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    水野しぶき

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    水野しぶき

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    【ミスオエ♀】わたしの窓
    学パロ オーエン先天性女体化 モブ視点

    モブ女とミスオエ♀の話 女はそれはそれはたいそううつくしい女でいて、わたしは女の持つなにもかもに、炎のような嫉妬心を抱いていたのでした。ただの火ではなく、それはたしかに炎なのでした。炎という字は、火がふたつ重なって、炎と読むけれど、ふたつでは到底足りないほどに、めらめらと燃え盛っているのでした。

     わたしが女をはじめて見たのは、中学二年生のときでした。女は転校生でした。修学旅行もおわり、そろそろ受験に本腰を入れようと、教師が必死になって生徒たちを鼓舞していたころの転校生でした。そんな中途半端な時期に転入してきたというのに、わたしの同級生は皆、女のことを覚えているのでしょう。一生、わすれることはないのでしょう。
     女が教室に一歩足を踏み入れた瞬間、教室の喧騒がしゅるしゅると蛇のようにまるまってゆき、誰もが息を呑んで、女の一挙一動に視線をそそぎました。あれほどまでに〝一致団結〟をスローガンに掲げる二年一組の生徒が団結したことはなかったと思います。合唱コンクールでも、体育祭でも、おそらく球技大会でもなかったと思います。
     女が歩くたび、背まで伸びた月色の髪がさらさらとゆれていました。おそろしく細長い四肢はデパートに飾られているマネキンのように見えました。肌は全体的に生白く、皮膚の内側から、なにかひかりらしきものを当てているかのように、ぴかぴかと光っていました。ちいさな顔のなかに収められた薄赤い瞳が退屈そうに教室を舐めまわしました。わたしには、それが本物の宝石のように見えてしかたがないのでした。
     自己紹介を求められて、女はちいさく、薄いくちびるを動かしました。
    「オーエン」
     本来ならば喧騒にもみ消されてしまいそうなほどちいさな声でしたが、女が声を張る必要はありません。静かに、と幾度となく聞いてきた教師の怒号がなくても、皆が皆、無言で彼女を見つめていたのですから。

     女はすぐに学校中の噂の的になりました。先輩後輩問わず、何人もの生徒が、教室を訪ねてくる日々がつづきました。なかには、自ら女に話しかける生徒もいました。そういう生徒はたいがい、ちょっと不良ぶっていたり、スポーツの大会でなにか功績を残していたりと、自分になにかと自信のある生徒でした。それは女子もおなじです。クラスのなかでも目立つ女子生徒たちが熱心に女に話しかけ、自らのグループに女を引きこもうと躍起になっているのでした。

     しかし、女はいつも退屈そうでした。授業中も休み時間も、机に頬杖をついて、窓の外ばかりを眺めているのでした。自分を取り囲む生徒たちの顔よりも、窓の外の世界に、女の興味はあるようでした。ただ青や灰色を切り取っただけのとがったふちにいったいなんの魅力があるのかはわかりませんでしたが、女は熱心に、窓の外を見つめていました。登下校中も同様に、ふだんとなんら代わり映えしない空を仰いでは、なにかにぶつかったり、転んだりしそうになることがしょっちゅうありました。幸いにも、女の周りにはたいがい、女と仲良くなりたい人間が男女問わずひしめきあっていたので、女が傷をつくることはありませんでした。

     結局、女は卒業するまで、だれにもこころをゆるしませんでした。どこかのグループに属することもなく、だれかと付き合うわけでもなく、ただ窓の外を眺めるだけの一年間でした。それでも女はうつくしく、窓の外を眺めているだけでも絵になる女だったので、そのことに異を唱える者はひとりもいませんでした。女の無関心が一貫していたから、というのもあったのかもしれません。男子だけに媚びる女はいかにうつくしくとも嫌われていたでしょうし、女子だけとつるむというのも、あの女であれば、きっとなにかの火種になっていたにちがいありません。

     女が夢中になっていたのは、窓の外と、日々移り変わる天気ぐらいのものでした。佐々木さん家の犬や、野良猫と戯れていたという噂話も聞いたことはありますが、実際に見たことはありませんでした。

