唯一届けなかったもの一枚だけ、渡せなかった“遺書”がある。
四年前の、秋のことだった。木枯らしが吹いては、冷えた風が隙間から入り込んできていた。曇り空、日が傾き薄暗い雰囲気を纏った校舎。
足取りは重いまま、自分の教室へと向かっていた。
忘れ物をするなんて最悪だ。そんな悪態を心の中で吐きながら。
ガラリと扉を開ける。人気のなくなった教室は誰も居ないかと思いきや、窓際の席に座る人影があった。無機質な机や椅子とは違い、唯一の生きているもの。瞬きを幾つか繰り返して、こちらを見やる。
「ああ、乙亥正くん」
そう、彼女が言葉を発する。薄茶色の髪を後ろで纏めた、端正な顔立ちの少女。こちらを呼ぶが、彼女の名前が思い出せない。
ただ、秋のような雰囲気だったことは覚えている。
「どうしたんだい、忘れ物かな?」
それには答えず、無言で自分の机へと向かう。
「無視とは酷いな。クラスメイトじゃないか」
明らかに不満そうな、だが冗談めいた声色で彼女は言葉をかける。確かに、彼女とはクラスメイトだ。見覚えはあるし、一言二言は言葉を交わしたことはある。だが、それだけだ。
机の中にしまっていた忘れ物を取り出し、ポケットにやる。
「乙亥正くん」
「やっぱり苗字で呼ばれるのは嫌い?」
その言葉にどきりとした。やけに澄んだ声なのに、なんだか突き刺さるような気がした。
瞬時に自分の記憶がぐるぐると駆け巡る。特に、去年のことが。母親のことが頭の片隅から離れない。
「…………まあな」
できるだけ感情を出さないよう、静かに答える。
「じゃあヒノエくん」
そう彼女は言うと、ふふと笑い声が漏れたのが聞こえた。それがなんだかとても調子が狂うような感覚がして、大きなため息が出た。
渋々、といった風に彼女を見やると机の上には原稿用紙と筆記用具が置かれていた。何度も消しては書いたのか、原稿用紙の一部はシワが寄っており、消しかすが所々に落ちていた。
「何書いてたんだ?」
そう素朴な疑問を告げる。すると彼女は淡々と、感情の籠ってない声で答えた。
「遺書だよ」
その言葉に、心を揺さぶられた気がした。
頭の片隅に残っている母親のことを思い出す。
「冗談だよ」
「卒業文集に書くものを考えて書いていたらさ、なんだか遺書めいたものになってしまっただけ」
そうからからと彼女は笑ってみせるが、その目はどこか遠くを見ていた。成績優秀で、人が周りにいるような普段の彼女からは見られない表情。どこか死を纏った雰囲気。
母親も遺書を書いていた。支離滅裂で、字が震えていて、それでも何かを伝えようとする文章だった。
それと同じようなものを彼女は書いていた。それがなんだか気になって、心惹かれた。
「見せてくれないか」
そう言うと、彼女は少し驚いたような表情をした。暫し考える素振りを見せて、それから困ったように数枚の紙を渡してきた。
受け取りそれを見る。整った字で綴られている。おそらく相手は家族、兄に向けて書かれたものであると察せられた。
何度も何度も繰り返し読む。確かに、これは遺書だ。向けられるべき、最期の言葉だと感じた。
「面白かったかな?」
そう彼女が尋ねる。どうしてかと問うと、「だって、随分と楽しそうだったから」と答えた。
自分の頬に手をやると、口角が上がっていることに気付いた。
彼女に視線を戻すと、既に机の上は片付けられていた。どうやら彼女の文章を読み耽っていたらしい。
「気に入ったのならあげるよ」
そう言いながら、彼女は椅子から立ち上がった。同じくらいの視線が合わさる。いいのか、と問おうとしたが、彼女の細い指が唇に当てられ静止される。
「いいよ。その代わり、誰にも見せないでおくれ」
「たとえ、私が死んでもね」
彼女は真剣そうな表情でそう言うと、その指を下ろした。それに無言で頷いて見せると、にこりと微笑んだ。
「それじゃあ」と彼女は呟いた。そして机の横に下げていた鞄を持つと、自分の横をするりとすり抜けて行った。その時、ふわりと何かの香りがしたのだが、それがどうにも分からかった。
彼女は教室の扉の前まで行くと振り返り、「またね、ヒノエくん」と言うと手を振り去って行った。
手元には彼女の残した紙たちがあった。まだ遺書にはなっていない、生きているものが残した言葉。それを丁寧に折って、ポケットにしまう。
彼女が生きていた場所は、また無機質な空間へと溶けて消えていった。
「ひぃちゃん、結局ソレどうしたの?」
「……燃やしたよ。約束通りな」
そういえば、彼女のあの香りはシナモンだったな。と今更それに気付いたのだった。