花屋の君⑦ 出社すると社内が騒がしかった。また五条さんでも来たかなと思いながら歩くと騒ぎの中心が自分の配属先の部屋である事に気付く。
部屋に入ると中心人物がこちらを向いた。
「七海、久しぶり!」
「灰原……?いつ出張から」
「昨日帰ってきた!今日から少しの間だけこっちに勤務してまた出張の日取りが決まったらそっちに行くんだ」
同僚の灰原は出張に行くのがメインの社員だ。会社に出社するのは珍しく、ほとんどは県外にいてこうして面と向かって会うのも1年半ぶりだった。
成程、久しぶりに灰原がこちらに出社したから人だかりが出来てたという訳か。
「元気そうだね、部署が変わったって聞いて少しだけ心配してたけど…ご無用だったわけだ!」
「慣れない事も多々あります。良ければお昼を一緒にどうです?」
「賛成!じゃあ、お昼になったらまたここに来るよ」
立ち去る背中を見送りながらデスクに腰掛け、机の端に目をやるとハーバリウムが目に入る。
前回のアクシデントの際に接してくれたあの日から1週間が経っていた。
『お礼の算段を立てなければ』
伊地知くんは何が好きだろう、食べられないものはあるだろうか、お酒は飲むのだろうか。
当たり前だが、思えば知らないことばかりだ。後で電話して聞いてみよう。
ひとまず、仕事をしようとノートパソコンを開けて取りかかった。
****
「机の上に置いてあったボトル、綺麗だね」
鯖の味噌漬け定食を食べている灰原が私を見て言う。
「黄色の花が入ったボトル、誰から貰ったの?」
「いつもお世話になっている花屋の……店員さんから貰った」
「女の人?」
「男性です」
鮭の塩焼き定食の鮭をほぐしながら、答えるのが面倒な話題を振ってきたなと思った。
「へぇ、お花屋さん。その人と仲良しなんだね七海」
まさか、灰原の口から少し前に五条さんからも聞いたその言葉が出てくるとは思わず驚いてしまう。
「どうしたの、そんなに驚いて」
「突拍子もない事言われたら驚きもする。仲良しだなんて」
気を取り直して味噌汁の碗を持って里芋を箸で摘む。
「え?だってあのボトルって七海の為に作られた物じゃないの?」
摘んでいた里芋がぼちゃんと味噌汁に落ち、その汁がワイシャツに跳ねて濃紺のシミとなった。
「あれ、違った?」
「本人に聞いたことはない」
ハンカチに水を浸して上から叩きながら灰原を睨む。灰原は気にも止めず鯖の味噌漬けを平らげ味噌汁を啜った。
シミも落ちて気を取り直して箸を持つ。
「七海、その店員さんのことお気に入りなんだね」
その言葉に箸が真っ二つに折れて4本になった。店員に割り箸を頼んだ。
1週間前に彼と話をして彼の笑顔を見た時、甘酸っぱい気持ちが胸を満たした。その日から、あの日の彼の笑顔を思い出す度に悶々として時折仕事の手を止めるくらいだった。
この気持ちが何なのか、未だに答えが出ない。
灰原はぽかんとしていたが、次第に口角を上げ始める。
「何がおかしい」
「嬉しいんだよ。僕や猪野くんみたいな会社の人間以外にお気に入りの人が居てくれて」
飲んでいた湯呑みを置いて灰原は続ける。
「その人は七海の心の大事な場所に居るんだね」
灰原のその言葉で乱された心から洪水のように何かが溢れ始める。
それから食べ終えるまで鮭の塩焼き定食の味がしなかった。
食堂を出て、しばらく歩いたところで灰原が自販機の前で止まる。
「七海なんにする?僕カフェラテ」
「遠慮しておく」
「良いじゃん。滅多に会えない僕からのプレゼント。受け取ってよ」
プレゼントという言葉に渋々釣られて無糖のコーヒー缶が出るボタンを押した。
近くに配置されたソファに並んで座る。
「そのお花屋さん、どんな人?」
「……なんでそんなこと聞く」
「単に興味があるんだよ。七海のデスクに僕からのお土産置いてくれたことないのに彼から貰った物があるから」
灰原から今まで貰ったお土産を思い浮かべる。沖縄のシーサー、鹿児島の一反木綿、徳島の子泣き爺……ご当地妖怪のマグネットの数々。
「あれをデスクに置く方がどうかしている」
「そうかなー。まぁそれは置いといて……どんな人?」
