだ過去になって数分も経っていない、止められずに走った行為のすべてが、夢ではなく現実のものとしてオレに降りかかる。

    あぁ、本当にやっちまった。

    振られたあの夜に聞いた話を元に、みっともなく駆けずり回って、探して、待って、待って、待ち続けて。やっと会えた嬉しさと、涙を流して必死に気持ちを伝えようとする姿に堪らず唇を重ねてしまった。体に突き刺さるマスターの視線が痛い。とはいえ、キスしたことも1年越しに彼の気持ちを受け止めたことも後悔はまったくしていないのだが、いくらなんでも場所と回数は気をつけるべきだった。

    (……に、しても……)

    冬弥の後に続いて席に着き、ニヤけそうになる口を右手で隠して、先ほど触れたそれの感触を思い出す。柔らかかった、とても。男の唇というのは、あんなにも柔らかく弾力があるものなのか。何度でも味わいたくなるほど、触れると吸い付いてきて、離れ難くなる。そんな唇だった。

    (またしてぇな……)

    気が長く温厚なマスターに咎められるまで、離れては近づき、重ねてを繰り返したというのに、もう体が冬弥を求めている。これが世に言う「ベタ惚れ」というやつなのだろうか。ドクドクと高鳴る胸が耳に響いて、頬に熱が集まるのを感じながらオレは冬弥をちらりと横目に見る。

    オレはそれに息を飲んだ。初めて会った時から冬弥は、整った、いや、整いすぎた容姿をしているとは思っていたけれど、今隣にいる彼のそれはこれまで冬弥が見せたどの表情とも違うものだった。しかし初めて見るそれから伝わってくる感情は、はっきりとわかる。わかってしまう。

    冬弥は頬を染めて、恍惚としていた。
    幸せそうに、うっとりと。

    彼のガラス細工のように繊細で華奢な指が、ツー……っとオレと触れ合っていた桜色の唇をなぞり、僅かに開いた隙間から、ふぅ、と熱を帯びた吐息が漏れて、オレから見える彼の頬の赤みが決して照明によるものではないのだと、その熱が教えてくれる。再度、あの口付けを惜しむように白魚が桜色を撫で、長い睫毛が切なく震えて白銀に影を落とした。

    冬弥のその行動は、おそらく数十秒にも満たない短いものだったように思う。しかし、オレにはそのひとつひとつの所作がスローモーションのようにゆっくりと見えて、脳に焼き付いた。

    綺麗だった。

    そんなありきたりな言葉しか出てこないほどに。出会った時も、再会したあの夜も。変わらず冬弥は美しかったが、今日が最も美しい。まるで、まだ蕾だった花が少しだけ花弁が開いたような、そんな生を感じる美しさがあった。ゾクリと何かが背を駆け抜けて、オレは無意識に口内に溜まっていた唾を飲み込む。

    押し倒したい。今すぐベッドに押し倒して、暴いて、その体の隅々まで貪ってしまいたい。白い肌に舌を這わせ、冬弥は己のものなのだと赤い花を散らせたい。そして、あのヒクつく穴に性器を突き刺して、その最奥にオレの子種を……。

    (……っ、なに考えてんだ……オレ……!)

    瞬時に過ぎった光景を頭を振って追い払う。彼への恋を自覚してから女を抱くことをやめ、欲望を記憶の中にいる彼で満たしていたからだろうか。色気を孕んだ冬弥に自然と思考がそちらへと向いてしまった。兆しそうになるそこに待ったをかけて、オレは努めて明るい声を出す。

    「と、冬弥さん、なんか飲む?」
    「えっ、あ、あぁ……そうだな……まだ退院したばかりだから、ノンアルコールのものでお願いしたい」
    「ん、わかっ……え?」

    唇を愛おしげに触っていた彼は驚きつつもそう返し、オレもそれに頷きかけ、しかしその言葉に聞き流せない単語が含まれているのに気がついて、思わず眉間にシワが寄った。

    (退院って、どういうことだよ)

    退院したばかり、ということは、冬弥は入院していた、ということだ。病院に通うだけでなく、そこに身を置いて治療を受けなければならないほどの何かが、その身を襲った、と、そういうことになる。事故か、病気か。そう考えるのが妥当なのだろうが、彼の場合はその原因になり得そうな人物が1人いた。

    オレが人生で初めて望み、欲したものをすべて手に入れておきながら、冬弥を苦しめる男。1年経った今もなお、その男が彼を傷つけている可能性に奥歯を噛み締めた。

    「まさか、彼氏さんに何かされたんすか?」
    「…………あ、彰人……?」

    自分でも驚くほどに低い声が出て、冬弥がビクリと肩を跳ねさせる。

    「今、退院って……それ、彼氏さんに手を上げられたから、ですか……?」
    「手、ではないが……まぁ、そんなところではあるな」

    だが、もうヒビは治ったから大丈夫だ、とオレを安心させようとしているのか、ポンポンと脇腹を叩きながら冬弥は言った。

    (ヒビって、肋骨か……?)

    そんな怪我を負うような暴力を恋人に振るわれていたのかと思うと、どうしてあの時無理にでも手を掴まなかったのかと、どうして助け出せなかったのかと、己の不甲斐なさが嫌になる。少し歪な微笑みを顔に貼り付けた冬弥は、しかし徐々にその表情を曇らせ、怯えるような声で「彰人」と、オレの名を口にした。

    「もしも、俺がとても汚れていたとして、傷だらけだったとしたら……彰人は俺を捨てるか?俺をきら……ぁっ……」

    恋人との間に何があって、何を思い、冬弥がそう言ったのかはオレにはわからない。けれど、それに対してのオレの答えは何があろうと変わることはなく、今はただ、その言葉を冬弥に言ってほしくはなくて、オレはマスターに一度怒られているというのに、またその怯える小さな唇に口付ける。

    「……どんな冬弥さんも愛して、ます」

    言い慣れていないそれが他の誰にも聞かれないように、鼻と鼻とが触れるほどの距離で、オレは小さくそう言った。照明に照らされる冬弥の瞳がキラリと煌めき、膜を張って、また肩を震わせる。だが、瞳に溜められたそれは恐怖でも不安でもない。花が綻ぶように笑って、冬弥はオレがそうしたように、ちゅっ、と可愛らしいリップ音をさせた。

