とまれよ、涙。大型プロジェクトチームのメンバーに任命されたと話す藤真は、たぶん忙しくなるだろうから2.3週間は会えないと思う、と寂しさを滲ませた声でそう告げた。
数週間前にそう話していた通り、藤真からの連絡は最低限のものとなり、「おはよう」と「おやすみ」のメッセージと、シンプルなスタンプが届く程度になった。そのどれもが、朝は牧が目覚めるよりも早く、夜は体調が心配になってしまう時間帯のものばかりで、通知時刻を見るたびに藤真がいかに多忙なのかを思い知らされる。クライアントが海外企業だと話していたので、もしかすると時差の関係上、就業時間が不規則になっているのかもしれない。
だから牧は極力、藤真の負担にならない程度の日常を報告するようにしていた。たとえば、今日はなにを食べただとか、誰とどこへ行っただとか、藤真からの返事を要しない上手な伝え方でメッセージを送るようにしていた。既読がついてそのままのときもあれば、スタンプだけがポンっと送られてくるときもある。そうやって、あと何日を繰り返しながらすれ違いを埋めるようにしていた。
皿にビーフシチューを盛りつけながら、明日は土曜日なのでワインを開けてしまおうかと考えた。毎週金曜日になると、藤真が牧の家に訪れるのが恒例となっており、二人で並んで料理をするときもあれば、デパ地下で総菜を買ってくるときもある。藤真に頼まれて牧が料理を振舞うこともあった。藤真の好物はビーフシチューで、それならばと以前ビーフシチューが評判のレストランに彼を連れて行ったことがある。美味しいと言って笑った彼が、帰り道に「でもおれは牧が作ったビーフシチューが好きなんだけどな」と、はにかみながら笑った。有名店のシェフが作るものよりも、スーパーで買った市販のルーで作る牧のビーフシチューが好きなのだ、と。それから牧の唯一の得意料理がビーフシチューになった。
金曜日は必ず二人で食事をする。その習慣が抜けず、二人分の食事を作ってしまった牧は、鍋に大量に残っているビーフシチューと二人分のサラダを眺め、つくづく習慣とは怖いものだとため息を吐いた。安いワインをグラスに注ぎ、虚しさを振り払うようにして、なかばやけくそな思いで口に含む。こうなったらさっさと酔っ払って寝てしまうのが吉だ。明日は一日なにも予定を入れていないから、目覚ましをかけずに好きなだけ寝ていよう。起きたらジムに行って、新しくオープンしたサウナに寄って、夕飯は諸星でも誘ってどこかに食べに行ってもいい。納期が近い藤真は、おそらく休日を返上して頑張るだろうから、自分は自分でのんびり過ごそう。そんな休日も悪くない。そう思い、ふたたびグラスにワインを注ごうとした。
そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが着信を知らせた。画面には『藤真』の文字が表示されていて、牧は急いで画面をスワイプし、通話を開始した。
「もしもし?」
牧の声に、電話の向こうで息を飲む気配がする。
「藤真?どうした?」
数秒間の沈黙に、こちら側の電波が悪いのかとリビングをうろうろしてみる。高層マンションでは時々、電波障害に悩まされるからだ。
「おい、聞こえてるか?」
しかし、いっこうにうんともすんとも言わない藤真に、いよいよ心配になっていると、「牧」とずいぶん遅れて藤真の声が返ってきた。
「ごめん、少し牧の声が聞きたくなってさ」
耳馴染みのいい爽やかな声がした。
続けて、「いま何してた?」と明るい声。
「ちょうど夕飯を食べていた。 お前は?まだ会社にいるんだろう?」
「うん。いま業者からの連絡待ち」
「そうか。メシは?食ったのか?」
「いや、まだ食べられてなくて」
朝からずっとバタバタしていたせいで食べるタイミングを逃してしまったと、苦笑混じりの声がした。その声から僅かに疲労が伝わってくる。忙しいと食事を疎かにするのは、彼の悪い癖だった。
「藤真 忙しいと思うがメシはちゃんと食えよ?」
いいな? できるだけやさしく、小さな子どもに言い聞かせるように言うと、「……うん」と返事をしたきり藤真が黙りこんでしまった。努めて明るく振舞おうとしていた藤真から、空元気が消えたよう気がした。
しばしの沈黙のあと、先に口を開いたのは藤真だった。
「牧は?」
「ん?」
「牧はなに食べてたんだ?」