     噂と言えば、女にはたくさんの噂話がありました。本人がほとんどなにも語らないため、その大半は周囲の人間が、女について理解を深めようとした過程でできたものでした。でも噂話というのは、陰でこそこそと語られるようなものなので、そのほとんどがゴシップ雑誌のように、突飛で下品なものばかりでした。

     援助交際をしている。体育教師と付き合っている。大学生と付き合っている――等々、中学生の想像力の限界を知らしめるような噂が女の周りを羽虫のように飛び交いました。けれども、女は一切気にするそぶりをみせませんでした。そのうえ、噂は噂でも、証拠のひとつも用意できない噂は非常に短命な生きものです。女の噂は絶えず校内を駆け抜けましたが、だいたい一週間ていどで死んでしまう、蝉のようないのちなのでした。

     でも、わたしはそのなかで、ひとつだけわすれられないものがあります。

     それは――女はちいさいころに誘拐されていままで監禁されていた、という話です。これもたくさんある噂話のひとつに過ぎないものでしたが、わたしはそれを、よくよく覚えてしまうことになります。ただの噂なら一週間ていどでわすれられたでしょう。でも、わたしは見てしまったのです。毎回のように体育を休み、夏でも冬でも長袖を着ていた女の手首にくっきりと刻まれた縄のような痣を、わたしは、たしかにこの目で見てしまったのです。

     今思えば、教師は女に対して異常にやさしかったような気がします。体がよわいから、という理由で体育を休むことがゆるされているのは周知の事実でしたが、教師たちはときどき女を廊下や相談室に呼び出しては、最近どうだ、クラスには馴染めているか、なにか困ったことはないか、と親身になって女を気遣っていました。一年生のころに転校してきた明美ちゃんに訊いたら、「最初のうちはね。あっちも仕事だもん」と大人びた口調で返されましたが、女へのそれは卒業するまでつづきました。卒業時には、本当におめでとう、と養護教諭がなみだを流しながら女をねぎらっているのを見ました。それは女がうつくしいからなのか、それとも訳アリの生徒だからなのか、はたまた両方だからなのか。蚊帳の外から女を見つめていたばかりのわたしにはわかりませんでしたが、あのとき、わたしにとって、女は窓の役割を担っていたのだと思います。なんの意味があるのか、なにが楽しいのかもわからないけれど、ただ見つめてしまうもの。そして空が女の視線に気づかぬように、女もまた、わたしの視線には気づいていないようでした。なぜなら、女とは一年間、一度も口を利いたことがないのですから。

     ところで、わたしは勉強ができない生徒でした。幼いころから、「勉強しなさい」と厳しく躾けられてきたわりには成績もわるく、いざ受験をすることにもなっても、近隣の高校では到底偏差値が足りていませんでした。それでも、娘に〝中卒〟という最終学歴がつくことだけは回避したかった母は必死になって、偏差値の低い高校の資料をかき集めてきました。わたしはそのなかから、制服がかわいいから、という理由でひとつの高校を選びました。黒い布に赤いラインとリボンが鮮やかに映えるセーラー服。それは周囲から、〝北高〟と呼ばれる学校の制服でした。そのときのわたしは知りませんでしたが、奇抜な制服のデザインよりも、不良の生徒が異常に多いということで有名な学校だったそうです。

     そんなことを知る由もないわたしは入学早々、不良生徒に絡まれていました。式に遅刻しないように、と早めにひとりで学校に来たことが仇となったようです。母は入学式には来ませんでした。偏差値の高い学校ではなく、地元で底辺と呼ばれるような学校に入る娘の角出は祝うものではない、というのが母の持論でした。

     不良生徒は、見るからに大人しそうで平平凡凡としたわたしが物珍しかったのか、なかなか離してくれませんでした。どうしてこんな学校に、受験落ちたの、意外とヤることヤってんじゃね等々。たくさんの言葉を一方的に浴びせられかけられました。助けてくれるひとはひとりもいませんでした。おいおいやめとけよ、と諭すような役割の生徒はいましたが、口元が完全に笑っているので、なんの役にも立たないただのでくの坊以下の人間でした。