    「俺も、愛してる……彰人」

    トロンと蜂蜜のように甘く蕩けた銀色に、オレの緩みきった顔が映っていた。「愛してる」というそれは、オレにとっては言い慣れてはいないが、聞き慣れた言葉である。それなのに、冬弥の口から言われるそれはオレの脳を揺さぶる不思議な力を持っていた。

    「……冬弥さん」
    「……あき、と……」

    名を呼べば、冬弥も返してくれる。それだけでぽっかりと長い間胸に空いていた穴が埋まっていくような、満たされる感覚がした。これが人を愛することなのだと、頭ではなく心でわかる。彼が好きだ。冬弥が。何よりも、誰よりも。愛おしくて堪らない。カウンターの上に置かれた彼の手をギュッと握る。あの日瞳に見えない涙を溜めて離されたそれは、今日はピクンと跳ねるだけでオレの手の中に収まってくれた。それが今の冬弥の答えなのだろう。

    だからこそ思うことがある。
    先ほど、冬弥が言った言葉。

    『俺がとても汚れていたとして、傷だらけだったとしたら』

    具体的なことはぼかされてはいるけれど、冬弥はそれをオレに知られて、捨てられることを、嫌われることを恐れている。それがきっと彼が今交際している恋人にされてきた行為を指している、ということは十分すぎるほど察することができた。そして、そう思ってしまうようなことを、恋人にされてきたのだということも。

    捨てるとか、嫌いになるとか、そんなことはこの際どうだっていいことだ。過去がどうであれ、オレは今の冬弥が好きだ。しかし、交際相手の男が彼にした行為そのものは見過ごすことはできない。それがましてや頬を腫らすものから、この1年で骨にヒビが入り、入院しなければならないレベルまで悪化しているともなれば、今度は下手をすれば命にだって関わるかもしれない。いや、それ以前に思いの通じ合った愛する人を、他の男の、それも彼を傷つけるような奴のところに行かせたくはない。

    「なぁ、冬弥さん……その……もう、彼氏さんのとこには…………冬弥さん?」

    行かないでくれ、と、そう言おうとしたのだが、それを言う前に冬弥が慌てたようにオロオロとし始めた。何事かとオレが首を傾げて問うと、彼は申し訳なさそうに言う。

    「す、すまない、彰人。すっかり言うのを忘れていたのだが……俺は今、誰とも交際はしていない」
    「………え?」

    思わず、ポカンと口が開き、間抜けな声が出た。
    誰とも交際していないということは、DV彼氏とは別れることができたということだろうか。もしも暴力が怖くて別れを切り出せずにいるのであればオレが前に出て話を付けなくては、と考えていたため、オレは若干の肩透かしを食らってしまうが、その後に続いた冬弥の言葉にオレの眉間には無数のシワが形成された。

    「俺の入院中に彼には別の恋人ができたようで、『可愛い子を見つけたから、もういい』と……メッセージが……だから、もう彼とは付き合ってはいない」
    「……んだよ、それ……」

    自分のせいで入院した恋人を心配することもなく、新しい恋人を作った?
    しかも、冬弥よりも可愛い?

    (そんな奴、いるわけねぇだろ……見る目ねぇな)

    いや、それはいいとして。冬弥に送られた文面も、入院中の浮気も、まったく持って許し難い上に冬弥へ振るってきたのだろう数々の暴力を心の底から後悔させてやる機会がなくなったのは少々残念ではあるが、これ以上彼が傷つかずにすむのであればそれに越したことはない。DV男に見る目がなく、お陰で冬弥がここに来れて、オレの思いに答えてくれたのだと思うことにしよう。

    (全っっっ然納得なんて、できねぇけど)

    押し黙ったオレの顔を覗き込んで、「彰人?」と冬弥が不安そうに呼んできたので、「何でもない」と返すと彼はホッとしたように息をついた。

    「それでだな、彰人……実を言うと、俺は彼の家に住まわせてもらっていたから、その……」

    眉を八の字にして困ったように冬弥はこう続けた。

    入院中に捨てられてしまったから、手元にあるのは仕事の際にカバンに入れていた最低限の貴重品のみ。通帳やその他大切な物は日頃から勝手に使われたり、売られたりしないように持ち歩いていたのが幸いして大丈夫だったが、着替えや私物はほとんど家から持ち出すことは叶わず、取りに行くことも考えたが、どうしても足が震えてしまいできなかった、と。しょんぼりと肩を落とし、冬弥は最後にポツリと言う。

    「それから、帰るところもなくて……」

    勤務先の店長はいつでも頼ってくれていいとは言ってくれたが、これ以上迷惑はかけたくないから困っている。

    そう言った俯く冬弥の表情はわからないが、オレはドキリと胸を高鳴らせた。私服も私物も取りに行けないというのは由々しき事態だが、それはともかくとして、しかし。しかし、だ。これは。この流れは。もしかして、もしかするのでは?

    そう期待してしまうのは、男として仕方がないことだろう。行く宛てがなく、頼れる人はいるにはいるが、そこにはできるのなら行きたくない。そんなことをたった今両思いになったオレに言うなんて、つまるところはそういうことだろう。恋人という立場にある女を家に上げることはかなりあったし、欲を吐き出したい時はオレ自ら招くこともまったくなかったわけじゃない。なのに、緊張で喉が枯れ、乾いた唇を冬弥が来る前まで飲んでいた酒で潤す。口に含んだそれは知らぬ間に氷が溶けて水と呼んでも差支えがない程度に薄くなっていたが、今のオレにはちょうどよかった。

