耳朶のさきまで 白を基調とした生地に目の覚めるような青を合わせた衣服は、いわゆる公的な場でも問題なく纏うことのできる社奉行としての正装だ。そこに華美でない程度の金色と、珍しくも僅かな暖色も差し色として合わせていく。常のそれよりも少しだけ気楽に着崩して、それでもなお彼の身分を表すように品を損なわないよう。とある貴人との会食であるというのなら、その場に選ばれた店の雰囲気にも合わせたものに。彼の服飾を管理する古参の家人たちと誂えたその衣服を彼に着つけるのは、今日も家司であるトーマの役割だった。
まだ日差しが眩い夏の昼下がり。夕の会食に出るにはあまりに早すぎる時間帯である。じりじりと肌を焼くような暑さに大通りの人影もまばらとなるほどではあるのだが、それでも出立の刻限は迫りつつあった。涼しい顔をしている主も、ひとである以上汗は流すのだ。日差しの強さに体調を崩しやしないかと心配にはなるが、それを押してもと相手が望んだのならば今の『神里綾人』に逆らう術はないのだと、トーマだって知っていた。
「……」
先日ひとつの大きな案件をこなし、ようやく当主としていくらかの立ち位置を確立できたと話をしてはいたが、未だに彼を認めぬ有象無象は多い。特にふるくからこの国にのさばる家の老人たちは、涼し気な顔であっさりと苦難を乗り越えて見せた若造が気に入らないのだろう、というのは主本人の語っていたことだった。それゆえに、このような無茶な時間に呼びつけたり――その衣服に、振る舞いに、なにかしらの注文を付けて見せたりする。
「……トーマ? まだ、怒っているのかな」
「いえ、そういうわけでは」
「ふふ、目は正直だよ。……つまらない嫉妬だ。この若造一人ですらその手で引きずり落とせやしない老人の些細な我儘が、私の何を損なうというのです?」
主の言葉を聞き漏らさぬよう面を上げ見上げるトーマの額をそっと撫でて、辛辣な言葉で切って捨てた当主の笑みは今日も変わらず美しい。腰帯を留めながら見上げる瞳には未だに怒りの焔が宿ってしまっていただろうか。とうに飲み下していたと思っていたが、主には見透かされてしまっているようだった。彼の仕事内容について、トーマが心配する必要などない。それを頭では理解しているというのに、どうにも心はままならない。至らなさを恥じるようにすみませんと呟きつつ立ち上がり、最後に、向こう側が透けるほど薄く軽い羽織を肩にかける。
前も後ろもぐるりと見て、正しく着付けが終わったことを確認する。袷の辺りを少しだけ指先で整えれば、くすぐったいとでも言いたげに細い喉の奥で笑みがかみ殺され、そのわずかな振動が肌を通して伝わってきた。そのまま首筋を辿り――おおぶりの耳飾りを下げた、小さな耳に触れた。
「……本当に、これをつけていかなくてはいけないんですか?」
ふるい造りの装飾だ。時を経ても色褪せぬ金色に、やや曇りを帯びたはちみつ色の宝珠が連なっている。僅かに首をかしげる主の仕草に合わせて、じゃらりと重い音を立てたその飾りは、今日の衣装からもやや浮いて見えた。美しいのは事実だ。その装飾の由来も、確かなものであるのだろう。豪奢なつくりではあるのだし、主のかんばせにだけを見ればそれなりに馴染むようにも思える。
ただ、余りにも時代遅れなものだった。いくら服飾に疎いトーマですら、このようなのものを主に身につけさせるのはためらわれるほど。家人などは絶句していたし、衣服選びの際にも四苦八苦していたのは記憶に新しい。恐らくは数十年前のこの国の流行であったのだろうが、今の世代ではどうにも――言葉を選ばず言えば、古臭い、とも表現したくなるほど。
「あちらからの希望です。これを見せろ、とね」
今回の(図々しく醜い老人たちの)注文は、まさしくこの耳飾りなのだ。これを身に着けて会食に来いと、そう言って送り付けられてきた装飾品。ものがものだけに返却もできず、贈られてきたのならばそれを身に着けて見せるのが一応は礼儀だろうと主はこれを付けることを選んだ。小さな耳には重すぎる飾りは、今のところ肌には無害な接着剤を用いて補強しなければならないほどではあるので、本音を言うのならつけてほしくはなかったし、今すぐにでも外してしまいたかった。
何より、まるで花を売るおんなたちにするような――己の選んだ宝飾品を身につけさせて食事に連れ出すというやり口が、どうにもトーマの腹の底を煮えさせていたのだ。ぎゅ、と眉を寄せた家司に苦笑し、主はそっと耳飾りに触れた。桜色の爪の先が宝珠の端を弾いて、ゆらゆらと重たげに飾りが揺れる。
「そんな顔をしないで。私も流石に、このセンスには驚いているのだから」
でも、と何でもない素振りで伏せられた瞼の奥。藍紫の瞳に、ちらりと一筋の焔が宿る。ほんの瞬きにも満たない刹那、青く白く、赤い炎よりもなお温度の高い、蒼白の焔が。
「――これきりだ。すぐに、不要にするよ」
