あっ、と気付いた時には遅かった。
「ノート間違えましたね」
授業終わりの流れ作業、自分の物と思って持ってきた理学のノートは別の人物の物だった。違うとわかっていても、念のためノートを捲ってみる。
……やはり違う。字や書き方が違うから自分のではない。
「返さないといけませんね」
三ページほど捲って閉じた。その際に、偶然見てしまう。──はらりと落ちた一通の封書を。
拾った際に、忍ばされていた花の香料が、ふわりと薫る。誰かが認めた淡い桃色の綺麗な封筒……つい、宛先を確認してしまった。秘めた想いを綴った文が封じられているであろう手紙。
それは、まさしく──!?
「はい……ノート返します。間違えて持って行ってしまったようで……」
昼食後の中庭にて、暗い声と曇った顔で返却されて戸惑う。ノートがなかったことに気付いてなかったので、その点に驚きはない……。
だが、渡してきた人物の鬱蒼とした雰囲気には驚いた!
「な、何かあったのか?」
あまりにもわかりやすかったので、機微に疎いフェリクスでも察して声をかけた。さっき授業で一緒だった時とは全く違っており、別人のように思えた。
落ち込んでいる……と、言っていいのかわからないが、彼女がここまで暗い姿を見るのは初めてだ。
「……特に。……何も、ありません」
「誤魔化すなら、もう少しマシな顔をしろ」
「……何もないです。……落ち込んでなんて、いません……」
いや、嘘だろ! と言いたかったが、どんよりじめじめしたリシテアの前では無意味だ悟った。うまい気遣い方を知らないフェリクスは黙るしかない。
……十数秒の沈黙の後、梅雨を思わせるじとじとした音が沸いた。
「……あの、手紙が……落ちてしまったので、見てしまいました」
「手紙?」
「ええ……中は見ていませんが、気に障ったらすみません。……見るつもりなかったのですが……」
「何のことだ?」
思い当たる節がなかったので、フェリクスはリシテアの話を遮って尋ねた。
手紙とは何のことだ? と伝えると、彼女は少し呆けた後、首を傾げる。
「……えーと、あんたのノートに手紙が挟まっていたんです。わたし、それを見てしまって」
「手紙なんかあったのか?」
「あ、あったんです! その……女性からの女性らしい手紙が。思いのこもった、こ……こいのような物が!」
「虎威?」
虎威──虎 が他の獣類を恐れさせる威力。強大な武力・権力などをいう。もちろん、関係ない。
何を言っている? と、今度はフェリクスが首を傾げた。幾分覇気を取り戻したリシテアの話は予想外で、理解が追い付かない。
「そんなのは知らん。覚えがない」
「お、覚えがないって?! 現にあったんですよ、わたし見ましたから!」
そう言うと、リシテアは震えた手で返却したノートを再度拝借して、挟まっていた薄桃色の手紙を見せた。宛先には、ちゃんとフェリクスの名が書かれている。
「差出人は書いていませんでしたが、あんた宛で間違いない……ですよ」
「そうみたいだな」
フェリクスは初めて知ったようで、表情は変わらず気持ちが読めない。リシテアから手紙を渡されると、他人事のように封を開けて、中身を確認していった。
(なっ、何もわたしの前で、見なくていいじゃないですか!?)
胸中がテフのように苦くなっても、その場から動けずにいた。どうするのか、手紙を読んでどう思ったのか、返事はどうするのだろう……と、様々な思いがリシテアの中で渦を巻く。
フェリクスがどうしようとリシテアが口出す事ではなく、何をしようと構わないが──ちょっと、少し、だいぶ気になる! とても滅茶苦茶気になる!!