    「……なら、オレのとこに来ればいい」
    「い、いいのか?」

    冬弥がパッとこちらを見て、弾んだ声を上げた。それにオレは頷いて、重ねたままの手をまた、ギュッと握る。閉まり行くドアに涙を流すのは、もうごめんだった。

    「すまない、彰人……ありがとう」

    頬を染め、年齢よりも遥かに幼く見える笑みを浮かべる冬弥をどうしてか直視できずに視線を泳がせながら、オレはしどろもどろに言葉を返す。

    「べ、別に、こんなの当たり前だろ……もう……恋人、なんだから」

    恋人という言葉を口にするのは気恥しさが残るが、それは冬弥も同じようで、すでに上気していた頬をさらに赤くして、「そうか、そうだな」と繰り返してまた俯いてしまった。その可愛らしい様子に、本当にオレよりも年上で30を超えているのかと疑いたくなるが、その初さが堪らない。思わず抱き締めたくなって腕を持ち上げたが、それが彼を閉じ込めるよりも早く、マスターの咳払いが店内に響いた。



    我慢ができずに店内でイチャついてしまったオレと冬弥は、マスターの堪忍袋の緒が切れぬうちにとそそくさとバーを出て、月が見守る道をゆっくりと並んで歩いていた。星の瞬きすら塗り潰し、まだまだ眠らず動き続けるであろう通りを抜ければ、一気に喧騒は遠くに消えて静かな闇が辺りを包んだ。世界に取り残されてしまったのではないかと錯覚してしまうほどの静寂の中に、オレ達の足音だけが響く。今は皆、家の中で趣味などに興じているか、早い人であれば明日に向けて眠りについているだろう時間。様々な家々が建ち並ぶその道を歩く人は見受けられず、隣を歩く彼の手は指を伸ばせば触れられる位置にある。状況は実に整っていた。ゴクリと喉仏が上下する。オレの住むアパートまではまだ少し距離がある。ドクン、ドクンと先走って早まる鼓動が躊躇うオレを批難しているように聞こえた。

    (……クソっ、うるせぇな)

    息をついて、どうしてかいつもより数倍重たく感じる手を、そっと持ち上げる。冬弥の手に触れる瞬間、喉仏がまた動いたが、別に緊張しているわけではない。多分。

    ピクンと驚いたように跳ねる体温の低いひんやりとした手を、痛くないように、けれどしっかりと握る。本当は指を絡めて所謂恋人繋ぎというものがしたかったが、まだ付き合って数時間も経っていないのに、そこまでしていいのかがわからなかったため見送った。別に勇気が出なかったとか、恋人という響きが恥ずかしかったわけではない。決して。

    (……手、思いっきり握ったら、折れちまいそう……)

    手の中に収まるそれの細さに、そんなことを考えた。

    どんなに綺麗でも、可愛くても、冬弥は男だから今まで付き合ってきた女のような柔らかさはなく、背もオレより高い分、握った手だって小さくはない。それでも触れれば壊れてしまいそうな不思議な危うさと、ひとつの完成された芸術作品のように人の心を惹きつける何かを彼からは感じる。しかし、横目に見える月の光を受ける白い頬は紅潮して、白銀は恥ずかしそうにしながらも幸せの色を隠そうともしておらず、それらが冬弥が作られたものではなく、たしかに生きた人間であると教えてくれた。

    盗み見ているのに気がついた冬弥はオレを見て、交わった視線に頬の赤がその色を濃くする。

    (……かわいい)

    思わず口角が上がり、握った手を僅かに引いて冬弥の体をこちらに向かせ、リップ音を一度だけ。唇が触れた時の静かな住宅地には不釣り合いな鼻にかかった冬弥の甘い声が、耳に心地よく、繋いだ手の指を動かして肌を撫でれば、その声の糖度はさらに増していく。もっと、もっとと冬弥を欲して訴える欲望を理性で何とか押さえつけ、けれどやはり名残惜しくて殊更時間をかけ重なったそれを離すと、「ぷはっ」と情緒もなく大きく息を吸った彼が乱れた息とトロンとした瞳のまま、困ったように笑った。

    「……ダメだぞ、彰人。こんな所でこんなこと……」
    「ん、悪い、冬弥さん」

    ダメ、と言いながらも嬉しそうに言う冬弥にオレは素直に謝る。けれど、周囲の家はカーテンが閉まっているし、オレ達の他に足音もない。見ているのは、空にある月だけだ。

    今度は冬弥に手を引かれてオレ達はまた歩き始めるが、示し合わせたように足音の間隔が少しずつ、少しずつ開いて、家までの長くもない道を焦れったくなる速さでオレと冬弥は歩いた。繋いですぐは冷たく感じられた彼の手は、気づけばオレの熱が移ったのか、それとも体温が上がったのか。家に着く頃には温かくなっていた。

    そうして時間をかけて着いた、すべてが始まったあの日と変わらない、安いアパート。その階段を上がって、オレが住む部屋のドアを音を立てないようにゆっくりと開ける。以前は終電を逃していまった彼を泊めるために連れてきたが、今日は違う。あのバーからの帰りであることも、彼を家に泊めることも変わらないが、まったく違うのだ。冬弥はオレが初めて本気で恋をした人で、冬弥とオレは今恋人同士。

    (その冬弥さんが、オレの家に……)

    そう考えるだけで、どうにかなってしまいそうなほど胸がバクバクと脈打つ。ここにはオレ達以外誰もいない。咎めるマスターも、もしかしたら通るかもしれない歩行者も。そして月さえも、この部屋の中は伺いしれない。そう考えたら、本当にどうにかなってしまいそうだった。いや、どうにかなってしまった。

    「お邪魔しま……ぁ、んんぅっ!」

    時間を考えてか小声で告げられた冬弥の言葉を遮って繋いだ手を引き、靴も上着も脱がずにオレはまさしく貪るという表現が的確なキスをした。欲の赴くまま、固く閉ざされた唇をノックすれば、おずおずとそこは開かれる。オレはするりとそこに舌を差し込んで、奥に縮こまって隠れている冬弥のそれをペロリと舐め、絡ませた。彼の口内で2人の唾液が混ざり合い、自身の体を支えるようにオレの肩に添えられた繋いでいない方の冬弥の手が、ギュッと服を握ってくる。

