上手にきらいになってね。新横浜から飛び乗った東海道新幹線の車内の中で、藤真が諸星に連絡を入れると、彼はすぐによく分からないアニメのスタンプをひとつ送って寄越した。そこに一言『OK』と記されてあったので、藤真はようやく座席の上で安堵の息を吐くことが出来た。彼に断られた時の代替案をろくに考えもせずに、名古屋行きの最終列車に乗ってしまったからである。
窓の外は暗く、時速285キロで走るこの鉄の塊は、ひたすらに夜の街を駆け抜ける。
誰かのため息と、隠しきれない物寂しさと、ほんの少しの感傷を乗せて、ひかり669号は目的地を目指して走り続ける。
藤真は、窓ガラスに反射する惨めな顔をした自分を眺めながら、諸星のアパートまでの行き方を記憶の中から手繰り寄せた。最初に彼のアパートを訪れたのは、彼が大学入学を機に一人暮らしを始めた春休みのことで、それ以来何度か牧と二人で遊びに行ったことがある。名古屋駅から私鉄を乗り継いで行けば、そう迷うことなく彼の最寄り駅まで辿り着けるはずだった。
切符に記載された時刻をもう一度確認すると、到着までもうしばらく時間があった。見たくないものから目をそらすようにブラインドを下まで閉めると、ぎゅっと両目を瞑り、窓にもたれ掛かるように体を傾ける。先程から、こめかみが痛んでしょうがないのだ。早く意識を手放してしまいたいのに、逃げるように飛び出した扉の向こうで佇む彼の、悲しそうな顔が脳裏に焼き付いて離れないでいる。
上手にきらいになってね。
最寄り駅の改札口で藤真を見た諸星は、少し困ったような顔をしてみせたが、すぐにバイクのヘルメットを投げてよこした。それから、駐輪場に停めていた自身のバイクに跨ると、
「しっかり掴まっとれよ」
と藤真の腕を自分の腰に回させ、アクセルを捻った。
「お前、バイクの免許なんていつ取ったんだよ」
赤信号で停車をしている合間に藤真が大声で問えば、
「この前」
と前方から素っ気ない返事が返される。
「言えよ」
「秘密にしといて、驚かせたかったんやって」
お前と牧が一緒に来た時に見せつける予定やったのに、とくぐもった声がする。サプライズが不発に終わり、少しいじけているようでもあった。派手好きな彼らしい物言いだ。
「今日…牧は?」
どこか探るようにそう訪ねる諸星のことばは、バイクのエンジン音で聞こえないふりをした。
代わりに彼の背中にぴったりとくっつき、腰に回した腕に力をこめた。
ものの数分で諸星の住むアパートに着くと、ヘルメットを外した諸星に、
「怖くなかったか?」
と揶揄うように笑われた。
普段から牧のバイクの後ろに乗っているので特に恐怖心といったものはなかったが、余計なことは言わずにただ首を振る。
「別に」
「そうか。あ、腹減っとらん?近くにコンビニあるけど行かんか?」
諸星に問われ、そういえば夜ごはんを食べ損ねていたことを思い出した。
日曜日の夜は、一人暮らしをしているどちらかの家で必ずご飯を食べることにしていた。平日は部活なり、大学の課題なり、アルバイトなりとなにかと忙しい日々を送っている二人なので、せめて日曜日くらいは予定を合わせて一緒にご飯を食べようと、それが牧と藤真のたったひとつの約束だった。
今日は藤真のリクエストで牧がカレーを作ってくれていたのに。一口も口を付けることなく置き去りにされたカレーの皿を、牧はどんな気持ちで片付けたのだろう。ずいぶんと申し訳ないことをしたな、と少し胸が痛くなる。
スマートフォンの画面を確認すると、いくつもの着信履歴とメッセージが表示されていた。新幹線の車内の中で、諸星のバイクの後ろで、心もとない手のひらの中で、彼からの着信で時々スマートフォンが振動するのを、しかし藤真はずいぶんと気付かないふりをしてやり過ごしていた。
だって今はまだ、彼とどう向き合っていいのか分からなかったから。
「諸星、コンビニ行きたい」
だからまだ藤真は気付かないふりを続ける。
スマートフォンをジーンズのポケットに捻じ込んで、一切の感傷を遮断するのだ。
「それから、今日、…泊まってもいいか?」
今さら不安そうに尋ねる藤真に「じゃあ歯ブラシ買わんとな」と諸星が小さく笑った。
「適当に座っとって」
諸星から座るように促され、大人しくソファーの隅に腰を下ろす。
以前牧と来た時よりも部屋はほんの少し散らかっていて、バスケ雑誌やら試合のDVDやらが床の上に転がっていた。
「悪いな、急に押しかけて」
「そんなん別にいいよ」
今さらやし、と笑われる。
それから、諸星が冷蔵庫から冷え切った発泡酒を藤真に手渡し、反対側のソファーに腰を下ろす。
「ありがと」
「ん。じゃあ、はい、とりあえずおつかれさん」