「ど、どど……どうするんですか?」
気になってしょうがなくなって、リシテアは揺れる声音で尋ねた。正面から聞く勇気はなく、顔を逸らして小刻みに震える手首を抑えて精一杯の虚勢を張る。
とてもわかりやすい様子なのだが、その手に関して無頓着なフェリクスのため、ぶっきらぼうに答えた。
「何も」
「な、何も?!」
「何故、そんなに驚く?」
「えっ?! あっいえ、その……きっと悪くない手紙だったでしょうから……」
濁しているリシテアに疑問に持ちながら、フェリクスは綴られてた文を見せつける。
「えっ! ちょっ、見せないでくださ──」
「呼び出しの手紙だったらしいが、もう五日も前の話だ。どうしようもできん」
「はあっ?!」
言っていることがわからず、彼の方へ顔を向けると簡素な文章が目に入った。
品の良い美麗な文字はフェリクスへの呼び出しを記しており、日付は五日前であった。そして、差出人は不明……。
「す、すっぽかしたんですか?!」
「今、見たしな。手紙があったことを知らなかったんだから俺が忘れていたわけではない」
「ええっ?! でも、五日も気付かないって……授業の復習をしていれば、そんなことにならなくないですか?」
「試験でもないのに、理学のノートを開くわけがないだろ」
「何、堂々と言ってるんですか!? 苦手なんですから勉強しないとわからないままじゃないですか。だから、あんた未だに基礎のところ怪しいんでしょ!」
「……うるさい。お前だって、魔法以外の実技訓練してないだろ」
思わず放たれたリシテアの苦言に、フェリクスは不快な態度を取って応酬する。苦手な理学の勉学など試験以外でするか、と堂々と示すのは、ある意味潔い。
「俺一人でわからないところが多いのに、ノートを開いたところで理解できん」
「だから復習するんです! 訓練ばかりしてないで、少しは机に向かってください!」
「要らん世話だ! 必要な時にする」
「あんたはもっと危機感持ってください。それだと試験前に苦労しますし、補習になったら剣の時間が削られますよ。いえ……だから良かったのかもしれませんが……」
「はあ?」
ノートを開かなかったからこそ、忍ばせられた恋文に気付かず、呼び出しに応じなかったのだ。そう思うと、リシテアの胸中はごちゃごちゃしていった。
(でも、待ちぼうけって! ドキドキして待ってたのに相手が来なかったって……何でしょう、言いようのない虚しさが! ああ、どのくらい待っていたんでしょう……)
同じ乙女としては複雑だった。呼び出しに応じなかったのは嬉しいのだが、なんだか素直に喜べない。せめて会いに行って、返事くらいしてほしい。フェリクスはしなさそうだけど……。
でも、頑張って手紙を書いたのに気付いてもらえず、カケラも想いが伝わってないなんて!
「せめて、返事は書いてあげたらどうでしょう……」
「相手がわからんのにできるか。呼び出しだけで、意図も不明だ」
「何言ってるんですか、明らかに目的はわかるじゃないですか! そんな手紙貰っておいて不明とか言って、ちょっとどうなんですか?!」
「……チッ、今日は随分口煩い。なら聞くが、何故わかる。果たし合いだったのか? ……それなら、残念だったかもしれんが」
「果たし合いなわけないでしょ! 戦えなくて残念がらないでください!」
と言っても、切々綴った勇気の手紙についてフェリクスに説明するのは、かなり根気がいる。誰がどう見ても恋文だと察せれるのに、わかってない当人にどう伝えれば理解してくれるかは、優秀なリシテアでも匙を投げたくなる。
しかし、あれでもわからないなんて……相手の女性が気の毒に感じる。あれ、なんだか既視感がする? 自分にも覚えがある気がするが、きっと気のせいだろう!
「あんた、そのうち恨まれますよ」
「急になんだ。だが、せっかくの私闘を不意にしてしまったのは悪かったな。機会があれば、手合わせしたいのだが……」
「絶対に違いますから! まず、戦いから離れてください!」
哀れ……。フェリクスに手紙で思いを告げるのは無謀だと、リシテアは胸に刻んだ。
待てよ、もしかしたらこれは使えるんじゃないだろうか──?!
「フェリクス。良い機会です、わたしからも手紙を渡しましょう。それを読んで、いつ何処に向かえば良いのか、考えてみてください!」
「何故、そんなまどろっこしいことをしなければならない」
「あんたの情緒の育成と乙女心を理解させるためです! このままだと相手も浮かばれませんし、今後に支障が出そうです。ともかく、わかりましたね。ふふっ、楽しみにしていてください!」
ドヤ顔で告げるとフェリクスの返事を待たず、リシテアは軽やかな足取りで去って行った。
遠くに行く小さき背中を眺めて、彼は大きなため息を吐く。
「また面倒なことになったな……」
眉間の皺を寄せて、返却されたノートと共にフェリクスも中庭から去る。艶やかな封書には目もくれず、ベンチに置き去りにして。
数日後。フェリクスはリシテアから三通の手紙を受け取った。
「この中で、どれがわたしのか当てて、書いてあるところに来てくださいね!」
と言って。……こいつ、遊んでないか?