    「……んぅ……ぁッ、ぅ……んんっ♡」

    キスの合間に漏れるのは、初めての夜を彷彿とさせる声。甘美なそれに脳が溶かされた。しかしそんな声を出している本人はあまりキスには慣れていないのか、舌を撫でるように優しく舐ると、身を固くしてしまう。辛い過去を思い出させたくはないので詳しくは聞けていないが、自分を愛してくれる人に手を上げるような最低な男のもとにいたのだ。キスの経験は浅いのかもしれない。けれど嫌というわけではないようで、薄目を開けて見てみると、同じ男とは思えない長い睫毛はふるふると切なく震え、芯まで蕩けていた。それは可愛いというより、色気を孕んだエロい顔。

    (あー……やべぇ……)

    胸の高鳴りが、加速していく。くちゅ、くちゅ……と粘度の高い水音を立てながら飽きもせず、何度も何度もオレは冬弥の唾液を味わい、歯列をなぞり、唇や舌を甘く噛む。

    「……んんッ♡……ふっ、んぅ……あっ、あき……んむっ♡……ん、ぅん……♡」
    「んっ、ぅ……はっ、冬弥、さん……」

    息継ぎのために唇を離すと、オレと冬弥の間に透明な橋がかかり、それが切れるよりも早く、再び重ね合わせた。そっと繋いだ手を解いて、冬弥はオレの首へ、オレは冬弥の背と腰にそれぞれ手を回す。これまでの距離を埋めるように、オレ達は全身で互いの温もりを感じた。

    キスに感じ入ってくれているのか体から力が抜けていき、冬弥が身を委ねてくれる。首に回された腕に力が込められ必死に縋りついてくる姿と、感じる彼の重みが愛おしくてオレは冬弥を強く抱き締めた。しかし、口付けに夢中になる頭の片隅にずっと何かが引っかかっている。違和感、というには少し弱いが、それでも見過ごすには大きな何か。何なんだ、この感覚は。

    (変っつーか……何か気になるんだよな)

    「あきと、あきと」とオレを求めて唇を差し出してくる年上の恋人に応えながら、オレは思案する。何が引っかかっているのか。息継ぎが上手くできずに、はふはふと呼吸を乱すその表情は幸せに満ちているし、オレを引き寄せる細い腕も拒絶とは正反対の動きを見せている。気になるようなところはない。ではなんだ、と頭を脳内で捻りつつ冬弥の腰と背中を撫でたオレは、ふとあることに気がついた。

    (冬弥さん、こんなに細かったか……?)

    彼はたしかに線が細い。だから初めて冬弥を見た時も性別というものを感じなく、家に帰ってくる間繋いでいた手だって職人が作ったのではないかと思えるくらいに華奢だった。けれど、これは……この細さは、少し異常ではないか。そう感じてしまうほど、彼の腰は病的に細かった。ひとつになったあの夜に掴んだそこは、もう少し健康的な太さを保っていたとオレはそう記憶しているのだが。

    「ん、んんッ♡……んぅ?……あきと……?」

    気づいた異変に気を取られてキスが疎かになっていたのか、冬弥がきょとんとした瞳でオレを見る。

    「どうかしたのか……?」
    「あっ……冬弥……さん……」
    「……もしかして、キス、しつこかった……か?」
    「…………え?」

    激しいキスで潤んでいた白銀が、悲しげな光を湛えて細められる。言われてみれば今まで付き合ってきた恋人と比べても、彼女達と別れるまでにしたキスの合計を遥かに超える回数を今の短時間でした気はするが、それはオレも望んだこと。執拗いなどとそんなこと、思いつきすらしなかった。オレは慌てて首を横に振る。

    「そんなことないです。冬弥さんとのキス、すげぇ気持ちいいし」
    「………そ、それならよかった」

    「では、どうしたんだ?」と可愛らしく小首を傾げる彼に聞いていいのかどうかを迷いつつ、オレはそれを口にした。

    「冬弥さん、ちょっと痩せすぎじゃないですか?」
    「……っ!そう……か?」
    「初めて会った時から細いとは思ってましたけど、これはさすがに細すぎます」

    細い腰を撫でると、冬弥は気まずそうに俯く。この様子だと自覚はあったようだが、何か訳もありそうだ。オレは決して責めるような色を含まぬように優しく彼の名を呼び、オレより高い位置にある青に指を潜らせる。頭を撫でるオレの手に気持ちよさそうに擦り寄った冬弥は、けれどすぐに表情を曇らせてまた下を向いてしまった。

    「彰人、すまない」
    「……ん?」
    「俺は少しだけ、嘘をついた」
    「嘘?」
    「…………いや、嘘ではないんだが、敢えてすべてを言わなかった」

    まるで隠していた宿題を見咎められた子供のような顔で、もごもごと冬弥は続ける。

    「入院したのは骨にヒビが入ったから、というのももちろんあるが、それだけが理由ではなかったんだ」
    「他にも悪いところが?」

    こくん、と頷いて、それから何かを思い出したのか、冬弥の体が小さく震えだした。その反応から、きっとその隠した理由もかつての恋人が原因なんだろうと簡単に予想がつき、オレは奥歯を噛み締めて傷ついた彼を強く、強く抱き締める。どんな理由であろうと、どんな過去があろうと変わらず愛していると、伝わるように。そうやっていると次第に彼の震えは治まっていき、そっと肩を押されて体が離される。「ありがとう、彰人」と言った冬弥の声には怯えも恐怖もなかった。

    「過労と栄養失調……入院を言い渡された原因は、むしろこの2つなんだ」

    碌に眠れず、食事もできずに体を酷使した結果、恋人の暴力で栄養が足りていない骨にはヒビが入り、仕事中に倒れてしまった、と。

    (……なんだよ……それ……)

    純粋な怒りがふつふつと湧き上がる。どうして彼がそこまで追い詰められなければならなかったのか。この細く、容易く手折れてしまえそうな身で、どれほどの苦しみや痛みに耐えてきたのか。様々な思いが、オレの脳裏を走り抜けた。

    (オレが、あの時手を掴めてさえいれば)