     そのときでした。男たちがきゅうに、わたしから視線を逸らしたのです。「なあ」とか、「おい」とか、言葉にならないような声を発しては、まるで魔法にでもかけられたかのように、ぴたりと動きを止めているのでした。お世辞にもうつくしいとは言えない顔のなかで、目玉だけがぎょろぎょろと不気味に動いていました。

     わたしは男たちの視線のさきをたどるように、顔だけで振りむきました。

     そこには、女がいました。中学でお別れだと思っていた女が、わたしがこころから〝かわいい〟と思った制服を、わたしとおなじ規定丈でも一切野暮ったくならずに、むしろだれよりも着こなした女が、颯爽とこちらに歩いてくるのが見えました。いつのまにか腰まで伸びていた髪を風になびかせながら、制服と揃いの色の帽子をかぶり、まるで映画のワンシーンのような雰囲気で桜並木を歩く女に、男たちの視線はそそがれていました。自分から呼び止めておいたくせに、わたしのことなど、もうすっかり眼中にないようでした。ただ、それはわたしもおなじでした。わたしはひさしぶりに見る女の姿に見惚れていました。学校のパンフレットよりも完璧に制服を着こなした女の姿に夢中でした。女とおなじ高校に来るなんて夢にも思いませんでしたが、それでも、これはたしかに現実なのでした。

     すたすたとわたしの横を通り過ぎてゆく女に、男たちは誰ひとりとして、声をかけることができませんでした。リーダー格の男はなんとか奮起し、「なあ」の「な」のぶぶんまでは言えていましたが、それ以降の言葉はしゅるしゅると失速してゆく一方なのでした。わたしは女が転校してきたときのことを思い出しました。あのときの不思議な連帯感を想い、耽溺しているうちに、目の前の男が突然こちらに倒れこんできました。きゃあ、とおもわず悲鳴をあげましたが、それを掻き消すように、男たちの怒号が響き渡ります。なにすんだてめえ、ただで済むと思ってんじゃねえぞ、調子に乗んな、と凄むような声のあと、春の日差しのように気だるく朗らかな声がつづきました。

    「だって、邪魔なんですよ」

     それだけ言うと、彼はあっというまに、わたしを取り囲んでいた生徒たちをバタバタと倒していきました。拳をふるい、長い脚をふるい、ほとんど一瞬で、わたしの視界はおおきく開けたものになりました。地面を見ると、男たちはあちらこちらから血を流したり、手足を変な方向にねじったりして、もんどりを打っています。ざまあみろ、とこころのなかで吐き捨てながら顔を上げたとき、わたしは世界が変わるような衝撃に襲われました。

     そこには、それはそれは、たいそううつくしい男がぼんやりと陽炎のように立っていたのです。わたしは一目見た瞬間、彼に視線のすべてを奪われました。燃えるような赤髪を風になびかせ、白い頬を返り血で汚し、すらりとした肢体で颯爽と昇降口をくぐる彼の後ろ姿を、わたしはいつまでもいつまでも眺めていました。遅刻ぎりぎりという時間になるまで、わたしは彼の残像を追いかけるように、ずっとその場に立ち尽くしたままでいました。

     それは、女をはじめて見たときの衝撃にも似ていました。こんなにもうつくしい生きものがこの世にいるのか、と感動する反面、女のときには芽生えなかった不可思議な昂ぶりがありました。いったいなにがどう違うのか、明確にはわかりませんでしたが、それでも鮮やかな赤い髪の残像がいつまでもわたしのなかに燻ったままでいました。



     彼の名前は、〈ミスラ〉というそうで、それは入学式の日にたまたま仲良くなった〈みっちゃん〉から教えてもらったものでした。みっちゃんは、彼とおなじ中学校の出身らしく、彼もまた、中学二年生のときに転校してきたそうです。ミスラが気になるの、と訊かれて、わたしはすなおに頷きました。
     みっちゃんは傷んだ金髪の端をゆびさきでくるくると弄びながら、「やめたほうがいいよ。あいつ、まじでやばいもん」と言いました。いったいなにがどうやばいのかと尋ねれば、みっちゃんは〝まってました〟と言わんばかりに、銀色の金具が貫通した舌で、彼に関する武勇伝をたくさん語ってくれました。地元のヤクザに勝った、数十人以上を相手にたったひとりで喧嘩をした、しかも無傷だった、親がマフィア、女には興味がなく無関心、たぶん何人かは殺っちゃってる――みっちゃんはいろいろな方向に回り道をしながらも、彼がどれだけ〝やばい〟生徒なのかを熱心に教えてくれました。

