答えは熱に溶けて消えた 放課後の図書室は人が少なく、勉強をするには持ってこいである。そう気がついた日からデュースは度々ユウを誘って次の試験に向けての勉強会を開催していた。
向かいに座るユウは黙々と自身の課題をこなしており、二人の間には沈黙が流れる。勉強会という名目である以上当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、2人きりの状況で無言が続くと、それは酷く寂しく感じた。手持ち無沙汰に水を飲むふりをしてちらりと様子を伺えば、ユウの伏せられた瞳に長いまつ毛がかかっており、それはなんだか色っぽく見えた。
こちらの視線に気がつくこともなく、ユウは時折頬にかかる髪を細い指ですくっては耳にかける。その仕草ひとつに目が離せない。
「髪、伸びてきたな……」
ぽつりと前触れもなく小さな口が突然開かれて、慌ててペットボトルを元の位置に戻す。減っていない水がゆらゆらと揺れてはデュースの動揺を表していた。
「そ、そうか?」
「うん」
そう言ってユウは自身の髪を一束つまむ。柔らかく、それでいて艶のあるそれは、彼女が普段からしっかりと手入れをしている証拠だった。
「前髪は自分で適当に切っちゃったりもするんだけど、流石に後ろ髪は美容院でやってもらいたいな」
「美容院か……」
「学園長に頼んだら闇の鏡でどこかの街に連れて行ってくれるかな?」
「美容院くらいなら、賢者の島にもあるんじゃないか? 学園を降りて、港の辺りならそれなりに栄えているぞ」
チャイムが鳴って、部活も終わりの時間がやってきた。今日はもう解散だろうか。静かな図書室に廊下からの声が響いて届く。
「じゃあ、今週末にでも行こうかな。外出許可取らなきゃね」
「……一人で行くのか?」
「……? デュースも髪切る?」
少し首を傾げてこちらを見る。
「一人は危ないだろ。僕もついて行く」
「小さな島だし大丈夫だよ。わざわざ付き合ってもらうなんて、申し訳ないし」
柔らかく笑う彼女に心臓の奥がきゅっと締まった。
起こりうるかも不確定の未来を勝手に心配するのはこちらのエゴだ。それでも最もらしい理由を並べて不恰好になるよりは、エゴでも構わないから隣に立つ僕を許して欲しかった。
「ふふっ、そんな顔しないでよ。分かった、デュースが一緒に来てくれるとこっちも心強いよ。今週の日曜日、私とお出かけしてくれる?」
どんな顔をしていたのだろうか。ペットボトルの水に写る自分の顔は容器の凸凹によって歪み、流石にここまで酷くはないだろと目を逸らした。
✳
「すまないユウ、遅れた!」
「ううん大丈夫」
日曜日の朝、学園の門に集合の約束をした2人だったが、デュースが着いた頃にはユウはもうそこで待っていた。
「なんか、デュースの私服初めて見たかも」
「……そうか?」
「うん。だって皆オンボロ寮に遊びに来る時は部屋着みたいな格好じゃん。そんな余所行きの服装は初めて。かっこいいね」
かっこいいね、最後のその言葉を噛み締める。昨日エースを付き合わせてよかった。女子ウケのいい格好なんてピンポイントな相談に嫌そうな顔をしていたが、こうしてジャケットを貸してくれたのだ。
「あ、ありがとう! ユウの服も素敵だ」
「無理して褒めなくていいよ。パーカーにパンツなんて、可愛くない格好でごめんね」
「いや、ユウらしくて好きだ。それにユウは足が細いから、そういう格好が似合ってる」
「あ〜……なんか、恥ずいね」
視線をさ迷わせてユウが顔を逸らす。髪の隙間から覗く耳が真っ赤に熟れていた。
爆弾が落とされたのはパステルカラーの空がレトロな窓枠によって切り取られる、カフェの特等席での話だった。
「私たち、カップルに見えるのかな?」
「カッ……え?!」
無事本日の目的を果たし、すぐに帰るのもつまらないからと近くのカフェに入る。古民家のような味のある店内に、コーヒーといったシンプルなメニューは時の流れをとても緩やかにした。彼女の口から発せられた突然の爆弾発言で心中の平和が崩壊するまでは。
吹き出しそうになってコーヒーカップを口元から離せば、中の水面が揺れて小さな飛沫をあげる。デュースは慌ててカップを机に戻す。そこだけ地震が起きたかのように、コーヒーはまだ波打っていた。
「あんまり意識してなかったけど、男女2人で休日にお出かけなんて、傍からはそう見えるのかな〜って」
「…………本当だ。僕も意識してなかった」
「あはは」
「僕はこれまであまり女性と関わってこなかったから、女性を前にするとどうすればいいか分からなくなるんだ。それでもユウとはこうして普通にいられる。自分でも不思議だが、それが嬉しい」