    その悔しさはやはりなくならない。
    また後悔の念に苛まれていると、彰人、と冬弥がオレを呼び、視線をやると唇をちゅっ、と啄まれた。

    「と、冬弥さん?」
    「彰人、俺ならもう平気だ。まだ2週間ほど体を休めるようには言われたが……もう、平気なんだ」

    麗らかな春を迎え、咲き誇る満開の花のように笑って冬弥は言う。

    「彰人が、いてくれるから」

    きちんと伝わっていた思いに涙が込み上げて、オレは恋人の唇を塞いだ。



    「彰人、どうしてもダメなのか?」

    シャワーを浴びて、オレの部屋着を着た冬弥がベッドに腰かけながら不満げにそう言った。ムッ、とむくれる姿は実に可愛らしく、思わず許してしまいそうになるが、しかしそれは絶対にダメだとオレは己を奮い立たせる。

    「ダメです、今日はこのまま寝ます」
    「……どうしても、か?」
    「冬弥さん、医者から2週間は休むようにって言われてんですよね?」
    「それは……だが一度くらいなら……」
    「……ほら、いいから横になって」

    冬弥の軽すぎる体を抱えてベッドへと寝かせる。嫌がる割に素直にコロンと転がった彼は、しかし諦めはつかないようで、「……彰人」と切ない声と表情でオレを見上げた。本当はその思いにオレだって応えたい。けれど、それはできない。

    「彰人……どうしても、抱いてはくれないのか?」

    忘れさせてほしい、と、シャワーから出てきた冬弥はオレにそう言ってきた。自分がもうあの人の物ではないのだと、この体に刻んでほしい、と。そのあまりにも悲痛な訴えに、わかったと頷きたかった。だが、抱き締めた体の細さ、医者から言われたという休養期間を思えば、無理はさせられない。

    だから、応えるわけにはいかない。

    「…………まだそんなことできる体じゃないでしょう」
    「彰人……!」

    冬弥が覆い被さるオレのシャツを掴んで縋るような声を上げた。その手をゆっくりと解いてギュッと握り、オレは指先に口付けて言い聞かせるように告げる。

    「頼む。大切にさせてくれ」

    初めて本気で愛しいと思えた人だからこそ、大切にしたかった。

    「……狡いな、彰人は」

    震える声でそう言った冬弥は観念したように瞼を閉じ、隠された銀色から溢れた涙が月明かりに照らされる白い頬に、跡を残していく。

    「彰人、抱かなくてもいいから、せめて隣にいてくれないか。……俺が眠るまででいいから」
    「……冬弥さん」

    あまりにも控えめなおねだりに笑みが零れた。元々2人で寝ることを想定されていないオレのベッドは男2人が寝転がるには狭苦しいが、それゆえに密着して感じる彼の低い体温が愛おしい。それをさらに抱き寄せて、子供をあやすように薄い背をトントンと叩く。そうすると、やはり体は限界だったのだろう。腕の中から穏やかな寝息が聞こえてきた。

    かつての交際相手のことをどれだけ好きだったのかはわからない。しかし、一度人を好きになって裏切られて、それでももう一度オレに恋をしてくれた愛しい彼は、きっと誰よりも深い傷を負いながらも、きっと誰よりも強い。そんな冬弥だから、オレは。

    「愛してる、冬弥」

    今はまだ彼の望みに応えることはできないけれど、傷が癒えたその時は、身も心も、その隅々まで愛で満たしてやりたいと、そう思った。

    幾百の夜を越えて朝は来る

    チチチ……と小鳥の囀りに意識を引っ張りあげられて、重たい瞼を持ち上げる。目覚めたばかりの瞳には、カーテンの隙間から差し込む朝の陽射しは眩しくて、オレは反射的に目を細めた。上手く働かない脳で今日のシフトを振り返って休みであることを思い出したオレは、そのまま2度寝の体勢に入り寝返りを打とうとする。しかし、腕の中からむずがるような声と、クイッとシャツの胸の辺りを引っ張られる感覚にそれを止められた。

    (………………………は、えっ……?)

    オレが動いて離れた距離を、もぞもぞと埋めて、ぴとっ、とくっついてきたそれに目をやり、それが何なのかを寝惚けた頭で認識したオレの体は、ピシリと石のように固まった。寝起きで下がっていた体温が一気に上昇し、変な汗が背中を流れて、無意識に何度も唾を飲み込む。

    指通りのいいツートンの青い髪に、朝日に輝くキメ細やかな白い肌。着ているオレの部屋着は身長的に彼の体には小さいはずなのだが、肩幅や胸の厚さが違うのか大きいらしく、チラリと見える鎖骨がなんとも色っぽい。だというのに背を丸めて眠る姿はどこか子供のようで、そのアンバランスな愛らしさに胸がときめいた。

    (……そうだ、オレは昨日……)

    冬弥と恋人同士になった。
    思い出して、ドクン、と心臓が大きく脈打つ。信じられない。オレの腕の中で、オレのベッドで、冬弥が寝ている、なんて。何度も夢に見て、そしてそれは現実にはならないありもしない夢なのだと知って泣きたくなった、オレが望んだあの夜の続き。冬弥が傍にいてくれる未来の夢。

    (現実、なんだよな)

    確かめたくて、眠る前、彼の背に回していた腕を引き寄せて、結ばれたばかりの恋人を抱き寄せる。聞こえてくるのは、……すぅ……すぅ……という穏やかな寝息で、感じるのはリアルな彼の低い体温。

    疑いようもなく、すべてが現実だった。

    「……とうやさん……」

    無防備に眠る愛しい人の青色にオレはそっと口付けを落として、また瞼を閉じる。一昨日よりも狭くなったベッドは不思議と寝心地が良く、すぐに意識は夢の中へと落ちていった。



    暗闇の中、どこか遠くで誰かが叫んでいるのが聞こえ、ズキリと体に痛みが走った。その痛みは段々と強くなっていき、呼応するように遠くから聞こえていた声も大きくなる。

    あの人が来てしまう。

    俺の本能が、そう告げた。
    かつてはきっと好きだったはずの彼を恐れて、俺はその場に蹲る。

    (……怖い)

    怒声も暴力も、もう嫌だ。
    これから始まる理不尽にガタガタと震えていると不意に一条の光が差し込んで、ふわりと温かな何かが俺の体を包み込む。今まで感じたことのないそれは、泣きたくなるほどに優しくて、ずっと俺が待ち望んでいたもののような、そんな気がした。



    ゆったりと意識が夢から現実へと向かい、俺はまだ眠たい眼を擦った。随分と時間を忘れて眠ってしまった気がする。病院でも毎日それなりに眠りはしたが、こんなに熟睡したのはいつぶりだろうか。ひとまず顔を洗おうと起き上がろうとして、俺はそれができないことに気がつく。一体何事かと己の置かれた状態を改めた俺は、その正体にぱちくりと目を瞬かせて、理解が追いつかずに首を傾げた。俺の動きを制限していたそれは、誰かの逞しい腕。その腕は俺の背に回されており、俺はずっと彼に抱き締められていたらしい。

    (…………夢、か?)

