3.百回目の恋 魔法使いは何にでも恋をする。それは長い年月を孤独に生きる者たちには必要な事なのかもしれない。俺も、例外では無いと思う。もう六百年も生きてきたら何も分からねえんだけど。
「ネロ、身体の具合はどうですか」
「ああ、お陰様で何とか」
厄災の到来後、役目を終えたはずの賢者さんが何故か戻ってきた。再び賢者としての役目を担ったようだが、とにかく今は現状の把握が最優先だと日々忙しく走り回っているらしい。
俺は流石に腹に穴があいて死にかけたので、しばらくは安静にと部屋に軟禁されている状態だ。
賢者さんは毎日、俺の様子を見に来てくれる。本当に真面目だなと思う反面、申し訳なさでため息が零れてしまう。
「今朝は久しぶりにヒースがおじやを作ってくれたんですよ」
「へえ、また腕を上げてるんじゃねえの」
「ふふ、ネロも食べたいかなと思って持ってきました」
そう言って賢者さんは持ってきたバスケットから、ミトンを着けた手でそっと白い器を取り出した。
「ネロ、まだ起きるのは辛いですか?」
「……辛いって言ったら、食べさせてくれる?」
つい悪戯心でそう聞いたものの、妙に気恥ずかしくなってきた。
「ごめん、やっぱ今の無し」
「いいですよ」
「え?」
「私で良ければ、お手伝いします」
「……」
逆にこっちが返答に困ってしまった。賢者さんならそう言うかもなと期待して言った自分に思わず嫌悪するのだけれど。
「ネロ?」
「ああ、うん……いや」
「嫌、ですか?」
彼女が困ったようにこちらを見るのが、非常に心苦しくなる。降参だ。
「……恥ずかしいな、いい歳してこんな甘え方と思ってさ」
「年齢とか関係ないですよきっと。誰かに甘えたい時は甘えていいと思います」
「賢者さん……」
「それに私は嬉しいですよ。ネロが頼ってくれると」
「……じゃあ、お願いします」
「はい、喜んで」
賢者さんのペースに乗せられた気がするが、悪くない気分だ。こんな所誰かに見られたらたまったもんじゃないなと思いつつ、今は一応怪我人なのだからと自らに言い訳を用意してみる。
誰かに看病してもらうことなんて、もしかするとこれが初めてじゃないだろうか。
「はい、どうぞ」
どうかこのタイミングで誰かがウッカリ入って来ませんようにと願いながら口を開けると、暖かい匙がゆっくりと口元へ運ばれてきた。
「……」
「大丈夫ですか?」
「ん、美味いよ。ありがとう」
「良かったです」
恥ずかしくもくすぐったい時間を感じて、ふと不思議な感覚を覚える。
本当に、こんな穏やかな日々が存在するのだろうか?
「…………」
「ネロ?」
「あのさ、賢者さん」
俺はひとつ確認をする事にした。
「厄災が来る前に話したこと、覚えてる?」
あの夜、隠し通すべきだった胸の内。互いに二度と会えないのだと覚悟して伝えた心。最初で最後だと思った唇の温もりはまだ記憶に新しい。
もしかしたら、そんなことを未練たらしく覚えているのは自分だけかもしれない。彼女にとって、あれは単なる気の迷いだったという事も有り得る話だ。だからこそ、聞くことにしたのだ。
「……」
賢者さんが何かを話そうとしたその時、俺の視界は暗転した。
「……え?」
いつの間に眠っていたのだろうか。気が付くと外は明るく鳥のさえずりが聞こえる。ああ、朝かとぼんやりしたまま天井を眺める。相変わらず体に大した力は入らず、ただ寝てるだけの状態だ。そういや何か夢を見ていた気がするのだが、何だったかなと思い出せずにいる。
「ネロ、身体の具合はどうですか?」
「ああ、お陰様で何とか」
賢者さんは毎日、こうして俺の様子を見に来てくれる。本当に真面目だなと思う反面、申し訳なさでため息が零れてしまう。
「今朝は久しぶりにヒースがおじやを作ってくれたんですよ」
「へえ、また腕を上げてるんじゃねえの」
「ふふ、ネロも食べたいかなと思って持ってきました」
そう言って賢者さんは持ってきたバスケットから、ミトンを着けた手でそっと白い器を取り出した。
一連の流れを見て、俺は妙な既視感を覚えた。夢でも見たのだろうか。
「ネロ、まだ起きるのは辛いですか?」
やはりこの会話は聞き覚えがある。もしかして、と咄嗟に辺りを見渡した。自分の魔力はあまり頼れそうにない。どこまでが現実で、どこまでが虚像なのかすら怪しい。そして俺はこの夢のようなものを一体何度繰り返したのか。
「……いや、大丈夫だ」
身体を起こそうとして、全く力が入らない事に気付く。妙な焦りと冷や汗が背中を伝う。
「無理しないでください。私で良ければお手伝いします」
「……あ、ああ」
何かが不快で、吐き気がする。この根源はどこにあるのか。これは恐らく──
「ネロ?」
「あのさ、賢者さん」
この目の前にいる賢者さんは、果たして本物だろうか?