    「だからさ、ミスラはやめておいたほうがいいよ。まあ顔はいいからさ、せめて観賞用にしておきな」

     そう言って、みっちゃんはポケットから取り出した細くて長い煙草に火をつけました。教室のベランダにはわたしたち以外にも生徒が何人もいて、皆おなじように白いけむりをもくもくと漂わせていました。わたしは煙草を吸いませんが、みっちゃんに付き添って、一緒にベランダにいるのでした。みっちゃんの煙草からはほのかにメンソールの匂いがしました。わたしがごほごほと噎せるたび、煙草を銜えたまま背中をさすってくれるみっちゃんのやさしさに胸が暖かくなりました。いいともだちができた、とどこか誇らしげなきもちにもなりました。



     ただ、そんなやさしい友人の忠告もむなしく、それ以降、わたしはますます彼に夢中になっていきました。みっちゃん曰く、〝観賞用〟という決まりだけはしっかりとまもっていましたが、退屈な授業中はしきりに彼のことを考えていましたし、校内で彼の姿を目にするたび、心臓がぎゅうっと細い縄で締めつけられるような心地になりました。入学式の日に見た彼の残像は日に日に鮮やかを増して、ついには頬の皮までをも、真っ赤に染めあげてしまうのでした。

     彼はたいそううつくしい生徒だったため、人の多い校舎のなかでも、すぐに見つけることができました。背も高く、顔も良く、喧嘩も強いと噂の彼は、よく女子生徒たちの話題の的にもなりました。それでも、皆が口を揃えて言うのは、〝観賞用〟という言葉なのでした。たしかに絶大な人気を誇るわりには、彼はいつもひとりでいましたし、武器になりそうなものを持った男子生徒に囲まれていることは多々あれど、ほとんどの女子生徒たちからはいつも遠巻きにされていました。

     ただ、なかには彼に直接話しかける女子もいて、そのたびに彼は鬱陶しそうに前髪を掻きあげながら、おおきなあくびをこぼしていました。また、彼に声をかける生徒たちはきまって、皆スカートが短く、人形のようにかわいらしい顔をした、うつくしい女たちなのでした。

     わたしは、あくまでも〝観賞用〟というみっちゃんの言葉を思い出して、自分から彼に近づくことはありませんでしたが、それでもそのような光景を見るたびに、わたしの胸はまたぎゅうぎゅうと締めつけられるのでした。縄はどんどん太いものへと変わり、ついには厚手の布にぎゅうぎゅうと押さえつけられているかのような圧迫感を覚えましたが、健康診断の結果はどれもいたって正常な数値を示しているのでした。


     うつくしいと言えば、あの女のほうは、校内ではあまり見かけることがありませんでした。ただ、どこにいても目立つ容姿をしているので、その場にさえいれば、容易に見つけることができるのでした。女はほとんど授業に出ておらず、なんなら学校に来ることさえもまれなのだと、みっちゃんのともだちで、女とおなじクラスの女子生徒が言っていました。

     それを聞いて、女はきっと窓の外に行ったんだ、とわたしは思いました。頬杖をついていつも窓の外ばかりを眺めていた女の横顔は、彼の周りを這いまわるどんな女子生徒よりもうつくしく、一生どこかに閉じ込めておきたくなるきもちもわかります。けれど、女はきっと、そんな生活に嫌気がさしたのでしょう。窓の外を見つめる女の瞳はいつも血の色をしていました。できたての傷口から流れるような、禍々しくも、鮮やかな赤色でした。