    スヤスヤと眠るオレンジ色にそんなことを考えた。だって、信じられないだろう。朝起きたら、好きな人に抱き締められている、なんて。そんな夢みたいなことが、俺の身に起きるわけがない。

    俺が動いたからか、もぞりと彼が身じろぐ。グイッと強い力で抱き寄せられ、厚い胸板が頬にあたり高い体温と、それから、トク、トク、と彼が生きている音が伝わってきて、確信した。

    これは夢だ。目が覚めたら俺はあのマットの上にいて、日が暮れたらまた体を暴かれるに違いない。泣いても、意識を飛ばしても、男が満足するまで終わらない金と性欲で満たされた狂った宴。蘇る記憶に呼吸が浅くなり、震えが止まらなくなる。そうだ、俺が生きているのは、こんなに幸せで愛に溢れた綺麗な世界ではないのだ。だから、これは夢だ。けれど、だからこそ。

    夢なら、どうか覚めないで。

    幸せなおはようをキミに

    愛しい人と迎える朝がこんなにも幸せに満ち満ちているなんて、オレは知らなかった。彼に出会う前、つまり本気の恋を知らなかった頃に当時付き合っていた彼女を自宅に泊めてやることはままあったし、その人数はもはや数えるのが馬鹿らしくなるほどであるが、改めて、オレは恋を知らぬまま人と交際をしていたのだと思い知る。それほどに今人生最高の朝を迎えていると同時に、オレは人生最大の問題にぶち当たっていた。

    腕の中で眠る恋人を堪能しながらの二度寝から起きて、早数分。いくら見ても冬弥の寝顔は見飽きないどころか、ずっと見ていたくて、起き上がる気にならないのである。きちんと時刻を確認していないので確信は持てないが、一度目が覚めた時に聞こえた小鳥の囀りはどこにもなく、またカーテンから漏れる日差しに朝は感じない。おそらく、もう朝から昼へと移り変わり始めているか、もうすでに昼になっていると思われた。

    (……つっても、冬弥さんがオレの服掴んでるし……)

    なんて言い訳をしてみるが、オレのシャツを掴んで夢の中を散歩している年上の恋人の手にはまったく力は入っておらず、その拘束から逃れるのは非常に容易い。ただ単に、オレが冬弥と寝ていたいだけなのだ。

    けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。スヤスヤと穏やかに寝ている彼だが、昨日までは入院して治療を受けなければならないほどに傷つき、衰弱して、そして退院後も医者から自宅で静養するようにと言われている身。彼氏としてはしっかりと食事を取らせて、健康的に過ごしてほしい。そのためにも、この可愛すぎる寝顔から早く視線を外して起床せねば……。

    「……………ぁっ……」

    起きるため、シャツを握っている冬弥の手をそっと解こうとしたオレの手が、逆に白魚に捕まってしまい思わず小さく声が漏れた。触れ合った細く少し冷たい手に、心臓が過剰に跳ね上がって、ドッドッドッ、と送り出された多量の血液が衝動のまま体内を全速力で走り回る。握る、というにはあまりにも弱々しい力で絡みついてきた指に、オレの体はいとも簡単にベッドへ縫い止められて動けなくなってしまった。

    (冬弥さんの朝飯、用意しねぇといけねぇのに……)

    あぁ、でも、冷蔵庫に酒以外のものは入っていただろうか。彼に会えない間、オレは何を買ってどんな物を食べていたのだったか。野菜と肉を最後に買ったのはいつだ。それは残って……いなかった気がする。ならば、尚のこと何か買いに行かなければならない。早く、早くこの手を振りほどいてスーパーに。

    などと、光にも負けない早さで脳がフル回転し、導き出された結論に覚悟を固めて拘束されていない方の手を動かす。きっと、元恋人のもとでは碌に眠れていなかったのだろう彼の、折角の深い眠りを妨げぬよう慎重にオレは繋がれた手を離そうとした。だが……。

    「……んぅ、ゃぁ……」

    齢30を超えているとは思えぬ愛らしさの中に色気を孕んだ、しかし聞いたことのない幼さを感じさせる声が桜色の唇から漏れ、キュッ、と形のいい眉が寄せられて伸ばされた白いそれに逃亡を謀ったオレの手は再び捕らえられた。捕まえた人の手を今度は逃がさないよう、冬弥はしっかりと両の手で握ると抱き締めるように胸へと引き寄せて、またスヤスヤと穏やかな寝息を立て始める。

    その一連の行動を静かに眺めていたオレは、小さな子供がぬいぐるみを抱いて眠るが如く胸に抱かれた己の手を一体どうするべきかと暫し考えた後、あと5分だけ、と学生の頃何度も繰り返したフレーズを久々に引っ張り出して、1年と少し恋に焦がれた人の寝顔を見詰める作業に従事することにした。



    それは、あの人のもとにいた時はもちろん、倒れて運び込まれた病院でもなかった清々しい目覚めだった。寝起きとは思えないくらいに頭はスッキリとしていて、ずっと鈍く感じていた体の重さも、気だるさも、どこにもない。こんなに気持ちのいい朝はいつぶりだろうか。あの人の恋人となってすぐの頃は何度かあった気がするけれど、暴力を振るわれるようになってからはなかったような気がする。そうなると何年かぶりということになるな、と考えて、そこで俺は自分が何かを握っていることに気がついた。

    (……これは……手?)