「うん」
目の前の彼女の手にきゅっと力がこもる瞬間を視界の端で捉えた。店内に流れる音楽が丁度切り替わる。いかにもといった古いテイストのジャズが2人の間を埋めた。
「もちろん、ユウのことを女として見ていないという訳じゃないんだ! いや、その言い方はなんかまずいか? つ、つまり」
「……マブだもんね。私もデュースと仲良くなれて嬉しいよ」
マブ。彼女の口から導き出された答えは、かつて僕が宣言した関係。釈然としないのは何故だろう。聞き馴染みのないアーティストの歌声と共に、耳に引っかかってはそのまま違和感だけを残して溶けて消えた。その何かを苦いコーヒーと共に嚥下する。
ユウの長いまつ毛がゆっくりと伏せられて、硝子玉のように透き通った大きな瞳に影を落とす。何かを噛み締めるように頷いた彼女の彫刻のような美しい顔をただ眺めた。コーヒーカップからゆらゆらと昇る湯気がその邪魔をした。
✳
カフェを出て、学園に戻る前に少しの寄り道として北へ進み海岸にたどり着く。潮風が漂い始めてからユウはソワソワし、広大な海を見渡せばその目を輝かせていた。
「わあ……凄い。海だ……」
「海は初めてか?」
「元の世界では何度か行ったことあるよ。でもこっちに来てからは初めて。ずーっと向こうまで遮るものがなくて、地平線は弧を描いて、潮風はちょっとベタベタして、本当、なにもかも一緒だなあ」
太陽を反射してキラキラ光る水面を真っ直ぐ見つめるユウの横顔に切り揃えられた髪がかかる。彼女のまつ毛は相変わらず長く、でも、もう髪は耳にかけなくても大丈夫なようだ。
「……海の向こうで繋がってたりして」
「ユウ」
ぽつりと零れた彼女の言葉に、咄嗟に名前を呼んだ。何も起こらないのに、心がさざめき立って、白い彼女の腕に手を伸ばした。
「何、デュース?」
「あ、いや、その……」
掴んだ手首はすっぽりと己の手の平に収まって、なぜだか無性に安心した。
「手首じゃなくって、手を繋ぐ?」
「……そうする」
「じゃあ……はい」
「ん」
するりと指を絡めて、互いの手の平の熱を分け合うようにひとつに繋ぐ。それだけで鼓動が速く波打つ。繋がれたところ以外に、自分の顔がこんなにも暑いのは何故だろう。冷たい風がその体温の高さを伝えた。今高鳴るこの感情になんて名前がついているかなんて分からないけれど、知らなきゃいけない気がした。
二人の間に流れる沈黙は、寂しさよりも居心地の悪さよりも、焦りを与えた。
ひとつ蘇る。カップルに見えるのかな、さっきのユウの言葉だ。ユウは女の子だけどあまり緊張せずにいられるんだ、僕はそう返した。
ひとつ蘇る。昨日からずっとこのお出かけが楽しみだった。自分はユウの用心棒のつもりでここまで付いてきた筈だ。
ひとつ蘇る。私服のお洒落までして、エースにはデートかよと笑われた。僕はそんな訳ないだろとムキになった。
でもどこかで、デートだったら良かったのにと思ってしまう強欲な自分がいたことも否定できない。守る為じゃない、ただ純粋に彼女と二人きりの時間が楽しかった。髪や仕草、ユウの細かなところで感じる女の子らしさに惹かれていた。
この感情の答えはなんだろう。
「僕達って、友達なのか?」
「え?」
潮風が鼻にツンとくる。眼前に広がる穏やかな波とは正反対に、デュースの心臓は激しく鼓動を打っていた。空はいつの間にか暮れ始め、シーガラスのようにくすんでいた。
「友達……だよな。分かってる。分かっているんだが、なんていうか」
「デュース」
今度はユウが目を合わせてこちらの名前を呼ぶ。海のように深い輝きを持った瞳には力が宿っていた。
「私、友達やめてもいいよ」
「えっ」
綺麗に一拍、波が寄せては返っていく。
「友達やめて、それ以上の関係になろう」
「それ以上……」
「私から言ってもいいの? 私、デュースの恋人になりたいってこと」
爆弾が落とされたのは色褪せた空と海の寒色に挟まれた僕らの話だった。
提示された答えを噛み砕いて咀嚼して、至極簡単な問題だったと気がつく。解説なんか読まなくてもあとは自分で解読できる。そしてもう二度と間違えることもないだろう。
空いている方の手を、隣の彼女の頬に添えて、しっかりと視線を合わせて。
この心臓の音はどちらのものだろう。返答を焦らす必要もない。だって僕はずっと前からユウのことが好きだったんだ。
波の音が今更になって耳に届く。その旋律はとても心地よかった。
「……ユウ、僕からもお願いしていいか?」
「もちろん」
「ユウの恋人になりたい。ずっと、そう思ってた」