守護をきみに「やあ、賢者様。僕にちょっと付き合ってくれない」
優しくて、甘ったるくて、惹かれてしまうその甘美な声に晶はぶるりと身を震わせる。人好きのしそうなニッコリとした顔でオーエンは笑っていた。
オーエンの言うことは真に受けるな。
それは、賢者の魔法使い達から言われていた言葉であった。
オーエンは甘いものが大好きで、厄災の傷で心が幼くなってしまう。そして人の嫌がる顔が好きという悪趣味で、美しく気高くて強い北の魔法使いであること。
空気に緊張が走る。
「それ、拒否権はないですよね……?」
「クーレ・メミニ」
「ッーー!?」
ぎゅうんと引っ張られるような感覚。耳元で音が鳴って、右や左に引っ張られるような感覚。揉まれて、摩耗していくような気持ち。そして何時かが経って、辺りは静けさを取り戻す。目を開けるとそこは美しい夢の森だった。
遥か彼方には豆粒のように小さい、優雅に飛んでいるオーエンの姿が見えた。白いマントが太陽の光を受けて、きらきらと輝いて翻った。
「オーエン!待ってください!」
晶は必死で走って追いかけようとするも、オーエンのスピードは止まらない。どんどん距離が離れていく。
「うわっ!」
ドテッと大きな音を立てて晶は盛大に転んだ。足元に大きな木の根が張っていた。
「いったた……、あれ。オーエン?」
晶が転んでいる隙にオーエンの姿を見失ってしまったようだった。
ふと辺りを見渡すと、一面の木々。宝石のようにキラキラしていて、カラフルで、何処か非現実的な夢の森。それは初めて都会に来た時のような、右も左も分からない心細さと不安で心が押しつぶされそうになる。
「ここどこーー!!」
晶は思わず叫んだ。自分の声が虚しい空気の震えとなって伝わっていく。夢中になって追いかけて、走ってきて、道を見失った。晶はオーエンが向かった方角へとゆっくり歩いていく。
ザッ、ザッ、と自身の足音だけが嫌に鳴り響く。夢の森は美しいが、生きたものの気配がしなかった。どれもこれもまるで死んでいるかのように、最も美しい姿で時間が止まってしまったみたい。木の根を超えて、草を掻き分けて進んでいく。
ふとその瞬間、背筋がぞくりとした。
──何かがいる。
直観的なもので、視覚にはいない。聴覚でも捉えられない。けれど、この死に近い森の中で、晶の後ろに何かがいるのを感じた。
ヒュッと喉が鳴った。警告?ここから先に何かあるのか。進むな?じっとり湿ったものを背中に感じる。振り返ってはいけない。振り返ったら戻れなくなる。そんな予感がする。戻れない。でも、進むのが正解かも分からない。
心臓がドッと逸る。足元が竦む。
「……」
あーあ。道、間違えたなぁ。
「……」
私、死ぬのかなぁ。
「……」
まだ賢者として何も果たせてないのに。
「……」
こんな時に思い出すのは魔法舎のみんなだった。
特にいつもひとりぼっちの美しく孤高の魔法使い。今日も何を考えているのかさっぱりちっとも分からないけれど、それでもあの時に少し寂しげで物憂げな顔で「石になった時は大きな花火を打ち上げて」とお願いしてきた彼。私は彼をまたひとりにさせてしまうのだろうか。
──無事かな、オーエン。
ふわりゆらりと視界が歪んだ。
「Cur Memini」
小さな舌打ちとともに最悪と呟く声が聞こえたような気がした。
グシャッと後ろで何かが崩れ落ちた。それと同時にあの嫌な気配も消える。
晶は振り返る。
そこには何もなかった。ただの夢の森。
カランッと無機質な音が一瞬だけ森に響いて、そして静かに消えていった。
彼に早く会わなくちゃ。会いたい。
どこかへ消えてしまった気紛れな彼を見つけるために、晶は歩みを進めて行った。
足元に落ちたマナ石を拾い上げる。
助けるつもりなんて全くなかったのに。
死の間際で何を思うのか。何を考えるのか。何を欲するのか。
賢者様が苦しんで、おかしくなっていく様子を見に来たのに。
──無事かな、オーエン
本当に馬鹿みたい。自分の身も守れないくらい弱いくせに、人の心配なんかして。
キラキラと輝く無機質な命をごくりと飲み込んだ。
馬鹿なのは僕もだ。思わず魔法を使って、あんなちっぽけな人間を守ってしまった。
「……はあ」
良いマナ石だったはずなのに。
どうにも胸の内がざわざわして落ち着かない。
心が落ち着いて、穏やかな気持ちになって、温かくて心地好い。
こんなのは、僕には不似合いな感情だ。
「あーあ、最悪」
空っぽな心臓が満たされていくような感覚。
慣れないその感情を気持ち悪いと吐き捨てて、知らなかったふりをして。
ため息とともにオーエンは未だ森の中を彷徨う人の元へ向かって行った。