    節があって、少し武骨な感じのする男らしい手だ。それを俺は両手で抱き締めて寝ていたらしいが、その手には見覚えがあって、ドキンと胸が跳ねる。

    (…………この手は……まさか……)

    忘れもしない。忘れられるはずがない。あのオレンジ色の照明が照らしジャズが流れる始まりの場所で、何度この手を拒絶してしまった己の弱さを憎んだことか。だからそれが誰のものかはすぐにわかってしまうのだが、しかしさりとて信じられるか、と問われるとそれはまた別の問題なわけで。

    (な、なぜ俺は彰人の手を握って……?)

    久しぶりの深い睡眠から目覚めて元気になった脳が答えを探してぐるぐると回り、捜索もむなしく見つからないそれに俺が首を傾げると、傍で吹き出すような音がした。予想していなかったそれにビクンと体が震え、反射的に視線が音源へと向く。そこには俺の隣に寝転がって、可笑しそうに肩を揺らす太陽がいた。

    「冬弥さん、もしかしなくてもちょっと寝惚けてます?」

    可愛い、と。そう言って、俺が焦がれ続けた太陽は愛おしげに目を細めると、俺が掴んでいない方の手がそっと伸ばされる。迫り来る男性の手に、教えこまれた度重なる暴力を体が思い出して無意識に身を固くしてしまうけれど、その手は俺の顔にかかる髪を優しく払うだけで、痛みなどどこにもありはしなかった。

    「……あ、き……と……」

    信じ難い気持ちに詰まりながら名を呼べば、それが当たり前だというように彼は笑って俺の次の言葉を待ってくれる。信じられない。今朝も幸せな夢を見た気がするし、さらに遡るともっと夢のような記憶が次々に出てくるが、しかしそれらが嘘ではないのだと、現実から逃れたい俺が作り出した都合のいい幻覚ではないのだと、目の前の彰人の温もりが、手の感触が、教えてくれる。

    (夢では、なかった……)

    あの人に捨てられたのも。彰人が待っていてくれたのも。互いに想いあっていたことも。そのすべてが、夢幻ではなかった。寝起きの少し下がった体温が一気に上昇して、頬が熱くなる。思い出されるのは、昨夜この家に来た時のこと。自分でも思い返せばどうかと思うほどに何度も何度も重ねられた唇の感触と、彼の少し乱れた息遣い。それから、俺を待つ間に飲んでいたのだろうお酒の味である。

    あれらも、夢ではなかった。
    本当の本当に、俺は彰人の恋人になったのだ。

    「……あきと」
    「どうしたんですか、冬弥さん」

    まだ寝ます?
    可笑しそうに言った彰人は俺の髪を弄りながら唇を寄せて子供にするように、額へと口付けを落とす。ちゅっ、と可愛らしいリップ音は俺達以外に誰もいないこの静かな部屋ではいやに大きく聞こえて、妙に気恥ずかしくなった。

    「…………あきと……」

    羞恥を誤魔化すためうわ言のように繰り返すと、彼も同じように、とーやさん、と甘い声で返してくれる。それだけなのに胸がギューッと締め付けられて、けれど、それは慣れ親しんだ痛みではなく心地よいもので、また俺は彰人の名を口にした。

    「あきと」
    「ん、とーやさん」

    ずっと握っていた彰人の手が俺の片手を捕え、そのまま指と指とが絡められる。俺よりも早くから起きていたのか、それとも基礎体温が高いのか。まぁ、その両方なのだろうが、彰人の手は彼の心のように温かい。

    「とーやさん」

    今度は彰人が俺を呼ぶ。

    「おはようございます」

    その声に込められた大きな愛に、トクン、と心臓が大きく脈を打った。朝を迎えてしまったことに絶望して、まだ生きている、などと思わなくてもいい。そんな朝が自分に訪れるなんて、考えてもみなかった。

    「おはよう、あきと」

    幸せそうに笑んだ彰人の澄んだ瞳と視線が交わり、言葉もないまま示し合わせたように、俺達は互いを求めて唇を合わせる。ちゅっ、とまた彰人の部屋にリップ音が鳴るが、先ほど感じた羞恥はどこにもなかった。あるのは、全身に伝播する多幸感。

    そして、触れ合ったそれの柔らかい感触は、やはりどこまでも現実で、あぁ、本当に、本当に……。

    「夢では、ないんだな……」

    思わず出てしまった声に、ぷっ、とまたも吹き出す音がして、苦笑いをした彰人が口を開いた。

    「これが全部夢だったら一生ヘコみますよ、オレ」

    彼のそれに引き摺られて、俺も自然と笑みが零れる。

    「それは……大変だな……」

    それを合図に、もう一度唇を重ねて、これは夢ではないのだと俺達は念入りに確かめ合った。

    『続く』

    指を、足を、舌を、そして、時おり唇を離して視線を絡ませる。それなりに長い間あの人の恋人として生きてきたけれど、あの人に愛された記憶が遥か遠く彼方にしかない俺は実のところ、互いの唇を合わせる、このキスという行為にあまり慣れてはいない。そのため起き抜けに何度も繰り返されるそれにすぐ呼吸が苦しくなって根を上げてしまった。そんな俺を前に、「可愛い」と呟いた彰人は苦笑するとくしゃりと俺の頭を撫でる。これではどちらが年上かわかったものではない。別段年上を敬えなんてことを言うつもりはないが、可愛い可愛いと頻りに言われ、何となく気恥ずかしくなった俺は紅潮した頬を見られたくなくて、もぞもぞと彼の逞しい胸板に顔を埋めた。すると触れた彼の胸からドクンドクンと少し早い鼓動が聞こえてきて、ドキドキしているのは自分だけではないのだと、俺とのキスに彰人も胸を高鳴らせてくれていたのだと、彼への愛おしさが溢れて、笑みが零れる。

    「……ふふっ」
    「冬弥さん?」

    俺の名を呼び、なおも整えていない俺の髪を掻き混ぜる彼の声はあの人とは違い、春の木漏れ日のようにとても穏やかで、暖かい。俺がずっと欲しくて、過去に一度手を伸ばして手に入れたはずなのにいつしか失くしていたそれが、今、俺の手の中にある。すべて、そのすべてが彰人のおかげ。彼が俺を諦めずにいてくれたから、俺はこうして生きている。