     それでも、女の噂はたびたび、わたしの耳にも入ってきました。一年生でいちばんかわいい女からはじまり、不愛想で高飛車な女につづき、そのあとは奇妙な与田話のようなものに変容していきました。なんでも、女に好意を告げた男は皆、きまって行方不明になるというのです。そんなことがありえるものか、とわたしは軽く流そうとしましたが、それでも〝あの女ならありえるかもしれない〟という思いは、たしかに胸のうちにありました。あのたいそううつくしい女には、不可能なことなんて、けしてないように思えたのです。ふつうの人間の枠で語るのが馬鹿らしくなるほど、校内でときおり見かける女の姿はうつくしく、生白い肌はいつも、いつかのようにぴかぴかと光っているのでした。

     そういえば、光っているのは、彼もおなじでした。女とおなじくらいに白い肌はいつもひかりでも浴びせられているかのようにぴかぴかと光っていましたし、日に日に鮮やかさを増してゆく髪は、まるで真新しい血のような色をしていました。




     その瞬間は唐突に、されど的確な時期に訪れました。
     来る日も来る日も、彼を鑑賞することに飽いていたわたしは、とうとう彼に話しかけてみることにしたのです。前の晩は緊張でねむれませんでした。一週間ばかり、食事もあまり喉を通らない日がつづきました。それでも、わたしは彼に話しかけることを決めました。入学式の日に助けてもらったお礼を、まだしていないことに気づいたからです。
     お礼という名目でなら話しかけられるかもしれない、と思ったわたしは、すぐにみっちゃんたちに相談をしました。彼女たちは皆一様に難色を示していましたが、「まあ、お礼だけなら」とようやく許可をもらうことができました。そして、わたしはそのときはじめて気づきました。親友だと思っていた彼女たちもまた、彼に好意を寄せる有象無象のひとりに過ぎなかったのです。女の嫉妬というものは生々しく、空気ではなく肌で直接感じとることができるほど、それはそれは醜悪極まりないものでしたから。彼女たちがきまって、彼を〝観賞用〟と呼ぶのも、自分には望みがないことを見込んでの合言葉だったのでしょう。自分も近づかない、ただし他人にも近づかせない、という女の世界ではありふれた同調圧力でした。

     わたしはすくなからず、彼女たちに対して幻滅を覚えましたが、それでも彼女たちはわたしの大切な友人です。うらむことなどできそうにはありませんでした。それに彼に近づく女を排除したいという彼女たちのきもちも、わたしはたしかに知っているのでした。


     彼女らと吟味した手土産(それは最近流行りのちょっとお高めなスイーツでした)を片手に、わたしは彼の姿を探しました。途中、手土産に目をつけた不良連中に絡まれることもありましたが、わたしは彼らを無視して校内を歩きつづけました。背後から追ってくる罵声も一切気になりませんでした。わたしはこのとき、いままででいちばん彼に夢中だったと思います。そしてしとどにあふれてくる欲望がコップのふちからあふれそうになっていたときでもありました。間近で彼を見つめたい、彼と話したい、彼に触れたい、と逸るきもちだけが足を動かしつづけます。もちろんそんなことは夢のまた夢の話で、話しかけても無視される可能性もなきにしもあらずといった感じでしたが、それでも、このときのわたしは無敵でした。すっかり彼の虜になっているわたしには、なにもかもが輝いて見えて、落書きだらけの校舎の壁にすら芸術性を見出すほど、わたしの世界は輝いていました。そう、たしかに輝いていたのです。目には見えないあまったるい幸福とやらに、脳味噌をどっぷりと浸からせていたのです。


     学校中を練り歩き、ようやく彼を見つけたのは、なんの変哲もないただの廊下でした。それでも彼がいるというだけで、寂れた校舎の一角にある、人気のない不気味な廊下ですら、まるでステージのように輝いて見えるのでした。

     わたしは一度深呼吸をして、長い脚でゆっくりと廊下を歩いてゆく彼の後ろ姿を熱心に見つめました。しかし、彼が振り返ることはありません。わたしが呼ばなければ、わたしから動かなければ、彼がわたしを見てくれることはありません。それほどまでに、わたしと彼のあいだには、おおきな壁が立ちふさがっていました。けれど、たった一言、名前を呼ぶだけで崩落してしまうような脆い壁だということに、きっとわたしの友人たちは気づいていないのでしょう。一生、気づくことはないのでしょう。