「何の遊びか知らんが、付き合う理由がない」
「言ったじゃないですか、あんたの情緒の育成だと。それに、フェリクスは大貴族の嫡子なんですから手紙の一つや二つ読み解けないと大変ですよ。相手の意図を読まないと、火傷しちゃいますから」
「そんな手紙なんか破り捨てたいのだが……」
「ふふふ、そうならないための練習ですよ!」
フェリクスの拒絶は無視して、リシテアは手紙を押し付ける。
面白がっている彼女に辟易しつつ、赤、青、黄色の三色の手紙を仕舞う。なんでこんなことに……と思いながら。
日課を終えて自室に戻ると、渡された封書を開けて読んでみた。これに指定された日時と場所が記されているはずなのだが……。
「なんだ、これは?」
わからなかった! 文字は読めるのだが、婉曲した言い回しで長々書き連ねられていた。フェリクスには大変まどろっこしく、何かの暗号かと思わせる文は読み解けず、頭が痛くなっていった。
「春うららかな季節を思い返すと、夏の日照りが恋しくなる節の……チッ、まどろっこしい!」
それほど文面は難しいわけではないのだが、彼には難解に映った。相手に伝える気があるのか不明な文節もあるので余計に……。
『誰かに相談していいですが、答えは言わないようにお願いしてくださいね』
リシテアには、こう言われていた。フェリクスには解けないと思われてるのは癪だが、さっさと済ませた方が良いかと切り替える。
何度か読んで当たりを付けた彼は、一通の封書を手にして、詳しそうな人物に尋ねることにした。
──そして、指定された日の指定されたとある場所にフェリクスは訪れていた。
「なんでしょう……。来てしまったら来てしまったで、つまらないですね」
「勝手に押しつけて、呼び出しておいて、それか!」
約束通りに行ったのに、待ち人はやや不満そうだった。
「来てくれて嬉しいのですが、負けたみたいで悔しいです……。わたし、けっこう頑張って書いのに!」
「お前、目的と主旨がズレてないか?」
「正直、来ないだろうと思ってました。あんたが行かないと思う場所にして、これを利用して、あの手この手で楽しもうかと考えていたので残念です」
「俺に言うべきではないと思うのだが……」
リシテアとしては、フェリクスが来なくても構わなかったようだ。それはそう、今二人がいる場所は大修道院の入り口から西側の下り階段を降りて、少し進んだ先の上り階段を登った先の踊り場のような所。
詳しくは実際に訪れてみると良いが、奥まった場所である。特段見晴らしが良いわけではないので、わざわざ行く所ではない。
「何だって、こんな場所に……」
「静かなんですよ。生徒や参拝者も来ないので、考え事したい時は行くんです。それよりも、よく此処が分かりましたね?」
「あいつも考えあぐねいてたな」
恋文をよく貰う男でも、今いる場所を理解するのには時間がかかっていた。
フェリクスが訪れるとは思ってなかったが、期待してなかったと言えば嘘になる。来たら来たで嬉しいものだ!
「よく辿り着けました! 報酬に甘さ控えめのお菓子を差し上げましょう!」
「別にそれ目当てで来たわけじゃない。お前が勝手に話を進めて仕方なくだ」
「此処からの眺めも悪くないですよ。見晴らしは良いので、此処でお菓子食べたら至福の時間になりますよ」
「要らん」
断っても聞いてない振りして、押し付けてくるリシテアは慣れていた。面倒なので一応受け取るが、たしかに見晴らしは悪くなかった。ご機嫌な様子で、お菓子を食べていく彼女が隣なら──悪くない。
「でも、不思議ですね。わたしより他の手紙の方が楽だったり、難しくなかったですか?」
「他の手紙? ああ……そういえば、あと二通あったか」
「読んでないんですか?! もしかして、当てずっぽうですか!」
「いや。お前の字じゃなかったから読む必要がなかった」
……ん? 何か変なこと言ってないか?
リシテアの脳に特大の疑問符が浮かび上がる。
「わたしの字? ……あんた、もしかして字で判断したんですか?」
「そうだが」
「ん、んっ? 癖字でしたか、わたし!?」
「別に。特徴はないが、何度かノートに書き込まれてたからな。なら、判別できるだろ」
そんなに書き込んだ覚えがないし、特徴のない字を判別できないです……と、リシテアは思う。
ノートを交換したことはないし、教えたことはあっても口頭の方が多い。それなのに、フェリクスはリシテアの字がわかる……そんなことってあるの?!
