君が歌う水色 わたしはその日、写真を撮るため、公園に足を運んだ。遊具はなくて池とランニングコースのある大きめの公園だ。半年ほど前から定期的にインターネット上に音楽をアップしているわたしは、公園で花か鳥の写真を撮ってMVに使おうと思い、出向いたのだ。しかし、花も鳥も撮れなかった。誰かに直接的に妨害されたわけではないが、間接的には大いに妨害されていた。ハイヒールを履き真っ赤なドレスを身に纏った中年男性がすね毛を生やしたままの筋肉質な脚でフラメンコを踊っていたのだ。男の靴音と時折、時折、リズムに乗せて発する奇声、全身から醸し出す異様な雰囲気に怯えた鳩たちは逃げるように飛び立ってしまい、一羽も残らず、水鳥も岸辺を離れてフラメンコおじさんの全身から発される独特の濃厚なオーラの届かぬ場所へ避難していた。よって、鳥は撮れない。こんな具合の悪いときに見る夢の世界観から飛び出してきたような人間と同じ空間でのんびり花を撮る気にもなれなかった。
(なんだあれは……なんなんだ……)
わたしも鳥と同じく逃げ出したいのだが、おじさんから目が離せずその場に棒立ちになっていた。地面に置かれたラジカセから大音量で流れ出る情熱的な音楽。カツカツと響くハイヒールの音。苦笑いしながら場を去るカップル。ガン見する子どもと子どもの手を強く引いて遠くへ連れていく母親。遠巻きに盗み見るわたしを含むギャラリー。そして、ただ一人、手拍子を叩いて立て乗りしている高校生くらいの少年。この場で彼だけが唯一、おじさんに歓迎的で好奇なものを見る目をいっさいしていなかった。
(なんだあの子……)
変わった子だなと思ったのが第一印象だ。耳が隠れる程度の長めの短髪でどこにでも売ってそうなパーカーを着てジーンズを履いて、見た目は言ったって普通の地味な子だった。だが彼はきっとフラメンコおじさん側の人間なのだと、シンパシィを感じるから歓迎的なのだろうと推測できた。わたしの関心がおじさんから彼に移っている間に
「オーレ!」
と野太く叫んでダンスは終わった。
(結局、なんだったんだろう……)
わたしには奇妙な感覚だけが残されたが、彼は心底、感動したらしく割れんばかりの拍手をして
「すげーよ! すっげかった!」
と頻りに繰り返していた。おじさんは得意げにふんっ! と鼻息を吹いてそれに応えた。
「ハイヒールでそんだけ踊れるってすげーよ! キレッキレじゃん。テレビ出れるよ!」
彼は純粋そのものに言うが、この手の人がテレビに出たら珍獣扱いされるからやめたほうがいいとわたしとしては思った。ただ、踊りはたしかに上手かった。プロと言われても信じるだろうと思う。
「いやー! すげーなー! 握手してください」
おじさんは応じ、二人の奇人は堅い握手を交わしていた。二人とも口が達者なほうではないらしく、目と目を合わせてやたらに頷きあっていた。奇人同士というのはある種のテレパシーで通じ合えるものなのかもしれない。そのうち、おじさんが初めて言葉を発した。それは存外とダンディな低音ボイスで
「坊や、おじさんとラブホ行こうか」
と真顔で言った。おいおいおい!
彼は
「うーん……」
と曖昧にお茶を濁し、おじさんの誘いに乗ろうかどうか決めかねている。普通、こんな奇怪な人物に性行為に誘われたら断るか逃げる以外の選択肢がないように思うのだが。彼はもう一度、
「うーん……」
と言った。
「どうしよっかな-?」
断りかねている感じでもなく、このおじさんとラブホに行くことを選択肢に入れた上で本気で迷っているようだった。しかし、彼は外見から推察するにおそらく十代だ。思わず、声が出ていた。
「未成年に手を出したらお縄ですよ」
素知らぬふりで黙っていればいいのにいかにも面倒事に巻き込まれそうなことをまたしでかした。今さらになって胸がバクバクと鳴っている。おじさんがどんな非常識で暴力的な返しをしてくるかと思うと怖い。心より良心が先に動いてしまう人間。それが周囲からのわたしの評価だ。わたしは自分の損な性分を呪った。
「そうか。それは、そうだな。お縄になりたくねぇもんな……」
フラメンコおじさんは存外、あっさりと引き下がった。わたしは拍子抜けして肩を落とす。おじさんは奇人でいることをどこか誇っている人種で、それでいて一線を超えることを恥じる人種らしい。彼はというと、
「なーんだ」
と心底、残念そうに言って、そして、わたしの腕に腕を絡めてきた。
「じゃあ、お姉さんがかわりにお茶でもしてよ」
「いいよ」
わたしは即答していた。わたしは本来、簡単に初対面の相手についていくような質ではない。むしろ、警戒心の強い野生動物のようだとすら言われる。それでも、こうして、彼の誘いに乗ったのは、とうに彼に惹かれて、夢中になりつつあったからだ。
十分後、わたしたちはシステマティックなチェーン展開のカフェにいた。
「お気に入りの店とか何にもねぇの?」
彼は不服そうだった。
「そういう君はどうなのさ?」
「俺ぇ? 俺は普段、酒ばっかでコーヒー飲まねぇもん」
彼は頭の後ろで腕を組み、椅子の背もたれに体重をかけて行儀悪くシーソーのようにゆらゆらさせながら言った。
「は? 酒?」
「さっきは言わずに黙ってたけど、俺、二十四」
彼はけろっと明かした。まさかわたしより年上だとは思わず、驚く。
「なんで黙ってたのさ」
「あんたに興味があったから」
「は?」
「あんた、俺のことずっと見てたろ。俺に興味があるから見てたんだろ。好みの雰囲気の男に見つめられたら悪い気しねぇよ」
口説かれているのだろうか。これまでの人生で誰かに恋愛感情を抱いたことはなかったが、胸が高鳴った。
「……君、名前は?」
反射的に聞いていた。
「サナギ」
「サナギ? 名字が?」
「そーだよ。佐藤さんの佐に奈落の奈に木星の木」
「下の名前は?」
「ナギサ」
多分、嘘だと思った。わたしはそれ以上、追求しなかった。