無題 バスに乗り、揺れに身を任せながら車窓を眺める。雨が理由なのか、乗客は少なくて閑散としていた。住宅街の合間に緑地が挟まり、時々に通行人が傘を差しているのが見える。乗り込む時に止んだはずの雨が、ふたたび降り出しているようだ。
乗客が少ないこともあって、車内は水を打ったように静かだ。とはいえバスの機動音は聞こえているから、まったくの無音ではない。ただ気にならないくらいの音しか存在しないから、静かだと感じているだけだ。
無音というのは、真の意味では静かになり得ないのだという。あまりにも静か過ぎると、大抵耳鳴りのようなものが聞こえてくる。そして、しまいには聞こえないはずの音を聞き、声を聞き拾い、言葉を耳にするのだそうだ。
高倉は愛読書である『月刊ポー』で、催眠術の特集でそうした知識を得ていた。
無音の状態に長く置かれていると、何も聞こえないはずなのに音や声が聞こえてくるのだという。経験談として、無菌室に隔離された医師が麻酔されて何も聞こえない状態になった時、ガラスの向こうにいる看護婦が『この人はもう駄目ね』そう話す声が聞こえたそうだ。彼は医者で、無菌室にいる人間には、外の声が聞こえないと知っていた。
「幻聴……か」
だからそれが幻聴だと、すぐにわかったという。けれどもそういう知識がなければ、自棄になって暴れたかもしれない。そうした知識があったから、高倉はオカルト好きなのにもかかわらず、幽霊とか妖怪といった存在を信じていなかった。まあ、色々あってそれが覆されただけでなく、自分も妖怪の能力を使える立場になってしまったのだから、世の中というのはわからないものだ。
ふと前を向くと、フロントガラスには無数の水滴が貼り付いて、それをワイパーが忙しなく拭っている様子が見えた。視点をワイパーから前に向けると、当たり前に進行方向の景色が見える。大きく曲がる道にさしかかる前、
「この先、大きく曲がります。ご注意ください」
淡々としたアナウンスが流れて、ぐうっと車体が傾いた。流れる景色の先に、橋が見える。何度も流れてしまったから、何度も作り直すことになって、ついには人柱を立てて作ったという橋だ。地元史の記録にもあるし、高倉も個人的に調べたことがあるから知っている。平成に入ってすぐのころ、老朽化を理由に建て替えた際に自治体の研究施設が調査に入った。専門家である彼らが調べたところ、人の骨ではなく、文字の刻まれた大きな石が埋まっていたという。
人柱が実際に行われたという記録は、残念なことに残っている。
人骨の入った木箱が発掘されたこともあるし、ミイラ化した遺体が発見された事例もある。
人柱になった者は色々だ。罪人であったり、覚悟を決めた僧侶であったり、通りすがりの旅人であったり、祭りで一番踊りが上手かった若い女性という話も残っている。人間というものは、追い詰められるとそうした過ちを犯すものなのだと、満次郎が語っていたことを思い出す。高倉としては胸が痛いが、その一方でそんな過ちを犯さぬようにと、思案を巡らせた者もいる。人柱の代わりに、そのターゲットになってしまった人の所有物を代わりにしたり、今見ている橋のように石に名前を彫って代わりにした事例もある。
自分はそうでありたい。そうぼんやり考えていたら、モバイルが鳴動した。反射的に手を伸ばして耳をあてがう。
―― あ、オカルン
スピーカーから流れる親友の声は、少しだけ焦っているように聞こえた。
―― 急で悪いんだけど
次のバス停でおりて欲しいという、そういった頼み事だった。
―― オカルンだけが頼りなんだ。お願いしますっっ
ちょっとおどけた口調が混じるが、切実そうな声音だ。高倉は降車ボタンと、運行案内表に視線を向けて眉を寄せた。
―― 頼んだよ
通話は一方的に切られて、高倉は小さくため息をつく。
「次は~っ」
電子音で停留所の案内がながれ、車内にある電子掲示板が次の停留所名を表示する。
オカルンは降車ボタンを一瞥してから、モバイルを見つめる。
「だまされないよ」
小さく呟き、車窓から指定された停留所が通り過ぎていくのを見送った。手に持っているモバイルは、充電が切れている。そもそも鳴動するはずがない。
バスの車内を見回して異常がないかを確かめる。確信はないが、今度は宇宙人の仕業かと、高倉はげんなりとした気持ちなっていた。
2025/02/22