     わたしは意を決して、彼の名前を呼ぼうとしました。
    「ミス――」
     そのときでした。わたしが名前を呼び終えるまえに、彼が勢いよく後ろを振り返ったのは。
    「ミスラ」
     そして、蜜のようにあまやかな声が、わたしのとなりをふわふわと通り過ぎっていったのは。
    「オーエン」
     彼は振り返ったまま、気だるく女の名前を呼びました。もちろん、緑色の鮮やかな目に映るのは、わたしではありません。彼が女子生徒の名前を呼ぶ場面ははじめて見ましたが、これももちろん、わたしの名前ではありません。

    「あなたが学校に来るなんて、めずらしいですね」

     ひさしぶりに見る女は、それはそれはたいそううつくしく、その女を見つめる彼の横顔もまた、たいそううつくしいものなのでした。女はおそろしく細長い四肢で彼のとなりに並ぶと、そっと囁くように言いました。あいかわらず、規定丈のスカートがふわりと舞います。薄暗い廊下のなかで月色の髪がきらきらと光って見えます。

    「おまえの顔を見にきたんだ。たまには、いいかなって。まえの怪我も治ってきたことだし、」
    「へえ。そうなんですか。よかったですね」
    「おまえがつけた傷だろ。わすれもしない、先月の夜。おまえの家で」

     女はそう言うと、華奢な指で、自分の首筋を指し示しました。

    「あんなの、傷のうちに入らないでしょう。ちょっとしたスキンシップみたいなものですよ」
    「痣は痣だろ。おまえのせいで、購買の期間限定のスイーツセットが食べられなかった」
    「はあ……また作らせます? 十万くらい渡せば、すぐに作ってくれるでしょう」
    「ううん。もういいんだ。そんなことより……」

     女はくるりと軽快に振り返ると、じっとわたしの姿を見つめました。血のように禍々しい視線が、わたしの全身を舐めまわすように這います。うつくしい顔に嵌められた薄赤いまなこを見て、わたしは、いますぐにでも舌を噛んで死んでしまいたいようなきもちにさせられました。細く通った鼻筋も、薄いくちびるも、腰まで伸びた髪も、ちいさなあたまも、おそろしく細長い四肢も、女の持つすべてのものが、いまのわたしをとてもみじめなきもちにさせるのでした。彼のまえだから、というのも大いにあったことでしょう。

    「あれは、だれ?」

     その言葉を受けて、彼はようやく、わたしの存在に気づいたようでした。ぱちぱちと宝石のように鮮やかな瞳が瞬いて、胸のうちにある縄が、ふたたびわたしの心臓を締めつけます。いつもはぎゅうぎゅうと押さえつけられるような痛みなのに、今回は、きりきりと皮膚が切り裂かれるような鋭い痛みを感じました。

    「さあ……」

     彼の瞳が、無感動にわたしから逸れます。しかし、女のほうはちがいました。女はすたすたとこちらに向かってくると、わたしの顔をじっと見て、それから視線はわたしが抱えていた手土産のほうへと流れてゆきました。

    「素敵なものを持ってるね。それは、コイツへの貢物?」

     わたしは女の言葉に、力なく頷くほかにありませんでした。貢物という呼びかたは気に入らなかったものの、〝返礼品〟とわざわざ訂正するほどのものではないように感じたからです。

    「だってさ。ねえミスラ、はやく受け取ってあげなよ。女の子に荷物を持たせるなんてかわいそうでしょう?」
    「はあ……どうでもいいですけど、あなた、最近チレッタに似てきましたよね」
    「はあ? ぜんぜん似てないよ。そんなことより、さ、はやく」

     女に急かされた彼は長い脚であっという間にわたしの元へと辿りつきました。あれほど高くて頑丈だと思っていた壁が無残に崩れてゆきます。わたしの声ではなく、あの女の声で、ばらばらと砕け散ってゆきます。

    「それ、俺にくれるんですか?」

     この瞬間、彼のうつくしい瞳が、たしかにわたしを映しています。わたしのことだけを見ています。気だるげであまやかな声は、たしかにわたしに、わたしだけに向けられています。それでも、わたしは、この状況を手放しによろこぶことができませんでした。これはわたしの功績ではなく、もっと言えば、あの女の残したただのおこぼれに過ぎないのですから。
     わたしはまた、頷きました。