相手は、この国に古くから居座る重鎮のひとり。社奉行の座を受け継いだばかりの若輩者相手に不遜すぎる要求をしてくるほどには、そしてそれを神里家が受け入れざるを得ないほどには、地力と立場に差があるのだ。その男から送られてきた装飾品という名の愛玩と恭順のしるしを、それでも、主はそう言い切った。不要になる、ではなく。不要に「する」と。そう言い切った声音は柔らかなままでも、横顔は花も恥じらうような笑みを浮かべたままでも。その瞳を覗き込んだトーマにだけは、理解できた。その言葉の意味が。
ふ、と肩の力を抜いて、その御前に傅く。ただひとりの主がそうすると決めて言葉にしたのち、実行されなかったことはひとつもない。彼がそういうのなら、その通りの未来がすぐそこまで来ているのだ。ぶるりと背筋を震わせた畏怖と高揚に任せて、整えられた指先をやわらかく掬いあげて口づけを贈った。
「……そのときを、心よりお待ちしています」
「任せてほしい。きみは、特等席で見ておいで」
それ以上の言葉は、ひとつもいらなかった。改めて衣服と髪型を整え、靴を用意し、送り迎えの算段をつける。玄関先まではトーマが案内し、あとは終末番と件の男の迎えに任せなくてはならない。それでも、先ほどまでの燃え盛るような激情じみた怒りは、トーマのそれよりもよっぽど温度の高い蒼白の焔に飲み込まれて落ち着いたようだった。余りにも単純な自身に苦笑が浮かびそうになり、慌ててかき消す。玄関の板間に膝をついて見送りの姿勢をとれば、ふと主が足を止め半身だけ振り返る。
「ねえ、トーマ。ひとつ頼みがあるのだけど」
「はい、何なりと」
「今度の非番に、買い物に付き合ってほしい。……新しいピアスをひとつ、きみに選んでほしいんだ」
笑顔も、声も、視線も。そのどれもが甘やかな色を纏って、トーマだけに届けられる。先ほどの言葉通りに受け取れば、それは、この上ないほどの勝利宣言であると同時に――これから彼の戦場へと向かう神里綾人というひとが、恋人にご褒美をねだるためのそれだった。視線の動きひとつ、声の抑揚のそれだけでも、甘えているのだと伝えられる。突き付けられる。ただの従者としての感情だけでないトーマの怒りを、どうしようもない嫉妬の感情すらも、彼は見通しているのだと。
そのうえで、それを赦した。さらに、こんなご褒美まで寄越して。その甘さに酔わされるばかりの己には情けない気持ちにはなるが、同時に、それほどまでに思われている悦びに身体の芯から熱が湧いてくる。ぐわり、と心臓から流れる血潮が勢いを増したような気がして、トーマは必死に素数を数えた。そうでなければ、玄関先で顔を真っ赤にする家司という謎の存在が生まれてしまうところだった。
「……勿論、お付き合いします。いくらでも」
絞り出した声は僅かに語尾が震えたが、なんとかいつも通りを装えただろう。満足そうに瞳を細めた主の笑みが答えだった。いってまいります、と何の未練も見せずに屋敷を出ていく背中を、叫びだしたいような走り回りたいような気持を堪えながら最後まで見送り、人気がなくなったところで、トーマはようやく大きなため息をついた。
顔があつい。耳まで赤くなってはいないだろうか。玄関先から差し込む日差しの温度で誤魔化せていればいいのだが。身分不相応な感情を殺し損ねたトーマに対する仕置めいた褒美が、ぐらぐらと頭の芯を茹らせるようだった。本当に勘弁してほしい、と跳ね回る心臓の上に手を置き、深呼吸を繰り返す。どうやら屋敷の奥に戻るには、あと数分は必要そうだった。
「本当に……若は、もう」
文句とも惚気ともつかない言葉の先は呑み込むしかない。今夜はきっと疲れ切って帰ってくるだろう主のためにも、はやく動き出して夜食と風呂と部屋の用意をしなければならないのに。火をつけられた恋情が、脳内をかき乱して止まなかった。早く太陽よ沈め、とまだまだ遠い夜に思いを馳せる。
(夜食は、食べやすいもので……部屋には氷も用意して。それから、あの耳飾りは、)
会食が主の戦場なら、そのあとの彼のケアとこの家での時間を有意義なものとすることこそがトーマの戦場なのだ。暑さを誤魔化すように浮かんだ額の汗を手で拭い、ようやく立ち上がることに成功した。それでもまだ頬の熱は退かず、心臓は早鐘を打ち続ける。気を抜けば笑み崩れてしまいそうだと顔を覆ってもう一度息を吐いた。今日は暑い、本当に熱い一日になってしまった。
(オレに始末させてもらおう。……オレの炎で、塵のひとつも残さないように)
だから、そんな戯言をぐるぐると巡らせるこの思考も。主の思いがけない甘いお仕置きと、今日の暑さのせいなのだ、と。誰にともなく言い訳をして、トーマは頬をひとつ叩いた。急ぎ足で奥に戻る横顔はすでに神里家家司のものであったけれど、常よりもどこか色を濃くした翡翠の瞳だけが、その身体に満ちる熱の名残を映し出していた。