もしくは俺が作り出した虚像か。疑いたくはないし、例え虚像だとしても妙なことを言って無闇に傷付けたくはない。だとしたら出来ることはただひとつ。
「前の……厄災が来る前に話したこと、覚えてる?」
ちょっとした賭けだった。きっとこれがトリガーなのだと確信する。固唾を飲んで見守っていると、賢者さんが何か言おうとして口を開き──
ほら、やっぱりな。
視界が暗転するのを確認し俺は意識を手放した
、つもりだった。
「ネロ!」
名前を呼ばれると同時に、強く手を握られる感触。引き寄せられるように意識が戻り、俺は目を開けた。
「ネロ! しっかりしてください!」
「……賢者、さん?」
「私、この世界に戻ってきた時に怖くて聞けなかった事があります」
「……」
「ネロが、あの日の事を無かったことにするんじゃないかって……」
「……晶」
「こんな終わり方、絶対に嫌です」
彼女の視界がみるみる滲んで、溢れ出した雫が弧を描くように頬を伝う。
「私はここに居ます。だから……戻ってきてください」
握られた手から温もりが伝わる。重かった身体が軽くなった。魔力が戻る感覚だ。これが賢者の不思議な力なのだろうか。
「……かっこつかねえな、全く」
また泣かせてしまった。自分の不甲斐なさが腹立たしい。
それにしても、彼女はどうしてこんなにも。
「あんた、俺なんかには勿体ねえよ」
賢者さんの手を握り返して、胸元に引き寄せる。
その存在を確認するかのように、俺は彼女をしっかりと抱きしめた。
「だけど……今更簡単に離してやれねえからさ。覚悟してくれよな」
「それはこっちの台詞です」
彼女がぐりぐりと額を胸に押し付ける感覚。ああ、俺は生きてるんだなと自覚した。
「……あ」
「ネロ!」
どうやら今度は本当に戻ってきたらしい。目を開けると賢者さんの顔が見えた。
「はは、ひでえ顔」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「……ごめん」
「助かったみたいだな」
賢者さんの後ろからファウストが覗き込んでこちらの様子を伺っていた。その声を聞いてシノとヒースも顔を出す。
「ネロ、生きてるか」
「ネロ、大丈夫?」
「ああ、お陰様で何とか」
てっきりフィガロの手当てで落ち着いたのかと思っていたのだけれど、思いの外治りが悪かったようだ。様態が急変した事に賢者さんが気付いてファウストを呼んでくれたらしい。
混濁した意識をすくい上げる魔法はコントロールの難しい技だ。針の穴に糸を通すようなものだと聞いたことがある。
「フィガロは留守だったし、ここで戻って来れなかったら危なかったよ。賢者に感謝する事だな」
「ファウスト、ありがとうございます」
「僕は何も。ネロを連れ戻してくれたのは君だ。こちらこそ礼を言うよ、ありがとう」
ファウストは調合した薬を賢者さんに渡し、シノとヒースを連れて部屋を出て行った。
「……」
夢の中と同じような、温かい静寂が訪れる。
「晶」
「っ、はい」
「俺を呼んでくれて、ありがとう」
握ってくれた、魂を手繰り寄せてくれたこの手に神の祝福と感謝を込めて口付けた。
「っ」
彼女の顔が真っ赤に染まる。ああ、可愛いなとむず痒い気持ちになる自分がいた。
混濁した意識の中に入り魂を引き上げるなんて事、手練の魔法使いでも中々出来ない所業だ。下手したら戻れなくなる危険だってあるのに。それでも、それを承知の上で飛び込んできてくれた彼女の強さに心底痺れた。
魔法使いは何にでも恋をする。それは長い年月を孤独に生きる者たちには必要な事なのかもしれない。俺も、例外ではないと思う。もう六百年も生きてたら何も分からねえんだけど。
それでも、彼女──晶には何度でも恋をするんだろうなと思う。別世界の人間でも、役目を果たせば二度と会えないであろう相手でも。こうして何故か奇跡を起こして戻ってきたし、死にかけた自分を助けに来た。その優しさと強さに尊敬の意を込めて、俺も誠心誠意全てをかけて尽くそう。
彼女となら何度でも恋に落ちるし、たとえそれが百回目だとしても、二度と離さないと誓うんだ。