    「ありがとうございます」

     箱は無事に、彼の手に渡りました。瞬間、触れたゆびさきは思いの外あたたかく、不思議となみだが出そうになりました。理由はわかりません。どんな理由であっても、彼と触れあえたことがうれしかったのかもしれませんし、あるいは、あの女に対するみじめなきもちから生まれ出たものだったのかもしれません。

     あいかわらず、ぴかぴかと光ってばかりいる女の生白いからだが彼の腕に絡みつきます。その瞬間、白い手袋と制服の袖の隙間から、昔見たものとおなじ痣のようなものが覗きました。あらためて見ると、その痛々しい痣は、彼の手首にある継ぎ目のような傷に似ていました。
     彼は突然腕を組まれたことに対しても、なんの反応も見せることはなく、なにか言葉を発しているようでした。それに対して女が笑い、彼もおなじように目を細めています。どんどん遠ざかってゆくふたりの後ろ姿を、わたしは、永遠にも似た心地で見つめていました。あわよくば、彼が一瞬でもこちらを振り返ってくれないか、とひそかな欲望をふちにひそませながら。

     結論から言うと、彼はたしかに振り返りました。しかし、その目に映るのはわたしではありません。たいそううつくしい女だけが、きっと彼の眼球に映っていることでしょう。そして彼のうつくしい光に呑まれて、女はさらにきらきらと輝きを増していることでしょう。
     彼は女を壁に押しつけると、ふたつの影がそっとひとつに重なりました。ふたりぶんのおそろしく細長い四肢が絡み合い、生白く光った両者の肌は異常なほどに煌めいています。そのとき、さきほど、わたしが手渡したばかりの箱が床の上に落ちる音を聞きました。

     彼と女はすっかり互いの肉を貪ることに夢中になっているようで、ここにたったひとりの傍観者が残っていることなど気にも留めていません。わたしがどんな思いでここに来たのか、どんな思いで彼を探したのかを反芻しているあいだにも、ふたりのからだはどんどん得体のしれないものへと変容してゆくばかりなのでした。

     それでも、ふたりはお似合いでした。どこからどう見ても、これ以上のものがないくらい、似合いのふたりでした。過不足のないふたりでした。ふだん彼の周りを這い回るうつくしい女たちがかすんで見えるほど、いまの女はうつくしく、だれよりも、彼のからだに馴染んでいるように見えました。そして、彼のようなひとのとなりに並ぶのは、わたしでも彼女らでもなく、この女であるべきなのだろうと知らしめるような圧倒的なものを女は持っていました。わたしが一週間ぶんの勇気と女のおこぼれでありついた夢をいとも簡単に叶えてしまう、これはそのような女なのでした。きっと、そのような女だからこそ、彼のとなりに並ぶことができるのでした。

     もう無理だ、とわたしが教室に帰ろうとしたとき、ふと視線が頬をかすめました。振り返ると、女がこちらを横目で見ているのがわかりました。真っ赤に燃える彼のあたまを引き寄せながら、それでも、視線はたしかにこちらに向いているのです。それから、女の薄赤い目がにじむように細められるのを、わたしははっきりと見ました。見て、しまいました。まるでわたしのきもちを知ったうえで、この行為を見せつけているかのような表情に、わたしはいますぐにでも、この女を殺してやりたいというような衝動に駆られました。

    「死ね」

     おもわず口をついた悪態も、女の耳には入りません。もちろん彼の耳にも入りません。わたしは互いの衣服を脱がし合うふたりに背を向けると、そのまま教室へともどりました。どうだったの、と寄ってきた友人たちを無視して、わたしはひとり自分の席につきました。それから、なんとなしに窓の外に視線をやります。

     ただ青や灰色を切り取っただけのとがったふちにいったいなんの魅力があるのか、あいかわらず、わたしにはちっともわかりませんでした。でも女はたしかに見つけたのでしょう。赤く燃える髪を、自分とおなじ生白い肌を、きれいな緑の色の瞳を、似たような傷を持つ男を――女はたしかに、このなかで見つけたのでしょう。なんの変哲もない世界で、景色のなかで、自分から気安く声をかけるほど、とくべつな相手を見つけたのでしょう。あの女の声を聞いたのは、人生で二度目の出来事でした。あの女が自ら他人に声をかける瞬間を見たのは、人生ではじめてのことでした。

