出会ったのは、よくある日のそう珍しくない時。今にして思えば、いずれこの日が訪れていたのだろう。
「おはよう、フェリクスさん」
早朝の道すがらに声をかけられる。女性の声は、もう聞き慣れて馴染んでいた。
「おはようございます」
「庭の手入れしてくれてありがとう。朝早いのは聞いてたけど、本当に早いのね……娘は夜更かしが多かったから遅い日が多くて」
フェリクス相手に世間話を始める妙齢の女性は、ほぼ内縁の妻の母……リシテアの母だった。爵位を返上して平民になったが、重荷が無くなったためか夫婦で家庭菜園や日曜大工、料理や読書などを楽しんで余生を送っている。今もじょうろを持って、庭の花に水をあげるところだ。
日頃から何かと世話を焼いてくれたり、度々お菓子屋の手伝いをしてくれる。店が流行り出して客足が増えてきた時は、婦人に接客や補助を頼んでいた。
「忙しかったらいつでも言ってね。お店の手伝いするの楽しいから遠慮しないでね」
「はい、ありがとうございます」
無愛想で口が悪いフェリクスの珍しく敬語を使う相手。まあ義両親の前で普段の喋りではいかないが……。
「ちょうど良かった、フェリクスさん。今、お時間ある?」
お菓子屋を営んでいる彼らの家の方を見てから問いかけてる。どこか神妙な様子にフェリクスは内心驚く。
「急を要する事はないです。また模様替えですか?」
「ああ、違うのよ。いつも手伝ってくれてありがとう。……実は、リシテアがいないうちにフェリクスさんにやってほしい事があるの。あの子、こんな早く起きないから今のうちにね」
悩みながら強請る女性の姿は親子とあって、仕草が似ていた。不審に思わずフェリクスは二つ返事で承諾した。……後にめんどくさい事になってしまうとは露知らず。
朝起きたらフェリクスが不在なのは、よくあった。彼は朝に運動がてら狩りをしたり、どこか走ったり、すぐ近くの両親の家や近所の畑仕事を手伝ったりしている。
体力作りの日課とリシテアは気にも留めなかったが、この日は帰ってくるのが遅かった。遅いと言ってもお菓子を作り始めて少しした後に帰宅したので、リシテアはたまにある日と思った。
「おかえりなさい。フェリクス、先に作ってますよ~……って、この香りは!? 」
懐かしく、香しい匂いを漂わせていた。ぐるんと首を回して、フェリクスに目を向けると予想通りの品を携えていた。
「フェリクス! この香りはもしかして、母様のお菓子ですね!」
「匂いでわかるのか……」
ちょっと怖い……とリシテアのお菓子への熱情に引いてから、手にした美味しそうなお菓子──パウンドケーキを近くのテーブルに置く。
「お前のところにいた料理人が残した菓子のレシピらしいがな」
「ええ、母様がよく作ってくれました。わたしがお菓子を作るようになってからは機会が減って久しぶりです!」
お菓子の準備中にも関わらず、リシテアはお皿とフォークを用意していく。焼き立てで熱いうちに食べる至福の時は見逃せない。
「少し頂きますね! ……はあ~美味しい! まさに至福の時です」
「なら良いが。初めて作ったから味が違うだろうが」
「えっ?! じゃあ、あんたが作ったんですか!」
「一応そうなるな。教わる形だったから一人で作っていないが」
パウンドケーキはいい焼き色で、鼻とお腹を刺激していた。もっと食べたい欲求を制止して、リシテアは大きな疑念を持つ。
「どうして、あんたが作ったんですか?! このお菓子は、わたしがいくらお願いしても教えてくれなかった秘蔵のお菓子ですよ! どんなレシピだったんですか、教えてください!」
興奮して聞き出そうとするリシテアに対して、フェリクスは渋い顔をする。
「……守秘義務がある」
「え?」
「お前には教えれない」
「なんでですか!?」
声を張り上げるリシテアをなんとかなだめようとする。