「ビーフシチューだ。お前がいないことを忘れて作りすぎたよ。こりゃ、あと3日はビーフシチューだな」
先ほどの気まずさを払拭するように、わざと冗談っぽく言うと、
「はは…」
と、力のない声だけが返ってきた。
その声が少し震えているような気がして、牧は耳をそばだてて藤真の様子を伺った。
「藤真?」
再び訪れた沈黙に、牧が堪らず名前を呼んだ。これは、予想以上に疲れているのかもしれない。前に話していた納期まであと数日のはずだが、進捗が芳しくないのだろうか。今は業者からの連絡待ちだと話していたが、それはあとどれくらいかかるのだろう。あと数時間で家に帰れるのだろうか。
通話をスピーカーにし、食べかけだったシチューの皿にラップをかける。グラスの中のワインをシンクに捨て、腕時計をつけながら「藤真」ともう一度名前を呼んだ。
「業者からの連絡待ちだと言っていたな。どれくらいかかるんだ?」
「え? たぶんあと30分もかからないと思うけど…」
「その連絡がきたら今日はもう終わりか? 他に急ぎの仕事はないか?」
「ああ、今日はそれで帰るつもりだ」
「じゃあ30分後、迎えに行く」
「へ?」
「車で行ってやりたいけど飲んじまったからタクシーで行く。そのままうちに来い」
「え?」
飲みたくもないのに勢いでワインを開けてしまった数分前の自分を恨む。こんなことなら、あんな安酒なんて飲まなければよかった。
「明日も仕事があるなら会社まで送っていく。必要なものがあれば買って行く。疲れているところ悪いが、どうしてもお前の顔が見たい」
お前に会いたい。
甘えることがへたくそな彼からの精一杯の救援信号を、自分は見落とさずにちゃんと拾えただろうか。多少強引でなければ、滅多に我儘を言わない彼を甘やかすことなんてできない。それをこの10年で学んでいる。
「…迎えにきて…、くれるのか?」
高校生の頃から、絶対に弱音を吐かない男だった。どんなにしんどい場面でも、周りを鼓舞して元気づけるような男だった。自分はそんな強い彼がとても好きだったが、それがいつからか、だったら自分ひとりくらいは彼を甘やかせるような存在でいたいと思うようになった。声が聞きたくなったら電話をかけてくればいいし、顔が見たくなったら会いにくればいい。甘えることが苦手でも、両手を広げてくれればめいいっぱい抱きしめてやるから。
「30分後、迎えに行く」
「………うん。ありがとう」
次に聞いた藤真の声は、もう震えていなかった。
:
会社の玄関ホールにタクシーを待たせ、照明がほとんど落とされた薄暗いエントランスホールで藤真を待つ。すれ違う人は皆無で、静寂が辺りを包み込んでいた。到着した旨をメッセージで知らせようかと思ったが、急がせてしまうかもしれないと思いやめた。どうせあと数分もすれば降りて来るだろう。急がせる必要はない。そんなことを思っていると、ブォンという起動音とともにエレベーターが動き出す音がした。それから間もなく、バタバタと忙しない足音が聞こえてきて、ひどく焦った顔をした藤真が現れた。上着もコートも羽織らず、社員証も首にぶら下げたまま、急いで降りてきてくれたのだろう。牧の姿を確認した顔が、少しほころんだのが分かった。
「よう、おつかれ」
「悪い、待たせたよな」
「ちょうどいま着いたところだ。 仕事は大丈夫なんだな?」
「ああ。終わらせてきた」
「そうか。じゃあ、帰るぞ」
あえて、帰るぞと口にしてみた。彼が帰る場所が、いつも自分のところだったらいいのにと思ったからだ。
待たせているタクシーに乗り込み、行き先を告げると車は間もなく滑らかな動作で走り出した。ちらりと横に座る藤真を見やると、「ごめん、これだけ送らせて」と難しい顔をして誰かにメッセージを送っている最中だった。最後に会ったのは三週間前だったが、その頃に比べるといくらか痩せたような気がする。目の下には濃い隈ができており、顔色も少し悪いように思えた。このままどこかに消えてしまうのではないかと思うほど、その横顔に心細さを感じてしまう。
「…おれ、わがまま言ったよな、ごめん。急に牧の声聞きたくなっちゃってさ、気付いたら電話してた」
スマホにメッセージを打ち込みながら藤真が言う。
自分が無理やり迎えに来たというのに、どうしてお前が謝るんだと思った。
「おれがお前に会いたくて勝手に来ただけだ。 謝るな」