指先で子気味よくプルタブを弾き、小さく乾杯をする。発泡酒を勢いよく喉に流し込むと、乾き切っていた喉の奥がひりひりと痛んだ。空きっ腹でアルコールを摂取することに少し抵抗もあったが、だからといって何かを口に入れるほどの食欲はなかった。
ああ、牧が作ったカレーが食べたいなあ。
先程から何度もそう思ってしまうほど、反省も後悔もしているのに、やっぱりまだ牧と話す気にはなれなかった。彼の声を聞けば、本音と一緒にいろいろなものがこぼれてきてしまいそうだからだ。
そんなの、やさしい彼を余計に困らせてしまうだけだと、喉の奥に引っ付いて離れないものを無理やり飲み込むように、勢いよく発泡酒を流し込んだ。
「…おれさ、今日めっちゃツイとらんくて」
そんな藤真の様子を知ってか知らずか、唐突に諸星が話し出した。
先ほどコンビニで購入したビーフジャーキーを二本同時に咥えながら、藤真の反応を待たずにぽつりぽつりと話を続ける。
「せっかく早起きしてバイク屋行ったらちょうど定休日で、昼は食べたかった定食屋のAランチが売り切れで、午後からの部活はまあ楽しかったけどシュートがぜんぜん決まらんでコーチにすげえ怒られるし、いらいらしとったら足つったし、バッシュの紐ぶち切れるし、ファミチキは売り切れとるし、挙句の果てにダチに飲みドタキャンされて」
言い終わらないうちに、再び発泡酒を呷る。
このペースで飲み進めれば、間もなく二本目に突入しそうな勢いだった。昔は発泡酒は嫌いだと言っていたのに、たいして酒は強くないくせに、今日はずいぶんとペースか早いように思う。明日も大学の講義があると言っていたが、そんなに飲んで大丈夫なのだろうか。そんなことを藤真が思案していると、諸星がおもむろに藤真の方を向き、
「だもんで、お前が来てくれてよかったわ」
と、どこか藤真の不安を取り除くように、彼の頭をやさしく撫でた。
ああ、この男はこの男なりに自分に寄り添おうとしてくれているのだと、藤真はようやく気が付いた。急に連絡を寄越し、泊めてほしいと勝手な事を言う自分に、特になにかを詮索することもせずに、諸星なりの優しさで隣で酒を飲んでくれているのだ。
昔からずいぶんと勘がいい奴だった。
おそらく、今回もなんとなく気が付いているのだろう。
「諸星ってさ、いいやつだよな」
「それも今さらやろ?」
ニヤリ、と今度は先ほどまでの笑みとは違い、悪戯が成功した子供のような顔で笑われる。
「ま、好きなだけおったらええよ」
「うん、ありがと」
彼のような友人がいることで、救われている部分がたくさんある。
牧と自分の関係は、諸星にしか話していない。うっすらと気づいている友人もいるかもしれないが、高一の頃からの親友には包み隠さず話すことができた。それは、諸星という男なら自分たちの事を自然に受け入れてくれると思ったからだ。好奇な目を向けることも、わざとらしく気を使うこともせずに、彼なら当たり前のように自分たちを受け入れてくれると、そう思ったからだ。
家族にも言えない二人の秘密を打ち明けた時、案の定彼は「お前ら見とったら気付くわ」となんでもないように言ってくれた。その優しさが藤真にとってはひどくありがたかったのだ。
それから諸星は、ずっと二人のよき理解者でいてくれている。
「…お前さ、おれと牧が付き合ってるって聞いた時どう思った?」
「どうって、ああやっぱりそうかって思ったわ」
「それだけ?気持ち悪いとか、変な奴だとか思わなかったか?」
藤真の問いに、諸星が心底不思議そうな顔をする。
「それなはいな。おれにとってはむしろ普通のことだったわ。だってお前ら、お互いの事すげえ好きだったやん」
「……うん」
「なに、周りの奴になんか言われたんか?」
その瞬間、諸星の眉間に深い皺が刻まれる。存外この男も藤真のことを大切に思っている。大切な親友を傷つけるものは、誰であっても許せないと思うほど、情に厚くやさしい男なのだ。
「ちがう。…ちがうけど、」
諸星の言葉に藤真が弱々しく首を振る。手にしていた発泡酒をローテーブルに置き、代わりに足元に転がっていたキャラクターのクッションを胸元に抱いた。
「違うけど、…牧が」
なにかに強く縋っていないと、アルコールに侵された脳が変な信号を神経に送り、涙が出てきてしまいそうだった。
ああ、本当に参ってしまう。なにも不安に思う必要なんてないはずなのに。
「牧と、…ちょっと言い争いになって。…いや、言い争いじゃないな。おれが一方的にぐるぐるして飛び出してきただけなんだけど」
「うん」
「おれがいろいろ考えすぎて」
「牧とのこと?」
「…うん。それでたぶん、…傷つけた」