教えたらダメよ、と念押しされたケーキのレシピは、ずっと機会を窺ってフェリクスに託したいと思っていた代物。母がリシテアに教えようとしないのには訳がある。
「気にするな。お前が気に入ってる菓子なんだろ、大人しく食っておけ」
「えっええ? ……どうしてフェリクスには教えたんでしょう。わたし、ずっと前からこのお菓子作りたいと思っているのに」
「お前には……向いてない。俺が作るからいいだろ!」
フォークに刺したケーキで、強引にリシテアの口を封じる。納得いかない彼女であったが、久方振りの母のケーキは嬉しくて幸せそうな顔で口を動かしていく。
「ああ〜美味しい! これです、うっすら柑橘の香りがする優しい味のお菓子」
「柑橘……」
「ええ、レモンに似た柑橘のお菓子ですよね。同じようなのを作ろうとしたんですが、この味にはならなくて。母様は秘密と言って、いつもはぐらかしてましたから!」
「そ、そうか……」
「料理長が考案して何度か作ってくれて、そのうち母が作るようになったお菓子なんですよ」
食べながらリシテアは、このケーキのレシピを教えてくれないエピソードを語っていく。フェリクスは苦笑しながら聞くことに努めた。うっかりレシピの内容を漏らしてはならない。
「売り物になると思うんですよ。工程は難しくなさそうですし、素朴な味ですからお客さんに喜ばれそうですから」
「それはできない」
キッパリと拒否するフェリクスにリシテアは面食らう。二の句を告げる前に彼の口が開く。
「これはコーデリア家秘蔵のレシピだ。売り物にしないと仰せつかっている」
「わたしもコーデリアなんですが?」
「これは俺が作る菓子だ。お前には教えられん。だから売らない」
「何でですか!」
ごもっともな指摘をされても、フェリクスは首を振って拒絶を示した。再度、同じ手でリシテアの口を塞ぎ、そそくさと厨房に行って何食わぬ顔で仕込みを始めていく。
テーブルに残されたパウンドケーキとフェリクスを交互に見つめて、リシテアは狐に摘まれた心境になる。
「何なんですか一体……?」
そして、また一口ケーキを食して至福のひと時を堪能してから彼女もお菓子作りに精を出していった。フェリクスが作ってくれるならいいかな〜、と考えながら。
『リシテアには絶対教えないでちょうだいね。あの子にバレたら、もう食べないかもしれないから……』
度々そのような事を口にして、フェリクスに伝授していったコーデリア家秘蔵のケーキ。何故、俺に? と疑問が沸いたが、婦人が手にした材料で合点がいった。
果実ではなく、市場でよく目にする赤橙色の代表的な野菜……それをすり潰して、バターや卵、小麦粉と共に混ぜて焼き上げていく。作り方は至ってシンプルだった。
『柑橘の果物が入ってると思わせるためにレモンの雫を入れるのがコツよ』
一手間一手間、丁寧に教わりながら出来上がったお菓子──キャロットケーキは素朴な美味しさだった。フェリクスも食べれるほど甘さ控えめで、味もくどくなくて気に入った。お菓子に野菜を使うのは驚いたが、それこそ愛娘のために作られた優しいお菓子だと理解できる。
だが、だからこそリシテアに教えられなかった!
『あの子の数少ない野菜を摂る方法だから、今後も作ってあげてほしいの。もちろん、うちに来て作ってもいいわよ。……お店の厨房で作る訳にはいかないでしょう』
ため息交じりで話す婦人に頷くしかないフェリクスだった。ニンジンを調理している所を見られたら元も子もない……。
母の愛が詰まったキャロットケーキは、野菜嫌いのリシテアのための秘蔵のレシピとなっていた。後日、フェリクスの手で作り出されていくお菓子には人参の他にトマトなどの野菜が密かに加えられたりと新しい秘蔵レシピが増えていった。
彼は甘いものも野菜も好きではないのに何の因果なのだろうか……。