    「いや、何でも……ただ、幸せだな、と、そう思っていただけだ」
    「なんか……朝起きただけで大袈裟すぎません?」
    「ん、そうだろうか……?」
    「そうですよ……まぁ、オレも幸せなんで、否定はしないですけど」

    俺の髪に唇を寄せて、彰人は可笑しそうにそう言った。

    (……大袈裟……。大袈裟、なのか……)

    緩やかに流れるこの時も、愛する人からの口付けも。俺にとっては有り難いことであっても、本当は極有り触れた、当たり前のものなんだろう。初めての交際があの人だった俺は未だ信じられないが、本来の恋人関係とはそういうもののはずだ。

    (この朝が……当たり前……)

    明日も明後日もその先も、これが続いて、俺と彰人の新しい日常になる。そんな幸福に俺は耐えられるのだろうか。

    (……あまり、自信はないな……)

    「冬弥さんからオレと同じシャンプーの匂いがする……」なんて、可愛らしいことを小声で言っている可愛い年下の彼氏に「同じものを使わせてもらったからな」と返して、俺は紅潮の治まらない頬をそのままに彰人の胸から離れ、ちゅっ、と己のそれを彼のそれに重ねた。



    数分……いや、数十分……もしかしたら1時間ほど経ったかもしれないが、目が覚めてから起き上がることもなく行われた触れ合いは、甘い雰囲気を一撃で打ち砕く、くぅ……という情けない俺の腹の声に終わりを告げた。

    「……すまない、彰人……」
    「いや……っ、ぷっ、ふふ……まぁ、腹は減りますよね……何も食ってない……ですし……」
    「笑いが押さえきれてないぞ、彰人……」

    ようやく体を起こしてベッドから立ち上がった彰人は楽しそうに、笑いで言葉を詰まらせながらスタスタと歩き、ひとり暮らし用だろう小さな冷蔵庫のドアを開けて中を覗き込んだ。冷蔵庫と、それから上段のおそらく冷凍庫も確認した彼は眉間に皺を寄せ「あー……」と声を上げる。

    「どうかしたのか?」
    「んー……すんません。冬弥さんにはできればちゃんとしたものを食べてほしいんですけど……」

    色々と気まずそうに濁した彼は何も取り出すことなくバタンとドアを閉めると、今度はキッチンの棚を開く。

    「今家に何もなくて、朝はこれで許してください」

    ゴソゴソとそこを漁り、彼が手に取ったのはじっくり見なくともひと目でわかる、カップ麺。彰人が持っているそれのパッケージは知らないものではあったが、俺自身、体を売って時間がなかった時などによく食べたものだ。許すも何も、そもそもこちらはお世話になる身の上なので、食事のメニューに文句などない。しかし、自宅の冷蔵庫に朝食すら作れほどに食材がないとは……。男性のひとり暮らしとはこういうものなのだろうか。

    「彰人はあまり自炊をしないのか?」
    「……いえ、節約のためにします。今は本当にたまたま……たまたま切らしてるだけです」
    「そうなのか」

    たまたま、というのを異様に強調して彰人はそう言うと、いくつかのカップ麺をテーブルに並べ、どれがいいかを問うてきた。俺はベッドを離れると、それらが店頭に陳列されるが如く次々と並べられるテーブルの前へと移動して、種類様々な麺類達を順番に確認する。オーソドックスな醤油ラーメンに味噌ラーメン。とんこつにシーフード、そして少し辛そうなものに、蕎麦やうどんまで。

    「随分たくさんあるな……」
    「……まぁ、買い貯めてたんで」

    やかんに水を注いでいるその男らしく広い背中を眺め、俺の中に、もしかしたらこれは思っていた以上に彰人の食生活は酷いことになっているのでは、という疑惑が浮上した。

    (……これは、俺がきちんとバランスのいい食事を彰人に用意しなくては……)

    俺にはちゃんとしたものを……と彼は言っていたが、そんなことはどうだっていい。時間さえ確保できれば俺1人ならどうとでもなるし、これから一緒に暮らすのならそれくらいはさせてほしい。よし、後で提案してみよう。心の中でそう小さく決意して、俺はハズレがなく無難そうなカップラーメンを手に取った。それと時を同じくして、彰人が「そうだ」と口を開く。

    「冬弥さん、お湯沸かしてる間にそっちで顔とか洗って……使い捨て歯ブラシの場所はわかります?」
    「あぁ、昨日教えてもらったから大丈夫だ」

    言われた通りにカップ麺を彼に託し、脱衣所と隣接した洗面台へ、俺は足を向けた。ガラリと戸を開き、大きな鏡の前に立つとその中には僅かに髪の乱れたままの俺が立っており、左右逆転した自身の姿に俺は首を傾げる。

    鏡なんてあの人と暮らしていた時にも毎日確認して、毎日顔を突合せていたのに、どこがどう違うとはっきり言い表せはしないものの、そこにいたのはその頃と似ても似つかない別人のような俺。本当にそれが自分か疑わしくて、そっと自分の頬に触れる。

    (……俺はこんな顔だっただろうか……)

    そのまま頬を摘んでみても、ちゃんとした痛みが走る。

    (なぜこんなに、緩んで……?)

    むにむにと緩みきったそこを両手で包み、揉む。年下の恋人相手に年上と偉ぶるつもりはない。ないけれど、こんなゆるゆるの顔では恋人として相応しくない。

    (……気を引き締めなければ……)

    キュッ、と意識的に眉を吊り上げて棚から業務用と思われる大量の使い捨て歯ブラシのひとつを出し、歯磨き粉をチューブから歯ブラシの上に乗せて、パクリと口の中に。

    何はともあれ、これからだ。
    少しずつ幸せが壊れていった過去を思い出し、身震いする体を落ち着かせる。

    (もう間違えないように……)

    そして、これから始まる新しい生活がどうか幸せなものでありますように。

    キッチンから聞こえてきた彰人のご機嫌な鼻歌に、俺は込み上げる涙を拭った。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works