     一年以上も熱心に窓の外を見つめつづけていた女に、わたしごときが敵うわけがありません。あのとき女はただ空を見ていたわけではなかったのだ、とそのときわたしははじめて気づきました。女はきっと、夢中になれるものを探していたのです。すべてを持って産まれてきたような女が、こころから夢中になれるようなものを。

     下世話で醜くて馬鹿で愚鈍なクラスメートたちではなく、女はずっと、窓の外を見ていました。どんなにおべっかを使われようと、女の視線が、窓の外から逸れることはありませんでした。自分に釣り合うような人間があの狭い教室のなかにはいなかったことを、女はとうの昔に知っていたのかもしれません。そして外の世界で、彼と出会ったのでしょう。出会ってしまったのでしょう。いったいどういう経緯でふたりが出会ったのか、どういう関係なのか、どうして彼だったのか――わたしは、あの女のことをなにも知りません。それでも、あの女が自分に似合いの男を見つけ、彼が自分に似合いの女を見つけたことだけは純然たる事実でした。お互いがお互いを見つけた、ただそれだけで、必然的になにかがはじまってしまうような予感を感じさせるふたりなのでした。


     それからすこし経って、友人たちから、「ミスラとオーエンが付き合ってるらしい」という噂話を聞かされました。どうやら、女はあいかわらず噂に好かれる性質のようです。あからさまに落胆する者、なんでもないようなふりをして流す者、女の粗探しをする者と、彼女たちの反応は千差万別でした。わたしはそんな彼女たちに対して、あいまいに笑いました。わたしはとっくにあの女に負けているので、いまさら悔しがるようなことはなにもありませんでした。ただ、たとえ一瞬でも、おなじ土俵に上がれたことだけが、わたしの誇りでもありました。

    「あっ! ねえ、ちょっと、あれ!」

     友人のひとりが発した言葉に皆が皆、窓の外を覗きこみます。そこには改造バイクを走らせる彼の姿と、後部座席にゆうがに腰かけた女の姿がありました。燃えるような赤髪がぶわっと舞って、月色の長髪もまた、さらさらと風に流されてゆくのが見えました。いつのまにか、クラス中の人間が窓を覗きこむなかで、わたしはふたりの姿をしっかりと目に焼きつけました。そして、あらためて思いました。あの女になりたい、と。
     そう願った瞬間、ちりちりと燃えるような感情が、わたしの胸に真っ赤な炎を灯しました。

     女はそれはそれはたいそううつくしい女でいて、わたしは女の持つなにもかもに、炎のような嫉妬心を抱いていたのでした。ただの火ではなく、それはたしかに炎なのでした。炎という字は、火がふたつ重なって、炎と読むけれど、ふたつでは到底足りないほどに、めらめらと燃え盛っているのでした。

     でも、女はわたしの憧れでもありました。もっと言えば、夢中になれるもの、でもありました。中学生のとき、わたしの窓はあの女でした。そして高校生になってからは、赤髪の彼が、わたしのあたらしい窓になりました。

     いま、わたしの窓のなかでは、ふたつの鮮やかな色が燃えています。血のような赤色と月のひかりのような色がぱちぱちと音を立てていのちを散らしています。生白い肌がぴかぴかとひかり、おそろしく細長い手足も、ちいさなあたまのなかにあるうつくしい顔も、揃いの傷も、それはそれは、わたしの窓を彩るにふさわしいふたりなのでした。悔しいけれど、いつまでも、永遠に、眺めていたくなるようなふたりなのでした。

     わたしは窓の外を眺めながら、長方形のふちでふたりの姿を、青空から切り取りました。どこかにしまっておきたくなるようなきもちをぐっと堪えて、それはそれはたいそううつくしい女と、たいそううつくしい彼の姿を、いつまでもいつまでも胸の小窓のなかで反芻するのでした。
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