それっきり無言になってしまった藤真に、諸星は心の中でため息を吐いた。
急に連絡がきた時から妙な胸騒ぎはしていた。
昔から勘はよく当たる方で、だから今回はそんな嫌な予感が外れていたらいいと願っていた。「なんとなく味噌煮込みうどんが食いたくなって」そう言っておどけるように笑ってくれたらいいのにと、そう思っていた。
しかし、最寄り駅の改札で藤真の顔を見た時、これはずいぶんまずいことになったと思った。それほどまでに、藤真が酷い顔をしていたからだ。見るからに落ち込んでいる藤真の姿を見て、原因は十中八九牧だと確信した。いつも強くしたたかな彼をここまで弱らせるのは、世界中に牧しかいない。一方で、そんな彼を幸せにしてやれるのも、世界中で牧しかいないと思うのだが。
「…お前も牧も、お互いがお互いを大事に思っとるってことは一貫して同じだわ」
諸星のことばに藤真がゆっくりと顔をあげた。
それはたぶん、この男がいちばんよくわかっているはずだった。
「……わかってるよ」
「なら、お前はなんにも心配しなくていいはずやろ」
「…うん」
「な?」
「………そうかもしれない」
「よしじゃあ風呂入ってもう寝よか。おれ明日は一限だで早う出るけど、お前は寝ててええで。どこか行きたくなったらカギは玄関に置いてあるの使って。気済むまでここにいてええし、帰りたくなったらポストに入れといて」
じゃあ、風呂行ってくるな。
ぽん、と頭を軽く撫でられ、そのまま風呂場に消えていく。
『なんにも心配しなくていい』
そんな諸星のことばに、また鼻の奥がツンと痛くなった。
*
ドアが閉まる音で目が覚めた。
諸星が大学に行ったのだろうか。
きちんと見送りをしたかったのに、寝過ごしてしまったことに申し訳なさを感じる。
あれから交互に風呂に入り、布団に入るころには午前二時を回っていた。布団に入ってからはバスケット談義に花が咲いてしまい、最近気になっているNBAの選手や面白かった試合の話などをしていたら、結局寝たのは朝方になってしまった。寝る間際「一限自主休講にしたいわ」と嘆いていた諸星だったが、ちゃんと起きて大学に行ったのだろう。そういうところは真面目な彼らしい。
布団から起き上がらないまま、時刻を確認しようと枕元のスマートフォンを手探りで探す。
起きて、少し掃除をしたら家に帰ろう。それから牧に謝りに行こう。自分のために作ってくれた辛めのカレーを食べながら、現実から目を背けずに、これからのことを二人で話そう。
諸星が言ってくれた、なんにも心配しなくていいという言葉を胸の中で反芻する。
”もしも”の未来に不必要に怯えるよりも、いま目の前にいる牧を信じよう。
そう決意し、布団から起き上がると、
「おはよう」
聞きなれた声がして咄嗟に振り返る。
見上げた目線の先に、牧の姿があった。
どうしてここに居るのだと驚く藤真に、
「諸星から連絡がきて迎えに来た。一緒に帰ろう」
と牧はどこか困ったように眉根をさげながらそう言った。
それから、なおも固まる藤真の目線に合うようにしゃがみ込むと、腕を伸ばし「昨日はごめんな」とその頬をやさしく撫でた。
その言葉にようやく藤真はハッとして、ふるふると首を横に振る。
昨日のことで牧に謝ってほしくはなかった。
「待って、違う。ごめん。牧は謝るな。おれが勝手に考えすぎただけだから…。おれの方こそ、急に出て行ったりして、ごめん」
「…」
「……いつも、めんどくさくてごめん」
沈黙と静寂が怖くて、消え入るような声で小さく謝罪をすると、
「お前にそんなこと思ったことはない」
とすぐにやんわりと否定される。
「……うん。でも、ごめん」
そうして、尚も藤真がぐずぐずと逡巡していると、
なあ藤真、と静かな声で名前を呼ばれた。
その声は、凪いだ水面のように穏やかで、藤真はまた少し泣きたくなった。
「帰ったら、もう一度ゆっくり話をしよう」
お互いのこと、これからのこと、藤真がなにに不安なのか、なにに怯えているのか。ここにあるもの一つ残らず教えてくれ。
そう言って、トンと左胸を指さされる。
「……うん」
牧に触れられた左胸から、じんわりとあたたかいものが広がる。
怖がりな自分は、肝心なことからいつも目を背けてばかりいた。でも、牧に聞いてほしいことも、聞かせてほしいこともたくさんある。
”これからのことを二人で話そう”
なにがあっても、この心臓は彼だけのものだから。
その時自分は、すべてを捨てて彼のもとへ走っていってもいいだろうか。
上手にきらいになってね。
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