「少し抜けている所はあるが……真面目で相手に喜んでもらうことを第一に仕事をしていて、褒めると謙遜するけれど値する技術と人柄を兼ね備えている人だ」
「へぇ……よく見てるね」
灰原はカフェラテを飲みながら何か考え事をしている様子だったので缶コーヒーのプルタブを開け口をつける。
「……七海ってさ、その人のこと好き?」
吹き出しそうになるのを必死に堪え、コーヒーを飲み込み灰原を睨んだ。
「お前っ……!」
「あれっ、違った?」
「ちがっ、」
違う、と大きな声で言いそうになった瞬間頭の中で今まで見てきた伊地知くんの映像が勢いよく通り過ぎる。
物を作る手際、作品、仕事への真摯な姿勢、こちらに向ける笑顔。
今この心と頭を満たす物が伊地知くんへの「好意」なのだと理解した。
黙り込んだ私の顔を灰原が覗き込む。
「七海?大丈夫?」
「誰のせいで……はぁ」
コーヒーを飲み干して立ち上がり、自販機横のゴミ箱へ缶を入れる。
「灰原、この事については他言無用で頼むぞ……」
「うん、七海の顔が真っ赤になってることも含めて言わないよ」
「灰原!!」
****
七海から私物のスマホに電話がかかってきて、伊地知は驚きのあまり足を滑らせそうになった。
「伊地知さん、大丈夫っスか!?」
「だ、大丈夫です!ちょっと電話してきます」
駆け寄ってくる新田を片手制し、そのまま伊地知は控室の方へと急ぎ足で向かった。
「珍しいね、伊地知が電話ひとつであんなに慌てるなんて」
隣の薬局で働いている家入がカウンターで頬杖をつく。暇になった時は花屋に来て入り浸っている、ある種の常連だった。
「やっと女ができたかな」
「お客さんとご飯行くって言ってたっス」
「おっ、聞かせろ」
面白がる家入に新田はお客さんは男性である事、この店に注文をくれることも取りに来ることもあるお得意様である事など知る限りの情報を伝える。
「新田は見てないの?その人」
「後ろ姿だけ見たっスね。すらっとして、体格が良い人だった気が……」
そうこう話している内に伊地知が戻ってきたので空かさず家入は切り出す。
「伊地知、お客さんと飯に行くんだって?」
話が既に流れていることに伊地知は驚きつつも、その出所が新田であることを察する。
「ええ……そうです」
「顔が赤いぞ。そいつから何か言われたか?」
家入が指摘するとみるみる内に伊地知の顔が更に赤みを増し、それを隠すように両手で顔を覆った。
「何言われたんですか、伊地知さん」
「ちがっ、違うんです!飲みに行くので食べ物の好みとか色々聞かれただけで、何もされてません!」
それだけでそんなに顔を赤くするのか?と家入は思ったが、これ以上聞いても何も出ないと判断した。
「ちなみに、そのお客ってどんな人?」
「そうですね……律儀で礼儀正しくて、私が作るものや私のことを、よく褒めて下さる優しい人ですね」
そう言って顔をほころばせる伊地知を見て家入は目を丸くする。他人に深入りしない印象の伊地知が特定の人について笑みを浮かべながら話す場面を初めて見たからだ。
ピピピッと家入が付けているスマートウォッチのアラームが鳴った。
「おっと……来客だ。また聞かせてくれその話」
「お疲れ様です。お仕事、頑張ってください」
家入は背を向けながら片手で手を振り店を後にした。
****
七海からの電話
『お疲れ様です、急に電話してすみません……今大丈夫ですか?』
「はい、いかがされましたか?」
急な電話で何だろうと思ったが、先日仰っていたお礼の夕飯の話だった。
七海さんがお店を探してくれるとの事で好きなものや苦手なものを伝え、日時が木曜の夕方に決まった。
「すみません、何もかも任せてしまって」
『お礼なので気にしないで下さい。当日は最寄駅で駅で待ち合わせましょう』
「はい、よろしくお願いします」
『伊地知くん、』
七海さんが言い淀んだので「七海さん?」と聞き返す。
『……当日、楽しみにしています』
「っ……は、はい。私も楽しみです!」
電話を切って七海さんが楽しみにしてくれているという事実で顔が熱い。両頬をぴしゃりと叩き落ち着きを取り戻そうと試みるが中々熱さがひかない。
家入さんに悟られなければ良いなと思いながら仕事場へと戻った。