「ほ、他の人の字もわかるんですか? わたしじゃない手紙は、ヒルダとクロードに書いてもらったんですが」
「聞きたくなかった人選だな……。その二人の字は、見たことがないから無理だな」
「でも、わたしのはわかるんですか?」
「お前のは見たからな」
見たからって、そう簡単に識別できるものではない。現に、リシテアはフェリクスの字を判別できない。ノートの間違いだって自分の字でなく、理学だったからわかったのであって、他の教科だったら誰のか不明だ。
そんな些細な事で自分だとわかってくれて…………いや、落ち着け。相手はフェリクスだ!
(ここは冷静になりましょう。きっと肩透かしの理由です……フェリクスなんですから)
高鳴りかけた鼓動は、スンと鎮まっていった。
……うん、彼なら妙な観察力や勘で判別できてもおかしくない。相手の僅かな癖を見出し、利用して突くのは戦場では有効だ。剣一辺倒なフェリクスならできても不自然ではない!
「なるほど、日頃から鍛えた洞察力で相手の癖を見抜き、弱点を突くわけですね」
「……何の話だ?」
「見直しました。敵の隙を把握して、相手を的確に追い詰める! 理に適ってますし、そこまでの域に達するには相応の努力を要したはずです!」
「は、はあ?」
急に言われのない褒め言葉に困惑するフェリクス。突然で訳が分からず、薄気味悪かった……何を言っているんだ? と。
「謙遜しないでください。わたし、褒める時は素直に褒めますよ。たゆまぬ努力が実を結び、研鑽の果てに身に付けた技なのですから誇ってください!」
「……どうかしたのか」
「剣のことは詳しくないですが、フェリクスが血の滲む鍛錬を積んできたのはわかります。わたしは誰にも負けないくらい努力をしてきたと自負してますが、あんたも同じで幾多の努力を重ねてきたのですね!」
「何がどうして、そうなった……」
怖い。正直に言うと恐ろしい。突然の理解不能の賞賛は、ただただ恐怖を齎していく。
「毎日来る日も来る日も鍛錬を続けて、休みの日も鍛錬を繰り返して、体調を崩した時も怪我した時も……」
「していない」
「時々涙を零しながら、腕が血まみれになっても剣を振るって、来る日も来る日も修行に明け暮れて、夏の日も冬の日も山に篭って鍛錬していたんですね! 凄いです、フェリクス頑張りましたね!」
「そんなことをしていたら、今此処に俺はいない。……死んでいる」
何故かリシテアは感動して、フェリクスを褒め称えていった。身に覚えのない架空の鍛錬をしたことにされて、勝手に感動して涙を滲ませていくなど、さすがに彼でも読めない。訳が分からない!
なんだって、こうなった……リシテアの字を判別したことくらいで。
「さっきから気味悪い……何を企んでいる」
「ちょっと、わたしは素直に褒めてるんです! 正気を失うほどの鍛錬を続けたあんただからこそ会得した技なんですね。それなら納得できます!」
「だから、何を言っている! お前の想像している訓練なんてしていない!」
「あんたの観察眼は立派です。きっと戦場でも大いに活躍できるでしょう。……僅かな隙や知り得た癖を駆使して、的確に討つ。口で言うのは容易いですが、身に付けるまで過酷だったのでしょう」
「何か知らんが、絶対に違う」
必死に否定するが、リシテアには伝わらずフェリクスへの賞賛を続ける。
何がどうしてそうなったのかわからない彼は、頭を痛めながら甘くないお菓子と共に景色を眺めて気を紛らわすことにした。
──リシテアの字がわかる、なんてことはフェリクスには造作もない瑣末な事。
その意を知るのは、当分先。
「女の振りして恋文書けって言うから協力したのに、俺達何の役にも立たなかったんだな……」
「いいじゃない。あれはあれで進展したと思うし、楽しかったよ!」
「あいつの字体も真似しないといけなかったか……。けっこう頑張ったんだけどなー、まさかの無視か」
「クロード君のは難し過ぎて、フェリクス君じゃなくてもわからないよ……。恋文であれ送ったら絶対駄目だよ!」
話を聞いた協力者は語り合った。お礼として、新作お菓子の試作を頬張りながら。
「甘くないお菓子作るのな難しいって知ってる、クロード君?」
「そうそう、安易に砂糖減らしても増やしてもいけないから厄介だよ。薬を入れると味も変わるから、それも考えないといけないんだよなー」
「あたし、クロード君の作った物は今後食べないようにするね」