「うん。 …ありがとな」
スマホの画面を閉じ、ふぅと静かにため息を吐いた藤真が、窓の外を眺めながら疲れた声で言った。
「今日は朝からトラブル続きでさ、品質のオフスペックの対応で部長といろんなところに電話かけまくってあっちこっちの責任者と情報共有してさ、やっと一息付けたと思ったらまた新しいディレイが発生して、とりあえずみんな帰らせてひとりで業者からの連絡待ってたら疲れがドッときてさ、ここ数日ずっと寝不足で、まともに飯も食えてなくて、そういえばもう何日牧の顔見てないんだろうなあって思ったら無性に声が聞きたくなって、それで、」
藤真がゆっくりと息を飲む。
「…それで牧に…、会いたくなったんだ」
だから迎えに来てくれて嬉しかった、とそっと手を握られる。その、触れた手のひらがあまりにも冷たくて、思わずぎょっとして藤真を見た。
「さむいか?」
「いや、大丈夫。 それよりすっげえ眠い」
車の走行に合わせ、うつらうつらと船を漕ぎ始めながら藤真が言う。
「着いたら起こすから、それまで寝てろ」
「…うん。ごめん」
程なくして聞こえてきた小さな寝息と無防備に眠る横顔に、無性に胸が詰まる思いがした。抱き寄せるかわりにぎゅっと強く手を握り返し、早く彼に温かさが伝わればいいと思った。
「藤真、着いたぞ」
うつろな眼差しでぼやっとする藤真のコートとカバンを預かり、そのまま手を引いてエントランスを抜ける。エレベーターに乗り込み最上階のボタンを押すと、手をつないだまま藤真の顔を覗き込んだ。
「お前、ちゃんとメシ食ってるのか?」
会社の薄暗いエントランスとタクシーの中だけでは、ここまで顔色が悪いことに気付けなかった。
「食ってるよ」
「昼は食べる暇なかったって言ってたよな。朝は?」
「…コーヒー飲んだ」
「昨日の夜は?」
「…インゼリー」
「お前…それは食ってるとは言えないだろう?」
「今から牧が作ったビーフシチュー食うからいいんだよ」
なにがいいのかよく分からなかったが、調子を取り戻してきた藤真の姿に少なからず安堵する。今からたくさん食わせてやればいいか、と牧は無理やり小言を飲み込むことにした。藤真の分のサラダもあるし、開けたばかりの安いワインもある。大量に作りすぎたビーフシチューを見て、おれが食わないとダメだなと笑ってくれるだろうか。
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玄関のドアを開け藤真に先に入るようにと促すと、くるりと振り返った藤真が「ん。」と両手を広げてきた。わざと不機嫌そうな顔をしているが、頬も耳もほのかに赤い。早く抱きしめろ、ということらしい。後ろ手で器用に鍵を閉めた牧が、床に藤真のカバンとコートを置いた。そうして、両手を広げて健気に待っている藤真を力いっぱい抱きしめてやる。隙間もないくらいぎゅうぎゅうに抱きしめると、藤真も背中に腕を回し、強く抱きしめ返してきた。肩口に鼻を寄せ、藤真の匂いをめいいっぱい吸い込むと、肺が幸福感で満たされるような気がした。そのまま顔を合わせ、どちらともなくキスをする。三週間の空白を埋めるように、角度を変えて何度も何度もキスをした。舌を絡め、牧がそっと藤真の後頭部に手を添えたとき、突然藤真の方からグゥと気の抜けた音が聞こえてきた。ムードもへったくれもない腹の虫の主張に、牧が堪らずふはっと大きく噴き出してしまうと、途端に藤真がイヤな顔をした。
「まずはメシだな」
「くっそぉ…いいとこだったのに」
「ほら、行くぞ」
まだ笑いが収まらず、小さく笑いながら藤真の手を取ると、「おじゃまします」と控えめに挨拶をしながら後をついてきた。
そのことばに、確かな違和感が生じてしまった。だから、つい口をついた。
「なあ、一緒に住まないか?」
殊更に表情を変えず無意識に口から出たことばに、見開かれたライトブラウンの瞳がみるみるうちに薄い膜を張るのがわかった。
「おじゃまします」よりも「ただいま」がいい。そうしたらいつでも「おかえり」が言える。帰る場所が同じなら、電話なんてしなくてもいつでも会うことができるだろう。甘えることが下手くそな彼に寂しい思いをさせずにすむだろう。
「一緒にいよう」
悔し涙は見たことがあったが、驚いたときも泣くんだな、と思った。
藤真の笑顔が見たいのに、涙よ、これ以上こぼれ落ちてくれるな。